私の京アニ史 その4
「私の京アニ史、第四回目である」
「随分とお久しぶりやな」
「数えてみたところ、前回から9ヶ月ぶり、我々の登場自体はおよそ半年ぶりとなる」
「えらい間が空いたな」
「今年は梅雨がやけに長かったので、それが原因だと考えられる」
「梅雨関係ないやろ」
「気圧が低いと筆が乗らんのや」
「高気圧でもサボっとるやろがい」
「前口上はええから、そろそろ始めるで」
「逃げたな」
7.Kanon
「今回はKanon」
「アニメ放送2006年、ゲーム発売1999年」
「リアルタイムで見てた訳ではないので郷愁なんてものはないけれど、やはり時の流れを感じるな」
「顔に対してお目々が大きすぎる」
「それを言ってしまったらおしまいだし、今の技術がそれだけ進歩したっちゅう証拠である」
「こればかりはしゃーない」
「本題に入る。あらすじを述べると、七年ぶりに訪れた『雪の街』で主人公・相沢祐一が五人の少女と交流する」
「五人ともどこか頭のネジが外れておるな」
「やっぱり頭のネジが外れた女の子と青春がしたいんや。ベタなストーリーじゃ満足できない身体になってしまった」
「誰のエピソードが一番好きなのか」
「最近はその手の質問をされたとき、ベタな回答が恥ずかしくてついつい変化球を投げてしまう癖ができてしまった」
「そうなんや。で、誰なんかい」
「沢渡真琴かな」
「ベタベタやないか」
「ちょっと暴走気味で天真爛漫な少女が次第に退行し、衰弱していく。その過程が切ない。丘の上の結婚式のシーンなんかは何度見ても泣いてしまう」
「助けた動物が数年後に娘になって現れるという点では、『鶴の恩返し』ぽい気もするが」
「一番は『ごんぎつね』であろう」
「祐一への善意が裏目に出て空回りしてしまう辺りは、ごんぎつねに似ている」
「祐一と真琴はある意味すれ違いの悲劇なのでそうかもしらん」
「しかし、最後は想いが通じた」
「ところで、一応メインヒロインは月宮あゆなのだが」
「キスシーンの演出は良かったと思います」
「興味なさそうやなあ」
「真面目に話すと、祐一との思い出の大木が切り倒されていたシーンなんかは印象に残った。止まっていた時間を必死に探そうとするあたりが」
「いつまでもいつまでも、あるはずのない青春の断片を深夜アニメから拾い集めようとする我々の姿に重なるものがある」
「やめんか」
「へいへい」
「ともかく、五人のヒロインはそれぞれ異なるキャラクターであるが、祐一との過去を持っているという点で共通している。その過去が7年の時を経て再帰するとき、挿入歌が流れ、我々のもとにカタルシスがやってくる」
「まさしくKanon(追走曲)なんやな」
「カノンということはひょっとすると全体構成が対位法、つまり対称構造になっているかもと思ったが」
「構成読み解きは趣旨と外れるので今回は省略で」
「左様か」
8.AIR
「続いてはAIR」
「これまた古い」
「OPの鳥の詩は一部ファンから国歌と呼ばれている」
「なぜあんなにも青臭く、そして深く感じさせることができるのか不思議である」
「原作はkey制作の恋愛アドベンチャーゲーム」
「Kanonに引き続きやな」
「こちらも主人公が複数の少女と交流を深めることになるが」
「大部分を占めるのはメインヒロインの神尾観鈴の物語である」
「千年前の因縁が引き継がれ、彼女の肉体を蝕む」
「いきなり千年前に舞台が移った時はたまげたけどな」
「さらに第10話からは視点がカラスのそらになる」
「無力な存在であるカラスが視点になったことにより、我々は悲劇をただ傍観するしかない。プレイヤーは物語の不介入という事実に立たされ、我々の自意識に内在する無自覚でアンビバレンツな態度に対して物語自体が批評性を持つことになり…」
「いきなり何を言うてるんや君」
「急に懐かしくなってな。昔こういう批評モドキをよくやってたな」
「リアルタイムでゲームプレイ及びアニメ視聴したわけではないが、よくインターネットに潜ってそういう文章を探した記憶があるし、見よう見まねで怪文書を作成したこともある」
「思い出すだに恥ずかしい」
「黒歴史である」
「そもそも上の文章は東浩紀のパクリやろ」
「少し言葉を変えただけでその通りや」
「せめて怪文書くらい自分の脳味噌で考えないとな」
「倫理と流儀に反する行為である」
「剽窃はあかんけど、そういう黒歴史も通過儀礼というか必要だったのだなと思う」
「優しくて頼りになるカッコイイ男はだいたい若いころヤンキーだからな」
「ヤンキーだった過去は黒歴史ではなく武勇伝やから」
「というか我々は現在進行形で黒歴史を生産しているのでは」
「それは言うな」
9.CLANNAD-クラナド-、CLANNAD~AFTER STORY~
「お次はCLANNADであるが」
「またもkey」
「CLANNADといえば最近Switch版が出たことで話題になった」
「最近いうても一年前やで」
「せっかくだから買ってみよかなと思ったが、そもそもSwitchが無かった」
「遅れておるな」
「本題に入ると、CLANNADもゲーム原作なので最初複数のヒロインのエピソードののち、メインヒロインの古河渚と結ばれる」
「どちらかというと結ばれた後が真骨頂である」
