アポロン的なるものとディオニュソス的なるものについて
こちらの続きから
「アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。
どちらもギリシャ神話が元ネタで、アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。
ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと
アポロン的=理性、明るい、善良
ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌
くらいのイメージです。
さらにここから
ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩
ややこしいのがディオニュソス的芸術の中に「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」の対立があることです。
そもそも、ニーチェはショーペンハウアーの影響を受けています。さらにショーペンハウアーはカントの影響を受けています。
カントといえば「物自体」という概念が有名です。物自体とは物の本質、人間が認識できない物そのものです(プラトン風に言うとイデア)。
哲学者たちはこの「物自体」を観察したくてたまらなかったのですが、観察できません。
それが物自体だからです。
(ここで「なぜ?」と聞いてはいけません。物自体は根拠を持たないからです。とにかくそういうものだと納得してください)
その物自体を「意志」だと言ったのがショーペンハウアーです。物自体とは意志である。そして物自体が現実世界に映し出す現象は表象である。この世界は目に見えない意志によってもたらされた表象によって形成される。「世界はわたしの表象である」
例えば重力です。地球上にいる限り上から下にかかり続ける力です。
例えば植物です。植物はどこまでも太陽をめざして成長し続けます。
例えば人間です。脳や内臓は生きるために活動し続けます。今すぐ死にたいと願っても心臓が勝手に停止することはありません。脈を打ち続けます。
以上の例の共通点は「継続すること」です。それも「死ぬまで永遠に」です。意志とは無限に努力し続けます。意志が「これくらいやったからもうええやろ」と満足することはないのです。ショーペンハウアーはこれを苦痛だと考え、生きんとする意志の否定を説きました。
さらに意志をギリシャ神話になぞらえて「ディオニュソス的」と言ったのがニーチェです。ディオニュソス的=意志=物自体。物自体を表象として現実世界に表す原理、個別化の原理を「アポロン的」と呼びます。
(注:ディオニュソス的=意志なのでアポロン的=表象と考えてしまいますが、アポロン的=個別化の原理(物自体を具体的な表象にする原理)です)
この世界は意志でできています。意志は物自体であり、無限に努力し続けるので混沌としています。つまり世界は混沌に包まれています。カオスです。
これを打開するために悟性でもって世界を理解しようとしたのがソクラテスです。ニーチェはソクラテスを嫌悪します。悟性とは直観です。しかし、何度も述べている通りディオニュソス的なるものは目に見えません。
そして、アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、相反する二つの統合したとき悲劇が誕生する。ディオニュソス的なるものの中に、アポロン的とディオニュソス的が存在するわけです。
上の段のアポロン的=ディオニュソス的なるものの象徴的表現の原理
となる。
上の段のアポロン的はディオニュソス的から生み出されたものです。やがてはディオニュソスなるものに統合されていくものです。
対して下の段のアポロン的はディオニュソス的と完全に対立するものです。
ディオニュソス的芸術の代表は音楽であるから、音楽はディオニュソス的なるものとアポロン的なるものの二つから成り立ちます。
「これだけでは分からない」という方は実際に読んでみるほかありません。ツァラストラと違って詩的な表現はないので頑張れば理解できるはずです。根性です。
読む順番としてはカント「純粋理性批判」→ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」→ニーチェ「悲劇の誕生」です。
基本的に全員二元論で語っています。ドイツの哲学者は特にその傾向が強いようです。
私の京アニ史 その1
「というわけで京都アニメーションについて語っていく」
「唐突やな」
「いつものことだし慣れたやろ」
「語るはいいが、なぜ京アニなのか」
「まあなんだ、思うところがあんねん」
「左様か」
「今回は『私の京アニ史』と銘打って、今まで見てきた京アニ作品を感想や個人的な思い出を交えながら振り返っていく」
「ええんやないの」
「そしてここがミソなのだが、紹介する順番は『作品の発表年順』ではなく『視聴順、見てきた順』で行う。こうすることでアニメ語りと自分語りを同時並行でやれるっちゅう寸法や」
「はあ」
「記憶とともに京アニを振り返る。あの頃に想いを馳せる。よみがえったほろ苦さに胸が痛む。なんともセンチメンタルではありゃせんか」
「君の過去なんて大して興味ないけどな」
「冷めてるな」
「そうか」
「せやで」
「趣旨は分かったが、数はどのくらいなんや?さすがに全作品は付き合いきれんで」
「2期や映画版も1期と同一作品にして勘定すると、ざっと16やな」
「そこそこ見てるかな、くらいか」
「せやな」
「では、そろそろ始めてくれ」
1.らき☆すた
「妥当やな」
「Kanonとかハルヒとかは深夜アニメに開眼してからで最初はこれやね。もっとも京アニという名前すら知らなかった頃だが」
「冒険の旅に出るわけでも王子様と恋愛をするわけでもなく、ひたすら女子高生がだらだらおしゃべりをして30分が終わる。まさにカルチャーショックやったな」
「日常だからどうしても絵がだれる。普通にやると飽きる。そこを軽妙な会話としっくりくるBGMでカバーしておる」
「試しに画面を見ずに耳だけで鑑賞しても楽しめるかもしれん」
「教室の窓から見えるグラウンドや下校中の街並みといった風景も味があってよろしかった」
「OPは今振り返ると、ちょっと恥ずかしいな」
「そうなんか」
「背筋がゾクゾクするというか思わず画面から目を反らしてしまう」
「共感性羞恥か」
「そうとも言う」
「しかしだな、あの当時あれが流行ったという事実を避けて、過去から目を背けて、果たして君の京アニ史というもんはできるのかね」
「それはそうやな」
「せやろ」
「まあ特に個人的なエピソードは無いんやけどね」
「なんやねん」
「家族でテレビ見てるときに、OP映像が流れて時間が止まったくらい」
「誰しもが通る道である」
2.日常
「続いてはこれ」
「意外というか、いきなり飛びすぎやろ」
「あの頃は忙しかったり、他に興味があったりしたんや。オタクと言えるほどアニメ好きでもなかったし」
「背中にネジついた少女が曲がり角で大爆発した第一話見て目を丸くしたのを覚えとる。あんな美麗な作画を、あんなくだらないことに使ってるのが可笑しくて仕方なかった。原作コミックも買ってしまったわ」
「一番心惹かれたのはエピソードの間にある定点映像で、生活音しか聞こえん謎の数十秒間は、えも言われぬ快感やったわ」
「案の定、ネットでは尺稼ぎだと叩かれていたな」
「無念」
「そういや「日常」のウィキペディアでこんなのを見つけたのだが」
「ジャンルがポストモダンギャグになっているな」
「シュールなら分かるが、ポストモダンギャグってなんやねん」
「意味不明である」
「今回はここまで」
「なんや、これだけかいな」
「期待しとるやつは、追々出てくるから待っとって」
「左様か」
「こんな感じのシリーズを年末年始にかけて、更新していくつもりですので」
「何卒よしなに」
「していただければと」
「それでは」
「ご機嫌よう」
「悲劇の誕生」に至るまで
と言っても読み解きをする余裕はないので、簡単なまとめをするにとどめておく。
ニーチェといえばツァラトゥストラのようなユーモアに富んだ檄文が有名である。「悲劇の誕生」にもその片鱗を見せているが、一応しっかりとした散文である。
要するに、普通の哲学書なのだが、普通の哲学書というのは凡人には理解しがたいもので、やはり読み解きが必要なのかもしれない。
文学の読み解きでは巻末の解説頼りにしないが、今回は哲学なので訳者解説の力を借りていく。
能書きはこの辺にして本題に入る。以下、哲学論議が目的ではないのでざっくりとした捉え方で進めていくがご容赦願いたい。
まず、「悲劇の誕生」の前にカント、ショーペンハウアーの哲学について軽く触れておく。なぜ触れなきゃならんのか、というとニーチェの哲学は彼らを大前提にしているからである。(哲学とは往々にしてそういうもんである)
それは彼が物自体を「盲目的な生きんとする意志」と呼んだことに起因する。
物自体とはカントが生み出した概念である。物自体は経験を生み出すなにかであり、それを我々は認識できない。目で見えるのは現象であり、その背後にある物自体は認識できない。
引用の引用になるが、上のブログ内にある物自体をDVDとするDVDプレイヤーの例えはとても分かりやすい。
カントは大陸合理論とイギリス経験論を総合して物自体を考え出した。
大陸合理論は理性重視、つまり演繹である。
イギリス経験論は実験重視、つまり帰納である。
総合して作ったと言われるが、非常に中間的な概念である。理性と経験、相反する二つのバランスを取った概念。
ショーペンハウアーに戻る。
彼はカントの哲学を引き継いでいる。
