「トニオ・クレーガー」追記 その1
年内ギリギリであったがアップできた。
トニオ・クレーガーの構成はソナタ形式である。
このことを先に発見したのは私ではなくfufufufujitani氏であった。これをもとに少し自分で解析を加えたのが以前の記事である。
今回の修正版では、「なぜソナタ形式を用いたのか」がテーマの一つだった。「その方が技巧的だから」では理由にならない。手段を目的化するほど彼は愚かではない。なんだかモヤモヤする。
ここが分からないとトニオ・クレーガー攻略にならないので着手した。
解説に書いてある通り、トニオ・クレーガーはニーチェの「悲劇の誕生」の影響が強い。アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、芸術と市民。
「非政治的人間の考察」にも「トニオ・クレーガーはニーチェの影響が強い」という旨の文章が出てくる。作家が自作についてコメントするときは、往々にして嘘が混じっているので疑ってかからないといけないが、今回は本当にその通りだと思われる。
そして、ニーチェは音楽大好きである。ワーグナーを崇拝していたことからもそれは分かる。ディオニュソス的芸術には音楽が含まれる。
「ソナタ形式」と「芸術と市民」が繋がってくる。ここでモヤモヤが解消される。
というかショーペンハウアーも好きだったようなのでドイツ人はみんな音楽好きなのだろう。
それはなぜか、というのを辿っていくとどうもマルティン・ルターが始まりのようである。彼は賛美歌も作っているくらい大好きである。と、ルターの話は長くなるのでまた別の機会。
「音楽的な文学」というとまっさきに「詩」が思い浮かぶ。
詩は韻を踏む、つまり響きだから当然音楽とも近しい関係になる。有名なベートーベンの交響曲第九番には、同じドイツの詩人シラーの歓喜の歌が出てくる。
しかし、小説は散文なのでずっと韻を踏んでいるわけにはいかない。(実際には詩的な小説を書く人もいるのだが)というかマンの文章は抑制された硬い文章、つまり一義的な文章が特徴的である。この辺はトルストイの影響であるかもしれない。
その一方で、音楽が流れると途端に陶酔的な、感情が溢れ出すような文章になる。こちらはニーチェっぽいし、踊り出すかのような会話文はドストエフスキーっぽい。
しかし、トルストイとドストエフスキーのどちらの影響も受けていながら、それでいてどちらでもないという印象が強い。中間的というかハイブリッドというか。
要するにどっちつかずなのである。
つまりトニオ・クレーガーそのまんまである。