前回、音楽の形式(ソナタ形式)を用いた小説の説明をした。
今回も音楽の形式を用いた別の小説の説明をする。タイトルは「ヴェネツィアに死す」
「ヴェネツィアに死す」は1912年にドイツで発表された作品である。日本では明治天皇が崩御して、大正時代が始まった年。ヴィスコンティ監督の映画にもなった。これも中編小説で、壮大な作品というわけではない。
あらすじ
作家のおっさんがヴェネツィアで見つけた美少年をストーカーして死ぬ。
内容
おっさんが美しい少年をストーキングするだけの話である。面白くないどころか、気味が悪いと思う読者もいるかもしれない。しかし、この小説は美しいのである。
この小説はそもそもグスタフ・マーラーの死に触発されて作られたものらしい。主人公の名前もグスタフ・アッシェンバッハ。関連がありそうではある。
ただ、それだけで決めつけるのは早計なので、構造を見比べて確かめていく。
交響曲第5番は全5楽章、「ヴェネツィアに死す」も全5章である。
第1楽章
第1楽章は「葬送行進曲」となっている。お葬式で人々が厳かに列をなしているイメージ。だから、「ヴェネツィア」の冒頭で墓地が出てくる。主人公は墓地の近くで見つけた赤毛の男と視線が合ったことから、旅がしたくなる。
もう一つ、第1楽章は小ロンド形式になっている。
小ロンド形式はA+B+A+C+Aのメロディーで作られる形式である。
音楽の形式については、上のページに詳しい説明がある。
ということは、「ヴェネツィア」の第1章も小ロンド形式で作られているはずである。
表ー2 第1章の小ロンド形式表
A:アッシェンバッハについて B:赤毛の男について C:旅への欲求について
それぞれメロディーごとに分かれて、描写がなされている。何気ない冒頭であるが、きちんとした骨組み、つまり構造を持っている。
第2楽章
第2楽章は「嵐のように、激しい」となっている。これは若くして、才能を認められた作家アッシェンバッハの半生と対応している。大御所の地位を確立する一方で、妻を亡くし、娘は嫁に行き、一人老いていく芸術家の姿である。
第3楽章
第3楽章は「スケルツォ、楽しげ」である。スケルツォは音楽の世界では「力強く、速すぎず」という意味だが、ここでは「冗談、ふざけた」という意味合いである。
ヴェネツィアを目指して船に乗るが、そこではおしゃべりや馬鹿丁寧な態度をとる不快な人々がいた。
一番重要なのは若者の集団に紛れて、お化粧やおしゃれをした老人である。主人公はこの人物がおしゃべりでふざけている印象を受ける。ここがスケルツォに対応している。
「楽しげ」はヴェネツィアに着いてから、美少年のタッジオに出会って心を躍らせたことに対応。
第4楽章
第4楽章は「アダージェット、非常に遅く、愛」である。第4章も再びヴェネツィアに戻ってきたアッシェンバッハはそこでゆったりとした日々を送る。ここがアダージェットに対応している。
この第4楽章は愛の楽章とも呼ばれている。主人公もタッジオの微笑みを見て「私はお前を愛している」と言う。
ついついタッジオの美が注目されがちだが、アダージェットを意識するなら「愛」に注目しなければならない。
第5番を知らない方も第4楽章(アダージェット)だけは聴いておくべきである。静謐なメロディーが響く。
第5楽章
第5楽章は「アレグロ(陽気な)楽しげに、ソナタ形式」である。ソナタ形式については前回、説明した通り、(A+B+A1+B1+A+B)である。
表ー3 第5章のソナタ形式表
第1主題は問いかける、語りかけるといった「問いかける、語りかける」、第2主題は「眺める」である。(ストーカーは遠くから眺める行為なので同じ意味)
全体がソナタ形式の「トニオ・クレーゲル」に対し、部分的にソナタ形式なのが「ヴェネツィア」である。
「アレグロ」は浜辺でタッジオと少年たちが戯れるシーンに対応している。とても楽しげで、牧歌的である。
第5章の途中でアッシェンバッハは恐ろしい夢を見る。山の中で雄ヤギが現れ、人間と動物が入り乱れた乱痴気騒ぎが行われるシーンである。
とても気味が悪い夢なのだが、実は元ネタがある。ゲーテのファウストに出てくる「ワルプルギスの夜」である。同じく、山の中で開かれ、雄ヤギが出てくるのである。
