私の京アニ史 その2
「新年明けましておめでとうございます」
「本年もどうぞよろしくお願いいたします」
「というわけで早速、私の京アニ史第二弾をやっていく」
「うむ」
「前回の続きはこちら」
「まだの方は読んでいただければ」
「新年一発目なので、こちらもお屠蘇を傾けながら話していこうかなと」
「元旦はとっくに過ぎてるのだが」
3.氷菓
「3番目は『氷菓』」
「またしても最近のを」
「8年前を最近と言うのか」
「もうそんなに経ったのか」
「『日常』見たあと『京都アニメーションという会社がおもろいアニメ作っとる』という流れでこれ」
「原作はガチガチのミステリ作家のデビュー作、ということでかなり見応えのあるものだった」
「映像も角度を変えたり、遠くから近くから映してみたりと細かな工夫があり、視聴者を飽きさせなかった」
「特に、顔を映さずに足元だけ撮る技法は作中繰り返し使われていた」
「 好きなんやろうか」
「さあな」
「印象に残ったのが『愚者のエンドロール』」
「試写会のやつか」
「映画『カメラを止めるな!』でも似たようなトリックが出てきた」
「まあ氷菓の方が一枚上手だったけどな」
「日常のふとした出来事→主人公たちによる推理→壮大な陰謀なのではないか?→真実はありふれた暖かいものだった、というパターンやな」
「最後は日常的な、小さなものに収束していくのがいかにも京アニを感じる」
「あとは『遠回りする雛』の桜のシーンなんかも叙情的で素晴らしい出来かと」
「徹底したリアリズムによって、あったかもしれない青春が再生され、成仏していく」
「元々そんなもんはあるはずが無いのにな」
「それでも『あったかもしれない』と思えるだけで感動できるんやで」
「ところで、氷菓を見てからは深夜アニメに対する偏見は完全に消えた」
「偏見があったのか」
「変に小説とか戯曲とかメインカルチャーに触れていたせいか、ちょっと見下してたんやろうな」
「常に公平な態度で、曇りなき眼で鑑賞に臨まなあかんな」
4.涼宮ハルヒの憂鬱(2006年版、2009年版)、涼宮ハルヒの消失
「続いては『涼宮ハルヒの憂鬱』」
「ついに来たな」
「京アニといえば、いや深夜アニメといえばこれと言っても過言ではないな」
「せやな」
「内容についてしゃべりたいことは概ね上のシリーズで書いたので話すことがない」
「これも修正版を出さなあかんな」
「いつかやるつもりである」
「いつか、いつかで時は過ぎていく」
「さて、ハルヒは2006年版と2009年版がある訳だが」
「2006は時系列ぐちゃぐちゃで、2009は時系列通りに進行していくプラス幾つか新作エピソードが挿入された」
「2006は第一話が文化祭の出し物で作った映画(朝比奈みくるの冒険)なので、なにがなにやら分からんのがな」
「肝心の主人公が出てこんしな」
「意味わからんくて見るのやめた人もいたのではないか」
「やはり、今から見るなら2009年版やな」
「必ずなのか」
「必ずや」
「左様か」
「実は毎回微妙にカットが違う、というのは有名な話」
「ほんまにそうか実証しようとして、途中で放棄した」
「全部で8話あるからな」
「ネットは広大なので、その辺は誰かが調査済みだと思われる」
「とはいえいくらなんでも8話はやり過ぎや」
「しかし、斬新であったことは認めざるをえんやろ」
「斬新だから、奇抜だからという理由だけで賞賛するのは過度な焼き畑農業と一緒や」
「アレもきちんと休閑期間を設けた、ちゃんとした農法なんやけどな」
「要するに、伝家の宝刀を抜き過ぎるなっちゅうわけや」
「喩えがよう分からん」
「そういえば原作者の谷川流は『絶望系』というライトノベルを書いているのだが」
「ほう」
「これがまた妖しく、グロテスクでハルヒとは雰囲気全然違うらしい」
「それがどうした」
「内容は主人公が体験する不条理な7日間を描いてる」
「7日間というと、憂鬱+サムデイインザレインの合計7話=天地創造の7日間が想起されるな」
「どうも関連がありそうでならない」
「とはいえ読んでないからなんとも言えんな」
「トーマス・マンの読み解きが終わり次第読んでみるつもりである」
「はよ終わらせてな」
「今回はここまで」
「ちょっとスローペース過ぎではないか」
「別段急いでいるわけでもなし。問題は無かろう」
「完結するのに半年くらいかかりそうやな」
「息の長いシリーズ、ということでご勘弁願えれば」
「途中で筆を折るのだけはやめてな」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
「トニオ・クレーガー」追記 その1
年内ギリギリであったがアップできた。
トニオ・クレーガーの構成はソナタ形式である。
このことを先に発見したのは私ではなくfufufufujitani氏であった。これをもとに少し自分で解析を加えたのが以前の記事である。
今回の修正版では、「なぜソナタ形式を用いたのか」がテーマの一つだった。「その方が技巧的だから」では理由にならない。手段を目的化するほど彼は愚かではない。なんだかモヤモヤする。
ここが分からないとトニオ・クレーガー攻略にならないので着手した。
解説に書いてある通り、トニオ・クレーガーはニーチェの「悲劇の誕生」の影響が強い。アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、芸術と市民。
「非政治的人間の考察」にも「トニオ・クレーガーはニーチェの影響が強い」という旨の文章が出てくる。作家が自作についてコメントするときは、往々にして嘘が混じっているので疑ってかからないといけないが、今回は本当にその通りだと思われる。
そして、ニーチェは音楽大好きである。ワーグナーを崇拝していたことからもそれは分かる。ディオニュソス的芸術には音楽が含まれる。
「ソナタ形式」と「芸術と市民」が繋がってくる。ここでモヤモヤが解消される。
というかショーペンハウアーも好きだったようなのでドイツ人はみんな音楽好きなのだろう。
それはなぜか、というのを辿っていくとどうもマルティン・ルターが始まりのようである。彼は賛美歌も作っているくらい大好きである。と、ルターの話は長くなるのでまた別の機会。
「音楽的な文学」というとまっさきに「詩」が思い浮かぶ。
詩は韻を踏む、つまり響きだから当然音楽とも近しい関係になる。有名なベートーベンの交響曲第九番には、同じドイツの詩人シラーの歓喜の歌が出てくる。
しかし、小説は散文なのでずっと韻を踏んでいるわけにはいかない。(実際には詩的な小説を書く人もいるのだが)というかマンの文章は抑制された硬い文章、つまり一義的な文章が特徴的である。この辺はトルストイの影響であるかもしれない。
その一方で、音楽が流れると途端に陶酔的な、感情が溢れ出すような文章になる。こちらはニーチェっぽいし、踊り出すかのような会話文はドストエフスキーっぽい。
しかし、トルストイとドストエフスキーのどちらの影響も受けていながら、それでいてどちらでもないという印象が強い。中間的というかハイブリッドというか。
要するにどっちつかずなのである。
つまりトニオ・クレーガーそのまんまである。
「トニオ・クレーガー」解説【トーマス・マン】
「トニオ・クレーガー」は1903年に発表されました。日本では日露戦争の前年に当たります。ほろ苦い青春の書として、ドイツのみならず堀辰雄、太宰、三島、北杜夫など日本の作家にも影響を与えた作品です。
あらすじ
全体は6章に分けることができます。便宜上、AパートBパートに分けます。
A:トニオ少年は友人のハンスと下校しています。ハンスは優等生で顔もカッコイイです。対してトニオは陰気で詩作に夢中でみんなに馬鹿にされています。トニオにとってハンスは大切な友人ですが、ハンスにとって彼は単なる友人の一人です。そういう関係です。
B:トニオは恋をしています。初恋です。お相手の娘はインゲといいます。彼女の容姿や仕草に夢中になります。そんな中、舞踏会の練習が行われます。トニオは彼女の踊る姿を見て、惚れ惚れとします。自分が踊る番になりました。彼は失敗してしまいます。みんなに馬鹿にされ、インゲにも笑われてしまいました。苦い初恋の思い出です。
A1:初恋は終わりましたが、人生は終わりません。トニオは人生を歩んでいきます。父が死に、母は再婚して出ていきました。彼は故郷を離れ、詩人として名を馳せます。
B1:トニオは30歳になりました。画家の女友達の元を訪れます。彼は芸術について、まるで踊っているかのように、熱く語ります。熱弁のあまり、彼女には笑われてしましました。
A':トニオは故郷やデンマークを旅します。故郷の街を散策して帰ったら、警官に職務質問をされます。詐欺師と間違われたようです。
B':デンマークのホテルに滞在していると、舞踏会が開催されます。出席してみると、なんとそこにはハンスとインゲがいます。彼らは恋人同士になっていたのです。二人を遠くで眺めながら、幸福な気持ちになります。
C:画家の女友達に手紙を書きます。内容は旅を通して得られた、彼の芸術論、人生論です。芸術家でありながら善良で凡庸な市民に憧れを抱く、二つの世界のどちらにも存在して、どちらにも存在しないトニオ・クレーガーの生き方です。
文章の特徴
各章の特徴をざっくりまとめました。注目したのは文体と描写です。
A淡々とした文章:起こった出来事を淡々と、ありのままにした文章
B陶酔的な文章:対象を目の前にして酔いしれるような、情熱的な様子を描いた文章
という感じで定義しています。
Cパートは女友達に向けた手紙、という形式で書かれていますが、要するに全体のまとめです。この小説の主題です。ここだけ少し浮いているので、下の解説では主にAパートとBパートについて説明していきます。
ざっくりしすぎて雑なくらいですが、まずは全体のイメージ掴んでおきます。
規則性
この作品の難点は「文章が回りくどい」ことです。
物語自体はさほど長くありません(およそ120ページくらい)が、一文が長ったらしいので読むの疲れます。
しかし、さきほどの表を眺めていますと規則性というか、AとBが交互に配置されていることが分かります。
音楽的構造
作者のトーマス・マンはドイツの小説家です。
ドイツといえばバッハやベートーベンを産んだように音楽が盛んな国です。そんな土地柄で育つと音楽的な小説を書きたくなるようです。
そこで彼が考案したのが音楽の形式を物語の構成に用いた方法です。
