たわごと~ヴァネツィアに死すの主題について~
「ヴェネツィアに死す」の主題について
この解説では、あえて作品の主題について触れていない。「構造を読む」がテーマなので、話が脱線しないようにした。以下にそれを示す。
「ヴェネツィアに死す」の主題
「若きウェルテルの悩み」は不倫愛という禁断の関係を描いている。
「ヴェネツィアに死す」は同性愛という(その当時は)禁断の関係を描いている。
ゲーテはウェルテルの本能的で衝動的な愛を正当化するために、ウェルテルは太陽の象徴、ロッテは水の象徴とした。(詳しくは下記のNaverまとめに書いてある)
不倫は衝動的な愛であるが、それが社会に受け入れられなくても、それは太陽の動きのように自然なことであるから、だれも非難できない。
これと同じことが「ヴェネツィアに死す」にも言える。
アッシェンバッハは道徳的で教育的な作品を書く作家であった。しかし、ヴェネツィアに行き、タッジオと出会ったことで衝動的な行動をとってしまう。
それが同性愛であり、ストーカー行為である。
つまり、アッシェンバッハもまた本能に駆られた人物なのである。ウェルテルと同一。
ウェルテル=アッシェンバッハ、ロッテ=ヴェネツィア=タッジオである。
(タッジオはイギリス風のセーラー服を着たり、水兵服を着たりしている。イギリスは海洋国家であるからタッジオ=水である。水=ヴェネツィアよりタッジオ=ヴェネツィア=ロッテが成り立つ)
アッシェンバッハが美しいヴェネツィアの街を、ひいては美少年タッジオを愛することは、1910年代の社会では受け入れられなくても、それは太陽の動きのように自然なことであるから、だれも非難できない。
これがこの作品の主題である。そこはかとない主張ではあるが。
さらに、下の表は「ヴェネツィアに死す」の登場人物(というか特徴の)構成表である。
イギリス風の項目に注目してほしい。
イギリス人もしくはイギリス風の格好をした人物が全部で3人いる。赤毛の男、タッジオ、旅行会社の事務員である。
3人とも比較的、主人公に好意的な人物である。旅のきっかけを与えてくれた者、愛する者、ヴェネツィアの実態を教えてくれた者。
他はみな不快な印象のある人物ばかりで、なぜイギリスだけが好印象なのか。
イギリスにはオスカー・ワイルドがいる。19世紀末に活躍し、男色の罪で投獄された作家である。イギリスは1967年まで男どうしの性的活動が犯罪だった。
「ヴェネツィア」が書かれた当時、同性愛を描くのは許されても、正当化するのは許されない情勢にあった。
作者のトーマス・マンは水の都ヴェネツィアとゲーテを使って、そこはかとなく正当化することに成功した。ヒントにイギリス風の人物たちを残した。理由はオスカー・ワイルドへの同情である。
数十年後、そのことにヴィスコンティが気づく。
そして、生まれたのが映画「ベニスに死す」のラストシーンである。
日の光と海が溶け込んでいる。
この瞬間、太陽と水が一つになった。
アッシェンバッハとタッジオが一つになった。死の間際、彼のかなわぬ想いは成就したともいえる。
実は、原作のラストシーンでは日の光に関する描写はない。
本文には、ただ「いつもより遅い朝に起きた」とだけある。波の光の描写もない。そして、いつもより遅い朝ならもう少し日が昇っているはずである。
なぜか?
恐らく、ヴィスコンティは「ヴェネツィアに死す」の奥にある「若きウェルテルの悩み」に気づいてた。
作者のトーマス・マンがゲーテを使って同性愛を正当化しようとしたことに。
だから波の光を映像にすることで、二人を融合させた。
誤解を恐れずに言えば、濡れ場である。
ただ、そんな意図は決してばれてはいけない。まだ1971年である。ばれたら批判どころか公開中止になる恐れがある。
ばれないように、しかし、そこはかとなく伝えている。
このラストシーンこそが、ヴィスコンティの力量のすごさである。これを「ヴェネツィアに死す」の解説にも書こうとしたのだがやめた。
話が脱線しすぎであるから。
下品な解釈かもしれない。トーマス・マンもヴィスコンティも下品だと思われたくなくて、必死に作っている。おっさんのストーカー物語を。
「ヴェネツィアに死す」を調べると、「老いていく作家の苦悩」「理想の美の追求」という文言が出てくる。
ギリシャ的な美に関する記述が多いのは確かであるが、本当にそれだけなのだろうか。アダージェットは愛の楽章である。「ヴェネツィア」も愛がテーマだと思えてしょうがない。
ただ自分はマンが同性愛者だったとかヴィスコンティが~、とかは語りたくない。そういうワイドショー的な考察が一番嫌いなのである。
どんなに作家の日記を調べても、過去の経歴を掘り返しても無駄なのだ。
そこに真実はない。知りたければ、作品を、中身を徹底的に読むしかない。そこから逃げて、作家の私生活からでしか語れない人間の文章に価値はない。
次回は「ブッデンブローク家の人々」をやる予定である。場合によっては変更もある。
構造を読むとは その2~ヴェネツィアに死す~
前回、音楽の形式(ソナタ形式)を用いた小説の説明をした。
今回も音楽の形式を用いた別の小説の説明をする。タイトルは「ヴェネツィアに死す」
「ヴェネツィアに死す」は1912年にドイツで発表された作品である。日本では明治天皇が崩御して、大正時代が始まった年。ヴィスコンティ監督の映画にもなった。これも中編小説で、壮大な作品というわけではない。
あらすじ
作家のおっさんがヴェネツィアで見つけた美少年をストーカーして死ぬ。
内容
おっさんが美しい少年をストーキングするだけの話である。面白くないどころか、気味が悪いと思う読者もいるかもしれない。しかし、この小説は美しいのである。
この小説はそもそもグスタフ・マーラーの死に触発されて作られたものらしい。主人公の名前もグスタフ・アッシェンバッハ。関連がありそうではある。
ただ、それだけで決めつけるのは早計なので、構造を見比べて確かめていく。
交響曲第5番は全5楽章、「ヴェネツィアに死す」も全5章である。
第1楽章
第1楽章は「葬送行進曲」となっている。お葬式で人々が厳かに列をなしているイメージ。だから、「ヴェネツィア」の冒頭で墓地が出てくる。主人公は墓地の近くで見つけた赤毛の男と視線が合ったことから、旅がしたくなる。
もう一つ、第1楽章は小ロンド形式になっている。
小ロンド形式はA+B+A+C+Aのメロディーで作られる形式である。
音楽の形式については、上のページに詳しい説明がある。
ということは、「ヴェネツィア」の第1章も小ロンド形式で作られているはずである。
表ー2 第1章の小ロンド形式表
A:アッシェンバッハについて B:赤毛の男について C:旅への欲求について
それぞれメロディーごとに分かれて、描写がなされている。何気ない冒頭であるが、きちんとした骨組み、つまり構造を持っている。
第2楽章
第2楽章は「嵐のように、激しい」となっている。これは若くして、才能を認められた作家アッシェンバッハの半生と対応している。大御所の地位を確立する一方で、妻を亡くし、娘は嫁に行き、一人老いていく芸術家の姿である。
第3楽章
第3楽章は「スケルツォ、楽しげ」である。スケルツォは音楽の世界では「力強く、速すぎず」という意味だが、ここでは「冗談、ふざけた」という意味合いである。
ヴェネツィアを目指して船に乗るが、そこではおしゃべりや馬鹿丁寧な態度をとる不快な人々がいた。
一番重要なのは若者の集団に紛れて、お化粧やおしゃれをした老人である。主人公はこの人物がおしゃべりでふざけている印象を受ける。ここがスケルツォに対応している。
「楽しげ」はヴェネツィアに着いてから、美少年のタッジオに出会って心を躍らせたことに対応。
第4楽章
第4楽章は「アダージェット、非常に遅く、愛」である。第4章も再びヴェネツィアに戻ってきたアッシェンバッハはそこでゆったりとした日々を送る。ここがアダージェットに対応している。
この第4楽章は愛の楽章とも呼ばれている。主人公もタッジオの微笑みを見て「私はお前を愛している」と言う。
ついついタッジオの美が注目されがちだが、アダージェットを意識するなら「愛」に注目しなければならない。
第5番を知らない方も第4楽章(アダージェット)だけは聴いておくべきである。静謐なメロディーが響く。
第5楽章
第5楽章は「アレグロ(陽気な)楽しげに、ソナタ形式」である。ソナタ形式については前回、説明した通り、(A+B+A1+B1+A+B)である。
表ー3 第5章のソナタ形式表
第1主題は問いかける、語りかけるといった「問いかける、語りかける」、第2主題は「眺める」である。(ストーカーは遠くから眺める行為なので同じ意味)
全体がソナタ形式の「トニオ・クレーゲル」に対し、部分的にソナタ形式なのが「ヴェネツィア」である。
「アレグロ」は浜辺でタッジオと少年たちが戯れるシーンに対応している。とても楽しげで、牧歌的である。
第5章の途中でアッシェンバッハは恐ろしい夢を見る。山の中で雄ヤギが現れ、人間と動物が入り乱れた乱痴気騒ぎが行われるシーンである。
とても気味が悪い夢なのだが、実は元ネタがある。ゲーテのファウストに出てくる「ワルプルギスの夜」である。同じく、山の中で開かれ、雄ヤギが出てくるのである。
そして、ワルプルギスの最中に恋人グレートヘンの死が予感される。
「ヴェネツィア」でも恐ろしい夢の後、主人公が死ぬのである。
ヴェネツィア=魔女
ところで、「ヴェネツィア」では女性がほとんど出てこない。(一応、タッジオの母親がいるがあまり関係ない)
「ファウスト」にはグレートヘンという魅力的な女性が主人公の恋人として登場する。しかし、この女性はファウストとの間にできた子供を水に漬けて殺す。悪い女性である。
同じくゲーテの「若きウェルテルの悩み」でもヒロインのロッテは魅力的だが悪い女性である。そして水に関連している。
ゲーテはドイツ人でドイツはもっとも魔女裁判が多かった国である。つまり魔女崇拝が強い。実はグレートヘンもロッテも水の魔女である。魔女だから魅力的で悪い女性なのである。
話を「ヴェネツィアに死す」に戻す。
主人公は一度は流行病を理由にヴェネツィアを離れようとするが、魅力的な街が名残惜しく(事故とはいえ)ヴェネツィアに戻る。そして戻れたことに安堵する。
結果的にこの判断が仇となり、コレラにかかってしまう。そして浜辺で死ぬ。浜辺ということは水に関連している。さらにヴェネツィアは「水の都」として有名である。
つまりヴェネツィアは女性であり、水の魔女である。
ヴェネツィアという街全体が一人の女性なのである。
