「トニオ・クレーガー」解説【トーマス・マン】
「トニオ・クレーガー」は1903年に発表されました。日本では日露戦争の前年に当たります。ほろ苦い青春の書として、ドイツのみならず堀辰雄、太宰、三島、北杜夫など日本の作家にも影響を与えた作品です。
あらすじ
全体は6章に分けることができます。便宜上、AパートBパートに分けます。
A:トニオ少年は友人のハンスと下校しています。ハンスは優等生で顔もカッコイイです。対してトニオは陰気で詩作に夢中でみんなに馬鹿にされています。トニオにとってハンスは大切な友人ですが、ハンスにとって彼は単なる友人の一人です。そういう関係です。
B:トニオは恋をしています。初恋です。お相手の娘はインゲといいます。彼女の容姿や仕草に夢中になります。そんな中、舞踏会の練習が行われます。トニオは彼女の踊る姿を見て、惚れ惚れとします。自分が踊る番になりました。彼は失敗してしまいます。みんなに馬鹿にされ、インゲにも笑われてしまいました。苦い初恋の思い出です。
A1:初恋は終わりましたが、人生は終わりません。トニオは人生を歩んでいきます。父が死に、母は再婚して出ていきました。彼は故郷を離れ、詩人として名を馳せます。
B1:トニオは30歳になりました。画家の女友達の元を訪れます。彼は芸術について、まるで踊っているかのように、熱く語ります。熱弁のあまり、彼女には笑われてしましました。
A':トニオは故郷やデンマークを旅します。故郷の街を散策して帰ったら、警官に職務質問をされます。詐欺師と間違われたようです。
B':デンマークのホテルに滞在していると、舞踏会が開催されます。出席してみると、なんとそこにはハンスとインゲがいます。彼らは恋人同士になっていたのです。二人を遠くで眺めながら、幸福な気持ちになります。
C:画家の女友達に手紙を書きます。内容は旅を通して得られた、彼の芸術論、人生論です。芸術家でありながら善良で凡庸な市民に憧れを抱く、二つの世界のどちらにも存在して、どちらにも存在しないトニオ・クレーガーの生き方です。
文章の特徴
各章の特徴をざっくりまとめました。注目したのは文体と描写です。
A淡々とした文章:起こった出来事を淡々と、ありのままにした文章
B陶酔的な文章:対象を目の前にして酔いしれるような、情熱的な様子を描いた文章
という感じで定義しています。
Cパートは女友達に向けた手紙、という形式で書かれていますが、要するに全体のまとめです。この小説の主題です。ここだけ少し浮いているので、下の解説では主にAパートとBパートについて説明していきます。
ざっくりしすぎて雑なくらいですが、まずは全体のイメージ掴んでおきます。
規則性
この作品の難点は「文章が回りくどい」ことです。
物語自体はさほど長くありません(およそ120ページくらい)が、一文が長ったらしいので読むの疲れます。
しかし、さきほどの表を眺めていますと規則性というか、AとBが交互に配置されていることが分かります。
音楽的構造
作者のトーマス・マンはドイツの小説家です。
ドイツといえばバッハやベートーベンを産んだように音楽が盛んな国です。そんな土地柄で育つと音楽的な小説を書きたくなるようです。
そこで彼が考案したのが音楽の形式を物語の構成に用いた方法です。
もっと具体的に言うとソナタ形式で書かれた小説です。
と言われてもピンときませんね。「そもそもソナタ形式とは何ぞや」と思っている方のために簡単な説明をします。
ソナタ形式について
簡単に言うと、AとBというメロディーを思いついたとして
(A+B+A1+B1+A+B)
という感じで並べて、曲を組み立てるやり方です(A1とB1はAとBを微妙に変えたメロディー)。最初のA+Bを提示部、A1+B1を展開部、最後のA+Bを再現部と呼びます。ちなみにAが優しいメロディーだったらBは激しいメロディーというように飽きないように作ります。
詳しい説明は脱線してしまうので専門書をお読みください。
ソナタ形式を用いた構造
「トニオ・クレーガー」はこのソナタ形式を全体構成に利用しています。全体を把握するためにはざっくりと構成を示した表が必要です。これが章立て表です。エクセルで作れます。
大まかな構成を下の章立て表に示します。
「トニオ・クレーガー」は全体を6つに分けることができます。
各章を表にして眺めてみますと「歩く」と「踊り」が交互に展開する構造になっていることが分かります。こうすることで、何気ない物語に音楽のような調和が生まれます。