もっと具体的に言うとソナタ形式で書かれた小説です。
と言われてもピンときませんね。「そもそもソナタ形式とは何ぞや」と思っている方のために簡単な説明をします。
ソナタ形式について
簡単に言うと、AとBというメロディーを思いついたとして
(A+B+A1+B1+A+B)
という感じで並べて、曲を組み立てるやり方です(A1とB1はAとBを微妙に変えたメロディー)。最初のA+Bを提示部、A1+B1を展開部、最後のA+Bを再現部と呼びます。ちなみにAが優しいメロディーだったらBは激しいメロディーというように飽きないように作ります。
詳しい説明は脱線してしまうので専門書をお読みください。
ソナタ形式を用いた構造
「トニオ・クレーガー」はこのソナタ形式を全体構成に利用しています。全体を把握するためにはざっくりと構成を示した表が必要です。これが章立て表です。エクセルで作れます。
大まかな構成を下の章立て表に示します。
「トニオ・クレーガー」は全体を6つに分けることができます。
各章を表にして眺めてみますと「歩く」と「踊り」が交互に展開する構造になっていることが分かります。こうすることで、何気ない物語に音楽のような調和が生まれます。
ここでは
第一主題A:「歩く」
第二主題B:「踊り」
とします。
第一主題A「歩く」
提示部A
提示部で友達のハンス・ハンゼンと一緒に「歩いて」下校します。
トニオにとってハンスは大切な友達ですが、ハンスにとってトニオは数ある友達の一人に過ぎません。というかトニオはちょっと依存気味です。
現代だと腐女子の方々が好みそうな関係性です。
展開部A1
展開部では主人公が人生を「歩む」過程が描かれています。詩を愛する文学少年が詩人として名前が知れ渡るようになります。
さきほどの「歩く」から「歩む」に変化しています。これがソナタ形式でいうA→A1のメロディーの変化に該当します。
再現部A’
再現部で、トニオは故郷や自身のルーツであるデンマークを「旅します」。
途中で詐欺師に間違われたり、船で商人と出会ったりします(これについては後述します)。
「旅をする」も「歩く」の発展形と言えます。歩く→歩む→旅するの変化です。
ここまできて「歩く 、歩む、旅するが似たようなニュアンスなのは日本語に翻訳したからで、ドイツ語ではそうならないのでは?」と思ったあなたは鋭いです。
念のため確認しておくと下の通りになります。翻訳によって生じた偶然ではなく作者の意図だと考えるべきです。
第二主題「踊り」
提示部B
トニオは好きな女の子の「踊り」を見て心奪われます。初恋の相手にメロメロです。
展開部B1
ここの場面はかなり不自然です。ということは重要な箇所です。
よく読みますと、トニオのセリフは芝居がかったような、くるくる回転しているかのように話題をかえながら熱弁しています。この「くるくる回転する」が「踊り」を連想させます。つまり、
くるくる回転的に熱弁する=トニオの踊り
インゲに笑われる=リザベタに笑われる
となり、提示部Aと対応していることが分かります。「踊り」が「熱弁」に言い換えられています。
作中、最も文学的な表現です。一読しただけでは分かりづらいです。展開部ということで冒険してみたかったのでしょうか。作者マンの遊び心です。
再現部B’
ここは明確に提示部Bと対応していますね。
インゲの踊りを見て心奪われます。トニオは笑われませんが踊りで転んだ少女が笑われています。
という感じで全体をソナタ形式で構成することで作品の完成度を高めています。
構成
先ほど見たのは大まかな構成でしたが、より詳細な章立て表を見ていきます。
上の表を見ますと、Aパートどうし、Bパートどうしで対応関係が構成されていることが分かります。それぞれの対応について見ていきます。
・歩く
・踊り
この二つはソナタ形式の項で説明済みなので省略します。
・恥をかく
Bで 踊りを間違えたトニオはみんなに笑われて恥をかきます
B1でトニオは女の友人リザベタに、大勢の前で詩を読んで恥をかいた少尉の話をします
B'で踊りで倒れて、恥をかいた蒼白い少女をトニオが助ける
つまり、この蒼白い少女はかつてのトニオ自身です。トニオが助けたのは目の前の少女であり過去の自分です。
・笑われる
Bでトニオはインゲに笑われてしまう
B1でトニオは熱弁するもリザベタににやにや笑われてしまう
B’で大人になったインゲを見つけたトニオは心の中で「あざ笑ったのか」と問いかけます
・名前
Aでトニオ・クレーガーという名前をハンスにバカにされた
A1で詩人として名前が売れる
A’で警察に詐欺師疑われ、名前を聴取される
ここの対応は登場人物の特徴を整理しながら説明します。
注目すべきは「曲がった脚」という共通点を持つ、インメルタールとゼエハーゼです。
インメルタールが出てくるのは
Aで下校中にトニオは友人ハンスに「君の名前は変だ」と言われて傷つく場面。同級生のインメルタールは気の毒そうに見ています。
ゼエハーゼが出てくるのは
A’で故郷のホテルでトニオは警官に名前を聴取され、詐欺師と疑われる場面。ホテルの支配人ゼエハーゼは気の毒そうにしています。
ハンス=警官
インメルタール=ゼエハーゼ
という対応関係になっていることが分かります。友人との下校と警官による事情聴取が対応しているのですね。
A1ではトニオが詩人として名前が知れ渡る描写がありますが、言及する人物と曲がった脚に該当する人物は出てきません。
さすがにくどいと考えたのかもしれません。
二項対立と二元論
多くの作家、研究者が指摘するように「トニオ・クレーガー」は「芸術と市民」の二項対立が根底にあります。
二項対立とは、二つの概念が互いに矛盾や対立をしていることです。
例えば、善と悪、精神と物体などが挙げられます。
二元論とは「二項対立を用いて世界の一切を説明する」という考え方です。
例えば、プラトンのイデア論、デカルトの実体二元論などが挙げられます。
もっともポピュラーなのはキリスト教の善悪二元論です。神と悪魔が対立し、最後は神が勝利する。
そして 、西洋人の大多数はキリスト教徒でしたのでみんな二元論が大好きになります。
現に西洋の文学には二項対立が頻出します。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と考えがちな日本人がそのまんま読むとわけワカメです。
当然ながらトーマス・マンも例外ではありません。
それどころか、二元論を文学で極めたスペシャリスト(偏執狂)と呼べるくらいです。
芸術と市民
「トニオ」で描かれる二項対立は「芸術と市民」です。
なぜ芸術と市民が対立するのでしょうか。
芸術家というと創作に打ち込み美しいものを求める反面、自堕落で生活能力ありません。現実よりも観念や美を追求します。
市民というのは、神戸市民とか横浜市民の「市民」ではありません。
商人のことです。
ドイツといえば工業が思い浮かびますが、北のほうでは中世にハンザ都市同盟というのを作って商人たちが力を振るってました。マンの故郷リューベックはその盟主とも言うべき街で、現に彼の実家も裕福な穀物商人でした。
ここでは
「貴族よりは下だが庶民よりは上の生活力を持った人々」というイメージを持ってください。
彼らは健康で労働に励みながら明るく生活する反面、芸術に関心がありません。あったとしても嗜む程度です。生活に第一に考える真面目な人々です。目の前の現実と日々闘いながらお金を稼いで生きています。
(金持ちなんで生活には困ってませんが)
という感じで作者は芸術家と市民を対比させているのですが、日本人にはいまいち分かりづらいです。「仕事一筋の真面目な父親と小説家を目指す息子の対立」というドラマのワンシーンをご想像いただければと思います。
そしてトニオ・クレーガー」の登場人物たちは芸術グループと市民グループに分かれています。
ここで、重要なのは二つのグループが互いに対立する、距離を取っていることです。
トニオは、ハンスのようになろうとしませんし、インゲのことは遠くから眺めているだけでした。また二人もトニオと深く関わろうとしません。
トニオの父はお堅い名誉領事でしたが、母は情熱的でピアノとマンドリンが上手な人でした。父の死後、母はあっさり他の音楽家と再婚します。
しかし、この分類だけでは不十分です。芸術と市民の二項対立にはさらに「細かな仕分け」が必要です。
マンの「芸術と市民」はニーチェの「アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの」を下敷きにしています。
「アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。
アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。
ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと
アポロン的=理性、明るい、善良
ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌
くらいのイメージです。
さらに、芸術に置き換えてみると
ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩
となるそうです。
説明長くなるので気になる人は下の記事をお読みください。
さらに、ここからディオニュソス的芸術の中でアポロン的とディオニュソス的に分かれます。
トーマス・マンの「芸術と市民」はこのニーチェの哲学を踏まえています。
「細かな仕分け」とは芸術の内部で芸術と市民が対立している、いわば入れ子構造のことを指しています。
登場人物の分類
さきほどの登場人物表をもう一度出します。
これを細かく仕分けすると
となります。
芸術グループの中に、芸術ー芸術グループと 芸術ー市民グループがあるわけです。トニオはどちらにも所属します。
芸術ー芸術グループ
ザ・芸術家タイプです。芸術の世界で生きています。情熱的で堕落しています。奔放的なトニオ母がそうです。市民への愛を語るトニオを「踏み迷える俗人」と笑った画家のリザベタも該当します。
芸術ー市民グループ
芸術を嗜んでいますが、根っこは市民気質なタイプです。船上で会った詩を嗜む若い商人が該当します。直接出てきませんが、トニオの話に出てくる詩を披露した少尉もそうです。