女性が出てこない訳ではなく、舞台そのものが女性となっている。この小説は同性愛を描いているが、ある意味、男女の悲恋物語とも解釈できる。ファウストとグレートヘン、ウェルテルとロッテのように。アッシェンバッハとヴェネツィア。
章立て表
表ー5 ヴェネツィアに死す章立て表
「トニオ・クレーゲル」ではソナタ形式を支える構造として対句が用いられていたが、「ヴェネツィア」では対句があまり見つからなかった。手を抜いたとも捉えられるが、交響曲という構造自体が堅固かつ複雑なので対句が必要でなかったと考えるのが自然である。
冒頭、赤毛の男と視線が合って始まった旅が、愛するタッジオと視線が合って終わり、死ぬ。美しい構造である。
登場人物構成
表ー6 登場人物構成表
「ヴェネツィア」では、 登場人物の共通点がやたら多い。対句がない分、こちらでカバーしたともとれる。
冒頭の赤毛の男はタッジオと対応している。船で出会う若者のふりをしたおしゃれな老人はアッシェンバッハの未来を暗示している。彼はその後理容室で老人と同じおしゃれをするのだから。
これ以外にも共通点があるかもしれない。ぜひ読んで確認してもらいたい。
映画版のラストシーンである。日の光と海と音楽が溶け込んだ美しい場面である。
ヴィスコンティは「ヴェネツィアに死す」と「マーラー交響曲第5番」の構造に気づいていた。
だから劇中でアダージェットを流した。結果が大成功だったのは言うまでもない。
「構造を読む」世界を知る者
ここまで、「ヴェネツィアに死す」の構造を読んできた。
表面的には静かな、愛の物語であり、壮大ではない。
しかし、「構造を読む」という世界を知れば、その裏に隠された世界が広がっているのが分かる。
また、それを理解し、映画化に成功した人物もいる。
それがルキノ・ヴィスコンティである。
ヴィスコンティが劇中にマーラーの交響曲第5番を使ったということは、構造を読むという世界を知る人物が現実に存在していた、一つの証拠である。
ヴィスコンティは世界でも屈指の巨匠と言われた映画監督である。そして彼は構造を読むことができる。
これは「構造を読む」ということが、単なる一つの読み方ではなく、優れた読み方であることを示している。
読者諸兄には、この事実を強く念頭に置いてもらいたい。
ここまで、優れた構造を持つ中編小説について説明してきた。
次回は優れた構造を持つ長編小説について説明する。
この稿では「ヴェネツィアに死す」の主題について触れていない。もっと知りたい方はこちらをどうぞ。
<出典>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88
https://genalyn.com/mytrip/3250
構造を読むとは その1~トニオ・クレーゲル~
「構造を読む」という世界が存在する。
これは文学に限らず、映画やアニメといったジャンルにおいても優れた作品には、「構造」が存在する。
しかし、一般的に「構造を読む」という考え方が広まっていないせいで、その価値を理解されていない作品が多々ある。
特に、古典と呼ばれる名作でも年月を経るにしたがってその価値を忘れ去られている。
これは非常に由々しき事態であり、何としてでも解決しなけれならない。
では、「構造」とは何か?
「構造を読む」とはどういうことなのか?
その意味を説明するために、まずは「トニオ・クレーゲル」という小説の説明から始めていく。
「トニオ・クレーゲル」は1903年に発表された作品である。日本でいえば日露戦争の前年に当たる。中編小説で、内容も壮大というわけではないが、構造的に優れている。
あらすじ
詩を愛する少年トニオ・クレーゲルが友人と下校したり、好きな女の子の踊りを見たり、旅をしたりする中で、芸術の世界で生きるか、平凡な一般市民として生きるかで揺れ動く青春ストーリー。
読むのが疲れる
この作品の最大の弱点は「文章が回りくどい」ことである。いちいち長ったらしいので短編なのに読むのが疲れる。胃もたれがする。
作品の主題としては、トニオ君が最後に言ってるように
「芸術と市民(=平凡に働く生き方)の両立が大事だよね」
というのが主題になっている。
この手の話は大体「芸術に身を捧げて破滅する」と「夢を諦めて現実を生きる」のどっちかに全振りになるのがお決まりだったので、そういう意味では普遍性がある。
だからって面白いわけではない。テーマに普遍性があるのとストーリーが面白いのは直結しない。
このままだと名作と呼ばれる理由が見当たらない。ただ普通に読んでいるだけでは、この小説の良さには気づきにくいようである。
ソナタ形式とは
「トニオ・クレーゲル」とは世界で初めて音楽の形式を用いた小説である。ドイツでは音楽(クラシック)が盛んであったから、そのやり方を小説でもやってみよう、ということで書かれた。
そこが評価されて今日まで読み継がれている。「トニオ・クレーゲル」の価値は表面的なストーリーではなく、ここにある。
使われたのはソナタ形式である。
音楽の形式について最も分かりやすい説明が上のページにある。
簡単に言うと、AとBというメロディーを思いついたとして、
(A+B+A1+B1+A+B)
という感じで並べて、曲を組み立てるやり方である。(A1とB1はAとBを微妙に変えたメロディー)
最初のA+Bを提示部、A1+B1を展開部、最後のA+Bを再現部と呼ぶ。
ソナタ形式を用いた構造
話を「トニオ・クレーゲル」に戻す。ソナタ形式を用いた構造を以下の表に示す。
表ー1 構造解析表
まず、Aは主人公が「歩く」ことが主題になっている。
提示部で男の子と一緒に「歩いて」下校し、展開部では微妙に変化を加えて、主人公が人生を歩む過程を描写し、再現部で旅をするという流れである。
ちなみに故郷やトニオのルーツであるデンマークを旅するのは、提示部を再現しているからである。
次に、Bは「踊り」が主題になっている。
提示部で好きな女の子の踊りを見て、展開部では女の友人に「踏み迷える俗人」言い放たれ、再現部でかつて好きだった女の子の踊りを見る。
B1は主人公が熱弁しているだけで、踊りとは関係ないのだが「踏み迷える俗人」というのが「踊り」と掛かかっている。
余談だが、「踏み迷える俗人」の原文はverirrter Bürger
直訳すると、道に迷った俗人である。
今回、取り上げたのは実吉捷郎訳なのだが、「踏み迷える」と訳した訳者のセンスは素晴らしい。この訳者がソナタ形式に気づいていたかは分からないが、翻訳が卓越していることは表ー1を見ても明らかである。
対句構造について
構造とは、いわば骨組みのことである。家を建てる際、骨組みが不安定なら家はたちまち倒れてしまう。これを防ぐには骨組みをより強化、堅固なものにする必要がある。
「トニオ・クレーゲル」もより堅固な構造とするための工夫が用いられている。それを明らかにするために章立て表を示す。
表ー2 章立て表
表ー2からA-A1-AとB-B1-Bにそれぞれ似たような出来事が起こっているのが分かる。このような工夫を「対句」と呼ぶ。対句については下の記事に説明がある。
それぞれの対句について説明していく。
青色と薄茶色の部分は、先ほど説明した通りである。
・恥をかく
Bで 踊りを間違えたトニオはみんなに笑われて恥をかく。B1でトニオは女の友人リザベタに大勢の前で詩を読んで恥をかいた少尉の話をする。Bで踊りで倒れて、恥をかいた蒼白い少女をトニオが助ける。
つまり、この蒼白い少女はかつてのトニオ自身である。トニオが助けたのは目の前の少女であり、過去の自分である。
・笑われる
Bで踊りを間違えたトニオは好きだった女の子にも笑われてしまう。B1でトニオは熱弁するもリザベタににやにや笑われてしまう。Bでかつて好きだった女の子を見つけたトニオは心の中で「あざ笑ったのか」と問いかける。
・名前
この説明をする前に、登場人物について整理する。
表ー3 外見の特徴による登場人物の分類
注目すべきは、「曲がった脚」という共通点を持つ、インメルタールとゼエハーゼである。(ちなみにトニオと蒼白い少女も黒い目をしている)
インメルタールが出てくるのは
Aでトニオは友人ハンスに「君の名前は変だ」と言われて傷つく。同級生のインメルタールは気の毒そうにしている場面。
ゼエハーゼが出てくるのは
Aで故郷のホテルでトニオは警官に名前を聴取され、詐欺師と疑われる。ホテルの支配人ゼエハーゼは気の毒そうにしている場面。
つまり、ハンス=警官でインメルタール=ゼエハーゼである。
この二つの場面は対句である。
どちらもトニオの名前を悪く言われ、脚の曲がった男がそれを気の毒そうにしている。
そしてA1ではトニオが詩人として名前が知れ渡る描写がある。これも対句に含まれる。
最初に名前をバカにされた思い出、次に詩人として名前が売れたこと、最後に警察に詐欺師疑われ、名前を聴取されるという展開である。
以上の対句構造が「トニオ・クレーゲル」の構造を支えている。
まとめ
ここまで、「トニオ・クレーゲル」の構造を読んできた。
このように、表面的に読むだけでは分からない裏の世界、「構造を読む」という世界が存在する。
今回取り上げた「トニオ・クレーゲル」の場合、それはソナタ形式であり、それを補強する対句構造であった。
そして、このような構造を持つ作品は他にも存在する。
次回は別の例について説明する。
<参考>
原文はこちらのページで見られる。ドイツ語に自信のある方はこちらからどうぞ。
http://www.gutenberg.org/files/23313/23313-h/23313-h.htm
<出典>
https://en-konkatsu.com/koitori/mune-kyun/2423/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%90%89%E6%8D%B7%E9%83%8E
「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の今後の展開を予想しようの巻
「さて、青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない、がどうなるか予想しようのコーナー」
「なんか突然やな」
「ただアニメを見るのも飽きるしな」
「そういうもんなのか」
「そういうもんや」
「それでも説明はしてもらわんと」
「その前にこのアニメ、タイトル長いから『青ブタ』と略してもええか?」
「別にそれは構わん」