ここでは
第一主題A:「歩く」
第二主題B:「踊り」
とします。
第一主題A「歩く」
提示部A
提示部で友達のハンス・ハンゼンと一緒に「歩いて」下校します。
トニオにとってハンスは大切な友達ですが、ハンスにとってトニオは数ある友達の一人に過ぎません。というかトニオはちょっと依存気味です。
現代だと腐女子の方々が好みそうな関係性です。
展開部A1
展開部では主人公が人生を「歩む」過程が描かれています。詩を愛する文学少年が詩人として名前が知れ渡るようになります。
さきほどの「歩く」から「歩む」に変化しています。これがソナタ形式でいうA→A1のメロディーの変化に該当します。
再現部A’
再現部で、トニオは故郷や自身のルーツであるデンマークを「旅します」。
途中で詐欺師に間違われたり、船で商人と出会ったりします(これについては後述します)。
「旅をする」も「歩く」の発展形と言えます。歩く→歩む→旅するの変化です。
ここまできて「歩く 、歩む、旅するが似たようなニュアンスなのは日本語に翻訳したからで、ドイツ語ではそうならないのでは?」と思ったあなたは鋭いです。
念のため確認しておくと下の通りになります。翻訳によって生じた偶然ではなく作者の意図だと考えるべきです。
第二主題「踊り」
提示部B
トニオは好きな女の子の「踊り」を見て心奪われます。初恋の相手にメロメロです。
展開部B1
ここの場面はかなり不自然です。ということは重要な箇所です。
よく読みますと、トニオのセリフは芝居がかったような、くるくる回転しているかのように話題をかえながら熱弁しています。この「くるくる回転する」が「踊り」を連想させます。つまり、
くるくる回転的に熱弁する=トニオの踊り
インゲに笑われる=リザベタに笑われる
となり、提示部Aと対応していることが分かります。「踊り」が「熱弁」に言い換えられています。
作中、最も文学的な表現です。一読しただけでは分かりづらいです。展開部ということで冒険してみたかったのでしょうか。作者マンの遊び心です。
再現部B’
ここは明確に提示部Bと対応していますね。
インゲの踊りを見て心奪われます。トニオは笑われませんが踊りで転んだ少女が笑われています。
という感じで全体をソナタ形式で構成することで作品の完成度を高めています。
構成
先ほど見たのは大まかな構成でしたが、より詳細な章立て表を見ていきます。
上の表を見ますと、Aパートどうし、Bパートどうしで対応関係が構成されていることが分かります。それぞれの対応について見ていきます。
・歩く
・踊り
この二つはソナタ形式の項で説明済みなので省略します。
・恥をかく
Bで 踊りを間違えたトニオはみんなに笑われて恥をかきます
B1でトニオは女の友人リザベタに、大勢の前で詩を読んで恥をかいた少尉の話をします
B'で踊りで倒れて、恥をかいた蒼白い少女をトニオが助ける
つまり、この蒼白い少女はかつてのトニオ自身です。トニオが助けたのは目の前の少女であり過去の自分です。
・笑われる
Bでトニオはインゲに笑われてしまう
B1でトニオは熱弁するもリザベタににやにや笑われてしまう
B’で大人になったインゲを見つけたトニオは心の中で「あざ笑ったのか」と問いかけます
・名前
Aでトニオ・クレーガーという名前をハンスにバカにされた
A1で詩人として名前が売れる
A’で警察に詐欺師疑われ、名前を聴取される
ここの対応は登場人物の特徴を整理しながら説明します。
注目すべきは「曲がった脚」という共通点を持つ、インメルタールとゼエハーゼです。
インメルタールが出てくるのは
Aで下校中にトニオは友人ハンスに「君の名前は変だ」と言われて傷つく場面。同級生のインメルタールは気の毒そうに見ています。
ゼエハーゼが出てくるのは
A’で故郷のホテルでトニオは警官に名前を聴取され、詐欺師と疑われる場面。ホテルの支配人ゼエハーゼは気の毒そうにしています。
ハンス=警官
インメルタール=ゼエハーゼ
という対応関係になっていることが分かります。友人との下校と警官による事情聴取が対応しているのですね。
A1ではトニオが詩人として名前が知れ渡る描写がありますが、言及する人物と曲がった脚に該当する人物は出てきません。
さすがにくどいと考えたのかもしれません。
二項対立と二元論
多くの作家、研究者が指摘するように「トニオ・クレーガー」は「芸術と市民」の二項対立が根底にあります。