さらに、「芸術と市民」、「アポロン的とディオニュソス的」の二項対立は全体構成にも及びます。
すべては「トニオ・クレーガー」になる
各章の特徴をざっくりまとめた表を思い起こしてください。Cパートは結論部なので省略します。
「淡々とした文章、風景描写」で描かれるのは破風屋根の多い故郷やデンマークの街並みであったり、ハンス・ハンゼンの美しい容姿です。
破風屋根の多い街並み、ということは建築です。アポロン的芸術です。ハンスの容姿は健康的で美しく、市民的です。
「陶酔的な文章、踊り、会話」で描かれるのはインゲの踊りを見て酔いしれるトニオの感情です。リザベタとの会話ではトニオはかなり饒舌です。
ディオニュソス的芸術の具体例は音楽、舞踏、抒情詩です。
陶酔、饒舌はトニオの感情を表現したものです。抒情的です。踊りは言わずもがな舞踏です。
このことから二つの表を合体させます。
冗長で退屈な風景描写もちょっとくどい会話文も、芸術と市民を表現するために必要だったのですね。だから面白いという訳ではないのですが美しいです。
さらに、
ニーチェの哲学の項目で「ディオニュソス的芸術にはアポロン的とディオニュソス的が含まれる」と説明しました。
ディオニュソス的芸術の代表例は音楽です。
音楽的構造の項目で「トニオ・クレーガー」は全体構成がソナタ形式となっていると説明しました。
当然、ソナタ形式=音楽です。
ここで、ソナタ形式の構成表も合体させると下の表になります。
「芸術と市民」という二元論と音楽的構造(ソナタ形式)はニーチェの哲学を通してつながっていました。
「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。それは「芸術の内部でも二項対立が発生している」入れ子構造の対立です。
「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。
トニオくんの外部と内部、両方の対立及び葛藤がそこにはあります。マンがソナタ形式を用いたのもこの複雑な関係を描くためでした。
つまり、「トニオ・クレーガー」の全体構成が主人公トニオ・クレーガーの精神そのものとなっていたのです。
だからこの小説のタイトルは「トニオ・クレーガー」以外ありえません。
主題
もちろん、この作品の主題は「芸術と市民」です。
しかし、そこには一筋縄ではいかない、矛盾した考え方が入り混じったものがあります。
結論部であるCパートは、トニオからリザベタへの手紙です。
ここまで、「芸術と市民」という相反する二つの概念について述べてきました。二つのグループに属する人々は互いに交わることなく人生を歩んでいます。
では、トニオくんはどちらに属するのでしょうか。またどのように属しているのでしょうか。Cパートより抜粋します。
「僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。」
二つの世界とは「芸術と市民」のことです。
芸術を愛し、市民を愛する。中間的、ニュートラルなポジションを取るのがトニオの生き方です。
しかし、しょせんトニオくんは芸術家です。
何をどう言おうと詩を愛する芸術家です。だから芸術に属します。ハンスやインゲの市民とトニオの市民は決定的に違うものです。純粋に芸術と対立するものとしての「市民」と芸術の内部で生まれた「市民」。
つまり、トニオは純粋な市民ではありません。と同時に純粋な芸術家でもありません。彼の半分は芸術ー市民ですから。
これこそが「そのいずれにも安住しません」なのです。どんなにトニオが市民への愛を語っても、ハンスやインゲのようにはなれませんし理解もされません。
ちょっと切ないというか悲劇的ですね。
それでもトニオは「真の芸術家」であろうとします。二つの狭間でもがき、苦悩する道を選びます。「どっちつかずのハッキリしない奴だ」と陰口を叩かれるでしょう。辛い人生です。
しかし、彼の姿はどこか前向きです。
最後の文章を紹介しましょう。
「この愛を咎めないで下さい、リザベタさん。それはよき、実りゆたかな愛です。その中には憧憬があり憂鬱な羨望があり、そしてごくわずかの軽侮と、それから溢れるばかりの貞潔な浄福とがあるのです。」
最後の一文はAパートにも出てきました。いわゆる回帰という奴ですが、冒頭の時に比べて、より深くより切実に伝わってきます。
日本への影響
戦前から戦後にかけてトーマス・マンは日本の作家たちに影響を与えてました。特に「トニオ・クレーガー」は文学青年の間で読まれていたそうです。背景にあるのは旧制高等学校のドイツ語教育です。構造的な作品の多いドイツ文学に触れたことが、戦後日本文学の隆盛に一役買いました。
ここでは「トニオ・クレーガー」を下敷きにした、影響を受けた作品をいくつか紹介します。
紹介するといっても私ではなく、fufufufujitani氏とyuki氏の読み解きです。
それぞれ全体構成が
美しい村:教会ソナタ
となっています。堀は多義的な言葉遣いをする作家です。多義的な言葉はとてもふわふわとしているというか、掴みどころがないので形式できっちり収めておかないと意味不明になります。(音楽と似てますね)
音楽の形式で小説を書く、という観点で堀は「トニオ・クレーガー」を参考にしました。
全体構成がロンド形式になっています。
トニオ・クレーガーを読んで「なら自分はロンドで書こう」と思ったのでしょうか。
富士山を通して自己を見つめ直し魂の再生が描かれます。傑作です。
西欧人のマンは二元論大好きですが、東洋人の太宰が書く「富嶽百景」は自然と人間が一体となる一元論です。
この辺は考え方の違いですね。芸術と市民をうまく使いこなしてのらりくらりと生き延びたマンと「家庭の幸福は文学の敵だ」と言い自己破滅した太宰の違いです。
最後に三島由紀夫です。
三島の多くの作品に共通するテーマとして「認識と行動」というものがあります。これはマンの「芸術と市民」を発展させたものです。
「トニオ・クレーガー」では芸術家トニオが市民側の人々を憧れの眼差しでもって、羨望の 眼差しでもって見つめている描写が多々あります。「眼差し」ですから目、つまり視覚です。
芸術家=見る者
市民=見られる者
という関係です。
三島はこの関係を応用しました。
「芸術と市民」を「認識と行動」にすることで見る者は必ずしも芸術家である必要もなく、見られる者は必ずしも市民である必要はなくなりました。
その反面、認識→行動という関係性は一方通行になりました。なぜって行動→認識ではおかしいからです。行動が認識を見るって訳分かりませんがな。
しかし、マンの「芸術と市民」は芸術→市民の一方通行な関係ではありませんでした。
例えば、彼の処女長編「ブッデンブローク家の人びと」ではトーマス・ブッデンブロークが芸術家肌の妻ゼルダと息子ハンノを嫌悪しつつもどこか羨望の眼差しで見ています。
例えば、「ファウストゥス博士」では市民側のツァイトブロームの目線で作曲家レーヴァーキュンの生涯を振り返るという形式で物語が進みます。
これらは市民→芸術です。
マンの二元論が相互的なのに対し、三島の二元論は一方通行です。
この違いは二人の育った環境が関係しているのでしょう。
かつて商人が自治していたハンザ同盟の盟主リューベックに生まれ、保守的で昔ながらの良い市民を見て育ったマンと終戦後かつての文化を忘れ、消費社会へと迎合していく市民に幻滅した三島の決定的な違いです。
もっともどちらが良い悪いではなく考え方が微妙にズレているだけです。二人とも偉大な作家であることに変わりありません。
他には北杜夫の「楡家の人びと」(これは名前からして「ブッデンブローク家の人びと」ですね)などたくさんあるので、興味のある方は読んでみてください。
翻訳について
余談ですが「踏み迷える俗人」の原文はverirrter Bürger。直訳すると、「道に迷った俗人」です。
「トニオ・クレーガー」は光文社も含めて翻訳いろいろあるのですが、一番良いのが実吉捷郎訳です。
訳者は明らかにソナタ形式に気づいています。「踏み」を加えることでB1の「踊り」との対応をより際立たせることを知っています(踊りはステップを”踏み”ますから)。マンの意図を読めています。
実吉捷郎は日本でのトーマス・マン受容の一番の功労者といっても過言ではないようです。
出典
https://www.gettyimages.co.jp/
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia
File:Wilhelm Gause Hofball in Wien.jpg - Wikimedia Commons
アポロン的なるものとディオニュソス的なるものについて
こちらの続きから
「アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。
どちらもギリシャ神話が元ネタで、アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。
ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと
アポロン的=理性、明るい、善良
ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌
くらいのイメージです。
さらにここから
ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩
ややこしいのがディオニュソス的芸術の中に「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」の対立があることです。
そもそも、ニーチェはショーペンハウアーの影響を受けています。さらにショーペンハウアーはカントの影響を受けています。
カントといえば「物自体」という概念が有名です。物自体とは物の本質、人間が認識できない物そのものです(プラトン風に言うとイデア)。
哲学者たちはこの「物自体」を観察したくてたまらなかったのですが、観察できません。
それが物自体だからです。
(ここで「なぜ?」と聞いてはいけません。物自体は根拠を持たないからです。とにかくそういうものだと納得してください)