「趣旨としては現在放送中の青ブタの今後のストーリー展開を予想して当てよう、ということや」
「今は4話の放送が終わったとこやな」
「原作のライトノベルは全く読んでないので予備知識ゼロで予想していく」
「読んでたら予想にならんやろ」
「確かに」
「あとやるのはええとして、ただ当てずっぽうというのも味が無いで」
「一応、目星は付いてる」
「ほう聞かせてもらうか」
「なんで偉そうやねん」
「ええやろ」
「まあええか」
「ということで予想していく訳だが、まず手がかりというかキャラクターやら何やらを整理する必要がある」
「せやな」
「ということで、ポン」
「なんやこれは」
「青ブタのキャラクター構成表や」
「そうじゃなくて、どうして隣に涼宮ハルヒがくっついている」
「それがさっき言った目星や」
「というと」
「この作品はキャラやストーリー展開が涼宮ハルヒの憂鬱を下敷きにしてると思うねん」
「たしかに似てる点は多い。主人公は無気力で独白が多い、ヒロインがバニーガールのコスプレをする、ヒロインが消失する(しかける)、部室にはメガネの少女がいて、よく主人公は彼女を頼りにしている、男前の同級生がいる、などなど」
「下敷きにしているという証拠は多い」
「だけど表を見たところ、似てない点も多いな」
「その辺はまだ4話だから仕方がない」
「仕方がないでええんか」
「朝比奈みくると朝倉涼子に相当する人物がいないというのは痛いが、今後出てくることに期待している」
「では予想とやらを始めてくれるか」
「ということで、ポン」
「なんやこれは」
「涼宮ハルヒの憂鬱の章立て表や」
「ぐちゃぐちゃすぎて分からん」
「そこは勘弁してくれ」
「表を見ると、1~3話の桜島麻衣が消える云々は憂鬱ラストの閉鎖空間に対応、4話以降はエンドレスエイトに対応している」
「今後の展開としては、退屈、笹の葉ラプソディ、ミステリックサイン、孤島症候群、溜息、朝比奈みくるの冒険、ライブアライブ、射手座の日、サムデイインザレイン、消失の中からどれかが出てくるというわけか」
「1クール13話しかないから全部をやるのは考えづらい。面白そうなのをピックアップしてやるとみている」
「それなら予想の基本形はこうやな」
「とりあえず今やってる古賀朋絵の話は何話進行するのかも含めて、空欄を埋めていく」
「じゃあこんなんはどうや」
「溜息と消失か」
「溜息に相当する話で新ヒロインが出て、長門役の双葉理央が消失をやる」
「妹がおらんけどええんか」
「妹はハルヒでもモブみたいなもんだったし大丈夫やろ」
「だけどトラウマで不登校というなかなかディープな設定だったで」
「そういうお前はどうなんや」
「こっちの予想はこう」
「溜息+ライブアライブは文化祭絡みのストーリーの中で、バンドの演奏シーンが出てくるということか」
「せやで」
「だけど妹のかえでが笹の葉ラプソディなのが納得いかん。ハルヒでは1話分しかない回やぞ」
「トラウマを解決しに主人公と過去へ戻るみたいな話を予想している」
「なんか一気にSFになったな」
「思春期症候群とかいう設定自体そもそもSFやろ」
「まあそうなんやけど」
「なんにせよ、新キャラが出てくること、理央が最終エピソードになることは決まりやな」
「そうしないと涼宮ハルヒとの関連性が薄くなってしまうからな」
「いろいろ組み合わせがあって面白い」
「こんなのはどうや」
「これは」
「やっぱり孤島に行ってお色気出すのも大切だと思わんか」
「ほぼないやろ」
「ないとも限らん」
「百歩譲って孤島で水着やるのはいいとしても、ヒロイン全員というのはいただけない」
「だれか一人でも欠けたらかわいそうやろ」
「わけわからん」
「ふざけるのはこれくらいにして、そろそろ最終決定を決めないと」
「可能性が高いのでいくとやっぱこれやろ」
「水着はなくてええんか」
「ええわ」
「という感じで予想してみましたが、皆様もぜひ考えてみてくださればと思います」
「こういう思考訓練は創作における筋トレのようなもので、クリエイター志望の方にもおすすめです」
「では、結果を楽しみにしながら今回はこの辺で」
「さようなら」
「なあ」
「なんや」
「さっきの涼宮ハルヒを下敷きにしてる云々の話やけど」
「これのことか」
「そう」
「これがどうした」
「偶然やろ、と言われたらそれまでやと思わないか」
「それを言ったらおしまいやろ」
「なんでや」
「ある程度の完成度を持つ作品は過去の名作を下敷きしているもので、それを偶然と言ってしまうのは乱暴にもほどがある。もしそう考えるなら、過去に偶然一致した作品を提示してそういう例があることを証明しなければいけない」
「そうは言うけど、涼宮ハルヒの憂鬱なんてほとんどのアニメが下敷きにしている教科書みたいなもんやろ」
「確かに。『氷菓』『やはり俺の青春ラブコメは~』など影響を受けた作品は多いな」
「だから似てるからって別に騒ぐことではないと思うねん」
「青ブタは露骨すぎるくらい似ているし、原作者もかなり意識していると思うんや」
「作者に関しては単なる妄想やろ」
「予想なんて、結局のところ妄想みたいなもんやで」
「無茶苦茶やないか」
「何にせよ、続きを見ないと分からん」
「それもそうやな」
「ということで、今度こそ本当に」
「さようなら」
答え合わせ編はこちら
「注文の多い料理店」解説【宮沢賢治】
宮沢賢治の代表作の一つ。国語の教科書に載るくらい有名である。子供向けに書かれた割には良くできている。しかし、何がそんなにすごいのか理解されていない。
あらすじ
あらすじは、わざわざ書かない。短編なので、忘れてしまった方は上記のページから読んでほしい。
「注文の多い料理店」の不可解な点
冒頭、「白熊のような犬二匹つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを言いながら、あるいておりました。」とある。
普通、日本で猟犬といえば柴犬である。そもそもシロクマのような大型犬が狩猟に向いているとは思えない。謎である。
さらに、この直後、二匹の犬は「あんまり山が物凄いので」という理由で泡を吹いて死んでしまう。山がすごいから犬が死ぬとはどういうことなのか?風に吹き飛ばされたのか、寒さのあまり死んだのか、それさえも書かれていない。意味不明である。
これ以外にも常識ではありえない展開が起こる。つまり、リアリティのある童話ではなく、昔話のような抽象的な物語とみて考えるべきである。頭柔らかくして、子供に戻った気持ちで読み進める。
読み解くヒント
抽象的な作品というのはたいてい読者が読み解けるように、作者からヒントが与えられている。賢治もヒントをちゃんと残してくれている。
ヒントその1
山猫軒に入ると、たくさんの扉がある。扉には料理店からの注文が書かれている。開けてみると裏側にも注文が書いてある。
ヒントその2
最後の扉には「さあさあおなかへおはいりください~」とある。
ヒントその3
二人が山猫軒に行く前にこんな描写がある。「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」
同じ描写がもう一度出てくる。復活した二匹の犬に助けられた後に、「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」
ヒントその4
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」「ぼくは二千八百円の損害だ」「山鳥を十円買って」等の不自然に強調された値段
ヒントその1とその2は「この物語も扉のように表と裏がある」ということである。(その2の「おなかへおはいりください」は、部屋の中とお腹が掛かっている)
扉の文字について、まとめたのが下の表-1である。
表ー1 扉の文字
ヒントその3は場面の切り替わりを教えてくれている。「風がどうと吹いてきて~」で場面が切り替わるので、そこで話を3分割する。
表ー2 章立て表
Aパート:山奥、Bパート:山猫軒、Cパート:東京である。A-1とB-1、A-2とB-3、A-3とB-2がそれぞれ対になっている。Cは短いが、結末部である。
さらに、AとBの対句はこれだけにとどまらない。作中に対句となる表現が頻出する。ここで「風がどうと吹いてきて~」を基準に、下の表ー3を作成する。
表ー3 対句対応表
これ以外にも対応する対句はあるかもしれないが、賢治の文章の密度の濃さが分かる。
一つ一つの事象が他の事象と密接にかかわっているので、密度が濃くなって読んだ人の頭の中に残りやすくなる。この文章の密度こそ賢治の特徴であり、「注文の多い料理店」の不気味さの正体である。
恐るべき構造
表ー1で見たように扉の枚数は7枚である。表ー2からA+B+C=3+3+1=7の構造になっているのが分かる。7で一致していることに注目して、二つの表を合体させる。
表ー4 章立て表2
表ー4を見れば、「風がどうと吹いてきて~」を基準に3分割したことが正しいと証明される。ここまで密度の濃い文章はすごい、というより怖い感じがする。
そしてCパートに対応するのが「大きな二つの鍵穴」である。つまりCパートが物語の鍵、核心部分であることが分かる。
紙幣
最後にヒントその4である。ここが主題に関わる重要なヒントになっている。
結局、「注文の多い料理店」は二人の紳士が二匹の犬に助けられるも、顔が「くしゃくしゃの紙くず」になったまま戻らなくなって幕を閉じる。ずいぶん不気味な終わり方である。
くしゃくしゃの紙くずの顔、とはどういう意味なのか?
二人の男は、金持ちで、山奥で獣がいないことに文句を言い、犬が死んでも金の話しかせず、助けてもらった後も十円(現在でいうと5000円くらい)もする山鳥を買って東京へ帰る。
彼らは金持ちであるがゆえに、金に卑しい人間である。それと同時に獣を無下に扱う。鹿の横っ腹を撃ちたいとか、犬が死んでも「二千四百円の損害だ」と金のことだけを考え、都合のいいときだけ、犬に助けてもらう。自然に対する敬意を持たない人々である。
賢治はそういう人々に抗議するために、子供たちがそういう大人にならないために「注文の多い料理店」を書いた。男たちの顔をぐしゃぐしゃにした。
つまり、この結末にある「ぐしゃぐしゃの紙くず」とは、顔がぐしゃぐしゃになっているのだから、顔の描かれた紙幣のことである。
自然を軽んじ、経済ばかりに囚われた社会そのものを批判している。
ヒントその4は紙幣を暗示させるために、わざと値段を強調して書いたのである。
犬
ところで、「白熊のような二匹の犬」とはなんだったのだろうか?
