私の京アニ史 その2
「新年明けましておめでとうございます」
「本年もどうぞよろしくお願いいたします」
「というわけで早速、私の京アニ史第二弾をやっていく」
「うむ」
「前回の続きはこちら」
「まだの方は読んでいただければ」
「新年一発目なので、こちらもお屠蘇を傾けながら話していこうかなと」
「元旦はとっくに過ぎてるのだが」
3.氷菓
「3番目は『氷菓』」
「またしても最近のを」
「8年前を最近と言うのか」
「もうそんなに経ったのか」
「『日常』見たあと『京都アニメーションという会社がおもろいアニメ作っとる』という流れでこれ」
「原作はガチガチのミステリ作家のデビュー作、ということでかなり見応えのあるものだった」
「映像も角度を変えたり、遠くから近くから映してみたりと細かな工夫があり、視聴者を飽きさせなかった」
「特に、顔を映さずに足元だけ撮る技法は作中繰り返し使われていた」
「 好きなんやろうか」
「さあな」
「印象に残ったのが『愚者のエンドロール』」
「試写会のやつか」
「映画『カメラを止めるな!』でも似たようなトリックが出てきた」
「まあ氷菓の方が一枚上手だったけどな」
「日常のふとした出来事→主人公たちによる推理→壮大な陰謀なのではないか?→真実はありふれた暖かいものだった、というパターンやな」
「最後は日常的な、小さなものに収束していくのがいかにも京アニを感じる」
「あとは『遠回りする雛』の桜のシーンなんかも叙情的で素晴らしい出来かと」
「徹底したリアリズムによって、あったかもしれない青春が再生され、成仏していく」
「元々そんなもんはあるはずが無いのにな」
「それでも『あったかもしれない』と思えるだけで感動できるんやで」
「ところで、氷菓を見てからは深夜アニメに対する偏見は完全に消えた」
「偏見があったのか」
「変に小説とか戯曲とかメインカルチャーに触れていたせいか、ちょっと見下してたんやろうな」
「常に公平な態度で、曇りなき眼で鑑賞に臨まなあかんな」
4.涼宮ハルヒの憂鬱(2006年版、2009年版)、涼宮ハルヒの消失
「続いては『涼宮ハルヒの憂鬱』」
「ついに来たな」
「京アニといえば、いや深夜アニメといえばこれと言っても過言ではないな」
「せやな」
「内容についてしゃべりたいことは概ね上のシリーズで書いたので話すことがない」
「これも修正版を出さなあかんな」
「いつかやるつもりである」
「いつか、いつかで時は過ぎていく」
「さて、ハルヒは2006年版と2009年版がある訳だが」
「2006は時系列ぐちゃぐちゃで、2009は時系列通りに進行していくプラス幾つか新作エピソードが挿入された」
「2006は第一話が文化祭の出し物で作った映画(朝比奈みくるの冒険)なので、なにがなにやら分からんのがな」
「肝心の主人公が出てこんしな」
「意味わからんくて見るのやめた人もいたのではないか」
「やはり、今から見るなら2009年版やな」
「必ずなのか」
「必ずや」
「左様か」
「実は毎回微妙にカットが違う、というのは有名な話」
「ほんまにそうか実証しようとして、途中で放棄した」
「全部で8話あるからな」
「ネットは広大なので、その辺は誰かが調査済みだと思われる」
「とはいえいくらなんでも8話はやり過ぎや」
「しかし、斬新であったことは認めざるをえんやろ」
「斬新だから、奇抜だからという理由だけで賞賛するのは過度な焼き畑農業と一緒や」
「アレもきちんと休閑期間を設けた、ちゃんとした農法なんやけどな」
「要するに、伝家の宝刀を抜き過ぎるなっちゅうわけや」
「喩えがよう分からん」
「そういえば原作者の谷川流は『絶望系』というライトノベルを書いているのだが」
「ほう」
「これがまた妖しく、グロテスクでハルヒとは雰囲気全然違うらしい」
「それがどうした」
「内容は主人公が体験する不条理な7日間を描いてる」
「7日間というと、憂鬱+サムデイインザレインの合計7話=天地創造の7日間が想起されるな」
「どうも関連がありそうでならない」
「とはいえ読んでないからなんとも言えんな」
「トーマス・マンの読み解きが終わり次第読んでみるつもりである」
「はよ終わらせてな」
「今回はここまで」
「ちょっとスローペース過ぎではないか」
「別段急いでいるわけでもなし。問題は無かろう」
「完結するのに半年くらいかかりそうやな」
「息の長いシリーズ、ということでご勘弁願えれば」
「途中で筆を折るのだけはやめてな」
「今回はこの辺で」
「さようなら」