彼によると物自体は意志でできている。木の成長や人間の行為(胃や腸の働き)も意志の表れである。そして盲目的である。意志とは目的を欠いた無限の努力である。また表象(現象)は意志(物自体)によって生じる。
そして木が絶えず成長しようとするように、人間の意志も絶えず欲求を生み出し、人間は常に不満足になる。苦しい。そして知性が増すほど苦しみも増していく。すなわち生き続ける限り人間は苦しみ続ける。
これを回避するには生きる欲求を否定、意志を否定しなければならない。
この部分がショーペンハウアーは悲観主義だ、諦観だと言われるゆえんである。
さきほどのDVDの例えで言うと、
物自体=DVDディスク
表象=ディスクを再生して見れるテレビの映像
根拠の原理=DVDディスクの構成部品
となる。この中で、根拠の原理に含まれる個別化の原理について注目する。
個別化の原理は時間、空間という感性の形式を意味する。(個別化の原理は「悲劇の誕生」に深く関わってくる)
かなり駆け足のまとめになってしまったので詳しくは「意志と表象としての世界」を読まれたし。(そういえば漫画「少女終末旅行」に出ていたのを思い出す)
そして、ニーチェは以上を踏まえて「悲劇の誕生」を展開している。
これについては次回。
ゲーテについて
魔の山コツコツ読み解いている。
しかし、非常に時間がかかる。なので息抜き代わりに雑文を投稿する。
トニオ・クレーゲルやベニスに死すもそうだったが、トーマス・マンの文章は一文が長く、難解で、くどい。胃もたれしてしまう。そしてこの濃厚な感じが最高潮に際立っているのが魔の山である。読むだけで一苦労。さらに大長編。ドイツ文学の傑作と言われながら、さして内容について議論されていないのもうなずける。
愚痴はここまでにして気になったことを書く。
第6章6節でナフタの生い立ちが語られる。ここで彼が発したとある文章を抜粋する。
ナフタは現代で言う逆張りに近い性格なのだが、「ゲーテがカトリック的」というのは大変興味深い。
もちろんゲーテはプロテスタントである。ルターと同じドイツ人なのだから不思議はない。プロテスタントは聖書主義で、聖母マリア信仰を毛嫌いする。反対にカトリックはマリアを非常に大切にする。
ゲーテもプロテスタントだから当然聖母マリアには否定的なはずである。しかし、そうではなかった。
fufufufujitani氏のまとめにあるように、ゲーテは勇気をもって抗議した。聖母信仰どころか、女性を教義に組み込めというとんでもない要請をしたのである。
かなり危険なことを書いているがばれなかったようである。(もっとも第二部は死の直前に刊行している。この点抜け目ない)この辺からドイツでもさして読み込まれていないのだろう。
それでも後輩のマンは気づいたみたいで、それが「ゲーテはカトリック的な一面がある」という一節に繋がる。文豪同士の高度なコミュニケーションを見せつけられた気分である。
魔の山にはワルプルギスの夜という名の章がある。ファウストとも因縁深いこの作品と今しばらく格闘する所存である。
まどマギを語るつもりが脱線しまくるの巻
「ごきげんよう、みなさん」
「気づけば夏も終わりすっかり秋色になりましたが」
「いかがお過ごしでしょうか」
「ということで早速、『魔法少女まどか☆マギカ』について喋っていこうかなと」
「唐突やな」
「BSで再放送してたからな」
「では聞かせてもらおうか」
「偉そうに」
勤労
「上の記事では『まどマギは段々と勤勉になってゆく、勤労が自己目的化してゆく物語』とある」
「これは恐らく正しい」
「まどかの母親が愚痴を言いながらも働いている姿から勤労が重要な要素だと分かる」
「父親のセリフに『仕事が好きなのではなく、頑張るのが好き』『苦難を乗り越えた時の満足感が宝物』とあり、彼女は家族のためではなくあくまで自分のために働いている、勤労が自己目的化している」
「ある意味まどかの未来を暗示していると言える」
「次に暁美ほむらについてなのだが」
「彼女は時間を戻す能力と止める能力を持っている。それらを駆使してまどかを守り、ワルプルギスの夜という魔女を倒そうとする」
「さらに元を辿ると、シェイクスピアの夏の夜の夢になるのだがそこは割愛する」
「『ワルプルギスの夜』なんてカッコイイ名前だからアレやけど、要するに乱交パーティーで、流石にそのまま描写したら不味かろう、ということで分かりにくく描いている」
「現にファウスト第一部の中でも、魔女や人間など登場人物がやたら入り乱れる難解な箇所ではある」
「ま、口に出しづらいことを何とか伝えるのが文学的表現でもある訳なんで」
「この辺はゲーテさんも苦労したのではないでしょうか」
「まどマギでも歯車のついた魔女が真っ逆さまになって鬼火を出している程度に抑えてある」
「最近は知らんが、日本でもお祭りで若いエネルギー暴走して盛り始めてしまう人々が田舎だといる」
「ああいうのに出くわすと、ついつい謝ってしまうのはなんでなんやろか」
「こっちはなんも悪くないのにな」
「話が逸れたな」
「せやな」
ループ時間
「話を戻すと、ほむらはワルプルギスに勝てないので過去に戻ってもう一度やり直す。これを繰り返す」
「いわゆるループ物ってやつやな」
「ハルヒのエンドレスエイト、シュタインズ・ゲートとかでお馴染み」
「毎回、微妙に違うんだけど結末は同じになってしまうんやな」
「これに関してはファウストがモチーフになっていることを考えると深い意味をもってくる」
「そもそもファウストはキリスト教的世界観に異議を申し立てた、もっと言うとアンチ・キリストの書である」
「中でも時間の捉え方に文句を言うたことがまどマギに関係してくる」
「キリスト教の時間観は始まりと終わりがあってそこを一直線に流れる。直線的な捉え方をする」
「ところが、ゲーテはそれを否定する。そんでもって時間は円環的やと、始まりも終わりもない、ループするもんやと主張する」
「ループ時間は第二部古代のワルプルギスの夜に登場するホムンクルスで描かれてるが、まどマギだとワルプルギスと闘い、時間をループさせる暁美ほむらになる」
「こういうところを見ても、ただ単にガワだけ真似したんではなく、ファウストの中身をきっちり読み込んで作られていることが分かる」
「ちなみに時間停止能力は『時よとまれ、そなたは美しい』からきている」
聖女の救済
「結局、ループでは勝てへんからまどかが概念、円環の理になって魔法少女を救う訳だが」
「これはラストの有名なフレーズ『永遠にして女性的なもの』なんやろうね」
「ファウストがグレートヘンの祈りによって救われるように、魔法少女たちはまどかの祈りによって救われる」
「過去現在未来すべての魔法少女を救済するのだから、まどかのガッツは相当なもんやで」
「それもループ時間のお陰やな」
「あとラストはキリスト教教義における女性の編入を訴えたものなのだが」
「まどかの母親はキャリアウーマンで、代わりにお父さんが専業主夫をやっている」
「こういう家庭は現代だからそこまで不思議なことではないんやけどね」
「女性が重要なのを示していることが分かる」
円環の理
「にしてもこの円環の理という概念、非常に仏教的だとは思わんか」
「苦しみ続ける魔法少女が円環の理によって消滅する=輪廻から解脱する、と考えるとそれっぽいかもしれんな」
「まどかは聖女でもあり、如来様でもある訳やな」
「うむ」
日本的時間観
「そんでもって、いよいよ劇場版『叛逆の物語』にてほむらの救済が行われようとしたとき...」
「まさに叛逆が起きる」
「これはTV版最終回で魔獣という敵の姿が僧侶であったことと合わせると、仏教的なループ時間の否定だと思われる」
「ファウストをモチーフにしてるならループ時間は肯定しないとあかんやろ」
「恐らくここがまどマギ独自の部分で、時間とは直線でもあり円でもある、つまり折衷的なものだという時間の捉え方をしている」
「なんだかややこしくなってきたな」
「まどマギが複雑なアニメであることは多くの人々が気づいているはずや」
「折衷型で代表的なのは日本神話やな」
「天地開闢という始まりはあれど、終わりははっきりしていない」
「『一月一日』にあるように『終わりなき世のめでたさを』なので」
「ちなみに『君の名は。』は折衷型の時間観だったりする」
「紐は一直線にもなるし、丸く円にもなる。折衷的なのをさりげなく表現している」
「まどマギだとまどかのリボンになる」
「劇場版の最後でほむらがまどかに渡しとったな」
「ファウストだのなんだの言ってきたが、結局日本の価値観になってくる訳やな」
「とはいえほむらが悪魔化してたので、あそこから二転三転してどこに着地するか分からん」
「確実に言えるのはまどマギはファウストを吸収し、魔法少女の物語にうまく組み替えて、上積みをしようとしたということやな」
「錬金術師が魔法少女に、メフィストフェレスがインキュベーターに、など言い換えが面白い作品だった」
「単純に魔法少女らしからぬ展開が面白かったのもあるけどな」
おわり
「まあ偉そうに色々言ってきたが、もう少し研究しないと何とも言えん」
「ええんかそれで」
「しゃーない、どなたかにお任せしたい」
「お前はやらないのか」
「面倒なので遠慮しておく」
「適当やな」
「しゃーない」
「ということで長々喋ってきましたが」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
<関連>
2011年は震災の年ですが、まどマギ、あの花、ピングドラムが出た年でもあります。
「歯車」解説【芥川龍之介】
「歯車」は1927年(昭和2年)発表の芥川龍之介の短編です。