二項対立とは、二つの概念が互いに矛盾や対立をしていることです。
例えば、善と悪、精神と物体などが挙げられます。
二元論とは「二項対立を用いて世界の一切を説明する」という考え方です。
例えば、プラトンのイデア論、デカルトの実体二元論などが挙げられます。
もっともポピュラーなのはキリスト教の善悪二元論です。神と悪魔が対立し、最後は神が勝利する。
そして 、西洋人の大多数はキリスト教徒でしたのでみんな二元論が大好きになります。
現に西洋の文学には二項対立が頻出します。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と考えがちな日本人がそのまんま読むとわけワカメです。
当然ながらトーマス・マンも例外ではありません。
それどころか、二元論を文学で極めたスペシャリスト(偏執狂)と呼べるくらいです。
芸術と市民
「トニオ」で描かれる二項対立は「芸術と市民」です。
なぜ芸術と市民が対立するのでしょうか。
芸術家というと創作に打ち込み美しいものを求める反面、自堕落で生活能力ありません。現実よりも観念や美を追求します。
市民というのは、神戸市民とか横浜市民の「市民」ではありません。
商人のことです。
ドイツといえば工業が思い浮かびますが、北のほうでは中世にハンザ都市同盟というのを作って商人たちが力を振るってました。マンの故郷リューベックはその盟主とも言うべき街で、現に彼の実家も裕福な穀物商人でした。
ここでは
「貴族よりは下だが庶民よりは上の生活力を持った人々」というイメージを持ってください。
彼らは健康で労働に励みながら明るく生活する反面、芸術に関心がありません。あったとしても嗜む程度です。生活に第一に考える真面目な人々です。目の前の現実と日々闘いながらお金を稼いで生きています。
(金持ちなんで生活には困ってませんが)
という感じで作者は芸術家と市民を対比させているのですが、日本人にはいまいち分かりづらいです。「仕事一筋の真面目な父親と小説家を目指す息子の対立」というドラマのワンシーンをご想像いただければと思います。
そしてトニオ・クレーガー」の登場人物たちは芸術グループと市民グループに分かれています。
ここで、重要なのは二つのグループが互いに対立する、距離を取っていることです。
トニオは、ハンスのようになろうとしませんし、インゲのことは遠くから眺めているだけでした。また二人もトニオと深く関わろうとしません。
トニオの父はお堅い名誉領事でしたが、母は情熱的でピアノとマンドリンが上手な人でした。父の死後、母はあっさり他の音楽家と再婚します。
しかし、この分類だけでは不十分です。芸術と市民の二項対立にはさらに「細かな仕分け」が必要です。
マンの「芸術と市民」はニーチェの「アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの」を下敷きにしています。
「アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。
アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。
ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと
アポロン的=理性、明るい、善良
ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌
くらいのイメージです。
さらに、芸術に置き換えてみると
ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩
となるそうです。
説明長くなるので気になる人は下の記事をお読みください。
さらに、ここからディオニュソス的芸術の中でアポロン的とディオニュソス的に分かれます。
トーマス・マンの「芸術と市民」はこのニーチェの哲学を踏まえています。
「細かな仕分け」とは芸術の内部で芸術と市民が対立している、いわば入れ子構造のことを指しています。
登場人物の分類
さきほどの登場人物表をもう一度出します。
これを細かく仕分けすると
となります。
芸術グループの中に、芸術ー芸術グループと 芸術ー市民グループがあるわけです。トニオはどちらにも所属します。
芸術ー芸術グループ
ザ・芸術家タイプです。芸術の世界で生きています。情熱的で堕落しています。奔放的なトニオ母がそうです。市民への愛を語るトニオを「踏み迷える俗人」と笑った画家のリザベタも該当します。