ゲーテのファウスト第一部 書斎(一)にこんな一節がある。悪魔メフィストフェーレウスが黒い犬に化けてファウストの書斎に現れた後、
この中に一人つかまっている。
みんな外におれ、ついてはいるな。
まるで罠にかかった狐のように、
地獄の古山猫がびくびくしている。
とある。賢治の時代には、森鴎外訳のファウストが出ていたはずなので彼が読んでいてもおかしくはない。山猫が犬を恐れてびくびくしている様子が分かる。山猫軒という店名はここからとったものと考えられる。ファウストも経済を扱った内容が出てくる。(ただし、賢治と異なり、ゲーテは貨幣発行を好意的にとらえている)
恐らく、賢治はファウストの一部を取り込もうとした。そこで使われたのが犬である。
西洋文化では犬は悪魔の化身であり、嫉妬の象徴でもあった。
しかし、日本では犬に対するイメージが昔からかなり良かった。南総里見八犬伝、忠犬ハチ公、最近でいうと「おおかみこどもの雨と雪」である。日本では犬は忌むべきものではなく、忠義の象徴として文化に吸収されてきた。
賢治はこれを理解し、悪魔メフィストの黒い犬の対比として白熊のような犬を作った。二匹なのは神社の狛犬のように、対になって存在するものという考えがあったのだろう。これは作品が対句構造をもっていることの暗示にもなっている。
そして賢治の犬を受け継ぐのが宮崎駿のもののけ姫である。人間を憎みながら、人間の子を育てるモロの君なんかは完全に「白熊のような犬」である。
余談
夏目漱石の弟子だった鈴木三重吉という作家は賢治の作品を読んで「ロシアにでも持っていけばいい」と言い放ったそうである。これはあながち間違いではない。ここまで緊密した構造はロシア文学に似ているからである。カラマーゾフの兄弟の主役は三兄弟である。だから3という数字で物語を組み立てている。こだわり方が異常である。
ただし、賢治に価値を見出せなかった鈴木には残念と言わざるを得ない。彼が冷たくあしらった男こそ師匠の漱石が探し求めていた答えを見つける人物だったのだから。
関連
涼宮ハルヒの憂鬱は6+1構造だった。注文の多い料理店は3+3+1構造である。どちらも7になるのは偶然なのだろうか。
この方の解説は一読の価値があります。漱石、鴎外が苦しんだ西洋文化の正体を賢治は突き止めています。完成はしませんでしたが。
nagi氏の「オツベルと象」の読み解きです。「注文」と同様、オチが凝っています。
同じくnagi氏による「セロ弾きのゴーシュ」解説です。三位一体教義が出てきます。
Bパートの猫だけ三位一体から外れているように見えますが、「子」のネズミと対応し、C2で猫の前で披露したインドの虎狩りを演奏する=予言が的中することから、カッコウと同じく「聖霊」に当たります。
つまり「子からも聖霊が発する」ので、カトリック的三位一体教義です。
出典
http://chigasakiws.web.fc2.com/taisyou01.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%8A%AC%E3%81%BE%E3%82%8B
http://gifu-art.info/details.php?id=900
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%86%86%E7%B4%99%E5%B9%A3
涼宮ハルヒの消失~構造、音楽、そして続編~
前回のつづきから
作品を読み解くには、構造を読み解く必要がある。構造を読み解くには、章立て表とキャラクター表が必要である。キャラ表は前回出したので今回は章立て表を使っていく。
章立て表は以下の通りである。
表ー1 章立て表
まずは冒頭である。
映画で一番大切なのはクライマックス。その次が冒頭である。構造を読み解くヒントが隠されているはずである。
冒頭は以下の通り。
キョンの部屋で目覚まし時計が鳴り、寝起きで薄目(観客の視点が半開きのまぶたからになっている)になりながら辺りを見渡す。カーテンの間から朝日の光が差し込んでいる。二度寝しようとしたところ妹に起こされる。
キーワードは目覚まし時計、薄目で辺りを見渡す、光、妹に起こされる、の四つである。この四つが繰り返し出てくるシーンが計8回ある。
これは繰り返し同じアイテムを登場させることによって、観客が無意識に美しいと感じさせるテクニックである。
例えば、 7-3の朝倉に刺されるシーンがハラハラするのはストーリーだけでなく1-1から5ー1までのシーンが繰り返し視聴者の頭の中に残っていたからだ、というわけである。
それを踏まえて、下に示す表を「繰り返し構造表」と呼ぶことにする。
表ー2 繰り返し構造表
章番号は先ほどの表―1を参照してほしい。
構造
注目すべきは7-3である。
表ー3
1-1から5-1までは基本的に同じだが、7-3は工夫が凝らしてある。
7-3には目覚まし時計が出てこないが、代わりに二人のみくるが泣きながらキョンを起こしている。目覚まし時計とは音を鳴らして人間を起こす、つまり「鳴く」である。みくるも泣いている、つまり「泣く」である。泣くと鳴くが掛かっている。
それがなんだ、と思われるかもしれないが、映画、文芸とは掛け合いの連続である。
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
百人一首に選ばれている小野小町の和歌で、「降る」と「経る」とが掛かっている。謎かけみたいなものであるが、文化なんぞこんなものである。
消失の話に戻る。キョンが二人のみくるに起こされたのは表-1の「目覚まし時計」(緑色)と「女性に起こされる」(黄色)の二つの役割を果たしていることを暗示しているからである。もっとも伏線だからということもあるが。
このシーンはキョンが目的を果たそうとする寸前に朝倉に不意打ちされるというショッキングなシーンであるが、より印象的なシーンにするために表のような工夫がなされた。
次は9-1に注目する。
表―4
目覚まし時計は出てこない。代わりに小泉がリンゴの皮を剥いている。9-1では夕日が差し込んでいる。街灯(夜)➡夕日➡朝日の順番になっているのは時系列がごちゃごちゃになっている本作の特徴を表している。
(ただし、×があるように必ずしもすべて揃っている訳ではない)
前回も述べた通り、このシーンはキョンとハルヒが隣で寝ている。憂鬱と逆でキョンが起こす立場であるが。
以上のように、表面的なスト―リーだけでは見えてこない「構造」というものが存在する。
(もちろん、すべての作品にこのような構造が存在するわけではない。あくまで一部の優れた作品のみに存在する)
表ー4 憂鬱とサムデイインザレインと消失の比較表
以前、紹介した憂鬱とサムデイインザレインを比較した表に消失を加えたものである。整合性がとれなかったのはキスの項目。 ストーリーの都合上仕方なかったものと思われる。
消失が成功したのも表ー4を見れば明らかである。テレビシリーズからの流れをしっかり押さえて作っているのだから。
音楽
ところで映画とは総合芸術である。映像、演劇、文学、そして音楽。ジブリの成功も半分は久石譲のおかげと言っても過言ではない。
オーケストラとは西洋の文化が産み出したものである。にもかかわらず、聴くと日本の森の風景が浮かんでくる。太く、荘厳な縄文杉の姿が。オーケストラという西洋の楽器を用いながら、日本の原風景を描き出すのだから天才である。
最近でいえば「君の名は。を思い出してください」と言われたら、頭の中で勝手にRADWIMPSの音楽が流れだすだろう。音楽とはそれほど重要なものである。
消失も音楽が優れている。具体的なシーンを挙げると、5-3~5-4(教室を飛び出して坂を駆け抜ける)、8-3(キョンが心の中のもう一人の自分を跳ね飛ばす)、9-2(病院の屋上で長門と話す)、の3つである。
5-3~5-4にかけてのBGMは疾走感があって良い。陰鬱な展開が多かったのが、ここで一気に加速していくことが伝わってくる。
あと表ー1の章立て表を見ると坂のシーンが合間に頻出しているのが分かる。これも一種の繰り返し構造で、脳に何度も坂を認識させることでBGMをより効果的にさせている。
8-3はクライマックスなので、言わずもがな一番盛り上がる音楽が流れる。主人公が自問自答の末、自らの退路を断つ。セリフや作画云々より音楽の素晴らしさ際立ったシーンである。
9-2で流れたエリック・サティのジムノペディは長門との会話のシーンで使われた。エヴァもそうだったが、クラシックを使おうという発想自体、アニメ、実写問わず勇気がいるものである。格がワンランク上になるので映像もそれに見合った完成度にしなければならない。
ゆったりとした静かなメロディが流れてくる。雪が降るように、白雪姫が眠るように。
キョンの言った「ゆき」は雪と有希が掛かっている。憂鬱の桜、サムデイインザレインの雨、消失の雪。まるで和歌の世界である。西洋人が聖書を大切にするように、日本人は和歌を重んじている。一瞬の美を切り取って、愛でるのが日本人の情趣である。そういう点で見ると、伝統的なアニメともいえる。
まとめ
話が長くなってしまったが、要するに
「自分に正直に生きろ。もっと積極的に関われ。さもないと、今ある幸せを無くしてしまうぞ」
ということである。斜に構えて、傍観者気取ってたら人生なんてあっという間である。時には悪意(朝倉)が向けられることもあったけど、良い仲間(SOS団)にだって出会えた。自分の人生もっと積極的に生きねばならぬ。
この部分が作品の根幹になるので、最低限ここだけは押さえなければならない。
図ー1 憂鬱のキョンの性格図
以前、紹介したキョンの性格図である。点Oがキョンである。原点にあるということはプラスでもマイナスでもない、つまり傍観者である。
この図が消失の物語を経て下のように変化する。
図―2 消失のキョンの性格図
赤い点O'がキョンの性格、心の変化である。ほんの少しではあるがプラスに進んだ。積極的になれたのである。ルフィのように熱い闘志を燃やしているわけではない。海賊でもないが、世界を守るために一歩だけ前に進んだのである。SOS団の団員その1として。
続編について予想
ところで、涼宮ハルヒの下敷きになっているエヴァは2018年の段階でまだ完結していない。下敷きであるエヴァが完結してないということは涼宮ハルヒも完結してなくて当然である。原作は確か驚愕で止まっていたような気がする。
ここまで読んでくださった皆様ならもうお分かりになると思うが、ハルヒの続編がなかなか更新されないのは、エヴァのせいであると考えている。
下敷きとなった作品の完結を見てからでないと着地点をうまく決められない。そうなったら更新を止めて待つしかない。
繰り返し言うがこれは「パクリ」などではない。アニメに限らず、物語とは名作から名作へとバトンをつなぐように作られてきた。
憂鬱から消失は旧劇までの内容を踏まえてで作られてきたが、新劇になって急に新しいストーリーが加わり、びっくりして更新が止まったのだと推測する。
こんな予告が出ているが、本当に2020年に公開されるかは分からない。そもそもこれで完結するかも分からないので、涼宮ハルヒシリーズが完結するのは当分先である。少なくともエヴァが完結するまではハルヒは完結しないと予想している。
#涼宮ハルヒ 5年ぶりとなる新作書き下ろし短編が発表されることが明らかになりました。https://t.co/02k3iWXxyB
— 毎日新聞 (@mainichi) 2018年9月25日
そんなことを言っていたらこんなツイートを発見した。ハルヒの新作短編である。連載が再開するか、まだ分からないが、自分の予想なんて戯言に過ぎないのだと悟った。
涼宮ハルヒの消失については以上である。
参考
https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/009.html
出典
http://www.caruta.net/ononokomachi.html
涼宮ハルヒの消失~エヴァの消失~
劇場版涼宮ハルヒの消失は大人気作となったテレビ版の続編であり、当時としては異例の興行収入を誇った作品である。
人気だけではなく、日本アニメ史的にも重要な作品である。涼宮ハルヒが後のアニメ与えた影響は大きい。
よって解析して内部構造をしっかり紐解く必要がある。解析せずに「あー面白かった」で終わらすには惜しい作品である。
テレビ版を見てないと分からない上に時系列がぐちゃぐちゃになる作品であるが、抽象的という訳ではない。一回見ただけで全体像はつかめるはず。
あらすじ
ある日、主人公は仲良くしてた女の子が存在ごといなくなってることに気付く。四苦八苦の末、タイムスリップに成功した主人公は犯人を突き止め、元の世界へ帰ってくる。めでたしめでたし。
タイトルの意味
この映画は題名の通り涼宮ハルヒが消失、つまりいなくなってしまうのか、というとそうではない。何者かによって一変した世界の中でハルヒは別の高校の学生になっていた。
ではなにが「消失」したのか?
