輪るピングドラムの余談
頑張ってシンプルに説明したつもりである。
「銀河鉄道の夜」は賢治なりに頑張って全編対句しようとした作品である。その作業が大変すぎて完成できなかったが。
幾原監督も恐らくそのことに気づいている。気づいているがアニメでそれをやるのは無謀と判断したと勝手に妄想している。
村上春樹の影響があるかどうかは判断しかねる。もっと分析すれば分かるかもしれないが、もう疲れたのでやらない。気になる人は各自でお願いする。「生存戦略」の意味はそのうち考える。
キリスト教といえば近代日本文学は西洋文化の消化、すなわちキリスト教を吸収する闘いだったともいえる。
漱石は神経衰弱になって胃に穴が開いたが西洋文化の正体分からなかった。芥川はキリスト教なんじゃないかと推測までしたが自殺、賢治はキリスト教の中心にある三位一体教義を理解したが過労で倒れる。「銀河鉄道の夜」は未完成。戦後になって太宰と三島が挑んだ。そして二人とも自殺。
彼ら以外にも挑んだ作家はたくさんいるだろう。そして闘いでボロボロになって死んでいった。文化と文化を消化する作業は想像を絶するほど大変なのだ。
「輪るピングドラム」は彼らの屍の上に成り立っている。
つまり「ピングドラム」をこうやって鑑賞できるのは彼らの自己犠牲のおかげである。彼らはこのアニメを見てなんと思うだろうか。
私が知らないだけで他にもキリスト教を取り扱ったアニメはある。テクノロジーの進歩によって現代の主役は文芸からアニメへ移り変わったわけだが、これは別に悲しむことではない。
現代文学にも優れた才能はいる。ただ、アニメの理解度の高さが半端ないのだ。
「漫画アニメなんぞより文学のほうが優れている」なんて言ったら恥をかく時代になった。