そして、ワルプルギスの最中に恋人グレートヘンの死が予感される。
「ヴェネツィア」でも恐ろしい夢の後、主人公が死ぬのである。
ヴェネツィア=魔女
ところで、「ヴェネツィア」では女性がほとんど出てこない。(一応、タッジオの母親がいるがあまり関係ない)
「ファウスト」にはグレートヘンという魅力的な女性が主人公の恋人として登場する。しかし、この女性はファウストとの間にできた子供を水に漬けて殺す。悪い女性である。
同じくゲーテの「若きウェルテルの悩み」でもヒロインのロッテは魅力的だが悪い女性である。そして水に関連している。
ゲーテはドイツ人でドイツはもっとも魔女裁判が多かった国である。つまり魔女崇拝が強い。実はグレートヘンもロッテも水の魔女である。魔女だから魅力的で悪い女性なのである。
話を「ヴェネツィアに死す」に戻す。
主人公は一度は流行病を理由にヴェネツィアを離れようとするが、魅力的な街が名残惜しく(事故とはいえ)ヴェネツィアに戻る。そして戻れたことに安堵する。
結果的にこの判断が仇となり、コレラにかかってしまう。そして浜辺で死ぬ。浜辺ということは水に関連している。さらにヴェネツィアは「水の都」として有名である。
つまりヴェネツィアは女性であり、水の魔女である。
ヴェネツィアという街全体が一人の女性なのである。
女性が出てこない訳ではなく、舞台そのものが女性となっている。この小説は同性愛を描いているが、ある意味、男女の悲恋物語とも解釈できる。ファウストとグレートヘン、ウェルテルとロッテのように。アッシェンバッハとヴェネツィア。
章立て表
表ー5 ヴェネツィアに死す章立て表
「トニオ・クレーゲル」ではソナタ形式を支える構造として対句が用いられていたが、「ヴェネツィア」では対句があまり見つからなかった。手を抜いたとも捉えられるが、交響曲という構造自体が堅固かつ複雑なので対句が必要でなかったと考えるのが自然である。
冒頭、赤毛の男と視線が合って始まった旅が、愛するタッジオと視線が合って終わり、死ぬ。美しい構造である。
登場人物構成
表ー6 登場人物構成表
「ヴェネツィア」では、 登場人物の共通点がやたら多い。対句がない分、こちらでカバーしたともとれる。
冒頭の赤毛の男はタッジオと対応している。船で出会う若者のふりをしたおしゃれな老人はアッシェンバッハの未来を暗示している。彼はその後理容室で老人と同じおしゃれをするのだから。
これ以外にも共通点があるかもしれない。ぜひ読んで確認してもらいたい。
映画版のラストシーンである。日の光と海と音楽が溶け込んだ美しい場面である。
ヴィスコンティは「ヴェネツィアに死す」と「マーラー交響曲第5番」の構造に気づいていた。
だから劇中でアダージェットを流した。結果が大成功だったのは言うまでもない。
「構造を読む」世界を知る者
ここまで、「ヴェネツィアに死す」の構造を読んできた。
表面的には静かな、愛の物語であり、壮大ではない。
しかし、「構造を読む」という世界を知れば、その裏に隠された世界が広がっているのが分かる。
また、それを理解し、映画化に成功した人物もいる。
それがルキノ・ヴィスコンティである。
ヴィスコンティが劇中にマーラーの交響曲第5番を使ったということは、構造を読むという世界を知る人物が現実に存在していた、一つの証拠である。
ヴィスコンティは世界でも屈指の巨匠と言われた映画監督である。そして彼は構造を読むことができる。
これは「構造を読む」ということが、単なる一つの読み方ではなく、優れた読み方であることを示している。
読者諸兄には、この事実を強く念頭に置いてもらいたい。
ここまで、優れた構造を持つ中編小説について説明してきた。
次回は優れた構造を持つ長編小説について説明する。
この稿では「ヴェネツィアに死す」の主題について触れていない。もっと知りたい方はこちらをどうぞ。
<出典>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88
https://genalyn.com/mytrip/3250