「悲劇の誕生」に至るまで
と言っても読み解きをする余裕はないので、簡単なまとめをするにとどめておく。
ニーチェといえばツァラトゥストラのようなユーモアに富んだ檄文が有名である。「悲劇の誕生」にもその片鱗を見せているが、一応しっかりとした散文である。
要するに、普通の哲学書なのだが、普通の哲学書というのは凡人には理解しがたいもので、やはり読み解きが必要なのかもしれない。
文学の読み解きでは巻末の解説頼りにしないが、今回は哲学なので訳者解説の力を借りていく。
能書きはこの辺にして本題に入る。以下、哲学論議が目的ではないのでざっくりとした捉え方で進めていくがご容赦願いたい。
まず、「悲劇の誕生」の前にカント、ショーペンハウアーの哲学について軽く触れておく。なぜ触れなきゃならんのか、というとニーチェの哲学は彼らを大前提にしているからである。(哲学とは往々にしてそういうもんである)
それは彼が物自体を「盲目的な生きんとする意志」と呼んだことに起因する。
物自体とはカントが生み出した概念である。物自体は経験を生み出すなにかであり、それを我々は認識できない。目で見えるのは現象であり、その背後にある物自体は認識できない。
引用の引用になるが、上のブログ内にある物自体をDVDとするDVDプレイヤーの例えはとても分かりやすい。
カントは大陸合理論とイギリス経験論を総合して物自体を考え出した。
大陸合理論は理性重視、つまり演繹である。
イギリス経験論は実験重視、つまり帰納である。
総合して作ったと言われるが、非常に中間的な概念である。理性と経験、相反する二つのバランスを取った概念。
ショーペンハウアーに戻る。
彼はカントの哲学を引き継いでいる。
彼によると物自体は意志でできている。木の成長や人間の行為(胃や腸の働き)も意志の表れである。そして盲目的である。意志とは目的を欠いた無限の努力である。また表象(現象)は意志(物自体)によって生じる。
そして木が絶えず成長しようとするように、人間の意志も絶えず欲求を生み出し、人間は常に不満足になる。苦しい。そして知性が増すほど苦しみも増していく。すなわち生き続ける限り人間は苦しみ続ける。
これを回避するには生きる欲求を否定、意志を否定しなければならない。
この部分がショーペンハウアーは悲観主義だ、諦観だと言われるゆえんである。
さきほどのDVDの例えで言うと、
物自体=DVDディスク
表象=ディスクを再生して見れるテレビの映像
根拠の原理=DVDディスクの構成部品
となる。この中で、根拠の原理に含まれる個別化の原理について注目する。
個別化の原理は時間、空間という感性の形式を意味する。(個別化の原理は「悲劇の誕生」に深く関わってくる)
かなり駆け足のまとめになってしまったので詳しくは「意志と表象としての世界」を読まれたし。(そういえば漫画「少女終末旅行」に出ていたのを思い出す)
そして、ニーチェは以上を踏まえて「悲劇の誕生」を展開している。
これについては次回。