川端康成や堀辰雄ら名だたる作家が「傑作だ!」と称賛しました。しかし、普通に読むと普通に意味不明です。話らしい話のない、暗く欝々とした、死のイメージに満ちています。
あらすじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF%E8%BB%8A_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
あらすじはウィキペディアにあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/40_15151.html
本文は青空文庫にあります。短編なのですぐに読めます。
対称構造
「歯車」は全体が6章で構成されています。
表の通り、対称構造です。鏡のようだから鏡像構造とも言えます。1章と6章、2章と5章、3章と4章がそれぞれ対になっています。
「本当か?」と思っている方もいると思うので、次は章内部を詳しく見ていきます。
対称構造(内部)
・1章と6章
1章と6章に関しては、多くの研究者が対になっていることを指摘していました。恐らく読んで気づいた人もいたと思います。冒頭が非常に似ているからです。
以下、対応関係です。
自動車に乗って結婚披露式へ向かう⇔自動車に乗ってると葬式を見かける
車内でレインコートの幽霊の話をする⇔運転手がレインコートをひっかけている
T君杖の柄を左に向ける⇔小道の右側に火事のあった家
西洋髪のみすぼらしい女はかつて洒落た格好をしていた⇔火事のあった家はかつて西洋家屋だった
右目に半透明な歯車が見える⇔右目の半透明な歯車が回りだす
翼の音がする⇔飛行機の音がする
・2章と5章
スリッパの片方がない、ギリシャ神話(イアーソーン)想起⇔車のタイヤに翼がある看板、ギリシャ神話(イカロスの翼)想起
火事を見て不安になる⇔日の光苦しい
大きいネズミが出る、白い帽子のコック冷ややか⇔「Black and White」というウイスキーを飲む
レストランに行くが引き返す(テーブルの上にリンゴとバナナ)⇔バーに行くが引き返す(赤い光が照らしている)
背後で復讐の神を感じる⇔悪魔に苦しめられる
・3章と4章
ナポレオンの肖像画を見て不安感じる⇔ベートーベンの肖像画を見て滑稽に思う
右目に半透明な歯車が見える⇔旧友の教授の左目から出血
停車場で大学生と年増の女⇔カフェで恋人のような息子と母親
遠くから見ても緑色のドレスのアメリカ人女性⇔遠くからだと綺麗だが、近づくと醜い断髪の女
「歯車」を作る上で、芥川が参考にしたのが漱石の「夢十夜」です。漱石は芥川の師匠に当たるので、お手本にしたのでしょう。
「夢十夜」も全体が対称構造となっています。幻想的で暗い雰囲気も歯車と似ています。歯車は夢十夜の後継作品なのです。
とはいえ、漱石が10章なのに対し、芥川は6章です。単純に数で考えれば漱石の方が凄いです。3個のペアより5個のペアを作る方が大変に決まっています。
技術の進歩
技術とは常に進歩しなければなりません。
「昔のほうが凄かった」と言う人は多いのですが大抵錯覚です。昨日より今日が、今日より明日が良くなっていかなければ駄目です。
小説も同じです。
芥川も漱石が積み上げたものの上に新たに積み上げようとしています。小説の技法もまた常にアップデートされていきます。
流れを作る工夫
芥川が考えたのは「流れを作る工夫」でした。
「夢十夜」は確かに構成的でした。その反面、個々の話がバラバラになってしまうという欠点も抱えていました。要するに、全体としての流れが悪いのです。
そこで「歯車」では、章と章の間に共通要素を結ぶことで流れを作っています。
3-4間は元々対応しているからやる必要ないと思うのですが、几帳面に結んであります。
芥川は「夢十夜」の対称構造に気づくと同時に、その欠点も発見しました。そこから改善方法を考え、生まれたのが「歯車」です。まさに技術のアップデートです。川端や堀が絶賛したのも恐らくこの点です。
10章から6章に減らしたのは難易度が高すぎたからでしょう。対句をやる上に共通要素を結ぶとなると、いかに芥川といえど10章やるのは無理だったようです。6章でも偉大ですが。
引用:https://note.com/fufufufujitani/n/n6039e0dd7a98
黒澤明の「夢」も「夢十夜」の後継作品です。実は黒澤も流れを作る工夫をやっていました。芥川は黒澤にさきがけていたのです。最も、黒澤が「歯車」を読めていたかは定かではありません。
話らしい話のない
「歯車」はガチガチの構造から分かる通り、かなり力を入れた作品です。病的なまでにこだわっています。その一方で、物語全体は支離滅裂としています。何かあると思って読み込もうとすると、闇に引き込まれてゲシュタルト崩壊しそうになります。
なぜこうなってしまったのでしょうか。
作者の精神状態もさることながら、自分の才能以上のことをやろうとした結果、ストーリーが崩壊してしまったと考えられます。
例えば、「戯作三昧」では対句こそ多いものの、全体としては自然な三部構成になっています。小さいながらも綺麗にまとまっています。
また「河童」では「ガリバー旅行記」を下敷きにしていますが、ガチガチに対応させているわけではなく、物語に重点を置いています。
引用:https://note.com/shao1mai4/n/n59e2921a76e9
西洋文化の吸収
どうも、芥川は頑張りすぎてしまったようです。
芥川が生きた日本では、西洋文化流入に伴い、江戸時代までの絶対的価値観の喪失が発生しました。いわゆるニヒリズムです。
これを解決すべく明治以降の作家たちは日本文化と西洋文化の狭間で苦しみ、死んでいきました。芥川もその一人です。
過去を失った日本を何とか救おうと、必死に新しい価値観を作ろうとしますが、結局失敗してしまう。「歯車」の世界観はまさに芥川の、近代知識人たちの絶望そのものだったのです。
「歯車」のラストで主人公の右目に映る歯車が回りだします。歯車は近代化(工業化)の象徴です。それが回りだす、つまり元には戻れない。近代化を止めることはできない。そして主人公は「殺してくれ」と願う。苦しいですね。
結論から言って、西洋文明の理解に必要だったのは西洋の宗教、キリスト教の理解でした。
芥川もなんとなく直感で分かっていたようで、キリシタンを題材にした作品を書いています。現に、「歯車」でもリンゴ(=原罪の象徴)が出てきたり、聖書会社の老人が出てきます。
ただ核心部分にたどり着けず、途方に暮れています。
キリスト教理解に必要なのは、聖書もさることながら「三位一体教義」を理解することでした。
特に、聖霊の概念は日本人にはイメージしづらいです。
しかし、芥川が発狂しそうになるまで頑張ったことで、後輩たちが西洋文化の吸収に成功します。彼の努力は無駄ではなかったのです。
「さらざんまい」との関係
2019年に放送されたアニメ「さらざんまい」は芥川の河童と戯作三昧を下敷きに、人と人とのつながりを描いた作品です。監督はウテナやピングドラムで有名な幾原邦彦さんです。
さらざんまい6話で歯車が出てきます。春河がすり潰されそうになる奴です。
ただそれだけで、特に物語には関係なさそうに見えます。
さらざんまいの解説記事です。読めば分かる通り、さらざんまいの全体構成は歯車と同じ対称構造です。
上の記事を参考に章立て表を作ってみます。
綺麗な対称構造です。
6話の真ん中でちょうど折り返せるようになっています。
幾原監督は「歯車」の構造が読めています。だから6話で歯車を登場させました。そして「歯車」は6章構成です。優れた読み込み能力です。
ちなみに、流れを作る工夫は行っていません。そこまで凝る必要はないと判断したのでしょう。賢明です。
さらざんまい、構成力のある奥深いアニメだと思うのですが、最終回は少し慌ただしかったです。セリフもかなり多く、ギリギリ時間内に間に合わせた印象があります。
こうなると「なんで2クールにしなかったの?」「せめてあと1,2話増やすべきだった」という意見が出てきそうです。大人の事情があったにせよ、11話にこだわった理由があります。
まず2クールで対称構造を作るのは難易度が高いです。だいたい26話前後あるので、10個以上は対を考えなくてはいけません。恐らく無理です。
例えば、小説では長編になればなるほど全体構成が緩くなります。作者の才能は関係ありません。そういうもののようです。代わりにキャラ配置を徹底します。
12話や13話では駄目なのか、に関しては6話をちょうど真ん中にしたかったからでしょう。理由はもちろん歯車を登場させるためです。
という感じで、色々考えられるのですが、一番の理由は「芥川龍之介への敬意」でしょう。
芥川は短編の名手として知られる作家です。彼の作品のほぼすべては短編小説です。(「邪宗門」という長編を書こうとして挫折しています)
そんな彼への尊敬を表現するために、できるだけコンパクトに作ろうとしました。さりげないですが。
<参考>
「ピングドラム」では「さらざんまい」ほど構成凝っていません。理由は2クールだからです。その分キャラ配置にはこだわっています。少々エキセントリックですが。
「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」を見たの巻
(以下、ネタバレします。ご注意下さい)
謎多き女性
牧之原翔子は中学生です。心臓が悪くて入院しています。
しかし、大人になった牧之原翔子もいます。未来からやって来たそうです。理由はこれから起きる事故で死ぬ主人公を救うためです。
その後色々あって、主人公を過去の世界に送ります。夢を見るとかなんとかで行けるそうです。
ラストで死んだはずの翔子が転生しています。
ちょっと難しい?
