アポロン的なるものとディオニュソス的なるものについて
こちらの続きから
「アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。
どちらもギリシャ神話が元ネタで、アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。
ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと
アポロン的=理性、明るい、善良
ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌
くらいのイメージです。
さらにここから
ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩
ややこしいのがディオニュソス的芸術の中に「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」の対立があることです。
そもそも、ニーチェはショーペンハウアーの影響を受けています。さらにショーペンハウアーはカントの影響を受けています。
カントといえば「物自体」という概念が有名です。物自体とは物の本質、人間が認識できない物そのものです(プラトン風に言うとイデア)。
哲学者たちはこの「物自体」を観察したくてたまらなかったのですが、観察できません。
それが物自体だからです。
(ここで「なぜ?」と聞いてはいけません。物自体は根拠を持たないからです。とにかくそういうものだと納得してください)
その物自体を「意志」だと言ったのがショーペンハウアーです。物自体とは意志である。そして物自体が現実世界に映し出す現象は表象である。この世界は目に見えない意志によってもたらされた表象によって形成される。「世界はわたしの表象である」
例えば重力です。地球上にいる限り上から下にかかり続ける力です。
例えば植物です。植物はどこまでも太陽をめざして成長し続けます。
例えば人間です。脳や内臓は生きるために活動し続けます。今すぐ死にたいと願っても心臓が勝手に停止することはありません。脈を打ち続けます。
以上の例の共通点は「継続すること」です。それも「死ぬまで永遠に」です。意志とは無限に努力し続けます。意志が「これくらいやったからもうええやろ」と満足することはないのです。ショーペンハウアーはこれを苦痛だと考え、生きんとする意志の否定を説きました。
さらに意志をギリシャ神話になぞらえて「ディオニュソス的」と言ったのがニーチェです。ディオニュソス的=意志=物自体。物自体を表象として現実世界に表す原理、個別化の原理を「アポロン的」と呼びます。
(注:ディオニュソス的=意志なのでアポロン的=表象と考えてしまいますが、アポロン的=個別化の原理(物自体を具体的な表象にする原理)です)
この世界は意志でできています。意志は物自体であり、無限に努力し続けるので混沌としています。つまり世界は混沌に包まれています。カオスです。
これを打開するために悟性でもって世界を理解しようとしたのがソクラテスです。ニーチェはソクラテスを嫌悪します。悟性とは直観です。しかし、何度も述べている通りディオニュソス的なるものは目に見えません。
そして、アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、相反する二つの統合したとき悲劇が誕生する。ディオニュソス的なるものの中に、アポロン的とディオニュソス的が存在するわけです。
上の段のアポロン的=ディオニュソス的なるものの象徴的表現の原理
となる。
上の段のアポロン的はディオニュソス的から生み出されたものです。やがてはディオニュソスなるものに統合されていくものです。
対して下の段のアポロン的はディオニュソス的と完全に対立するものです。
ディオニュソス的芸術の代表は音楽であるから、音楽はディオニュソス的なるものとアポロン的なるものの二つから成り立ちます。
「これだけでは分からない」という方は実際に読んでみるほかありません。ツァラストラと違って詩的な表現はないので頑張れば理解できるはずです。根性です。
読む順番としてはカント「純粋理性批判」→ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」→ニーチェ「悲劇の誕生」です。
基本的に全員二元論で語っています。ドイツの哲学者は特にその傾向が強いようです。