作品と向き合う
昨日、「風立ちぬ」がテレビで放送された。2013年の公開から何度もテレビ放送されてきた。自分も好きで何回も視聴した。複数回の鑑賞に堪えうる価値を持った傑作である。
2021年現在でも相変わらず人気なようで、Twitterでも様々な感想・考察が飛び交っている。
特に目立ったのは、「風立ちぬは宮崎駿の創作論・クリエイター論だ」というもの。そして、「宮崎は美しいものが作れれば、それでいいんだ!現実なんか知らん!と開き直っている」という考察だった。
「戦闘機は好きだけど、戦争は嫌いだ」という態度にあるように、宮崎の終生のテーマとして「テクノロジーと人間の相克」がある。美しいものが作りたい。しかし、その代償として多くの人間が死ぬ。
主人公・堀越二郎は宮崎自身である。だから声優は弟子的存在である庵野秀明が務める。二郎はゼロ戦を作る。彼が心血注いで作ったゼロ戦は、血を吐きながら美しく舞い、多くの人間を殺す。そのような残酷な現実に対して、宮崎は開き直っていると。だから菜穂子は「生きて」と言って消えていくのだと。
こういう意見が見受けられた。
自分もこれにはおおむね同意である。
「風立ちぬ」は堀辰雄「風立ちぬ」及び「菜穂子」を下敷きにしている。ガソリンを吐きながら墜落していく戦闘機と、血を吐きながら病に倒れる菜穂子は表裏の関係にある。
美しく呪われた夢であるゼロ戦を菜穂子と重ね合わせている以上、宮崎は美しいものが好きで、そこで発生する何万人という犠牲者には目を瞑っているのである。
更にさかのぼるとトーマス・マン「魔の山」が出てくる。サナトリウムでカストルプという老人が出てくるが、魔の山の主人公もカストルプである。イタリア人が主人公を導くという点で、カプローニもセテムブリーニと一緒である。
さらにさらにさかのぼると、ダンテ「神曲」に辿りつく。
ダンテもマンも堀辰雄も「風立ちぬ」のためだけに読んだ。人並みに本を読む方だったが、重厚な海外文学を読む習慣はなかったので辛かった。とにかく長い。読んでも読んでも終わらない。半分くらいまで読めば面白くなると思ったが、そんなことは無かった。他にもタルコフスキーとかあるが、面倒なので控える。
ここまで元ネタを洗ってようやくジブリ「風立ちぬ」に戻ってくる。改めて鑑賞してみると、作品に対する理解がより深まっているのを実感する。宮崎が残酷な現実に直面しながら、それでも美しいものが好きだと叫んでいること。それがある種の開き直りであること。
長い道のりであったが、ようやく理解できたと思える位にはなれた。
以上が自分の「風立ちぬ」に対する所感なのだが、インターネット眺めているとどうもそこまでしている人が見当たらない。
みな足並みを揃えたかのように、「創作論、クリエイター論だ」と言っているばかりである。堀辰雄もマンもダンテも、訳知り顔で名前を上げるだけで、内容まで踏み込んでいる人はほぼいなかった。
なぜか。
批判されるのが怖いからである。
作家が自ら作品のテーマを語ることはない。作家は理解されたらおしまいの生物である。そして作家が語らない以上、答えは誰にもわからないのである。ゆえに作品分析には「間違っているかもしれない」という恐怖が常に付き纏う。
昔、輪るピングドラムというアニメの解説記事を上げたときに、Twitterでかなり批判的な意見をもらった。
かなり厳しい口調の意見だった記憶がある。きっと幾原邦彦のことに詳しく、だからこそ許せなかったのだろう。
これは運が良かったほうで、ひとたびバズってしまえば何万人という人々から攻撃的なリプライをもらう羽目になる。普通の人間なら耐えきれず、アカウントを閉鎖してしまうだろう。そのような状況下では、作品分析はおろか感想でさえ、思ったとおりに書くさえできない。
間違うのが怖いから確実な情報に縋るのである。そこで作者の人生研究である。元ネタ探しは不確定だが、作者の経歴や発言は確実な情報である。間違うことは少ない。
しかしそれでは、鑑識眼を育てることはできない。いつまでも外部情報に逃げていては、見えるものも見えなくなる。作品と正面から向き合わない限り、理解を深めることなどできない。
正解がないからこそ芸術鑑賞は面白いのであって、そんなに正解が欲しいならTOEICでも受けてればいい。
それなら批判を恐れず書いた文章の方が魅力的である。ピンドラの記事は批判こそ受けたが、もっともアクセス数の多い記事でもある。
とはいえ、元ネタ探しに躍起になってそれが目的になってしまうのも本末転倒である。あくまで物語に軸足を置いて研究は進めなければならない。
長々と書いたが、なんでこんな文章を急に書いたのか自分でもよくわからない。「風立ちぬ」ほどの作品が安易に消費されていくのに我慢ならなかっただけかもしれない。知識量ばかり多くて物語そのものへの興味が薄い人々を見ていると、ああはなりたくないなという気持ちが強くなってくる。
これからはなにを語るにしても勇気がいる時代である。嫌な世の中になったが、それでも闘っていくしかない。