設定に無理があります。
夢を見る云々で過去に行ったり、転生したり、と訳分かりません。もしくは私の理解力が無いか、です。「今のはどういう意味だ?」と考えながら見てたので。原作ではもうちょっと丁寧な説明があるのではないでしょうか。
ぶっちゃけ文句の付けどころなのですが、何か理由がありそうなので考えていきます。
「青ブタ」の登場人物は、「涼宮ハルヒシリーズ」と「物語シリーズ」を下敷きにしています。二つの作品の特徴を活かしたハイブリッドな作品を目指したのがこの作品です。今回のストーリーに関係してくるのは「涼宮ハルヒの消失」と「傷物語」です。
と言えば聞こえはいいですが、難易度が上がるので無理が生じます。急にタイムリープするだなんて言われてもびっくりですから。未来の組織に所属している、とかだったら分かりますが。(あと主人公の言動が若干古い)
もう一つ、ハイブリッドは欠点を無くすのに効果的な代わりに、長所が薄まります。「青ブタ」はハルヒとかと比べると、引き込まれる感じは弱いですから。
しかし、登場人物とても魅力的です。それぞれのキャラについては以前やったので、今回は牧之原翔子に注目していきます。
消失
牧之原翔子は朝比奈みくると対応しています。
高校生と未来からきた大人版の二人のみくる
中学生と未来からきた大学生の二人の翔子
みくるは、胸に黒子がある
翔子は、胸元に傷がある
みくるは、主人公を過去で待っている
翔子は、主人公を過去へ送る
最後のは対応というより、対句です。
翔子は忍野忍と対応しています。
忍は、心臓を抜き取られていました
翔子は、心臓を患っていました
忍は、主人公の血を吸って生きながらえます
翔子は、主人公の心臓を移植してもらって生きながらえます
忍は、主人公に自分を殺すよう仕向けます
翔子は、主人公に自分を(間接的に)殺すよう仕向けます
忍は、ラストで無害で無表情な残りかすのような存在となり主人公の血を吸っています
翔子は、ラストで転生して笑顔で主人公を振り返ります
これも最後のは対句です。この対句が恐らく最重要ポイントです。
なぜ下敷きにしたのか
そもそも、なぜこんなオマージュをする必要があったのでしょうか。魅力的なキャラにはなりましたが、作品の面白さにはつながるとは限りません。
思い返すと、「青ブタ」は「自分と他者」との関わりを描いてきたアニメでした。
ネットであらぬ噂をウワサを立てられ孤立する咲太、有名人であるがゆえクラスで距離を置かれる麻衣、LINEでいじめられ不登校になる花楓、周りの目を気にする古賀、姉と比較されるのどか、裏垢で自撮りを投稿する双葉。
SNS関連のものが多いですね。こうした人間関係のストレスから思春期症候群を発症します。
自己の内面
しかし、「ゆめみる少女の夢を見ない」では「自己の内面」がテーマになっています。翔子の思春期症候群は「成長したくない自分」と「成長したい自分」が分離したことが原因でしたから。
「消失」では、キョンが自問自答してSOS団との関わり方を変えます。「自分ともう一人の自分」です。自分の内面を見つめ直すのです。長門の物語が強調されがちですが。
選択すること
では、「傷物語」を下敷きにしたのはなぜでしょうか。
恐らく、「みんなが不幸になる選択への批判」です。
咲太は麻衣さんも翔子さんもどちらも救いたい。しかし、どちらか選ばなければなりません。決められなかった結果、麻衣さんが死にます。みんなが不幸になります。最悪の選択です。
「傷物語」では、阿良々木くんが忍と羽川たちのどちらも救おうとした結果、みんなが不幸になる選択をします。最悪の選択です。
「ここにいるみんな全員救いたいんだ!」っていうのは綺麗ごとです。できるのならそうするに越したことありませんが、現実ではそう上手くいきません。優先順位つけて選択しなければいけません。
ご都合主義
だからラストの翔子の笑顔は「誰かを捨てて誰かと生きる選択の肯定」です。「阿良々木くんへの批判」とも取れます。搾りかすになった忍と転生して笑顔になった翔子。結局3人生き延びたのは、ちゃんと麻衣さんとの生きる道を選択できた(翔子さんを捨てた)咲太へのご褒美です。
つまり、綺麗ごとを否定するためにご都合主義をしています。矛盾しています。訳分かりません。
「ご都合主義だ!」「幼稚なハッピーエンド」とか言われそうですが、私は良い終わり方だと思います。良いじゃないですか、ご都合主義。綺麗ごとより数倍マシです。覚悟決めて残酷な選択をしたからこそ、あの笑顔が嬉しくて、切ないです。
エンディングテーマ
エンディングの曲は感傷的で好きなのですが、映画館で聴くとより切なく感じました。オープニングは流さなくて正解ですね。雰囲気違いますから。
余談
初っ端からテレビ版の続きが始まるので、初めて見た人はびっくりしたかもしれない。びっくりしたといえば、麻衣さんが轢かれたシーンで音が急に大きくなったのは心臓に悪かった。
結局、翔子が「成長したい自分」と「成長したくない自分」を切り離したことと未来からきた翔子が同一人物になる理屈が分からなかった。「咲太の心臓の翔子」と「麻衣の心臓の翔子」と「転生した翔子」が全員違うから混乱した。
色々言ってきたが、まだ一回見ただけなので偉そうなことを言ってはいけなかった。少し時間空けてもう一遍見返そうと思う。
最後に、隣の高校生が号泣していた。
「消失」も雪の降る中、自己の内面を見つめます。音楽も切ないです。
オランウータンの尻子玉
先日、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」を読んだ。密室殺人を題材にした世界初の推理小説とのこと。
読んでみると普通に楽しい。
ただ、冒頭の「分析能力が〜」という謎の能書きが気になった。ちょっと長ったらしい。チェスの話まで脱線するし。書く必要あったのか。
さらに文中に「上手というのは、通常構成的ないし統合的能力の現れで、〜」とある。
展開としては、その後に事件が発生し、殺人現場の様子やら近くにいた人の証言が述べられる。
恐らく、これらの断片情報を分析・抽出し、統合することで犯人を導き出すという流れが冒頭で暗示されているのだろう。
コンラッドの「闇の奥」である。
「モルグ街」は1841年、「闇の奥」は1899年。(ちなみにシャーロック・ホームズが初登場した「緋色の研究」は1887年)
fufufufujitaniさんが指摘するように「闇の奥」の登場人物統合戦略は「モルグ街」から来ていると思われる。
モルグ街では登場人物の証言や状況証拠といった断片情報を統合して、犯人のオランウータンにたどり着く。
闇の奥では行く先々で出会う登場人物の特徴が統合して、人類の厄災であるクルツにたどり着く。
クルツの身長は2メートルくらいある。オランウータンはそこまで大きくないが、似てなくもない。クルツ=オランウータン
インド諸島の奥地にいたオランウータンを連れてきたのは船乗りで、闇の奥の語り手マーロウも船乗りである。コンラッドが下敷きにした、とまでいかなくともアイデアのヒントにはしたと考えられる。
そして「グレート・ギャツビー」である。
グレート・ギャツビーは闇の奥の後継作品で、主人公の人格がクルツ同様、他の登場人物たちの人格を統合したものになっている。
さらには、作品自体が過去の文芸作品をいくつも下敷きにして統合されたものである、という二重の意味で統合戦略がなされている。
先ほどのNAVERまとめによると名作5本分の統合になっている。どうもこれに「モルグ街の殺人」も下敷きの一つに加えて、6本になりそうだ。
グレート・ギャツビーでも殺人が起きる。デイジーがマートルを轢いてギャツビーと一緒に逃げる。そのギャツビーも最後に死体となっている。誰が殺したのかは断定できない。
そもそもこの小説自体、語り手ニックの視点から曖昧な断片情報しか出てこないので犯人が特定できない。ホームズもいないのでどうしようもない。
フィッツジェラルドのことだからもっと分析すれば元ネタがまだまだ出てくるかもしれない。
なんでこんな話をしているかというと、放送中の「さらざんまい」も元ネタがたくさんあるアニメだからである。
「輪るピングドラム」の解説やった時、幾原監督は宮沢賢治に似てると思ったのだが、下敷きをいくつも重ねたがる感じフィッツジェラルドに似てなくもない。
(ウテナもオマージュいっぱいあると思うのですが確信がありません。幾原マニアの方どうでしょうか)
そして賢治とフィッツジェラルドは同い年なのが面白い。単なる偶然か、それとも村上春樹さん経由で間接的に似てる、という可能性も考えられる。
「さらざんまい」も芥川の「河童」をはじめ下敷きが何枚も出てくる。まあ下敷き何枚も重ねてるから凄い!というとそういう訳じゃないのだが、その辺は最後まで見て判断する。
<参考>
熱心なサラザンマーは絶対に読むべし
こちらは「ピングドラム」です。
飽和するアニメ
「暇なのでアニメについて話していこうかなと」
「唐突やな」
「別にええやろ」
「ええけど」
「今期で一番面白いと思ったのは『かぐや様は告らせたい』」
「その心は」
「頭空っぽで楽しめるから」
「それは貶してるんとちゃうんか」
「いや褒めてる。シンプルなのがええねん。最近の作品はどうも難しいことをやろうとしたり、テーマを詰め込みすぎてパンクしている作品が多いような気がしてならん」
「だけど難しいことやらんと人々を感動させることなんてできないやろ」
「これはなんぞ」
「溶解度のグラフや。理科の実験で水に食塩やミョウバン入れたり、中学校で習わんかったか」
「それは分かっとる。これがどうアニメと関係あるんや」
「アニメがパンクしているのを例えるなら飽和している状態のことで、つまり一定量の水に対して色々なものをどかどか入れすぎてるのでは、ということや」
「水を増やせばええやん」
「水を増やす=話数を増やすということなんやが、深夜アニメは基本1クール12話で2クールやらしてくれることはそうそうない」
「じゃあグラフにあるように加熱して水の温度を上げればええやん」
「水を沸騰させる=物語のボルテージを上げるということなんやが、作画や脚本にどれだけ力を注いでも、いまいち盛り上がらなかったアニメが数多存在することを考えると並大抵の作業ではないと思われる」
「ちょっと前にやってた『色づく世界の明日から』が典型的やな」
「映像も音楽もキャラクターも良いのに、内容詰め込みすぎて飽和しとった」