芸術ー市民グループ
芸術を嗜んでいますが、根っこは市民気質なタイプです。船上で会った詩を嗜む若い商人が該当します。直接出てきませんが、トニオの話に出てくる詩を披露した少尉もそうです。
さらに、「芸術と市民」、「アポロン的とディオニュソス的」の二項対立は全体構成にも及びます。
すべては「トニオ・クレーガー」になる
各章の特徴をざっくりまとめた表を思い起こしてください。Cパートは結論部なので省略します。
「淡々とした文章、風景描写」で描かれるのは破風屋根の多い故郷やデンマークの街並みであったり、ハンス・ハンゼンの美しい容姿です。
破風屋根の多い街並み、ということは建築です。アポロン的芸術です。ハンスの容姿は健康的で美しく、市民的です。
「陶酔的な文章、踊り、会話」で描かれるのはインゲの踊りを見て酔いしれるトニオの感情です。リザベタとの会話ではトニオはかなり饒舌です。
ディオニュソス的芸術の具体例は音楽、舞踏、抒情詩です。
陶酔、饒舌はトニオの感情を表現したものです。抒情的です。踊りは言わずもがな舞踏です。
このことから二つの表を合体させます。
冗長で退屈な風景描写もちょっとくどい会話文も、芸術と市民を表現するために必要だったのですね。だから面白いという訳ではないのですが美しいです。
さらに、
ニーチェの哲学の項目で「ディオニュソス的芸術にはアポロン的とディオニュソス的が含まれる」と説明しました。
ディオニュソス的芸術の代表例は音楽です。
音楽的構造の項目で「トニオ・クレーガー」は全体構成がソナタ形式となっていると説明しました。
当然、ソナタ形式=音楽です。
ここで、ソナタ形式の構成表も合体させると下の表になります。
「芸術と市民」という二元論と音楽的構造(ソナタ形式)はニーチェの哲学を通してつながっていました。
「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。それは「芸術の内部でも二項対立が発生している」入れ子構造の対立です。
「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。
トニオくんの外部と内部、両方の対立及び葛藤がそこにはあります。マンがソナタ形式を用いたのもこの複雑な関係を描くためでした。
つまり、「トニオ・クレーガー」の全体構成が主人公トニオ・クレーガーの精神そのものとなっていたのです。
だからこの小説のタイトルは「トニオ・クレーガー」以外ありえません。
主題
もちろん、この作品の主題は「芸術と市民」です。
しかし、そこには一筋縄ではいかない、矛盾した考え方が入り混じったものがあります。
結論部であるCパートは、トニオからリザベタへの手紙です。
ここまで、「芸術と市民」という相反する二つの概念について述べてきました。二つのグループに属する人々は互いに交わることなく人生を歩んでいます。
では、トニオくんはどちらに属するのでしょうか。またどのように属しているのでしょうか。Cパートより抜粋します。
「僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。」
二つの世界とは「芸術と市民」のことです。
芸術を愛し、市民を愛する。中間的、ニュートラルなポジションを取るのがトニオの生き方です。
しかし、しょせんトニオくんは芸術家です。
何をどう言おうと詩を愛する芸術家です。だから芸術に属します。ハンスやインゲの市民とトニオの市民は決定的に違うものです。純粋に芸術と対立するものとしての「市民」と芸術の内部で生まれた「市民」。
つまり、トニオは純粋な市民ではありません。と同時に純粋な芸術家でもありません。彼の半分は芸術ー市民ですから。
これこそが「そのいずれにも安住しません」なのです。どんなにトニオが市民への愛を語っても、ハンスやインゲのようにはなれませんし理解もされません。
ちょっと切ないというか悲劇的ですね。
それでもトニオは「真の芸術家」であろうとします。二つの狭間でもがき、苦悩する道を選びます。「どっちつかずのハッキリしない奴だ」と陰口を叩かれるでしょう。辛い人生です。
しかし、彼の姿はどこか前向きです。
最後の文章を紹介しましょう。
「この愛を咎めないで下さい、リザベタさん。それはよき、実りゆたかな愛です。その中には憧憬があり憂鬱な羨望があり、そしてごくわずかの軽侮と、それから溢れるばかりの貞潔な浄福とがあるのです。」