以前述べたようにエヴァとの関係性から紐解いていく。
簡単に説明するとハルヒ=エヴァ(初号機)+アスカで作られたキャラクターである。
そして消失のハルヒを見てみる。憂鬱と比べて髪が長くなっている。もっと言うと、エヴァのアスカに近づいている。制服は北高ではないし、SOS団団長でもない。
改変後のハルヒに世界を変える力はない。憂鬱でハルヒはアスカとエヴァ(初号機)の言い換えだと説明したが、この世界のハルヒはアスカの要素しかない。
ここで以前、紹介した涼宮ハルヒとエヴァを比較したキャラクター構成表に注目する。
これが改変後の世界になると以下の表になる。
涼宮ハルヒの消失とは、「涼宮ハルヒ(の中のエヴァ)の消失」というタイトルである。
ところでエヴァの最終回にエヴァもネルフもない平和な日常が出てくる。幼馴染のアスカがいて、転校生のレイが出てくる世界。シンジはそれを「あったかもしれない世界」と言ったが、あの世界を長編映画にしたのが消失である。
キョンの精神世界
クライマックスでキョンの精神世界のシーンがある。キョンはもう一人の自分に問われる。自分の行動の矛盾を指摘される。これはエヴァでたびたび登場するシンジの心の葛藤に対応している。シンジもキョンももう一人の自分に苦しむが最終的にそのままの自分を受け入れる。
消失は長門の物語と思われがちだが、メインはキョンの成長物語である。何だかんだ言ってハルヒとSOS団が好きだった自分を受け入れるまでの物語である。シンジがエヴァのパイロットとしての自分を受け入れたように。
エヴァとの違い
エヴァと消失の違いは元の世界に帰ってきてからのヒロインの態度にある。
旧劇のラスト、シンジとアスカは隣で眠っている。シンジに首を絞められたアスカが一言「気持ち悪い」
消失はキョンが寝ているベッドの脇でハルヒが寝袋で寝ている。キョンに顔を撫でられて跳ね起きるハルヒ。キョンが目を覚まして安心しているようである。さらに病院の屋上で長門に「ありがとう」と言われる。明るい終わり方である。
以上の点をまとめたのが下の表である。
伝えたかったこと
結局は他人と生きる選択をしたシンジに「気持ち悪い」という現実を思い知らせるのがエヴァ。「そんなに現実は甘くないぞ。他人と生きることは傷つけあうことだぞ」ということである。
それに対し、キョンが目を覚ました時にはハルヒやSOS団から喜ばれる。みんな彼のことを心配してくれている。
病院の屋上で長門にはこんなことを言われる。
「ありがとう」
拒絶の言葉ではなく感謝の言葉。雪が降っているとても印象的なシーンである。シンジが受けた対応とは大違いである。
「他人と生きていくのは傷つけあうだけじゃない。助け合い、喜び合うこともある」
これを伝えるために涼宮ハルヒはエヴァを下敷きにしたと言ってもよい。
次回は涼宮ハルヒの消失の全体構造について説明する。
出典:
https://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/movie/
涼宮ハルヒの憂鬱~全体構造編~
前回までキャラクターについて考察してきた
今回は、涼宮ハルヒの憂鬱のなかでも重要な「憂鬱」の話に注目する。
憂鬱Ⅰ~Ⅵには奇妙なシーンが4つある。
- 憂鬱Ⅰのハルヒの髪型が曜日によって変わる話
- 憂鬱Ⅳの大人版みくるが言った白雪姫
- 憂鬱Ⅴのアパート管理人が言った「その娘は美人になる。取り逃がすでないぞ」
- 憂鬱Ⅵの終盤、キョンが言った「お前のポニーテールは似合っていたぞ」そしてキス
これらは何の意味も持たないシーンではなく、意図的に仕掛けられたものである。順を追って説明していく。
一つ目はキョンとハルヒの最初の会話で特に意味はなさそうだが、髪型と曜日に注意しろ、というメッセージである。ハルヒから我々への忠告ともいえる。
二つ目は憂鬱のラストに関わる伏線である。白雪姫(ディズニー版)は毒リンゴを食べて永遠の眠りについた姫が白馬に乗った王子様のキスで目覚める物語。ここで物語に出てくる数字に注目する。
姫が7歳のときに魔法の鏡は「世界で一番美しいのは白雪姫だ」と言い、姫は7人の小人に守られる。そして一つ目の話に出た曜日も一週間つまり7日である。さらに、ハルヒを取り巻く人物もSOS団+鶴屋さん+国木田+谷口=7人である。この7人が小人に対応している。
一つ目の話と白雪姫は7という数字で共通している。ちなみに白雪姫は春の話だが、「憂鬱」も4~5月なので春である。
三つ目は朝倉のアパートの管理人がキョンに向かってささやいた言葉。伏線というわけではなさそうなのに、キョンは意味ありげにハルヒを見つめている。
ここで白雪姫の話を思い出す。
その娘は美人になる、ということは美しい白雪姫のことだから言い換えると、「涼宮ハルヒは白雪姫だ。お前取り逃がすなよ」という管理人からの警告である。すなわちキョンは王子様である。王子様が白雪姫を見つけてくれないと物語は成立しないので管理人は注意した。
四つ目が最も謎であるが、以上の三点を踏まえれば発言の意図が見えてくる。
白雪姫ではリンゴと白馬に乗った王子様が出てくる。リンゴはこのシーンの前に小泉が言った「アダムとイブですよ」に関係してくる。イブは蛇にそそのかされて知恵の実、つまりリンゴを食べ、アダムにもそれを勧めて食べさせた。そして楽園を追放させられた。
アダム役はキョン、イブ役はハルヒである。ハルヒは閉鎖空間の中で共に生きようと勧めてくる。これはリンゴを勧めるのに対応している。
ただそうすれば楽園つまりSOS団を失うことになる。今の生活を選ぶにはハルヒの目を覚まさないといけない。
ちなみに聖書にも7は重要な数字として出てくる。「神は世界を7日で作った」「7つの大罪」聖書と白雪姫、そして涼宮ハルヒには深い関係があるとみてよい。
そしてキョンはSOS団のある世界を選択し、ハルヒにキスをする。ここで白馬の王子様が登場する。王子のキスにより白雪姫は目を覚まして、めでたしめでたし。ポニーテール発言はポニーつまり馬を示している。
キスする前に「ポニーテールが好きだ」と言ったのはキョンが白馬に乗った王子様と対応していることを暗示するためである。
白馬じゃなくてポニーだというところがいかにもキョンらしい。
ここまで見てきたように「憂鬱」には何気ない日常のシーンにも深い意味が込められていた。下の表は「憂鬱」の構造をまとめたものである。
青色は先ほど説明したシーン、赤色はハルヒが急に着替えだしたり帰ったりするシーン。各話に一回ずつ全部で6回ある。薄緑はハルヒの思想についてである。茶色はハルヒからみくるへのセクハラのシーン。
エヴァとの対応関係
表の太字はエヴァに対応する事象である。
長門のメガネとアパートへ行くはキャラクター構成の項で述べた。メガネがゲンドウと対応、アパートへ行くシンジが綾波レイのアパートへ行くのと対応
ハルヒがキョンの首を絞めるのは旧劇ラストでシンジがアスカの首を絞めているのに対応
ハルヒが望んだ世界はエヴァが暴走した結果起こる人類補完計画後の世界に対応。またそのどちらとも主人公に阻止されることで対応
ポニーテールとキスはポニーに乗るつまりハルヒ=エヴァを乗りこなすことに対応、キスはシンジとアスカのキスに対応
エンドレスエイトはエヴァでよく使われる過去の場面が繰り返し出てくる心理描写に対応
そもそもエヴァもキリスト教に深く関係した内容なので似ているのは当然なのかもしれない。
などキリスト教関連のワードがたくさん出てくる。
ちなみにシンジやアスカの年齢は14歳で白雪姫も14歳である。ただしエヴァが白雪姫を下敷きにしているかは不明である。
次に、下の表は涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版)全体の構造をまとめた章立て表である。
「憂鬱」「ライブアライブ」「サムデイインザレイン」「笹の葉ラプソディ」以外はそこまで良くない。
ライブアライブは9分間にわたるライブシーンの出来がとても良い。渚カヲルが言ってたように歌はリリンの産みだした文化の極みである。
笹の葉ラプソディは七夕、つまり7月7日が重要である。ここにも7が出てくる。劇場版へ続く伏線の一つなのでおさえておく必要がある。
サムデイインザレインは憂鬱に次ぐ重要なエピソード
ここまであえて触れなかったが、7が重要と言いつつ「憂鬱」は6話構成になっている。1話足りないので整合性がつかない。
ここで聖書に注目する。「神は7日で世界を作った」しかし厳密には7日目に神はお休みになったとある。つまり神は6+1日で世界を創造したことになる。この+1日に当たるのが「サムデイインザレイン」である。
この回だけ淡々と、静かに進んでいくのは神(ハルヒ)がお休みになっているためである。
1話冒頭で坂を上りながら始まり、最終話ラストで坂を下りながら終わる物語なのである。
憂鬱とサムデイインザレインの対比関係については下の表にまとめた。
思ったこと
はじめて見たときからなんとなく「サムデイインザレイン」は印象に残るというか、雰囲気が好きだったのだが、ようやく原因が見つかった 。わざわざ表なんか作らなくても直感的に「サムデイインザレイン」が重要だと分かっていたのだ。人間の脳はやはりよくできている。
聖書でイブをそそのかしたのは蛇なのだが、涼宮ハルヒの中に蛇はいるのだろうか。憂鬱Ⅵでキョンにハルヒと閉鎖空間で生きるように促す人物が一人いる。小泉一樹なのだが、蛇は裏切りの象徴であるので今後の展開が非常に気になる。
あと猫のシャミセンは三毛猫と三味線ということで3という数字が隠されていて、3とは長門、みくる、小泉の3人である。3人とも互いに異なる意見を持っていて対立していることを暗示している。