「12話で魔法やら過去のトラウマやら人間関係やらを描くのは無理がある」
「本当は2クールでやる予定だったのに1クールになってしまった、というウワサもあるそうな」
「世知辛いな」
「絵がきれいなだけにもったいない気持ちになる」
「こういう例は過去にもあったようで」
「はるか昔にワーグナーの『ニーベルングの指環』という15時間くらいあるオペラがそれに当たる」
「ゲルマン伝説、宗教、貨幣など内容を盛り込みすぎたのが原因やな」
「こちらの解説に詳しく書かれている」
「あとはこんな例もある」
「これはなんぞ」
「再結晶や。グラフの通り、加熱した水溶液を冷やすとその分だけ溶けてた物質が析出するんや」
「だから、それのどこがアニメと関係あるんや」
「さんざん大風呂敷を広げておいて、最後間に合わんくて畳みきれなかったみたいなアニメあるやろ」
「おう」
「極限まで高まった物語のボルテージが最後の最後でイマイチな終わり方をさせられると急激に冷めるんや。そして飽和する。この現象を再結晶に例えた」
「具体的にはAngel Beats!とかか」
「あれも面白いんだけどな」
「あの作品はノスタルジックかつエキサイティングな演出で、緻密な脚本と少年少女がイデオロギーに対して絶妙にドラマツルギーで…」
「何を言うとるんや」
「こう書くとなんか偉いこと言ってる風に見えるやん」
「カタカナ言葉並べてるだけで大したこと言うてないやろ」
「せやで」
「冗談はさておき、やはり安パイでいくなら溶かす物質の量を減らす=内容を詰め込みすぎないに限る」
「なんか寂しい結論になったな」
「そうか。現に『かぐや様』は内容こそ薄いが、キャラクターの喜怒哀楽やらちょっとした掛け合いやらが面白くて人気が出てる」
「物語の余白を楽しむというか、ある程度余裕があるアニメを見たいという気持ちは分かるな」
「あと出てくる女の子が可愛い」
「...」
「なんや」
「いや...そういうところはオタクなんやなと」
「ほっとけ」
「オタクはほっといて、テレビアニメは構成よりキャラ重視なのは『青ブタ』を見て分かったしな」
「アニメはキャラ戦略が命やな」
「せやな」
「ごちゃごちゃ言ってきたが、今回伝えたかったのは、作品作るうえで大切なんは盛り込めるテーマの溶解度(限界値)をわきまえることで、『無理なもんは無理』と開き直る精神が大切っちゅうことや」
「分かっててもそれができない実情もあるわけなんだが」
「それに関しては、どうにもならん」
「冷たいな」
「しゃーない」
「言いたいことは大体終わったけど、なんかあるか?」
「他に気になったアニメは?」
「『夜は短し歩けよ乙女』というのを見た。湯浅監督はデビルマンのリメイクで知ってたけど、思ったよりもファンタジーだった。ちょっと演出のやりすぎでヤク中の幻覚かなと思った箇所もあったけど、ドタバタ感が大学生っぽくて面白かった」
「Twitterでは『どろろ』と『モブサイコ』が人気みたいやけど」
「見てない。漫画読んだしええかなと」
「適当やな」
「他は?」
「展開予想はせんのか?」
「やろうと思ったけどめんどくさくなったからやめた。次やります」
「なまけもんが」
「やる気が出なかったからしゃーない」
「という感じで」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
SAOについて
分析は面倒なのでやらない。感想だけ置いておく。
SAOというアニメがある。ゲームの世界で主人公が剣で戦うのだが、中二病全開で正直痛い。十代向け作品。大人になってから見るもんじゃない。
でも、凄い人気で4クールでアニメやってる。この作品が人気だと聞いて、「やはり日本人の特攻精神は不滅なんだな」と思った。
SAOのキリトくんは日本文化特有の「死ぬために戦う」キャラ。真田幸村とか特攻隊の末裔である。剣の腕は最強。でも戦術は凄くても戦略がない。チームプレーができないから敵の集団に一人で戦う。個人戦術が凄いので勝てるが、最後は自分を庇ったアスナを死なせてしまう。この辺はるろうに剣心に似てる。美しいけど、もう少しスマートに戦えた気もする。
もっと言うと日本軍に似てる。一人一人の兵隊の質は高かったのに戦略が無くて戦争負けた。キリトくんが一人で無双するのはカッコいいがスマートではない。もっとも劇場版辺りからチームプレーするようになったが。
アインクラッドの最初のボス戦でリーダー的存在が無茶な突撃して死ぬ。彼はこのゲームのβ版をやっていた。つまりゲームについての知識が他の人よりもあった。それなのに何もしなかった。当然、知識のない人は死んでいく。そのことに責任を感じていた。死んでいった人たちに申し訳なく思っていた。
その償いとして死ぬ。死んで楽になろうとする。まさに「死ぬために戦う」である。もっとも死んだところで事態は解決しない。キリトくんが「うおおおおお!!」となるだけである。
そして彼と同じ十字架をキリトくんも背負ってる。
彼はあるギルドに加入する。ゲーム内のレベルが低い人たちだったので、気を遣って自分のレベルは隠していた。しかしこれが原因でギルドは全滅してしまう。戦犯である。忖度した結果が部隊の全滅。まさに大日本帝国陸軍。
適切な進言ができる職場環境じゃなかったばかりに何万人の兵士が命を落としたか。気づいていても言い出せないあたりが日本の組織のダメな感じする。
対照的なのが黒幕の茅場晶彦。彼には戦略がある。自分の死んだ後の世界のことを考えて行動している。もちろん多くの人々を死なせた悪い奴だが、現に彼のフルダイブ技術で救われた命もある。SAOの美点は茅場を完全な悪者にしなかったことである。剣振り回して「カッケー!!!」ではない。
そういえば彼はゲーム内でも血盟騎士団というギルドを組織しており信頼も厚かった。騎士団の中には悪い奴もいたが集団を組織して敵と戦う点ではキリトくんより戦略がある。
彼の事業は菊岡さんや後輩たちに受け継がれる。キリトくんも意識している。自分には無いものがあるから。茅場は自殺こそするが、その後もバーチャル空間漂ってるし、戦略的撤退と言った方が良さそう。
個人的には菊岡さんたちの出番をもっと増やして欲しい。まあそんな見込みは無さそうではある。
アリシゼーションは訳わかんなくなってるが、バカに出来ない作品である。今、キリトくんに夢中になってる十代の若者が大人になって茅場たちの良さに気づけたら、それだけでもこの作品の意義があると思う。
「死を覚悟して戦うキリトさんカッコいい!!」だと元も子もないが。
昔は「死なないゲームなんてぬるすぎるぜ」とか抜かしてた奴が「戦うんじゃない。勝つんだ」と言うようになってるので、人間成長するもんだなーと思ってる。
小林秀雄と中二病
文芸評論家の小林秀雄がこんなことを言っていた。
若い人々から、何を読んだらいいかと訊かれると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。(中略)すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他に何も読む必要はない、だまされたと思って「戦争と平和」を読み給えと僕は答える。だが嘗て僕の忠告を実行してくれた人がない。実に悲しむべきことである。(中略)途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものにまず触れて十分に驚くことだけが大事である。
(引用:「トルストイを読みたまえ」)
なぜトルストイなのかに関しては答えていない。あいまいな文章である。自分で考えろということか。トルストイとはどんな作家だったのか、戦争と平和で何を伝えたかったのか。この部分について考えなければ、なんの意味も持たないアドバイスである。
また、彼はこんなことも言っていた。
1、「つねに第一流作品のみを読め」
「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。」
2、「一流作品は例外なく難解なものと知れ」
「一流作品は(中略)少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。」
3、「一流作品の影響を恐れるな」
「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない」
4、「もしある名作家を択んだら彼の全集を読め」
「そして私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」
5、「小説を小説だと思って読むな」
「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」 (引用:「作家志願者への助言」)
1~3については特になし。
気になるのは4と5である。
「彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」
その作家が何を書き、何を書かなかったのかを知れということである。読書をする上で、「何が書いてあるか」に焦点が集まりやすいが、「何を書いていないか」に注目することでより理解が深まる。
逆に言えば、このポイントさえ掴んでいれば別に全集を読む必要はない。あんな重いもの持ち運べるか。
5についてさらに詳しく引用する。
文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。(中略)文学に何んら患わされない眼で世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。
(引用:「作家志願者への助言」)
読書家に陥りがちな現象で、好きな作家に酔いしれるあまり言動を真似したり、わざと古風な文体を使ってしまう人々がいる。中二病の一種である。
彼らは往々にして、難解な作家を好む。しかしながら中身は読んでいない。作家の権威を利用して自分を装飾してばかりいる。「トーマス・マンを読んでいる自分が凄い」「三島由紀夫を読んでる自分が凄い」「黒澤明を見てる自分が凄い」
作家の何が凄いのかという理由については、ちょっと難しい言葉を使いながら抽象的にあやふやに語ってごまかす。答えられるはずがない。中身を読んでいないのだから。
では、小林秀雄は?