その物自体を「意志」だと言ったのがショーペンハウアーです。物自体とは意志である。そして物自体が現実世界に映し出す現象は表象である。この世界は目に見えない意志によってもたらされた表象によって形成される。「世界はわたしの表象である」
例えば重力です。地球上にいる限り上から下にかかり続ける力です。
例えば植物です。植物はどこまでも太陽をめざして成長し続けます。
例えば人間です。脳や内臓は生きるために活動し続けます。今すぐ死にたいと願っても心臓が勝手に停止することはありません。脈を打ち続けます。
以上の例の共通点は「継続すること」です。それも「死ぬまで永遠に」です。意志とは無限に努力し続けます。意志が「これくらいやったからもうええやろ」と満足することはないのです。ショーペンハウアーはこれを苦痛だと考え、生きんとする意志の否定を説きました。
さらに意志をギリシャ神話になぞらえて「ディオニュソス的」と言ったのがニーチェです。ディオニュソス的=意志=物自体。物自体を表象として現実世界に表す原理、個別化の原理を「アポロン的」と呼びます。
(注:ディオニュソス的=意志なのでアポロン的=表象と考えてしまいますが、アポロン的=個別化の原理(物自体を具体的な表象にする原理)です)
この世界は意志でできています。意志は物自体であり、無限に努力し続けるので混沌としています。つまり世界は混沌に包まれています。カオスです。
これを打開するために悟性でもって世界を理解しようとしたのがソクラテスです。ニーチェはソクラテスを嫌悪します。悟性とは直観です。しかし、何度も述べている通りディオニュソス的なるものは目に見えません。
そして、アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、相反する二つの統合したとき悲劇が誕生する。ディオニュソス的なるものの中に、アポロン的とディオニュソス的が存在するわけです。
上の段のアポロン的=ディオニュソス的なるものの象徴的表現の原理
となる。
上の段のアポロン的はディオニュソス的から生み出されたものです。やがてはディオニュソスなるものに統合されていくものです。
対して下の段のアポロン的はディオニュソス的と完全に対立するものです。
ディオニュソス的芸術の代表は音楽であるから、音楽はディオニュソス的なるものとアポロン的なるものの二つから成り立ちます。
「これだけでは分からない」という方は実際に読んでみるほかありません。ツァラストラと違って詩的な表現はないので頑張れば理解できるはずです。根性です。
読む順番としてはカント「純粋理性批判」→ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」→ニーチェ「悲劇の誕生」です。
基本的に全員二元論で語っています。ドイツの哲学者は特にその傾向が強いようです。
私の京アニ史 その1
「というわけで京都アニメーションについて語っていく」
「唐突やな」
「いつものことだし慣れたやろ」
「語るはいいが、なぜ京アニなのか」
「まあなんだ、思うところがあんねん」
「左様か」
「今回は『私の京アニ史』と銘打って、今まで見てきた京アニ作品を感想や個人的な思い出を交えながら振り返っていく」
「ええんやないの」
「そしてここがミソなのだが、紹介する順番は『作品の発表年順』ではなく『視聴順、見てきた順』で行う。こうすることでアニメ語りと自分語りを同時並行でやれるっちゅう寸法や」
「はあ」
「記憶とともに京アニを振り返る。あの頃に想いを馳せる。よみがえったほろ苦さに胸が痛む。なんともセンチメンタルではありゃせんか」
「君の過去なんて大して興味ないけどな」
「冷めてるな」
「そうか」
「せやで」
「趣旨は分かったが、数はどのくらいなんや?さすがに全作品は付き合いきれんで」
「2期や映画版も1期と同一作品にして勘定すると、ざっと16やな」
「そこそこ見てるかな、くらいか」
「せやな」
「では、そろそろ始めてくれ」
1.らき☆すた
「妥当やな」
「Kanonとかハルヒとかは深夜アニメに開眼してからで最初はこれやね。もっとも京アニという名前すら知らなかった頃だが」
「冒険の旅に出るわけでも王子様と恋愛をするわけでもなく、ひたすら女子高生がだらだらおしゃべりをして30分が終わる。まさにカルチャーショックやったな」
「日常だからどうしても絵がだれる。普通にやると飽きる。そこを軽妙な会話としっくりくるBGMでカバーしておる」
「試しに画面を見ずに耳だけで鑑賞しても楽しめるかもしれん」
「教室の窓から見えるグラウンドや下校中の街並みといった風景も味があってよろしかった」
「OPは今振り返ると、ちょっと恥ずかしいな」
「そうなんか」
「背筋がゾクゾクするというか思わず画面から目を反らしてしまう」
「共感性羞恥か」
「そうとも言う」
「しかしだな、あの当時あれが流行ったという事実を避けて、過去から目を背けて、果たして君の京アニ史というもんはできるのかね」
「それはそうやな」
「せやろ」
「まあ特に個人的なエピソードは無いんやけどね」
「なんやねん」
「家族でテレビ見てるときに、OP映像が流れて時間が止まったくらい」
「誰しもが通る道である」
2.日常
「続いてはこれ」
「意外というか、いきなり飛びすぎやろ」
「あの頃は忙しかったり、他に興味があったりしたんや。オタクと言えるほどアニメ好きでもなかったし」
「背中にネジついた少女が曲がり角で大爆発した第一話見て目を丸くしたのを覚えとる。あんな美麗な作画を、あんなくだらないことに使ってるのが可笑しくて仕方なかった。原作コミックも買ってしまったわ」
「一番心惹かれたのはエピソードの間にある定点映像で、生活音しか聞こえん謎の数十秒間は、えも言われぬ快感やったわ」
「案の定、ネットでは尺稼ぎだと叩かれていたな」
「無念」
「そういや「日常」のウィキペディアでこんなのを見つけたのだが」
「ジャンルがポストモダンギャグになっているな」
「シュールなら分かるが、ポストモダンギャグってなんやねん」
「意味不明である」
「今回はここまで」
「なんや、これだけかいな」
「期待しとるやつは、追々出てくるから待っとって」
「左様か」
「こんな感じのシリーズを年末年始にかけて、更新していくつもりですので」
「何卒よしなに」
「していただければと」
「それでは」
「ご機嫌よう」
「悲劇の誕生」に至るまで
と言っても読み解きをする余裕はないので、簡単なまとめをするにとどめておく。
ニーチェといえばツァラトゥストラのようなユーモアに富んだ檄文が有名である。「悲劇の誕生」にもその片鱗を見せているが、一応しっかりとした散文である。
要するに、普通の哲学書なのだが、普通の哲学書というのは凡人には理解しがたいもので、やはり読み解きが必要なのかもしれない。
文学の読み解きでは巻末の解説頼りにしないが、今回は哲学なので訳者解説の力を借りていく。
能書きはこの辺にして本題に入る。以下、哲学論議が目的ではないのでざっくりとした捉え方で進めていくがご容赦願いたい。
まず、「悲劇の誕生」の前にカント、ショーペンハウアーの哲学について軽く触れておく。なぜ触れなきゃならんのか、というとニーチェの哲学は彼らを大前提にしているからである。(哲学とは往々にしてそういうもんである)
それは彼が物自体を「盲目的な生きんとする意志」と呼んだことに起因する。
物自体とはカントが生み出した概念である。物自体は経験を生み出すなにかであり、それを我々は認識できない。目で見えるのは現象であり、その背後にある物自体は認識できない。
引用の引用になるが、上のブログ内にある物自体をDVDとするDVDプレイヤーの例えはとても分かりやすい。
カントは大陸合理論とイギリス経験論を総合して物自体を考え出した。
大陸合理論は理性重視、つまり演繹である。
イギリス経験論は実験重視、つまり帰納である。
総合して作ったと言われるが、非常に中間的な概念である。理性と経験、相反する二つのバランスを取った概念。
ショーペンハウアーに戻る。
彼はカントの哲学を引き継いでいる。
彼によると物自体は意志でできている。木の成長や人間の行為(胃や腸の働き)も意志の表れである。そして盲目的である。意志とは目的を欠いた無限の努力である。また表象(現象)は意志(物自体)によって生じる。
そして木が絶えず成長しようとするように、人間の意志も絶えず欲求を生み出し、人間は常に不満足になる。苦しい。そして知性が増すほど苦しみも増していく。すなわち生き続ける限り人間は苦しみ続ける。
これを回避するには生きる欲求を否定、意志を否定しなければならない。
この部分がショーペンハウアーは悲観主義だ、諦観だと言われるゆえんである。
さきほどのDVDの例えで言うと、
物自体=DVDディスク
表象=ディスクを再生して見れるテレビの映像
根拠の原理=DVDディスクの構成部品
となる。この中で、根拠の原理に含まれる個別化の原理について注目する。
個別化の原理は時間、空間という感性の形式を意味する。(個別化の原理は「悲劇の誕生」に深く関わってくる)
かなり駆け足のまとめになってしまったので詳しくは「意志と表象としての世界」を読まれたし。(そういえば漫画「少女終末旅行」に出ていたのを思い出す)
そして、ニーチェは以上を踏まえて「悲劇の誕生」を展開している。
これについては次回。
ゲーテについて
魔の山コツコツ読み解いている。
しかし、非常に時間がかかる。なので息抜き代わりに雑文を投稿する。
トニオ・クレーゲルやベニスに死すもそうだったが、トーマス・マンの文章は一文が長く、難解で、くどい。胃もたれしてしまう。そしてこの濃厚な感じが最高潮に際立っているのが魔の山である。読むだけで一苦労。さらに大長編。ドイツ文学の傑作と言われながら、さして内容について議論されていないのもうなずける。
愚痴はここまでにして気になったことを書く。
第6章6節でナフタの生い立ちが語られる。ここで彼が発したとある文章を抜粋する。
ナフタは現代で言う逆張りに近い性格なのだが、「ゲーテがカトリック的」というのは大変興味深い。
もちろんゲーテはプロテスタントである。ルターと同じドイツ人なのだから不思議はない。プロテスタントは聖書主義で、聖母マリア信仰を毛嫌いする。反対にカトリックはマリアを非常に大切にする。
ゲーテもプロテスタントだから当然聖母マリアには否定的なはずである。しかし、そうではなかった。