次回は劇場版涼宮ハルヒの消失について説明する。
涼宮ハルヒの憂鬱~エヴァとの関係~
前回のつづきから。
ハルヒとアスカ
共通点はツンデレ。セリフに「バカキョン!」「バカシンジ!」感情の起伏が激しく、情緒不安定であること。主人公とキスをすること。主人公とはアダムとイブの関係。
違いはハルヒが不思議を追うのに対してアスカはトラウマに追われる。ハルヒのポニーテールに対してアスカのツインテール。
みくるとミサト
共通点は年上であること。主人公に対して母性的に接すること、みくるは小泉とキス未遂し、ミサトは加持と何度もキスする。みくるは甘酒で、ミサトはビールで酔っ払う。そのときどちらも白いシャツを着ている。
違いはみくるが禁則事項によって未来に囚われているのに対してミサトはセカンドインパクトで父を失った過去に囚われている。
小泉と加持
共通点は男前であること。ヒロインの扱いに慣れていること。謎の「機関」に所属していること。主人公にアドバイスをする。
違いは小泉が同級生なのに対して加持は年上。小泉は女にモテないが、加持はモテる。
ここまで主要キャラクターの比較をしてきたが、肝心のエヴァンゲリオンが欠けていた。ここの比較ができないのでは二つの作品は結び付かない。
「憂鬱Ⅵ」のクライマックスのシーンに注目する。
神人が近づくなか世界の命運を懸けたシーンで、キョンはハルヒに向かって言う。
「いつだったかお前のポニーテールは、反則的なまでに似合っていたぞ」
さらに、現実世界に帰ったあとポニーテールにしたハルヒを見て、「似合ってるぞ」と言う。
意味不明である。涼宮ハルヒの憂鬱の中でも、謎めいたシーンの一つである。ハルヒでなくとも混乱するだろう。なぜクライマックスのシーンでショートヘアのヒロインに対してポニーテールの話をする必要があったのか?
アスカのツインテールと掛けている、というのは惜しい気がする。
恐らくポニーは馬の一種で、ハルヒを馬に例えている。「ポニーテールが似合ってる」と言ってポニーテールにさせたキョンは馬の調教師という比喩である。唯我独尊のハルヒに命令できたのだから。
つまりあのシーンでキョンはハルヒをコントロールした、言い換えると操縦した、と言えるでしょう。初号機のパイロットがシンジにしかできないのと同様に、ハルヒのパイロットもキョンにしかできないことを暗示している。
この他にも、鶴屋さんがリツコ、谷口・国木田がトウジ・ケンスケと対応している等、比較できる点は多い。すべてではないが、大まかにまとめたのが下の表である。
ところで、「憂鬱Ⅰ」でハルヒとキョンが髪型と曜日に関する謎のシーンがあるが、あれはハルヒの髪型に注意しろよ、という作者からのメッセージだと推測する。なんとも親切なことよ。
キャラクター構成表については、疑問点・欠陥がありましたら教えて下さると助かります。
次回は全体構造について説明する。
参考
自分なんぞよりとっくの10年以上前にキャラクター表を作っている方がいた。おおむね一致しているが、細部で自分のものとは異なる。
偉大な先人に敬意を表して、ここに載せておく。
出典
http://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/gallery/200602.html
小泉一樹|無料GIF画像検索 GIFMAGAZINE [5678]
涼宮ハルヒの憂鬱~社会現象になった理由~
「涼宮ハルヒの憂鬱」は2006年に放送され、12年経った今でも愛される名作である。再放送での視聴率の高さがそれを物語っている。
なぜここまで愛される作品となったのか?普通の作品と何が違うのか?
結論から述べると
涼宮ハルヒの憂鬱はエヴァンゲリオンを下敷きに作られた作品だから
というのが理由である。これについて説明していく。
下敷きにする、というのは過去の名作の特徴(キャラクター、全体構成、セリフ)をうまく自分の作品に落とし込むことである。
自分の作品を人気作品にしたいなら過去の名作を参考にすればいい。至極、合理的な考え方である。
エヴァンゲリオンは90年代に社会現象になるほどの人気を呼び、現在でも続編を待たれる人気作品である。
注意してほしいのが下敷きにすることは決して「パクリ」などではない。良いところを吸収して自分なりのアレンジを加えたうえで、作品に活かすのである。
宮崎駿、細田守、新海誠、みな古典を下敷きとした作品を世に出している。
次に下敷きになっていると分かる根拠を示していく。まずはキャラクターから説明していく。
一番似ているのは長門と綾波レイである。これは気づかれた方も多いのではないか。
髪型と無表情である点から長門はレイを意識して作られたと考えて間違いない。
しかし、長門はメガネをかけているがレイはかけていない。大きな違いであるがこれについては後で述べる。
次にキョンとシンジである。
二人とも従来の主人公像と大きくかけ離れている。そしてともに「選ばれた子ども」である。
それまでのアニメの主人公と言えば、ポジティブだったり正義感の強い人物がセオリーであった。ワンピースのルフィはその代表例である。
それに対してシンジはネガティブで傷つきやすい臆病な性格をしている。
キョンはネガティブではないがどこか悟ったような平凡を求める生き方をしている。シンジのように思いつめたり、斜に構えたりする様子はない。
そして二人とも共通して活発的とは言えない。
上図はキョンとシンジの性格を表す概念図である。
プラスに向かうほど明るくポジティブ、マイナスに向かうほど暗くネガティブである。A点はルフィ、B点はシンジ、原点Oはキョンを示している。
今までの漫画アニメはプラスの主人公がほとんどだった。
そこに庵野はマイナスの主人公であるシンジを発明した。
さらに涼宮ハルヒではプラスでもマイナスでもないニュートラルな主人公キョンを発明した。
涼宮ハルヒの憂鬱が放送当時、社会現象を起こすほど流行ったのは新しい主人公の発明が要因の一つに挙げられる。
シンジはいきなり父親に呼び出されて「エヴァに乗って使徒と戦え」と言われる。理不尽である。
キョンは平凡を求めてたのに無理矢理SOS団に入れられる。理不尽である。
しかし二人とも拒絶してはいるが、結局エヴァに乗っているしSOS団の活動をしている。
主体性がなく周りに流されやすいという点で二人は共通である。
そしてシンジはエヴァのパイロットに選ばれ、キョンはハルヒに選ばれた。選ばれた子供という点で共通である。
次にキョンとシンジの異なる点を述べる。
二人の最大の違いは「父親の存在」である。
シンジは父親を恐れているのと同時に自分を愛してほしいという屈折した感情を持つ。
これがエヴァンゲリオンの暗く重苦しい世界観につながっている。
これに対し、キョンには父親はいるが作中には一切出てこず、父に対して複雑な感情を持つことはない。父親が出てこないのだから当然である。
これがコメディ風の愉快な世界観につながっている。
ここで先ほどの長門のメガネである。
シンジの父ゲンドウはメガネをしていたが、レイを救出する際に割れてしまう。その割れたメガネはレイが保管している。
長門もキョンを救出する際にメガネを失う。しかしキョンに「メガネは無い方がいいぞ」と言われてかけなくなる。
ここで長門のメガネはゲンドウのことである。キョンの父親はでてこないが、その名残りが長門のメガネである。
つまり「メガネは無いほうがいいぞ」というセリフは「この作品に父親は出てこない。だからエヴァよりも明るい作品だ」と暗に示している。
個人的な感想としてやはりエヴァを見るよりも憂鬱を見てる時の方が気軽に楽しく見ることができる。もっともエヴァの鬱々とした感じも嫌いではないが。
以上のことからも涼宮ハルヒがエヴァを下敷きにしていることが分かる。
次回はハルヒとアスカの関係から説明していく。
(参考)
こちらの方のまとめは大変面白いので、是非読まれたし。
つまり、下敷きになっている作品が分かれば放送中のアニメも理論上、予想できるというわけです。
出典
http://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/gallery/
https://www.cinematoday.jp/news/N0074288
未来のミライ~初見考察~
一回しか見ていないので詳細な部分はあやふやである。
一言で表すと「時間と家族の物語」
「家族は大切にしよう。支えあおう」そんな当たり前のことを再認識させてくれる映画だった。
未来のミライでは主人公くんちゃんによる計5回のタイムリープおよび幻想世界での冒険が行われる。下の表は主人公と幻想世界での家族の特徴を表にしたものである。
「現在」の項目では現在の主人公の様子、「幻想世界」では対象の人物としたこと、「結果」はその結果、主人公がどう変わったか、「乗り物」は幻想世界に出てくる乗り物である。(犬が乗り物なのか分類が微妙、ミライのときは出てこない)
*表のくーちゃんはくんちゃんの誤りです
基本的に主人公が親に構ってもらえず、妹を新幹線のおもちゃで殴ろうとして親に叱られてから幻想世界(中庭)へ行く。現実と現実との間には必ず幻想世界での話があるので、サンドウィッチ構造になっている。
なので家の間取りもリビング、中庭、子供部屋とサンドウィッチのような一風変わったものになっている。
幻想世界と現実
- 新幹線のおもちゃでミライを叩く➡駅でひとりぼっちの国行きの新幹線に乗せられそうになる