昔、彼の文章を一回読んだことがある。とにかく難解な言い回しで、曖昧模糊な言葉をこねくり回していた印象だった。はっきり言って嫌いである。小説ならともかく評論の文章ではなかった。しかし、偉い学者は「小林は素晴らしい」と絶賛する。数年前のセンター試験に出て話題にもなった。いまだに彼の権威が存続している証拠である。
小林が言っていた通り、一流の文学は難解なものである。それが批評されることで、さらに難解になる。一般読者からすればたまったもんじゃない。
ただ当時の文学青年はそのような文章に熱狂したそうで、いつしか小林は「知の巨人」と呼ばれるようになった。彼らのうち何人かは文芸評論家になり批評を書く。
かつて小林に熱狂していた青年はどんな批評を書くだろうか。当然、憧れの人物の文体を真似るであろう。小難しく、装飾過剰な文章を。
「作家志願者への助言」を読んで思ったのが「お前が言うんじゃねーよ」だった。「文学を志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議が起こる」
不思議も何も小林自身の文章が招いた結果である。(全部とは言わないが)
ともかく、小林秀雄を崇拝する中二病のせいで文芸評論は小難しくなってしまった。中身は空っぽだが外面はやたら豪華な文章が量産された。彼らは憧れの知の巨人の真似ができて大満足だろう。被害を受けたのは後世の我々である。
中二病も青年のうちなら可愛いものだが、大人になっても引きずると重症化する。
「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」
素晴らしいお言葉である。
文学と方程式
以下は仮説である。
通常、物語は一つの主題に沿って描かれる。
一つの主題は一つの文化に基づいているとする。
作者が日本人なら日本の文化に基づいた主題を、ロシア人ならロシアの文化に基づいた主題を選ぶことが多い。
数学で例えるなら一次方程式である。シンプルで解きやすい。だけど、ちょっと物足りない。世界中に存在する多くの作品がここに該当する。
そこに天才が現れる。天才は二つの主題、つまり二つの異なる文化を合体させることに成功する。
ダンテの神曲、ゲーテのファウストがこれに当たる。日本文学も大変苦労しながら西洋文化と日本文化を融合させた。
二次方程式である。解が二つある。これが二つの文化を表している。
ただし、解がちょっと汚い。美しくないのである。あと計算も大変である。
そこに超天才が現れる。
係数を上手くいじって綺麗な解を出せました。これなら簡単に計算できる。さっきの方程式よりも分かりやすく、一般的である。
この超天才の名前はドストエフスキー。作品はカラマーゾフの兄弟。
では、三次方程式はどうか。
ご覧の通り、解の公式も半端なく長い。
三つの異なる文化のドッキング。このかつてない難題に挑んだ作家はいるのだろうか。
あるとすれば相当な大長編で、難解だと思われる。係数を綺麗に揃えるどころか一生のうちに完成することすら危うい。
一つだけ心当たりがある。
プルーストの失われた時を求めてがそうなのではないか。そう考えると、あれほど長い理由も納得がいく。三次方程式なのだから長くなって当然である。
果たしてプルーストは成功したのだろうか。読んでる途中なのでまだ何も言うことができない。
ただ成功していたら、次は四次方程式だ!となるのが人間である。失われた時を求めて以降、四つの異なる文化のドッキングなんて作品は生まれていないはず。
つまり、三次方程式は無理だったということになる。
文学の世界では二次方程式までが限界で、それを証明してくれたプルーストは偉大である。自分の一生をかけて「無理だということ」を発見したのだから。
あくまで仮説なので読んでみにゃ分からないのだが、本当にめんどくさい。
トーマス・マン実吉捷郎訳について
以前、トニオ・クレーゲルの解説にて実吉訳の素晴らしさについて触れた。
原文通りなら「道に迷える俗人」と訳すところを「踏み迷える俗人」としたところがポイントで、この翻訳はソナタ形式を意識した上でとても重要なものであった。
B(第2主題)では「踊り」が対応していて、「道に迷った俗人」だとイマイチ伝わりにくい。「踏み迷える俗人」だと踊りのニュアンスが伝わりやすい。
これが単なる訳者の思いつきか、構造を意識してのものだったかについては判断を保留していた。
今回はそのことについて述べる。
ちなみに「ヴェネツィアに死す」の解説で用いたのは岸訳である。
上の表は「ヴェネツィアに死す」の構造を読む上でポイントとなる箇所を比較した表である。比べるのは岸訳である。
なお、実吉訳も光文社岸訳も決して誤訳ではない、という前提で話を進める。
第1章では「葬送行進曲」がポイントである。実吉訳では「墓地」が繰り返し文章に出てくるのに対し、岸訳では意図的に「墓地」という単語を省いている箇所がある。葬送行進曲をイメージする上では「墓地」を強調したほうが良い。
第2章と第3章に関しては特になし。
第4章はアダージェット、愛の楽章である。つまり「愛」がポイントである。実吉訳では「愛情」という単語を使うのに対し、岸訳は「恋い焦がれ」となっている。恋ではなく愛情のほうがアダージェットであることに気が付きやすい。
実吉訳では「愛の童神」、岸訳では「キューピッド」も同様に実吉訳のほうが伝わりやすい。
第5章では実吉訳は「美女」に対し、岸訳は「美」だけになっている。ヴァネツィアは水の象徴であり、女性の象徴であることも踏まえると実吉訳のほうが理解しやすい。
途中で主人公が見る夢はワルプルギスの夜に対応している。
実吉訳では「供物の祭典」、岸訳では「乱痴気騒ぎ」と表現される。これに関しては岸訳のほうがワルプルギスをイメージしやすい。
ラストの場面、海岸にいるタッジオと主人公。実吉訳では「見守る」、岸訳では「眺める」
第5章はソナタ形式になっている。提示部と展開部の主題が「後を追う」、「ストーキングする」であることを踏まえると「見守る」のほうがやや適切である。
以上の点から光文社岸訳より実吉訳のほうが、構造を読むという点で優れていることが分かる。
もちろん、実吉訳はただ直訳しただけで岸訳は現代風に言い換えたばかりにマンの意図から外れた、という可能性も捨てきれなくはない。
しかし、トニオ・クレーゲルでの「踏み迷える俗人」という訳から考えても、実吉捷郎は構造を読める人間だったと考えるのが自然である。
また、岸訳は無駄を省いて現代人でも読みやすい訳文になっているが、実吉訳は直訳風で硬く、言い回しが古い。
どちらの翻訳も長所、短所があるが、構造を読むという点から実吉訳で読むことを強くオススメする。
海外文学において、読者が内容を理解できるかは訳者の理解に強く依存する。訳者が内容を理解できていなければ、読者が理解するのは困難を極める。
そういった点で、実吉捷郎の翻訳は特筆に値する。
ちなみにブッデンブローク家の人びとと魔の山については実吉訳を見つけられなかったので比較を断念した。
輪るピングドラムの余談
頑張ってシンプルに説明したつもりである。
「銀河鉄道の夜」は賢治なりに頑張って全編対句しようとした作品である。その作業が大変すぎて完成できなかったが。
幾原監督も恐らくそのことに気づいている。気づいているがアニメでそれをやるのは無謀と判断したと勝手に妄想している。
村上春樹の影響があるかどうかは判断しかねる。もっと分析すれば分かるかもしれないが、もう疲れたのでやらない。気になる人は各自でお願いする。「生存戦略」の意味はそのうち考える。
キリスト教といえば近代日本文学は西洋文化の消化、すなわちキリスト教を吸収する闘いだったともいえる。
漱石は神経衰弱になって胃に穴が開いたが西洋文化の正体分からなかった。芥川はキリスト教なんじゃないかと推測までしたが自殺、賢治はキリスト教の中心にある三位一体教義を理解したが過労で倒れる。「銀河鉄道の夜」は未完成。戦後になって太宰と三島が挑んだ。そして二人とも自殺。
彼ら以外にも挑んだ作家はたくさんいるだろう。そして闘いでボロボロになって死んでいった。文化と文化を消化する作業は想像を絶するほど大変なのだ。
「輪るピングドラム」は彼らの屍の上に成り立っている。
つまり「ピングドラム」をこうやって鑑賞できるのは彼らの自己犠牲のおかげである。彼らはこのアニメを見てなんと思うだろうか。
私が知らないだけで他にもキリスト教を取り扱ったアニメはある。テクノロジーの進歩によって現代の主役は文芸からアニメへ移り変わったわけだが、これは別に悲しむことではない。
現代文学にも優れた才能はいる。ただ、アニメの理解度の高さが半端ないのだ。
「漫画アニメなんぞより文学のほうが優れている」なんて言ったら恥をかく時代になった。
「輪るピングドラム」解説
(以下、ネタバレあります)
2011年に放送されたアニメ。タイトルからして難しそうです。「輪るピングドラム」。なんで「輪る」なのでしょうか、「回る」じゃダメなのか。最初はそんなことを思っていましたが、最後まで見たらタイトルの意味が理解できました。
あらすじ
昌馬、冠葉、陽毬の三人兄妹は水族館に行きました。しかし、妹の陽毬は病気で倒れ死んでしまいます。悲しみに暮れる二人の前に突然、ペンギン帽を被り復活した陽毬が。そして彼女の口から「ピングドラムを探せ」とかなんたらかんたら
内容がてんこ盛りです。頭がパンクしそう。考察しようにも底なし沼にはまっていきそうです。こういうときは一つずつ丁寧に紐解いていく。そうすれば必ず理解できます。