fufufufujitani氏のまとめにあるように、ゲーテは勇気をもって抗議した。聖母信仰どころか、女性を教義に組み込めというとんでもない要請をしたのである。
かなり危険なことを書いているがばれなかったようである。(もっとも第二部は死の直前に刊行している。この点抜け目ない)この辺からドイツでもさして読み込まれていないのだろう。
それでも後輩のマンは気づいたみたいで、それが「ゲーテはカトリック的な一面がある」という一節に繋がる。文豪同士の高度なコミュニケーションを見せつけられた気分である。
魔の山にはワルプルギスの夜という名の章がある。ファウストとも因縁深いこの作品と今しばらく格闘する所存である。
まどマギを語るつもりが脱線しまくるの巻
「ごきげんよう、みなさん」
「気づけば夏も終わりすっかり秋色になりましたが」
「いかがお過ごしでしょうか」
「ということで早速、『魔法少女まどか☆マギカ』について喋っていこうかなと」
「唐突やな」
「BSで再放送してたからな」
「では聞かせてもらおうか」
「偉そうに」
勤労
「上の記事では『まどマギは段々と勤勉になってゆく、勤労が自己目的化してゆく物語』とある」
「これは恐らく正しい」
「まどかの母親が愚痴を言いながらも働いている姿から勤労が重要な要素だと分かる」
「父親のセリフに『仕事が好きなのではなく、頑張るのが好き』『苦難を乗り越えた時の満足感が宝物』とあり、彼女は家族のためではなくあくまで自分のために働いている、勤労が自己目的化している」
「ある意味まどかの未来を暗示していると言える」
「次に暁美ほむらについてなのだが」
「彼女は時間を戻す能力と止める能力を持っている。それらを駆使してまどかを守り、ワルプルギスの夜という魔女を倒そうとする」
「さらに元を辿ると、シェイクスピアの夏の夜の夢になるのだがそこは割愛する」
「『ワルプルギスの夜』なんてカッコイイ名前だからアレやけど、要するに乱交パーティーで、流石にそのまま描写したら不味かろう、ということで分かりにくく描いている」
「現にファウスト第一部の中でも、魔女や人間など登場人物がやたら入り乱れる難解な箇所ではある」
「ま、口に出しづらいことを何とか伝えるのが文学的表現でもある訳なんで」
「この辺はゲーテさんも苦労したのではないでしょうか」
「まどマギでも歯車のついた魔女が真っ逆さまになって鬼火を出している程度に抑えてある」
「最近は知らんが、日本でもお祭りで若いエネルギー暴走して盛り始めてしまう人々が田舎だといる」
「ああいうのに出くわすと、ついつい謝ってしまうのはなんでなんやろか」
「こっちはなんも悪くないのにな」
「話が逸れたな」
「せやな」
ループ時間
「話を戻すと、ほむらはワルプルギスに勝てないので過去に戻ってもう一度やり直す。これを繰り返す」
「いわゆるループ物ってやつやな」
「ハルヒのエンドレスエイト、シュタインズ・ゲートとかでお馴染み」
「毎回、微妙に違うんだけど結末は同じになってしまうんやな」
「これに関してはファウストがモチーフになっていることを考えると深い意味をもってくる」
「そもそもファウストはキリスト教的世界観に異議を申し立てた、もっと言うとアンチ・キリストの書である」
「中でも時間の捉え方に文句を言うたことがまどマギに関係してくる」
「キリスト教の時間観は始まりと終わりがあってそこを一直線に流れる。直線的な捉え方をする」
「ところが、ゲーテはそれを否定する。そんでもって時間は円環的やと、始まりも終わりもない、ループするもんやと主張する」
「ループ時間は第二部古代のワルプルギスの夜に登場するホムンクルスで描かれてるが、まどマギだとワルプルギスと闘い、時間をループさせる暁美ほむらになる」
「こういうところを見ても、ただ単にガワだけ真似したんではなく、ファウストの中身をきっちり読み込んで作られていることが分かる」
「ちなみに時間停止能力は『時よとまれ、そなたは美しい』からきている」
聖女の救済
「結局、ループでは勝てへんからまどかが概念、円環の理になって魔法少女を救う訳だが」
「これはラストの有名なフレーズ『永遠にして女性的なもの』なんやろうね」
「ファウストがグレートヘンの祈りによって救われるように、魔法少女たちはまどかの祈りによって救われる」
「過去現在未来すべての魔法少女を救済するのだから、まどかのガッツは相当なもんやで」
「それもループ時間のお陰やな」
「あとラストはキリスト教教義における女性の編入を訴えたものなのだが」
「まどかの母親はキャリアウーマンで、代わりにお父さんが専業主夫をやっている」
「こういう家庭は現代だからそこまで不思議なことではないんやけどね」
「女性が重要なのを示していることが分かる」
円環の理
「にしてもこの円環の理という概念、非常に仏教的だとは思わんか」
「苦しみ続ける魔法少女が円環の理によって消滅する=輪廻から解脱する、と考えるとそれっぽいかもしれんな」
「まどかは聖女でもあり、如来様でもある訳やな」
「うむ」
日本的時間観
「そんでもって、いよいよ劇場版『叛逆の物語』にてほむらの救済が行われようとしたとき...」
「まさに叛逆が起きる」
「これはTV版最終回で魔獣という敵の姿が僧侶であったことと合わせると、仏教的なループ時間の否定だと思われる」
「ファウストをモチーフにしてるならループ時間は肯定しないとあかんやろ」
「恐らくここがまどマギ独自の部分で、時間とは直線でもあり円でもある、つまり折衷的なものだという時間の捉え方をしている」
「なんだかややこしくなってきたな」
「まどマギが複雑なアニメであることは多くの人々が気づいているはずや」
「折衷型で代表的なのは日本神話やな」
「天地開闢という始まりはあれど、終わりははっきりしていない」
「『一月一日』にあるように『終わりなき世のめでたさを』なので」
「ちなみに『君の名は。』は折衷型の時間観だったりする」
「紐は一直線にもなるし、丸く円にもなる。折衷的なのをさりげなく表現している」
「まどマギだとまどかのリボンになる」
「劇場版の最後でほむらがまどかに渡しとったな」
「ファウストだのなんだの言ってきたが、結局日本の価値観になってくる訳やな」
「とはいえほむらが悪魔化してたので、あそこから二転三転してどこに着地するか分からん」
「確実に言えるのはまどマギはファウストを吸収し、魔法少女の物語にうまく組み替えて、上積みをしようとしたということやな」
「錬金術師が魔法少女に、メフィストフェレスがインキュベーターに、など言い換えが面白い作品だった」
「単純に魔法少女らしからぬ展開が面白かったのもあるけどな」
おわり
「まあ偉そうに色々言ってきたが、もう少し研究しないと何とも言えん」
「ええんかそれで」
「しゃーない、どなたかにお任せしたい」
「お前はやらないのか」
「面倒なので遠慮しておく」
「適当やな」
「しゃーない」
「ということで長々喋ってきましたが」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
<関連>
2011年は震災の年ですが、まどマギ、あの花、ピングドラムが出た年でもあります。
「歯車」解説【芥川龍之介】
「歯車」は1927年(昭和2年)発表の芥川龍之介の短編です。
川端康成や堀辰雄ら名だたる作家が「傑作だ!」と称賛しました。しかし、普通に読むと普通に意味不明です。話らしい話のない、暗く欝々とした、死のイメージに満ちています。
あらすじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF%E8%BB%8A_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
あらすじはウィキペディアにあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/40_15151.html
本文は青空文庫にあります。短編なのですぐに読めます。
対称構造
「歯車」は全体が6章で構成されています。
表の通り、対称構造です。鏡のようだから鏡像構造とも言えます。1章と6章、2章と5章、3章と4章がそれぞれ対になっています。
「本当か?」と思っている方もいると思うので、次は章内部を詳しく見ていきます。
対称構造(内部)
・1章と6章
1章と6章に関しては、多くの研究者が対になっていることを指摘していました。恐らく読んで気づいた人もいたと思います。冒頭が非常に似ているからです。
以下、対応関係です。
自動車に乗って結婚披露式へ向かう⇔自動車に乗ってると葬式を見かける
車内でレインコートの幽霊の話をする⇔運転手がレインコートをひっかけている
T君杖の柄を左に向ける⇔小道の右側に火事のあった家
西洋髪のみすぼらしい女はかつて洒落た格好をしていた⇔火事のあった家はかつて西洋家屋だった
右目に半透明な歯車が見える⇔右目の半透明な歯車が回りだす
翼の音がする⇔飛行機の音がする
・2章と5章
スリッパの片方がない、ギリシャ神話(イアーソーン)想起⇔車のタイヤに翼がある看板、ギリシャ神話(イカロスの翼)想起
火事を見て不安になる⇔日の光苦しい
大きいネズミが出る、白い帽子のコック冷ややか⇔「Black and White」というウイスキーを飲む
レストランに行くが引き返す(テーブルの上にリンゴとバナナ)⇔バーに行くが引き返す(赤い光が照らしている)
背後で復讐の神を感じる⇔悪魔に苦しめられる
・3章と4章
ナポレオンの肖像画を見て不安感じる⇔ベートーベンの肖像画を見て滑稽に思う
右目に半透明な歯車が見える⇔旧友の教授の左目から出血
停車場で大学生と年増の女⇔カフェで恋人のような息子と母親
遠くから見ても緑色のドレスのアメリカ人女性⇔遠くからだと綺麗だが、近づくと醜い断髪の女
「歯車」を作る上で、芥川が参考にしたのが漱石の「夢十夜」です。漱石は芥川の師匠に当たるので、お手本にしたのでしょう。
「夢十夜」も全体が対称構造となっています。幻想的で暗い雰囲気も歯車と似ています。歯車は夢十夜の後継作品なのです。
とはいえ、漱石が10章なのに対し、芥川は6章です。単純に数で考えれば漱石の方が凄いです。3個のペアより5個のペアを作る方が大変に決まっています。
技術の進歩
技術とは常に進歩しなければなりません。
「昔のほうが凄かった」と言う人は多いのですが大抵錯覚です。昨日より今日が、今日より明日が良くなっていかなければ駄目です。
