週休二日〜アニメと文学の分析〜

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「風立ちぬ」キャラ配置戦略考

 

「風立ちぬ」キャラ配置戦略【宮崎駿】|fufufufujitani|note

fufufufujitani氏がジブリの「風立ちぬ」におけるキャラ戦略を読んだ。

記事読めばわかるが、母=カプロー二のポジションに該当する「魔の山」のキャラがまだ空欄である。

 

dangodango.hatenadiary.jp

自分でも色々考えたが、ヒッペしか該当する人物がいない。

ヒッペとはカストルプの夢に出てくる、鉛筆の貸し借りをしたきりそれ以上の関係は無い、しかし印象的な少年のことである。なぜ印象的なのかと言うと、その「キルギス人のような目」がサナトリウムにいるショーシャによく似ているからである。

 

ペーペルコルンとヨーアヒムがセット、セテムブリーニとナフタがセット、カストルプはホムンクルスなので一人。法則的に考えてしまえばショーシャとペアになるヒッペしかいない。

 

ただ断定するには気がかりな点が二つある。

一つは、「夢をふくらませる」という役割をヒッペが担っているか。言ってしまえば、カストルプに対するヒッペは、次郎に対するカプローニと母ほど関係が深くない。恋した女によく似た目をもつ、それだけの存在である。

過去にヒッペという少年との刹那的な、しかし印象的な出会いがあったからこそ、ショーシャへの憧れが盛り上がった。妄想が膨らんだ、と考えれば整合性がつかないこともない。

 

二つ目は、宮崎の発言である。

「カプローニは堀越二郎にとってのメフィストフェレスだ」

字義どおり受け取れば、カプローニ=ヒッペは成立しない。が、そもそも自己矛盾の権化である宮崎の発言を勘案する必要があるのか。いつものアンビバレンズからくる発言だと判断して棄却しても良いと思う。

いかにもセテムブリーニから連想されたはずのカプローニというキャラも性格、物語上の役割からしてあまり似ていない。(これには結構悩まされた)「カプローニはウェルギリウスなんです」とは言えなかったからそう言ったと推察する。

 

ただ、ラストの草原のシーンは魔の山にもあって、青天の霹靂ならぬ第一次大戦の勃発が告げられると、草原で寝ていたカストルプの元にセテムブリーニが起こしにくる、といった文章があったはずである。

 

書いてて思い出したが、煉獄篇の途中で地震が発生するシーンがある。これはもちろん作中の関東大震災に対応する。

あらためて密度の濃い、充実した作品である。もっとも文芸的に充実しているせいかアニメファンの追求が弱い気がする。宮崎の創作論だ、というのは結果的にはそうなるが、そこに至る過程を考えなければ作品鑑賞の意味がない。高畑勲への想いだの庵野へのメッセージだのといった言説は人間関係の考察に過ぎないし、過程を省いて結果だけ語ろうとするならファスト視聴以下である。