地下鉄で見える95という数字、事件があったのは16年前。2011年から16年前は1995年。もうお分かりだと思います。
1995年地下鉄サリン事件です。オウム真理教が東京の丸の内線に毒ガスをまいて多くの人の命を奪ったテロ事件。
劇中に何度も地下鉄が出てくるのはそのためです。直接は触れていませんが、間接的に匂わせています。そういえば「荻窪線」に出てくる新宿御苑、荻窪などは実際の丸ノ内線の駅名ですね。
つまり昌馬と冠葉の両親が所属していた組織ピングフォースはまんまオウムです。あと熊のぬいぐるみのような爆弾がサリンです。
酒鬼薔薇聖斗事件
劇中に「子供ブロイラー」というのが出てきます。捨てられた子供をバラバラにし、透明にするための施設らしいです。ちょっと怖いですし、よく分からない。
これは1997年酒鬼薔薇聖斗事件です。
酒鬼薔薇の書いたマークには扇風機のようなものがあります。
子供ブロイラーにある大きな換気扇。
酒鬼薔薇聖斗の犯行声明に「透明な存在になる」という文言があります。これが子供ブロイラーの透明にすると対応しています。
グロテスクですね。書いてて気分が悪くなってきました。やたら不気味で怖いシーンなのは残虐な事件をオマージュしているからです。
昌馬たちの父親はかつて南極観測隊に所属していました。
1983年映画「南極物語」です。
そり犬たちは南極で観測隊員に置き去りにされます。
16年前の事件で突然両親が逮捕され置き去りにされる昌馬、冠葉、陽毬。
多蕗と時籠ゆりはそれぞれ苗字を訓読みすると、「たろ」と「じろ」になって、南極物語に出てくる犬の太郎と次郎になりますね<RT
— テリー・ライス (@terry_rice88) 2019年1月20日
自分では気が付きませんでしたが、多蕗と時籠ゆりは苗字が「タロ」「ジロ」と読めます。ほぼ間違いなく下敷きにしています。
こんな感じで「ピングドラム」は残酷な事件も取り扱っています。どこか暗い雰囲気があるのはそのためでしょう。
しかし、一番重要なのは「銀河鉄道の夜」です。
一番ウェイトが高い元ネタが「銀河鉄道の夜」なのです。1話の冒頭で二人の少年が話しているようにジョヴァンニとカムパネルラの物語。「ピングドラム」はまんま「銀河鉄道の夜」です。
表の通り、銀河鉄道の世界観満載です。
ところが「銀河鉄道の夜」はとても難しいんです。童話だとあなどるなかれ。実はキリスト教を取り扱っています。だから「ピングドラム」も難しい。一回見ただけで理解できた人はほとんどいないでしょう。
というわけで最初に「銀河鉄道の夜」について知る必要があります。下の記事はその解説です。
(最悪「銀河鉄道」本文は読まなくていいのでこちらの解説だけでも読んでくださると助かります。一応、軽く説明はしますが。)
三位一体教義
「銀河鉄道」を理解するにはキリスト教を理解しないといけません。キリスト教を理解するには三位一体教義を理解しないといけません。面倒ですね。
しかもこの三位一体教義がとても難しい。我々日本人には理解しづらいです。(だから日本でキリスト教が流行しなかったのかもしれない)
なるべく分かりやすく説明します。間違っていたら信者の方申し訳ありません。
以下、小芝居
神「がっはっは、人間と違ってわしはこの宇宙を作った全治全能の神であるぞ~」
人間「神よ、その通りです」
神「ところで、無限の存在である神を有限な存在の人間が認識できるのはおかしくないか」
人間「あ、確かに」
人間は困りました。これでは理屈に合いません。なんとか考えた結果、次のような理屈を思いつきました。
人間「神よ、確かに我々は神を断片的にしか認識できません。バラバラに、部分的にしか認識できませんが、恐らくそれらを一体のものなのだろうと考えています」
神「うむ、よかろう」
このバラバラになった断片を「父なる神」「キリスト」「聖霊」と呼びます。3つ合わせて一つのもの、三位一体ですね。
実はこの考え方は聖書よりも大事なのです。え、分からない?それは困りました。この考え方から外れると、異端と呼ばれて皆殺しにされます。殺されたくなかったら理解するしかありません。
人間の体に置き換えて考えてみましょう。
脳が「父なる神」、視覚が「イエスキリスト」(目で見えるから)、聴覚が「聖霊」です。
神「わしは考え(脳)、見て(視覚)、予言を聞き(聴覚)認識するぞー」
人間「神よ、私たちにはそんなことできません。人間ですから。しかし、脳と視覚と聴覚の3つの方法を使えば、あなたに近づくことはできます」
神「その通り!」
めでたしめでたし。キリスト教徒でなければこのくらいの認識でいい気がします。ちゃんと知りたいという方はニケア信条というのを読んでください。
おまけ
Aさん「つーか、聖霊はキリストからも発するぜ」
Bさん「は?お前何言ってんの。視覚(キリスト)から聴覚(聖霊)が発するわけねーじゃん。目から耳が出るってどういうことだよ!」
Aさん「なんだと!」
Bさん「この野郎!」
二人は大喧嘩をして東西に分裂。今でも仲直りできていません。Aさんの名前はカトリック教、Bさんの名前はギリシャ正教といいます。
ちなみに、宮沢賢治が採用したのはカトリックの三位一体教義です。
小芝居終わり
聖霊とは
三位一体の概念自体イメージしづらいのですが、もっとイメージしづらいのが「聖霊」です。これも難しいです。お天道様を信じる日本人にはちんぷんかんぷんです。
要するに「人に予言させるインスピレーション」のようなもので、聖霊に降りてきてもらった人は様々な予言を口走ります。イタコとは違いますがイメージ的にはあんな感じで口走ります。
これは三位一体の絵です。キリスト教文化ではおじいさんが父なる神、若い兄ちゃんがキリスト、聖霊は鳩で描かれます。
聖霊とは聴覚、つまり言葉ですから言葉は鳩、鳥の絵で表現されます。鳥=言葉。
そして、「ピングドラム」はこの聖霊の言いかえが非常にうまいです。
作中、妹の陽毬はペンギン帽を被ると何かに憑かれたかのように「生存戦略」と叫びだし、「ピングドラムを探せ」と指示してきます。
取り憑く別人格(プリンセス・オブ・ザ・クリスタル)が父なる神、キリストが陽毬、聖霊つまり鳥がペンギン帽です。「ピングドラムを探せ」が予言(=言葉)に当たります。
というか陽毬は死んで復活するのですからイエスそのものですね。
アニメだと聖霊がイメージしやすいですね。ちゃんとペンギン帽にも意味がありました。「イマジン」と叫ぶのはインスピレーションが来た、ということなのでしょうか。
原罪
さっきからキリスト教の話ばかりですね。もう少しだけ我慢していただいて、「原罪」の話をします。
エデンの園にいたアダムとイブは神の言いつけに背いて禁断の知恵の実(=リンゴ)を食べてしまい、知恵と性に目覚めます。これに神様は激怒。二人を楽園から追放します。
アダムとイブは最初の人間なので親から子へ受け継がれ、やがて人類全員が罪を背負うことになりました。これが原罪です。
罪が相続されるなら善行も相続されないのでしょうか。突っ込みどころ満載ですが我慢してください。
そしてこの原罪から人類を解放してくれるのがイエス=キリストです。彼は無実の罪を背負い死刑になることで、人類の罪をチャラにしてくれます。
だからイエスを信じる者は自分の罪がチャラになるので救われます。めでたしめでたし。
これでようやく「銀河鉄道」の話ができそうです。
原罪=リンゴ
「銀河鉄道」で原罪が表現されるのはリンゴの話です。燈台守が眠っているひろしの膝の上にリンゴを置きます。ひろしは目覚めて「今お母さんの夢を見ていた。棚や本のあるところにいた。リンゴを取ってこようとしたら目が覚めた」と言います。
ちょっとよく分からないですが、ここで本とは知恵のことです。ひろしはリンゴを食べますので、禁断の知恵の実を食べたということです。
「ピングドラム」にもこれと似たシーンが出てきます。
9話で陽毬がドアを開けると図書館にたどり着きます。そこで司書をしている眞悧に出会い、過去が書かれた本を取り出しながら最後は元の世界に目覚めます。このとき眞悧に「忘れ物だよ」と渡されるのがリンゴです。
一見、意味不明ですが、実は先ほどのひろしのエピソードが元になっています。図書館の棚には本がたくさんありますから。燈台守=眞悧、ひろし=陽毬です。
ちなみに図書館の名前は「空の穴」と言いますが、これも「銀河鉄道」に出てくる用語です。
蠍の炎
今話したように、原罪から人類を解放するのがイエスの自己犠牲です。「銀河鉄道の夜」は自己犠牲にあふれています。
中でも象徴的な存在がサソリです。このサソリのエピソードが最も重要な箇所なのです。
以下、小芝居
サソリ「まずい、イタチに見つかってしまった。このままでは食べられてしまう。逃げなくては」
イタチ「待てー」
サソリ「どうしよう、このままでは捕まってしまう。そうだ!この井戸に飛び込もう」
イタチ「くそ、逃げられたか」
サソリ「しまった、井戸の水で溺れてしまった。ああ、なんて自分は愚かなのだろう。自分は今までたくさんの虫を殺して食べて生きてきた。それなのに自分が食べられそうになったら井戸に逃げた。なんで食べられて上げなかったのだろう。犠牲になってあげなかったのだろう」
神「素晴らしい。お前は自分の原罪に気づいた。そして自己犠牲を志した。お前の心臓を真っ赤な星として夜空に打ち上げてやろう」
これがさそり座のアンタレスです。サソリは虫を食べて生きています。原罪を背負っています。そのサソリが原罪に気づき、自分の命を差し出せばよかったと気づく、ここが「銀河鉄道」最大の主張です。