小説も同じです。
芥川も漱石が積み上げたものの上に新たに積み上げようとしています。小説の技法もまた常にアップデートされていきます。
流れを作る工夫
芥川が考えたのは「流れを作る工夫」でした。
「夢十夜」は確かに構成的でした。その反面、個々の話がバラバラになってしまうという欠点も抱えていました。要するに、全体としての流れが悪いのです。
そこで「歯車」では、章と章の間に共通要素を結ぶことで流れを作っています。
3-4間は元々対応しているからやる必要ないと思うのですが、几帳面に結んであります。
芥川は「夢十夜」の対称構造に気づくと同時に、その欠点も発見しました。そこから改善方法を考え、生まれたのが「歯車」です。まさに技術のアップデートです。川端や堀が絶賛したのも恐らくこの点です。
10章から6章に減らしたのは難易度が高すぎたからでしょう。対句をやる上に共通要素を結ぶとなると、いかに芥川といえど10章やるのは無理だったようです。6章でも偉大ですが。
引用:https://note.com/fufufufujitani/n/n6039e0dd7a98
黒澤明の「夢」も「夢十夜」の後継作品です。実は黒澤も流れを作る工夫をやっていました。芥川は黒澤にさきがけていたのです。最も、黒澤が「歯車」を読めていたかは定かではありません。
話らしい話のない
「歯車」はガチガチの構造から分かる通り、かなり力を入れた作品です。病的なまでにこだわっています。その一方で、物語全体は支離滅裂としています。何かあると思って読み込もうとすると、闇に引き込まれてゲシュタルト崩壊しそうになります。
なぜこうなってしまったのでしょうか。
作者の精神状態もさることながら、自分の才能以上のことをやろうとした結果、ストーリーが崩壊してしまったと考えられます。
例えば、「戯作三昧」では対句こそ多いものの、全体としては自然な三部構成になっています。小さいながらも綺麗にまとまっています。
また「河童」では「ガリバー旅行記」を下敷きにしていますが、ガチガチに対応させているわけではなく、物語に重点を置いています。
引用:https://note.com/shao1mai4/n/n59e2921a76e9
西洋文化の吸収
どうも、芥川は頑張りすぎてしまったようです。
芥川が生きた日本では、西洋文化流入に伴い、江戸時代までの絶対的価値観の喪失が発生しました。いわゆるニヒリズムです。
これを解決すべく明治以降の作家たちは日本文化と西洋文化の狭間で苦しみ、死んでいきました。芥川もその一人です。
過去を失った日本を何とか救おうと、必死に新しい価値観を作ろうとしますが、結局失敗してしまう。「歯車」の世界観はまさに芥川の、近代知識人たちの絶望そのものだったのです。
「歯車」のラストで主人公の右目に映る歯車が回りだします。歯車は近代化(工業化)の象徴です。それが回りだす、つまり元には戻れない。近代化を止めることはできない。そして主人公は「殺してくれ」と願う。苦しいですね。
結論から言って、西洋文明の理解に必要だったのは西洋の宗教、キリスト教の理解でした。
芥川もなんとなく直感で分かっていたようで、キリシタンを題材にした作品を書いています。現に、「歯車」でもリンゴ(=原罪の象徴)が出てきたり、聖書会社の老人が出てきます。
ただ核心部分にたどり着けず、途方に暮れています。
キリスト教理解に必要なのは、聖書もさることながら「三位一体教義」を理解することでした。
特に、聖霊の概念は日本人にはイメージしづらいです。
しかし、芥川が発狂しそうになるまで頑張ったことで、後輩たちが西洋文化の吸収に成功します。彼の努力は無駄ではなかったのです。
「さらざんまい」との関係
2019年に放送されたアニメ「さらざんまい」は芥川の河童と戯作三昧を下敷きに、人と人とのつながりを描いた作品です。監督はウテナやピングドラムで有名な幾原邦彦さんです。
さらざんまい6話で歯車が出てきます。春河がすり潰されそうになる奴です。
ただそれだけで、特に物語には関係なさそうに見えます。
さらざんまいの解説記事です。読めば分かる通り、さらざんまいの全体構成は歯車と同じ対称構造です。
上の記事を参考に章立て表を作ってみます。
綺麗な対称構造です。
6話の真ん中でちょうど折り返せるようになっています。
幾原監督は「歯車」の構造が読めています。だから6話で歯車を登場させました。そして「歯車」は6章構成です。優れた読み込み能力です。
ちなみに、流れを作る工夫は行っていません。そこまで凝る必要はないと判断したのでしょう。賢明です。
さらざんまい、構成力のある奥深いアニメだと思うのですが、最終回は少し慌ただしかったです。セリフもかなり多く、ギリギリ時間内に間に合わせた印象があります。
こうなると「なんで2クールにしなかったの?」「せめてあと1,2話増やすべきだった」という意見が出てきそうです。大人の事情があったにせよ、11話にこだわった理由があります。
まず2クールで対称構造を作るのは難易度が高いです。だいたい26話前後あるので、10個以上は対を考えなくてはいけません。恐らく無理です。
例えば、小説では長編になればなるほど全体構成が緩くなります。作者の才能は関係ありません。そういうもののようです。代わりにキャラ配置を徹底します。
12話や13話では駄目なのか、に関しては6話をちょうど真ん中にしたかったからでしょう。理由はもちろん歯車を登場させるためです。
という感じで、色々考えられるのですが、一番の理由は「芥川龍之介への敬意」でしょう。
芥川は短編の名手として知られる作家です。彼の作品のほぼすべては短編小説です。(「邪宗門」という長編を書こうとして挫折しています)
そんな彼への尊敬を表現するために、できるだけコンパクトに作ろうとしました。さりげないですが。
<参考>
「ピングドラム」では「さらざんまい」ほど構成凝っていません。理由は2クールだからです。その分キャラ配置にはこだわっています。少々エキセントリックですが。
「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」を見たの巻
(以下、ネタバレします。ご注意下さい)
謎多き女性
牧之原翔子は中学生です。心臓が悪くて入院しています。
しかし、大人になった牧之原翔子もいます。未来からやって来たそうです。理由はこれから起きる事故で死ぬ主人公を救うためです。
その後色々あって、主人公を過去の世界に送ります。夢を見るとかなんとかで行けるそうです。
ラストで死んだはずの翔子が転生しています。
ちょっと難しい?
設定に無理があります。
夢を見る云々で過去に行ったり、転生したり、と訳分かりません。もしくは私の理解力が無いか、です。「今のはどういう意味だ?」と考えながら見てたので。原作ではもうちょっと丁寧な説明があるのではないでしょうか。
ぶっちゃけ文句の付けどころなのですが、何か理由がありそうなので考えていきます。
「青ブタ」の登場人物は、「涼宮ハルヒシリーズ」と「物語シリーズ」を下敷きにしています。二つの作品の特徴を活かしたハイブリッドな作品を目指したのがこの作品です。今回のストーリーに関係してくるのは「涼宮ハルヒの消失」と「傷物語」です。
と言えば聞こえはいいですが、難易度が上がるので無理が生じます。急にタイムリープするだなんて言われてもびっくりですから。未来の組織に所属している、とかだったら分かりますが。(あと主人公の言動が若干古い)
もう一つ、ハイブリッドは欠点を無くすのに効果的な代わりに、長所が薄まります。「青ブタ」はハルヒとかと比べると、引き込まれる感じは弱いですから。
しかし、登場人物とても魅力的です。それぞれのキャラについては以前やったので、今回は牧之原翔子に注目していきます。
消失
牧之原翔子は朝比奈みくると対応しています。
高校生と未来からきた大人版の二人のみくる
中学生と未来からきた大学生の二人の翔子
みくるは、胸に黒子がある
翔子は、胸元に傷がある
みくるは、主人公を過去で待っている
翔子は、主人公を過去へ送る
最後のは対応というより、対句です。
翔子は忍野忍と対応しています。
忍は、心臓を抜き取られていました
翔子は、心臓を患っていました
忍は、主人公の血を吸って生きながらえます
翔子は、主人公の心臓を移植してもらって生きながらえます
忍は、主人公に自分を殺すよう仕向けます
翔子は、主人公に自分を(間接的に)殺すよう仕向けます
忍は、ラストで無害で無表情な残りかすのような存在となり主人公の血を吸っています
翔子は、ラストで転生して笑顔で主人公を振り返ります
これも最後のは対句です。この対句が恐らく最重要ポイントです。
なぜ下敷きにしたのか
そもそも、なぜこんなオマージュをする必要があったのでしょうか。魅力的なキャラにはなりましたが、作品の面白さにはつながるとは限りません。
思い返すと、「青ブタ」は「自分と他者」との関わりを描いてきたアニメでした。
ネットであらぬ噂をウワサを立てられ孤立する咲太、有名人であるがゆえクラスで距離を置かれる麻衣、LINEでいじめられ不登校になる花楓、周りの目を気にする古賀、姉と比較されるのどか、裏垢で自撮りを投稿する双葉。
SNS関連のものが多いですね。こうした人間関係のストレスから思春期症候群を発症します。
自己の内面
しかし、「ゆめみる少女の夢を見ない」では「自己の内面」がテーマになっています。翔子の思春期症候群は「成長したくない自分」と「成長したい自分」が分離したことが原因でしたから。
「消失」では、キョンが自問自答してSOS団との関わり方を変えます。「自分ともう一人の自分」です。自分の内面を見つめ直すのです。長門の物語が強調されがちですが。
選択すること
では、「傷物語」を下敷きにしたのはなぜでしょうか。
恐らく、「みんなが不幸になる選択への批判」です。
咲太は麻衣さんも翔子さんもどちらも救いたい。しかし、どちらか選ばなければなりません。決められなかった結果、麻衣さんが死にます。みんなが不幸になります。最悪の選択です。
「傷物語」では、阿良々木くんが忍と羽川たちのどちらも救おうとした結果、みんなが不幸になる選択をします。最悪の選択です。
「ここにいるみんな全員救いたいんだ!」っていうのは綺麗ごとです。できるのならそうするに越したことありませんが、現実ではそう上手くいきません。優先順位つけて選択しなければいけません。