最後の一文はAパートにも出てきました。いわゆる回帰という奴ですが、冒頭の時に比べて、より深くより切実に伝わってきます。
日本への影響
戦前から戦後にかけてトーマス・マンは日本の作家たちに影響を与えてました。特に「トニオ・クレーガー」は文学青年の間で読まれていたそうです。背景にあるのは旧制高等学校のドイツ語教育です。構造的な作品の多いドイツ文学に触れたことが、戦後日本文学の隆盛に一役買いました。
ここでは「トニオ・クレーガー」を下敷きにした、影響を受けた作品をいくつか紹介します。
紹介するといっても私ではなく、fufufufujitani氏とyuki氏の読み解きです。
それぞれ全体構成が
美しい村:教会ソナタ
となっています。堀は多義的な言葉遣いをする作家です。多義的な言葉はとてもふわふわとしているというか、掴みどころがないので形式できっちり収めておかないと意味不明になります。(音楽と似てますね)
音楽の形式で小説を書く、という観点で堀は「トニオ・クレーガー」を参考にしました。
全体構成がロンド形式になっています。
トニオ・クレーガーを読んで「なら自分はロンドで書こう」と思ったのでしょうか。
富士山を通して自己を見つめ直し魂の再生が描かれます。傑作です。
西欧人のマンは二元論大好きですが、東洋人の太宰が書く「富嶽百景」は自然と人間が一体となる一元論です。
この辺は考え方の違いですね。芸術と市民をうまく使いこなしてのらりくらりと生き延びたマンと「家庭の幸福は文学の敵だ」と言い自己破滅した太宰の違いです。
最後に三島由紀夫です。
三島の多くの作品に共通するテーマとして「認識と行動」というものがあります。これはマンの「芸術と市民」を発展させたものです。
「トニオ・クレーガー」では芸術家トニオが市民側の人々を憧れの眼差しでもって、羨望の 眼差しでもって見つめている描写が多々あります。「眼差し」ですから目、つまり視覚です。
芸術家=見る者
市民=見られる者
という関係です。
三島はこの関係を応用しました。
「芸術と市民」を「認識と行動」にすることで見る者は必ずしも芸術家である必要もなく、見られる者は必ずしも市民である必要はなくなりました。
その反面、認識→行動という関係性は一方通行になりました。なぜって行動→認識ではおかしいからです。行動が認識を見るって訳分かりませんがな。
しかし、マンの「芸術と市民」は芸術→市民の一方通行な関係ではありませんでした。
例えば、彼の処女長編「ブッデンブローク家の人びと」ではトーマス・ブッデンブロークが芸術家肌の妻ゼルダと息子ハンノを嫌悪しつつもどこか羨望の眼差しで見ています。
例えば、「ファウストゥス博士」では市民側のツァイトブロームの目線で作曲家レーヴァーキュンの生涯を振り返るという形式で物語が進みます。
これらは市民→芸術です。
マンの二元論が相互的なのに対し、三島の二元論は一方通行です。
この違いは二人の育った環境が関係しているのでしょう。
かつて商人が自治していたハンザ同盟の盟主リューベックに生まれ、保守的で昔ながらの良い市民を見て育ったマンと終戦後かつての文化を忘れ、消費社会へと迎合していく市民に幻滅した三島の決定的な違いです。
もっともどちらが良い悪いではなく考え方が微妙にズレているだけです。二人とも偉大な作家であることに変わりありません。
他には北杜夫の「楡家の人びと」(これは名前からして「ブッデンブローク家の人びと」ですね)などたくさんあるので、興味のある方は読んでみてください。
翻訳について
余談ですが「踏み迷える俗人」の原文はverirrter Bürger。直訳すると、「道に迷った俗人」です。
「トニオ・クレーガー」は光文社も含めて翻訳いろいろあるのですが、一番良いのが実吉捷郎訳です。
訳者は明らかにソナタ形式に気づいています。「踏み」を加えることでB1の「踊り」との対応をより際立たせることを知っています(踊りはステップを”踏み”ますから)。マンの意図を読めています。
実吉捷郎は日本でのトーマス・マン受容の一番の功労者といっても過言ではないようです。
出典
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia
File:Wilhelm Gause Hofball in Wien.jpg - Wikimedia Commons