- ミライに魚の形をしたお菓子を顔につけるイタズラをした➡魚の大群によって母親の過去へ連れてかれる
- 過去の世界で母親は泣いている➡枕元で母親は泣いている
- ミライの名前候補に「つばめ」➡家族の歴史を巡るときにつばめが映る
- ひいおじいさんは船が転覆して股関節に傷を負う➡ミライの手にはアザがある
他にもあると思うが記憶できなかった。最後のミライのアザについては幻想世界ではないが、アザのついた理由が明確に語られなかったことと重大なポイントではないかと考えて付け加えた。
他の細田作品もそうだったが、ストーリーの中で関連する事象が非常に多い。こういう作品を見ると人は無意識に美しいと感じるので、記憶に残る作品になりやすい。
分からなかった点
- 冒頭、雪が降ったのはなぜか
- ミライの手のアザ
冒頭のシーンは恐らく何らかの出来事との関連なのだろうが分からなかった。もう一度見直して確認したい点である。
ミライの手のアザはひいおじいさんの傷と説明したが、実際のところよく分かっていない。なぜアザが付いていたのか?アザがある設定が必要だったのか?ここも重要な点であるので確認したい。
気になったシーン
終盤、幻想世界で主人公が電車に乗るシーンがあるが、電車のシーンが出てくるアニメはもう一つある。2年前に大ブームになった「君の名は。」である。ジブリ作品でも「千と千尋の神隠し」に千尋とカオナシが電車に乗って銭婆婆の家に向かうシーンが描かれている。特に「君の名は。」では重要な場面で使われた。
何が言いたいのかというとアニメを作る人たちは「電車」が好きであること、もっと言うと「銀河鉄道の夜」が好きである。
「銀河鉄道の夜」はジョバンニとカムパネルラの絆の物語である。「千と千尋」は千尋とハク、「君の名は。」は三葉と瀧、「未来のミライ」はくんちゃんとミライの絆の物語である。
また、銀河鉄道の夜も現実→幻想→現実の構造となっており、先程述べたサンドウィッチ構造と同じである。構造的にも銀河鉄道と非常に似ている。
人と自然、過去と未来、兄と妹、全部ジョバンニとカムパネルラである。
思ったこと
「未来のミライ」を見て似たような感触を覚えたのが「CLANNAD」と「君の名は。」だった。前者は家族の物語、後者は時間の物語である。個人的には「バケモノの子」より好きなのだが一般的にはどのような評価になるのだろうか。
上の表と幻想と現実の対応を思いついたのは終盤のミライのセリフだった。
ミライ「ほんのささいなことが今の私たちを形作っているの」
このセリフが「バラバラの事象なんてない。ほんのささいなことでも幻想と現実を対比させているの」と暗示しているように聞こえたからだ。
細田守は「家族」をテーマにした作品をたくさん描いてきたが、どうしてそれをする必要があったのか。それは当たり前のことだけど、ついつい忘れてしまうからだ。くんちゃんとミライの両親がそうであるように現代人はみんな忙しくて、疲れている。特に子育ては大変この上ない。
このままでは家族の大切さ、当たり前の日常の尊さを忘れてしまうので、定期的に思い出す必要がある。そうしないと悲惨な殺人事件に繋がってしまうからだ。アメリカでは学生が銃で同級生を惨殺する例が絶えない。(あれはスクールカーストと銃社会も悪いのだが)
日本人は幸福なことに細田作品を見てそれを思い出すことができる。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン7話
7話のテーマは「亡き娘への罪と救済」
簡単なあらすじを説明する
舞台→戯曲家の別荘へ赴く→身の回りのお世話→食事→代筆→傘と娘の話→代筆→湖を跳ぶ→傘を貰って船に乗る→船中で苦悶する→ギルベルトの死を知る
7話のクライマックスは湖を跳ぶシーン(18分07秒〜)。
ヴァイオレットの跳ぶ姿を見てオスカーはこう語りかける。
オスカー「奇跡を起こしてくれた彼女におれは言った。『神さまなんていないだろうけど、いるなら君のことだ』」
奇跡とは何か?なぜヴァイオレットが神さまなのか?
謎を解くには発言者のオスカーウェブスターについて知らなくてはならない。
オスカーは人気の戯曲家である。しかし、娘オリビアを亡くしている。不幸である。不幸どころか罪を背負ってしまっている。
冒頭(1分13秒〜)「ああ、私はこの罪を背負っていくしかない。このさき一生」
確かに罪を背負ってそうな顔をしている。
そんな時にヴァイオレットがやってくる。彼女は娘と同じ髪の色をした少女であった。しかし似ていたのは外見だけで、義手をしている上にカルボナーラもろくに作れない。娘との甘い思い出とは程遠い。
ヴァイオレットの登場が返って娘の不在を際立たせてしまう。
次に戯曲の原稿を代筆するシーン(8分33秒〜)に注目する。戯曲の感想を聞かれヴァイオレットはこう答える。
ヴァイオレット「本当の話ではないのに自分が体験してるようです」
戯曲の内容は主人公オリーブは船が無いので父が待つ家に帰れなくなる。そこで傘と風の使いの力で海を渡って帰るというものである。
もちろん主人公のモデルはオリビア。そしてこのセリフから
オリビア=オリーブ=ヴァイオレット
という関係が成り立つ。(ここで納得できない人はヴァイオレット・エヴァーガーデンをつまらないと思う人である。伏線とかにこだわる人は抽象的なイメージを繋げることを嫌う)
つまり死んだ娘に代わってヴァイオレットが主人公となり物語を完成させるということを暗示している。
(18分07〜)
そして湖のシーン。オーケストラの音楽と共にヴァイオレットが駆け出す。高くジャンプして落ち葉の上を歩き出す。娘の「いつか、きっと」の言葉通りに。
奇跡が起きてオリビアは父の元に帰ってきたのである。オスカーは救われた。だから涙を流している。
以上をまとめると
・オスカーは罪を背負っている
・ヴァイオレットが娘オリビアに成りかわる
・オリビアの言葉通りにヴァイオレットは湖の落ち葉の上を歩く奇跡をやってみせる
・オスカーは救済された
つまりヴァイオレットはイエス・キリストである。
イエスは水の上を歩く奇跡を起こせる。そして娘の言葉は預言である。
ちなみにオリーブは聖書に頻繁に登場する植物で花言葉は「平和」である。
イエスは人間の罪を肩代わりできる。イエスを信じる者は救われる。ただし、一瞬で湖に落ちてずぶ濡れになってしまうが。
もう一度オスカーの言葉を思い出してもらいたい。
オスカー「奇跡を起こしてくれた彼女におれは言った。『神さまなんていないだろうけど、いるなら君のことだ』」
オスカーにとってヴァイオレットは神さまだったのである。
<思ったこと>
6話より出来はいい。
(18分07秒〜)はBGMと絵が素晴らしいので感動できる。このシーンだけでもアニメが絵だけでは成り立たないことが分かる。もっと音楽を大切にすべきだ。
ヴァイオレットがイエスの比喩だというのは奇想天外でアホな発想と思われるかもしれない。というより自分自身でもそう思っている。でも面白いのでこのままいく。
今回のオモテ-ウラ図は以下の通りである。
相変わらず愚直なヴァイオレットはオモテ族で、父の心を汲み取れるオリビアはウラ族である。湖を跳ぶ行為がウラ族へのジャンプとなっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン6話〜オモテ族とオモテ族〜
6話のテーマは「寂しさとの決別」
簡単なあらすじを説明する
仕事で天文台へ→リオンと古文書の解読と代筆→図書館での会話→アリー彗星観測→リオンとの別れ
6話は1〜5話と大きく異なっている。
異なっている点は二つ。
・ヴァイオレットとリオンがどちらもオモテ族
・手紙が出てこない
オモテ族は率直な言い方を好み、嘘が下手である人間、ウラ族は遠回しの言い方を好み、嘘や隠し事をする人間のことである。
詳しくは下の稿を読んでほしい。
まず前者について
今までの話はヴァイオレットとエリカ、ダミアンとシャルロッテのようにオモテ族とウラ族がペアになって展開されていた。
しかし、6話に登場するリオンはヴァイオレットと同じく、率直な言い方で嘘が下手であるという点からオモテ族に分類される。
気になったシーン
(14分09秒〜)
ヴァイオレット「少し似ていますね」
似た者同士なのだからオモテ族とオモテ族である。
オモテ族とオモテ族のペアは性格が似ているので会話が弾み、自然と仲を深めることができる。
つまり手紙を書かずともお互いを理解し合えるのである。仲良くなるのに手紙を必要としない。これが後者である。
またこのことからヴァイオレット=リオンの関係が成り立つ。今回は対(⇔)ではなくイコール(=)である。
しかし、ヴァイオレットとリオンが仕事で出会って仲を深めるというのでは、ありきたりでつまらない。
圧倒的な作画とオーケストラの音色を使って描かれるのが平凡なラブコメでは話にならない。
よってもっと深みのあるストーリーにしなければならない。
そのためにはウラ族が必要である。オモテ族とウラ族が手紙を介して気持ちを伝え合うのがヴァイオレット・エヴァーガーデンの一つのテーマでもある。
ではウラ族は誰だろうか。それは「アリー彗星」である。彗星は人間ではないが、ここではイメージとして例えられている。アニメは芸術作品なので人間にこだわる必要はない。
(17分08秒〜)
二人の会話から
ヴァイオレット→彗星=ギルベルト
リオン→彗星=リオン母親
であることが分かる。
彗星は我々から遥か遠い宇宙を流れ、出会えるのも200年に1回である。これがヴァイオレットにとってのギルベルト、リオンにとっての母親の比喩になっている。