ご都合主義
だからラストの翔子の笑顔は「誰かを捨てて誰かと生きる選択の肯定」です。「阿良々木くんへの批判」とも取れます。搾りかすになった忍と転生して笑顔になった翔子。結局3人生き延びたのは、ちゃんと麻衣さんとの生きる道を選択できた(翔子さんを捨てた)咲太へのご褒美です。
つまり、綺麗ごとを否定するためにご都合主義をしています。矛盾しています。訳分かりません。
「ご都合主義だ!」「幼稚なハッピーエンド」とか言われそうですが、私は良い終わり方だと思います。良いじゃないですか、ご都合主義。綺麗ごとより数倍マシです。覚悟決めて残酷な選択をしたからこそ、あの笑顔が嬉しくて、切ないです。
エンディングテーマ
エンディングの曲は感傷的で好きなのですが、映画館で聴くとより切なく感じました。オープニングは流さなくて正解ですね。雰囲気違いますから。
余談
初っ端からテレビ版の続きが始まるので、初めて見た人はびっくりしたかもしれない。びっくりしたといえば、麻衣さんが轢かれたシーンで音が急に大きくなったのは心臓に悪かった。
結局、翔子が「成長したい自分」と「成長したくない自分」を切り離したことと未来からきた翔子が同一人物になる理屈が分からなかった。「咲太の心臓の翔子」と「麻衣の心臓の翔子」と「転生した翔子」が全員違うから混乱した。
色々言ってきたが、まだ一回見ただけなので偉そうなことを言ってはいけなかった。少し時間空けてもう一遍見返そうと思う。
最後に、隣の高校生が号泣していた。
「消失」も雪の降る中、自己の内面を見つめます。音楽も切ないです。
オランウータンの尻子玉
先日、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」を読んだ。密室殺人を題材にした世界初の推理小説とのこと。
読んでみると普通に楽しい。
ただ、冒頭の「分析能力が〜」という謎の能書きが気になった。ちょっと長ったらしい。チェスの話まで脱線するし。書く必要あったのか。
さらに文中に「上手というのは、通常構成的ないし統合的能力の現れで、〜」とある。
展開としては、その後に事件が発生し、殺人現場の様子やら近くにいた人の証言が述べられる。
恐らく、これらの断片情報を分析・抽出し、統合することで犯人を導き出すという流れが冒頭で暗示されているのだろう。
コンラッドの「闇の奥」である。
「モルグ街」は1841年、「闇の奥」は1899年。(ちなみにシャーロック・ホームズが初登場した「緋色の研究」は1887年)
fufufufujitaniさんが指摘するように「闇の奥」の登場人物統合戦略は「モルグ街」から来ていると思われる。
モルグ街では登場人物の証言や状況証拠といった断片情報を統合して、犯人のオランウータンにたどり着く。
闇の奥では行く先々で出会う登場人物の特徴が統合して、人類の厄災であるクルツにたどり着く。
クルツの身長は2メートルくらいある。オランウータンはそこまで大きくないが、似てなくもない。クルツ=オランウータン
インド諸島の奥地にいたオランウータンを連れてきたのは船乗りで、闇の奥の語り手マーロウも船乗りである。コンラッドが下敷きにした、とまでいかなくともアイデアのヒントにはしたと考えられる。
そして「グレート・ギャツビー」である。
グレート・ギャツビーは闇の奥の後継作品で、主人公の人格がクルツ同様、他の登場人物たちの人格を統合したものになっている。
さらには、作品自体が過去の文芸作品をいくつも下敷きにして統合されたものである、という二重の意味で統合戦略がなされている。
先ほどのNAVERまとめによると名作5本分の統合になっている。どうもこれに「モルグ街の殺人」も下敷きの一つに加えて、6本になりそうだ。
グレート・ギャツビーでも殺人が起きる。デイジーがマートルを轢いてギャツビーと一緒に逃げる。そのギャツビーも最後に死体となっている。誰が殺したのかは断定できない。
そもそもこの小説自体、語り手ニックの視点から曖昧な断片情報しか出てこないので犯人が特定できない。ホームズもいないのでどうしようもない。
フィッツジェラルドのことだからもっと分析すれば元ネタがまだまだ出てくるかもしれない。
なんでこんな話をしているかというと、放送中の「さらざんまい」も元ネタがたくさんあるアニメだからである。
「輪るピングドラム」の解説やった時、幾原監督は宮沢賢治に似てると思ったのだが、下敷きをいくつも重ねたがる感じフィッツジェラルドに似てなくもない。
(ウテナもオマージュいっぱいあると思うのですが確信がありません。幾原マニアの方どうでしょうか)
そして賢治とフィッツジェラルドは同い年なのが面白い。単なる偶然か、それとも村上春樹さん経由で間接的に似てる、という可能性も考えられる。
「さらざんまい」も芥川の「河童」をはじめ下敷きが何枚も出てくる。まあ下敷き何枚も重ねてるから凄い!というとそういう訳じゃないのだが、その辺は最後まで見て判断する。
<参考>
熱心なサラザンマーは絶対に読むべし
こちらは「ピングドラム」です。
飽和するアニメ
「暇なのでアニメについて話していこうかなと」
「唐突やな」
「別にええやろ」
「ええけど」
「今期で一番面白いと思ったのは『かぐや様は告らせたい』」
「その心は」
「頭空っぽで楽しめるから」
「それは貶してるんとちゃうんか」
「いや褒めてる。シンプルなのがええねん。最近の作品はどうも難しいことをやろうとしたり、テーマを詰め込みすぎてパンクしている作品が多いような気がしてならん」
「だけど難しいことやらんと人々を感動させることなんてできないやろ」
「これはなんぞ」
「溶解度のグラフや。理科の実験で水に食塩やミョウバン入れたり、中学校で習わんかったか」
「それは分かっとる。これがどうアニメと関係あるんや」
「アニメがパンクしているのを例えるなら飽和している状態のことで、つまり一定量の水に対して色々なものをどかどか入れすぎてるのでは、ということや」
「水を増やせばええやん」
「水を増やす=話数を増やすということなんやが、深夜アニメは基本1クール12話で2クールやらしてくれることはそうそうない」
「じゃあグラフにあるように加熱して水の温度を上げればええやん」
「水を沸騰させる=物語のボルテージを上げるということなんやが、作画や脚本にどれだけ力を注いでも、いまいち盛り上がらなかったアニメが数多存在することを考えると並大抵の作業ではないと思われる」
「ちょっと前にやってた『色づく世界の明日から』が典型的やな」
「映像も音楽もキャラクターも良いのに、内容詰め込みすぎて飽和しとった」
「12話で魔法やら過去のトラウマやら人間関係やらを描くのは無理がある」
「本当は2クールでやる予定だったのに1クールになってしまった、というウワサもあるそうな」
「世知辛いな」
「絵がきれいなだけにもったいない気持ちになる」
「こういう例は過去にもあったようで」
「はるか昔にワーグナーの『ニーベルングの指環』という15時間くらいあるオペラがそれに当たる」
「ゲルマン伝説、宗教、貨幣など内容を盛り込みすぎたのが原因やな」
「こちらの解説に詳しく書かれている」
「あとはこんな例もある」
「これはなんぞ」
「再結晶や。グラフの通り、加熱した水溶液を冷やすとその分だけ溶けてた物質が析出するんや」
「だから、それのどこがアニメと関係あるんや」
「さんざん大風呂敷を広げておいて、最後間に合わんくて畳みきれなかったみたいなアニメあるやろ」
「おう」
「極限まで高まった物語のボルテージが最後の最後でイマイチな終わり方をさせられると急激に冷めるんや。そして飽和する。この現象を再結晶に例えた」
「具体的にはAngel Beats!とかか」
「あれも面白いんだけどな」
「あの作品はノスタルジックかつエキサイティングな演出で、緻密な脚本と少年少女がイデオロギーに対して絶妙にドラマツルギーで…」
「何を言うとるんや」
「こう書くとなんか偉いこと言ってる風に見えるやん」
「カタカナ言葉並べてるだけで大したこと言うてないやろ」
「せやで」
「冗談はさておき、やはり安パイでいくなら溶かす物質の量を減らす=内容を詰め込みすぎないに限る」
「なんか寂しい結論になったな」
「そうか。現に『かぐや様』は内容こそ薄いが、キャラクターの喜怒哀楽やらちょっとした掛け合いやらが面白くて人気が出てる」
「物語の余白を楽しむというか、ある程度余裕があるアニメを見たいという気持ちは分かるな」
「あと出てくる女の子が可愛い」
「...」
「なんや」
「いや...そういうところはオタクなんやなと」
「ほっとけ」
「オタクはほっといて、テレビアニメは構成よりキャラ重視なのは『青ブタ』を見て分かったしな」
「アニメはキャラ戦略が命やな」
「せやな」
「ごちゃごちゃ言ってきたが、今回伝えたかったのは、作品作るうえで大切なんは盛り込めるテーマの溶解度(限界値)をわきまえることで、『無理なもんは無理』と開き直る精神が大切っちゅうことや」
「分かっててもそれができない実情もあるわけなんだが」
「それに関しては、どうにもならん」
「冷たいな」
「しゃーない」
「言いたいことは大体終わったけど、なんかあるか?」
「他に気になったアニメは?」
「『夜は短し歩けよ乙女』というのを見た。湯浅監督はデビルマンのリメイクで知ってたけど、思ったよりもファンタジーだった。ちょっと演出のやりすぎでヤク中の幻覚かなと思った箇所もあったけど、ドタバタ感が大学生っぽくて面白かった」
「Twitterでは『どろろ』と『モブサイコ』が人気みたいやけど」
「見てない。漫画読んだしええかなと」
「適当やな」
「他は?」
「展開予想はせんのか?」
「やろうと思ったけどめんどくさくなったからやめた。次やります」
「なまけもんが」
「やる気が出なかったからしゃーない」
「という感じで」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
SAOについて
分析は面倒なのでやらない。感想だけ置いておく。
SAOというアニメがある。ゲームの世界で主人公が剣で戦うのだが、中二病全開で正直痛い。十代向け作品。大人になってから見るもんじゃない。
でも、凄い人気で4クールでアニメやってる。この作品が人気だと聞いて、「やはり日本人の特攻精神は不滅なんだな」と思った。