「銀河鉄道」に蠍の火というのが出てきます。真っ赤でとても美しいです。美しいのは
自己犠牲の象徴だからなのですね。
「ピングドラム」にも「蠍の炎」が出てきます。冠葉の心臓にあります。これはサソリの心臓、つまり自己犠牲の象徴です。
最終話で荻野目林檎が運命の乗り換えをしたときに出る炎も蠍の炎です。自己犠牲の代償として炎に焼かれるのです。
色々な自己犠牲
「銀河鉄道」は自己犠牲の物語ですから「ピングドラム」にも自己犠牲が出てきます。
父親は嵐の夜に熱を出した陽毬を病院までおぶっていきます。後を冠葉が追いかけるとガラスの破片が飛んできました。冠葉を庇って父親は傷を負います。
母親も鏡が陽毬に倒れてきたのを庇って、ガラスの破片で傷を負います。
冠葉は警察から逃げてるとき真砂子を庇って、ガラスの破片で傷を負います。
陽毬は昌馬の心臓からでたリンゴを冠葉に渡すためにガラスの破片で傷を負います。
冠葉は運命の乗り換えが終わると陽毬を助ける代償としてガラスの破片になって消えます。
なんだか共通点がありますね。
運命の輪
作中に出てくる自己犠牲をすべて表にしましょう。
実は登場人物全員が自己犠牲の代償を共有しあうのです。互いに罰を受けあう。互いに愛による自己犠牲で助け合う。他にも探せばペアが見つかるかもしれません。
そうです。これが「運命の輪」です。みんなで自己犠牲を、愛を繋げあう。輪のようにつながっていくのです。始まりは桃果です。彼女が始めた自己犠牲が多蕗、ゆりを巻き込み、元々家族ではなかった高倉家や真砂子を巻き込んでいくのです。
「輪るピングドラム」は難解ですが、それでもなんとなく面白いな、と思うのはこの表を見れば明らかです。一見他人どうしによる出来事が輪のように密接につながり合っているからです。
そしてこの輪に入れないのが眞悧です。彼は世界を憎むだけで自己犠牲をしません。だから輪に入れません。仲間はずれです。
輪廻転生
宮沢賢治は仏教徒でした。それも法華経を信仰していました。「銀河鉄道」にも仏教を示唆する文章が出てきます。
以下は「銀河鉄道の夜」本文より抜粋
「そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました」
天気輪の柱というのは賢治の造語なのですが、法華経の多宝塔なんじゃないかと言われています。そしてこれが賢治の輪廻思想を表していると推測されています。
三角標は形が三角形ですから3、つまり三位一体教義を表しています。
天気輪の柱が三角標になる、つまり仏教思想がキリスト教に溶け込んでいくということです。(銀河鉄道は未完成の作品なので、この辺あんまり詳しく分かっていません)
仏教思想に「輪廻転生」というものがあります。
生前、良い行いをすれば死んでも良い人間に転生して幸せな生活を送れるし、悪い行いをすれば死んでも悪い人間に転生してひどい人生を送るか、人間以下の獣に転生、もしくは幽霊のまま苦しみます。
これを繰り返して、最終的に輪廻から解脱することが目標です。仏教は基本的に生きる=苦なので。
つまり、転生が良くなるかどうかは生前の行動次第です。では良い行動とはなんでしょうか。
それが「愛による自己犠牲」です。自己犠牲をした登場人物たちの輪廻転生を見てみましょう。
・桃果
桃果は多蕗と時籠ゆりを救い、地下鉄テロも命を投げ出して救おうとしました。尊いです。だから転生先はもっと幸せな人生が歩めるはずです。転生したのは恐らく妹の林檎です。彼女には陽毬と穏やかな日常が待っているはずです。
・昌馬と冠葉
昌馬は荻野目林檎を助けるため、冠葉は陽毬を助けるために死にました。愛による自己犠牲の死です。だから不幸じゃありません。最終話で歩いていく二人の少年が彼らの転生です。
彼らはどこまで一緒に歩んでいきます。ジョバンニとカムパネルラのように。きっと幸せな人生が歩めるはずです。
・昌馬たちの両親
彼らは16年前の事件を起こした組織の幹部です。悪い人たちです。劇中で死んでいることが分かりました。しかし、自分の子供たちをガラスの破片から庇いました。愛による自己犠牲です。なので一応転生はできます。
恐らく、ペンギンです。もしくはその他の動物たちのどれかに転生しています。テロを起こしたので転生先は獣に降格です。当然です。でも、そんなに不幸って感じしませんね。
・眞悧
一番最悪なのは眞悧です。テロを起こした首謀者です。魔法で真砂子を生き返らせますが、対価として冠葉を組織に巻き込みます。自己犠牲じゃないです。輪廻転生ができません。善行を積まなければダメなのです。
だから幽霊です。ずっとさまよっています。彼は転生できるのでしょうか。たぶん無理です。もしかしたらできるのかもですが。
タイトルの意味
これでようやくタイトルの意味が分かりました。「回る」じゃダメなんです。回転ではなく、”輪”廻するんですから。ピングドラムは作中で言ってたように運命の果実=リンゴです。リンゴは原罪です。
つまり「輪るピングドラム」とは、
「原罪は一人ではなく、みんなで背負おう。そして愛による自己犠牲しよう。そうすれば輪廻転生してより良い人間に転生できるから」
という意味です。
最終話で少年が話していた「リンゴは愛による死を選んだ者へのご褒美なんだ。死んだら終わりじゃない。むしろそこから始まると賢治は言いたいんだよ」とはこのことを指しています。
作品の主題
平成に入り悪意を持った人間による残虐な事件が発生しました。かなりショッキングな事件で、加害者とその家族に対する報道も加熱しました。平成元年の宮崎勤事件では加害者の家族が自殺してしまいました。
「彼らは悪魔だった」その一言で済ましていいのでしょうか。
加害者に共通するのは幼少期に愛を受けずに育ったことです。愛を知らなかったことが悲惨な事件の始まりでした。
大切なのは二度とこのような悲劇を起こさないように行動することです。それが「愛による自己犠牲」です。みんなで助け合い、運命の輪を広げればみんなが輪廻転生してより良い人間に、より良い世界に生まれ変わるのではないか。輪を広げて眞悧のような人間を一人でも減らせるのではないか。
昌馬や冠葉たち高倉家は加害者家族です。彼らに罪はありませんが、理不尽な目に遭います。彼らも一歩間違えれば眞悧のように幽霊になっていたかもしれません。
「綺麗ごとだ」「遺族の気持ちを考えろ」そんな声が聞こえてきそうです。確かに口に出すのは憚られます。
だからこのアニメはこんなにも難解なのでしょう。これが「ピングドラム」を難しく、複雑に、抽象的にしなければいけなかった理由です。
口に出せないことを伝えるのが物語であり、芸術です。
愛を広げなくてはいけない。輪廻の輪を止めてはいけない。
これがこの作品の隠されたメッセージです。
感想
大変難しかったと思います。しかし、とてもよく出来たアニメです。「銀河鉄道」を読んだ人は「ピングドラム」を見てください。「ピングドラム」を見た人は「銀河鉄道」を読んでください。きっと理解が深まるはずです。
幾原監督は現代の宮沢賢治ですね。これからも注目していきたいです。
さいごにどうしても分からなかったのが「生存戦略」という言葉です。どういう意味なのでしょうか。誰か教えてください。
「注文」は小学校の教科書に載っているのでほとんどの人が知っているはずです。オチが秀逸です。
同じく幾原監督の「ユリ熊嵐」です。「なめとこ山の熊」が下敷きになっています。
こちらは同志の焼売氏が作成した「さらざんまい」解説です。大変充実した内容かつユーモアな作品となっております。
現在、一緒に文学やアニメなど古今東西の物語を読み解く同志を募集しております。といっても特に活動や制約があるわけではありません。自分のペースで作品読み解くだけです。詳しくは上記ページをお読みください。
出典:
https://www.asahi.com/special/timeline/asahicom-chronicle/sarin.html
https://www.kitadenshi.co.jp/products/2017/penguindrum/strategy/index.html
http://bunshun.jp/articles/-/3091
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4
https://art.hix05.com/Michelangelo/Sistina/06.sin.html
http://www.gibe-on.info/entry/jesus-christ/
https://www.honda.co.jp/outdoor/knowledge/constellation/picture-book/scorpius/
https://www.shinchosha.co.jp/writer/2936/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94
http://www.gingatetudounoyoru.com/settei/sankakuhyo.html
https://www.sankeibiz.jp/smp/econome/news/180603/ecd1806031313001-s3.htm
https://www.lifehacker.jp/2017/08/170802-business-success-can-cause-brain-damage.html