先ほど6話に手紙は出てこないと述べたが、実は手紙は出てくる。正確に言うと「手紙の役割を持ったもの」が出てくる。
それはリオンが解読した古文書の一節にある。
(9分16秒〜)
「その別離は悲劇にあらず。永遠の時流れる妖精の国にて、新たな器を授かりて、その魂は未来永劫守られるが故に」
絵には母親と子供が描かれている。リオンとその母親である。
(21分21秒〜)
彗星を見たときヴァイオレットはギルベルトを想い、リオンは母親を想っている。そして彗星から「手紙」が届く。(ヴァイオレットの口から)
「その別離は悲劇にあらず。永遠の時流れる妖精の国にて、新たな器を授かりて、その魂は未来永劫守られるが故に」
分かりやすく言い換えると
「その別れは悲しいことではない。その想いは心の中で永遠に守られ続ける。だから閉じ篭ってないで新たな一歩を踏み出してほしい」
リオンは母親のことを待ち続けていた。しかし、天文台で待っていても母親に会うことは永遠にない。そんなことよりも自分の夢を追いかけてほしい、というメッセージを受け取ったのだ。
ヴァイオレットはギルベルトの不在を寂しく感じるが、命令を待つのではなく、ドールとして一歩ずつ歩み出している。
以上からアリー彗星からの手紙によって二人に心情の変化が起こった。
・リオンは母親を待つのをやめた
・ヴァイオレットはこれからもドールとして生きていこうとした
ウラ族からの手紙でオモテ族に変化が起こる。これは1〜5話の構造と同じである。
(6分57秒〜)
リオンはヴァイオレットに一目惚れする。最も自身は自覚しておらず、無意識に恋をした。
(20分13秒〜)
彗星を見る直前の会話で「ギルベルトに何かあったら駆けつけるのか」という問いにヴァイオレットは「あなたにどう謝罪しようか考えている」と答えられ、失恋する。
そして彗星が流れる。ヴァイオレットとの心のの距離も彗星と同じくらい離れていたのである。彗星(手紙)を介してヴァイオレットに振られたのである。
つまり、彗星を見て起きた心情の変化は
・リオンは母親をまつのを待つのをやめた
・ヴァイオレットはこれからもドールとして生きていこうとした
・リオンはヴァイオレットを諦めた
の3つになる。たった一つのシーンで3つの感情を表現しているので、彗星が流れるシーンはより一層神秘的になる。
(23分58秒〜)
ヴァイオレットとリオンの別れのシーン。
リオンとヴァイオレットが会うことはない。リオンもそのような趣旨のセリフを言っている。
それでも自分と似たオモテ族の人間と出会ったことでいくらか彼に自信がついた。
<思ったこと>
1〜5話に比べて少し物足りないといった感想を持った。
6話は今までの話と違って、ストーリーの構造が異なっている。当然、作り方も違う訳だから労力が余分にかかる。そのせいで完成度が若干落ちてしまったのだと考えられる。
具体的には(7分27秒〜)の古文書を解読するシーンは長く引っ張りすぎで、(21分21秒〜)は短すぎた。アリー彗星のシーンは6話のクライマックスなのだからもう少し引っ張っても良かった。
(23分58秒〜)でリオンとヴァイオレットが会うことはないと述べたが、仮にギルベルトが死亡していたのならば会える可能性は上がる。似た者同士なのだから案外うまくいくのではないか。
名前と戦争その1〜ヴァイオレット・エヴァーガーデン〜
ヴァイオレット・エヴァーガーデンでは名前が花に由来する登場人物が多い。
それを以下にまとめる。
5話までの主要人物の名前と花についての表である。
ヴァイオレットとアイリスは作中で述べられているが、その他のキャラクター(主に女性)も花にちなんでいる。
そして、花言葉に関してもキャラクターの性格と一致するように設定してある。
アヤメは「良い便り」、エリカは「寂しさ」、カトレアは「優美」といった具合である。
ただし、男性キャラクターについては花にちなんでいる訳ではなく、唯一ギルベルトのみがブーゲンビリアの花から取っている。ベネディクト・ブルーについては推測の域を出ないのでブルースターの花が由来になっているかは不明である。
ホッジンズについては花に関するものが名姓ともに無く、名前であるクラウディアに至っては女性名である。
男性なら通常、クラウディオなのだが公式HPを見てもクラウディアになっている。何か重要な設定があるのかどうか原作を読んでいないので知っている方がいたら教えて頂きたい。
次に国籍について
国籍はみんなバラバラで、統一性がない。そもそもCH郵便社があるライデンシャフトリヒからしておかしい。
「ライデン」はオランダ南西部に実在する港町で、舞台のモデルにもなっているが、「シャフトリヒ」の部分はドイツ語である。なおライデンは第二次世界大戦で爆撃を受けている。
第1話でホッジンズが「線路が爆撃に遭った」と言うシーンがある。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ライデン
このことからライデンシャフトリヒは多言語、多民族国家なのではないかという予想ができる。
このことについて次回説明する。
実在するライデンとアニメとの比較
CH郵便社、ライデン市庁舎、旧日銀京都支店
CH郵便社
ライデン市庁舎
旧日銀京都支店
ヴァイオレット・エヴァーガーデン5話〜オモテ族とウラ族〜
5話のテーマは「年齢を超えた愛」
シャルロッテとダミアン、シャルロッテとアルベルタの二つの年の離れた愛が描かれる。前者は恋愛だが、後者は親子の愛に近い。アルベルタは女官だが。
簡単なあらすじを説明する
仕事でドロッセル王国へ→シャルロッテに謁見→手紙(恋文)を代筆→シャルロッテのマリッジブルー→シャルロッテの回想→本人どうしの手紙のやり取り→プロポーズ→アルベルタとの別れ
嫁ぐ前に育ててくれた女官との別れのシーンは江戸時代でもよくあったそうな。
気になったシーン
(8分10秒〜)
シャルロッテが泣きながら部屋を出るシーン。
アルベルタのセリフに注目する。
「思い通りにいかないときに見せる泣き方です」
「思い通りにいかない」とはどういうことなのか。理由は二つ。
・ダミアンの手紙が代筆されたものだったから(12分00秒〜)
・結婚するとアルベルタと離れ離れになってしまうから(8分42秒〜)
(8分42秒〜)
シャルロッテがアルベルタにきつく当たるシーン。泣いている理由は上の二つなのだが、ここでのアルベルタの立ち振る舞いが印象的である。アルベルタは顔色一つ変えず、ただ側に立っている。
このシーンも含め、ヴァイオレット・エヴァーガーデンではしばしば十代の視聴者では理解しにくいシーンがある。
若者に対して大人のドラマを見せているのか、単に大人が楽しむアニメなのか、どっちなのだろう。
(12分00秒〜)
ヴァイオレットとシャルロッテが会話をするシーン。シャルロッテのセリフに注目する。
「ダミアン様は"あんな言葉"を使う方ではないの」
「あんな言葉」とは代筆された手紙の文章のことである。
しかし、シャルロッテが恋に落ちたのはダミアンのぶっきらぼうで、率直な物言いに心を打たれたからである。
ここで第2話を思い出して欲しい。
エリカはヴァイオレットの率直な言動(言葉の表)に心を打たれて自信を取り戻した。
第2話のテーマは「言葉の表と裏」であり、ヴァイオレットは言葉の表の象徴、エリカは言葉の裏の象徴であった。
以下、言葉の表の象徴を「オモテ族」、言葉の裏の象徴を「ウラ族」と呼ぶ。
それを基にこのシーンを図示すると下の通りになる。
そして、これを第5話に当てはめると下の通りになる。
回想でのぶっきらぼうな言葉からダミアンはオモテ族、結婚に不安を持ったり、(8分42秒〜)で本心とは裏腹にアルベルタに当たってしまう行動からシャルロッテはウラ族とした。
(16分56秒〜)
ヴァイオレットのアイデアで互いに手紙を書いてやり取りをするシーン。
このシーンの面白いところはダミアンの手紙をもらったシャルロッテが率直な物言い、つまり言葉の表に影響を受け、シャルロッテの手紙をもらったダミアンが自信のない感じ、言葉の裏に影響を受けているところである。
図示すると下の通りである。
(20分39秒〜)
月下の庭園でシャルロッテがプロポーズされるシーン。4話のクライマックスとも言えるシーン。オモテ族っぽいストレートなプロポーズだった。
なお5話では手紙→直接気持ちを伝えるという流れになっているが、3話と4話では直接気持ちを伝える→手紙となっている。予想だが、6話は手紙→直接気持ちを伝えるなのではないかと思っている。
(22分42秒〜)
シャルロッテとアルベルタの別れのシーン。アルベルタはドロッセル王国の宮廷女官なので、もう仕えることはない。しかし、アルベルタは「悲しいです」「もっとお側にいたかった」等の言葉は一切言わない。
シャルロッテを気遣い、「幸せにおなりなさい」と言って送り出す。シャルロッテを想い、本心とは裏腹の言葉を使うアルベルタもウラ族に分類される。
第5話はウラ族であるアルベルタの愛を受け育ったシャルロッテがオモテ族に嫁いでいくという話だったとも言える。
<思ったこと>
庭園の花や手紙に添えられたバラなど花が印象的だった。花で有名なオランダがドロッセル王国のモデルかと思ったが、シャルロッテはドイツ語圏の名前だった。また、ダミアンは英語圏の名前で、フリューゲルはドイツ語で翼という意味である。
ヨーロッパの国々をごちゃ混ぜにしている印象を受ける。
あとヴァイオレットの笑った顔を初めて見た。今後は表情が明るくなってくるのだろうか。
このアニメは退屈なのだが、不思議と何回でも見れる。アニメではなかなか珍しいことだと思う。