SAOのキリトくんは日本文化特有の「死ぬために戦う」キャラ。真田幸村とか特攻隊の末裔である。剣の腕は最強。でも戦術は凄くても戦略がない。チームプレーができないから敵の集団に一人で戦う。個人戦術が凄いので勝てるが、最後は自分を庇ったアスナを死なせてしまう。この辺はるろうに剣心に似てる。美しいけど、もう少しスマートに戦えた気もする。
もっと言うと日本軍に似てる。一人一人の兵隊の質は高かったのに戦略が無くて戦争負けた。キリトくんが一人で無双するのはカッコいいがスマートではない。もっとも劇場版辺りからチームプレーするようになったが。
アインクラッドの最初のボス戦でリーダー的存在が無茶な突撃して死ぬ。彼はこのゲームのβ版をやっていた。つまりゲームについての知識が他の人よりもあった。それなのに何もしなかった。当然、知識のない人は死んでいく。そのことに責任を感じていた。死んでいった人たちに申し訳なく思っていた。
その償いとして死ぬ。死んで楽になろうとする。まさに「死ぬために戦う」である。もっとも死んだところで事態は解決しない。キリトくんが「うおおおおお!!」となるだけである。
そして彼と同じ十字架をキリトくんも背負ってる。
彼はあるギルドに加入する。ゲーム内のレベルが低い人たちだったので、気を遣って自分のレベルは隠していた。しかしこれが原因でギルドは全滅してしまう。戦犯である。忖度した結果が部隊の全滅。まさに大日本帝国陸軍。
適切な進言ができる職場環境じゃなかったばかりに何万人の兵士が命を落としたか。気づいていても言い出せないあたりが日本の組織のダメな感じする。
対照的なのが黒幕の茅場晶彦。彼には戦略がある。自分の死んだ後の世界のことを考えて行動している。もちろん多くの人々を死なせた悪い奴だが、現に彼のフルダイブ技術で救われた命もある。SAOの美点は茅場を完全な悪者にしなかったことである。剣振り回して「カッケー!!!」ではない。
そういえば彼はゲーム内でも血盟騎士団というギルドを組織しており信頼も厚かった。騎士団の中には悪い奴もいたが集団を組織して敵と戦う点ではキリトくんより戦略がある。
彼の事業は菊岡さんや後輩たちに受け継がれる。キリトくんも意識している。自分には無いものがあるから。茅場は自殺こそするが、その後もバーチャル空間漂ってるし、戦略的撤退と言った方が良さそう。
個人的には菊岡さんたちの出番をもっと増やして欲しい。まあそんな見込みは無さそうではある。
アリシゼーションは訳わかんなくなってるが、バカに出来ない作品である。今、キリトくんに夢中になってる十代の若者が大人になって茅場たちの良さに気づけたら、それだけでもこの作品の意義があると思う。
「死を覚悟して戦うキリトさんカッコいい!!」だと元も子もないが。
昔は「死なないゲームなんてぬるすぎるぜ」とか抜かしてた奴が「戦うんじゃない。勝つんだ」と言うようになってるので、人間成長するもんだなーと思ってる。
小林秀雄と中二病
文芸評論家の小林秀雄がこんなことを言っていた。
若い人々から、何を読んだらいいかと訊かれると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。(中略)すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他に何も読む必要はない、だまされたと思って「戦争と平和」を読み給えと僕は答える。だが嘗て僕の忠告を実行してくれた人がない。実に悲しむべきことである。(中略)途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものにまず触れて十分に驚くことだけが大事である。
(引用:「トルストイを読みたまえ」)
なぜトルストイなのかに関しては答えていない。あいまいな文章である。自分で考えろということか。トルストイとはどんな作家だったのか、戦争と平和で何を伝えたかったのか。この部分について考えなければ、なんの意味も持たないアドバイスである。
また、彼はこんなことも言っていた。
1、「つねに第一流作品のみを読め」
「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。」
2、「一流作品は例外なく難解なものと知れ」
「一流作品は(中略)少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。」
3、「一流作品の影響を恐れるな」
「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない」
4、「もしある名作家を択んだら彼の全集を読め」
「そして私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」
5、「小説を小説だと思って読むな」
「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」 (引用:「作家志願者への助言」)
1~3については特になし。
気になるのは4と5である。
「彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」
その作家が何を書き、何を書かなかったのかを知れということである。読書をする上で、「何が書いてあるか」に焦点が集まりやすいが、「何を書いていないか」に注目することでより理解が深まる。
逆に言えば、このポイントさえ掴んでいれば別に全集を読む必要はない。あんな重いもの持ち運べるか。
5についてさらに詳しく引用する。
文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。(中略)文学に何んら患わされない眼で世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。
(引用:「作家志願者への助言」)
読書家に陥りがちな現象で、好きな作家に酔いしれるあまり言動を真似したり、わざと古風な文体を使ってしまう人々がいる。中二病の一種である。
彼らは往々にして、難解な作家を好む。しかしながら中身は読んでいない。作家の権威を利用して自分を装飾してばかりいる。「トーマス・マンを読んでいる自分が凄い」「三島由紀夫を読んでる自分が凄い」「黒澤明を見てる自分が凄い」
作家の何が凄いのかという理由については、ちょっと難しい言葉を使いながら抽象的にあやふやに語ってごまかす。答えられるはずがない。中身を読んでいないのだから。
では、小林秀雄は?
昔、彼の文章を一回読んだことがある。とにかく難解な言い回しで、曖昧模糊な言葉をこねくり回していた印象だった。はっきり言って嫌いである。小説ならともかく評論の文章ではなかった。しかし、偉い学者は「小林は素晴らしい」と絶賛する。数年前のセンター試験に出て話題にもなった。いまだに彼の権威が存続している証拠である。
小林が言っていた通り、一流の文学は難解なものである。それが批評されることで、さらに難解になる。一般読者からすればたまったもんじゃない。
ただ当時の文学青年はそのような文章に熱狂したそうで、いつしか小林は「知の巨人」と呼ばれるようになった。彼らのうち何人かは文芸評論家になり批評を書く。
かつて小林に熱狂していた青年はどんな批評を書くだろうか。当然、憧れの人物の文体を真似るであろう。小難しく、装飾過剰な文章を。
「作家志願者への助言」を読んで思ったのが「お前が言うんじゃねーよ」だった。「文学を志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議が起こる」
不思議も何も小林自身の文章が招いた結果である。(全部とは言わないが)
ともかく、小林秀雄を崇拝する中二病のせいで文芸評論は小難しくなってしまった。中身は空っぽだが外面はやたら豪華な文章が量産された。彼らは憧れの知の巨人の真似ができて大満足だろう。被害を受けたのは後世の我々である。
中二病も青年のうちなら可愛いものだが、大人になっても引きずると重症化する。
「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」
素晴らしいお言葉である。
文学と方程式
以下は仮説である。
通常、物語は一つの主題に沿って描かれる。
一つの主題は一つの文化に基づいているとする。
作者が日本人なら日本の文化に基づいた主題を、ロシア人ならロシアの文化に基づいた主題を選ぶことが多い。
数学で例えるなら一次方程式である。シンプルで解きやすい。だけど、ちょっと物足りない。世界中に存在する多くの作品がここに該当する。
そこに天才が現れる。天才は二つの主題、つまり二つの異なる文化を合体させることに成功する。
ダンテの神曲、ゲーテのファウストがこれに当たる。日本文学も大変苦労しながら西洋文化と日本文化を融合させた。
二次方程式である。解が二つある。これが二つの文化を表している。
ただし、解がちょっと汚い。美しくないのである。あと計算も大変である。
そこに超天才が現れる。
係数を上手くいじって綺麗な解を出せました。これなら簡単に計算できる。さっきの方程式よりも分かりやすく、一般的である。
この超天才の名前はドストエフスキー。作品はカラマーゾフの兄弟。
では、三次方程式はどうか。
ご覧の通り、解の公式も半端なく長い。
三つの異なる文化のドッキング。このかつてない難題に挑んだ作家はいるのだろうか。
あるとすれば相当な大長編で、難解だと思われる。係数を綺麗に揃えるどころか一生のうちに完成することすら危うい。
一つだけ心当たりがある。
プルーストの失われた時を求めてがそうなのではないか。そう考えると、あれほど長い理由も納得がいく。三次方程式なのだから長くなって当然である。
果たしてプルーストは成功したのだろうか。読んでる途中なのでまだ何も言うことができない。
ただ成功していたら、次は四次方程式だ!となるのが人間である。失われた時を求めて以降、四つの異なる文化のドッキングなんて作品は生まれていないはず。
つまり、三次方程式は無理だったということになる。
文学の世界では二次方程式までが限界で、それを証明してくれたプルーストは偉大である。自分の一生をかけて「無理だということ」を発見したのだから。
あくまで仮説なので読んでみにゃ分からないのだが、本当にめんどくさい。