「たいてい高校卒業と同時に物語も終了してしまうが、そこから社会人になっても続くアニメってのは物凄く新鮮に感じたな」
「さらにあんなことやこんなことが」
「卑猥な感じにすな」
「という感じでCLANNADは学園の枠を超えて、物語は続く。辛いこと悲しいこと、全部一つの街で経験する」
「まさに『CLANNADは人生』ということに」
「しかし人生という観点からすると、主人公・岡崎朋也は我々とかなり異なった人生を歩んでいる」
「まずスポーツ推薦で入学できるくらいのアスリートだったが不仲な父との喧嘩で選手生命を絶たれる」
「卒業後地元で働きながら高校で付き合った彼女とそのまま結婚する」
「しかし、その彼女は出産時に亡くなってしまう」
「波乱万丈の半生である」
「そして、この半生は我々と対極に位置するヤンキーの人生ではなかろうか」
「ヤンキーは地元離れないからな」
「せや」
「『もう一つの世界 智代編』では、外の世界へ出ていく智代と地元に残り続ける朋也が対比されていたが」
「経済的に厳しい以前に、朋也は『自分は地元に残るんだ』という意識が強いように見受けられた」
「踏切のくだりとかな」
「うむ」
「結局、智代が街に残ることでハッピーエンド」
「地元愛が強い男である」
「というようなことを東浩紀が語っている動画を見つけたので、合わせて紹介したい」
「なんちゅうサムネイルや」
「ここで東が指摘するように岡崎朋也のようなマイルドヤンキー的価値観が、個人主義的な傾向のオタクに称賛されたことは考える必要があるかもしれない」
「ということはつまり君はヤンキーとかアニメを解さない連中を馬鹿にしながら、その実彼らの価値観を称揚するアニメを愛でていたというわけか」
「急に皮肉言うのやめてくれるか」
「すまんな」
「ええんやで」
「しかし、朋也以上に地元愛が強い人物が渚ではないか」
「AFTER の12話で、父親が逮捕されて朋也が精神的に参るシーン。渚に『街を出て二人で暮らそう』と持ち掛けるが否定される」
「『ここで逃げたら帰ってくる場所じゃなくなってしまう。去るなら前向きに去らないとダメだ』と」
「別にそんなことないし、身内に犯罪者が出たら離れるのが吉であると思うが」
「結局そのまま残留して二人は結婚する」
「幸せ一杯である反面、朋也は身を固めて余計に移動できなくなる」
「しかし、渚は地元愛云々ではなく誕生秘話や出産時の苦しみから分かる通り、街と一体化しているからである」
「そのことは同時並行で語られる幻想世界にも通じてくる」
「朋也たち現実世界のストーリーの合間に、謎の少女とガラクタの人形だけがいる不思議な世界のストーリーが挿入され、二つの物語が一点で交わったとき物語はクライマックスを迎える」
「村上春樹が長編で用いる手法でもある」
「『世界の終りとハードボイルドワンダーワールド』とか『1Q84』とか」
「だから渚に関しては地元愛が強い云々は的外れなんではないか」
「ファンタジー要素でヤンキー的保守的価値観を中和してるだけやろ」
「ファンタジー要素がCLANNADを傑作たらしめているんやで」
「その極致とも言うべきが最終回の幻想世界→坂道のシーンになる」
「現実世界と幻想世界が一点で結ばれるクライマックスとピアノの旋律が掛け合わさることで得も言われぬカタルシスが訪れる」
「カタルシスはアリストテレスが『詩学』で述べたように悲劇が観客の心にもたらす精神の浄化であるが」
「CLANNADはここから超ド級ご都合主義的ハッピーエンドに向かっていく」
「このシーンがたまらなく好きで10回見たのだが、10回目の鑑賞でこれは論理の飛躍を音楽で誤魔化しているだけではないかと気づいた」
「気づくのに10回もかかったのか」
「妻も子も喪って絶望にあるはずの主人公の魂が唐突にファンタジーなアレコレに回収されてハッピーエンドに向かうのは無理がある」
「原作がギャルゲーやからルート分岐があるやろ。ハッピーエンドの世界線があったというだけや」
「だが無理矢理辻褄合わせたのを音楽の力で隠しているという部分は大いに批判しなければならない。傑作ならすべて許されのなら、それはただの神格化ではないか」
「そうなのか」
「音楽の快感は人を思考停止させる。『よく分からないけど音楽が良いから素晴らしいんだ』という姿勢は褒められたものではない。CLANNADは京アニ作品の中でも傑作の部類だけどやっぱりおかしい部分もある。それを音楽にたぶらかされて『泣ける』『感動する』で見て見ぬフリをするのは君の悪い癖なんだ」
「言いたいことは分かるが、なんでそこまでせにゃならんのだ」
「私の京アニ史と銘打ってる以上、君は京アニ作品を親しんできた自分と徹底的に向き合うべきだと思ってな」
「今回の三作品については原作がkeyなのだから京アニ関係ないのでは」
「アニメを作っているわけだから関係ないことないやろ」
「しかし、ああいう事件があってやっぱり京アニについて悪く言うのはなんとなく憚られるのだ」
「気持ちは分かるが、そうやって変に気を遣うのは亡くなった方にも今作っている方にも失礼になってしまう」
「『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も観に行ったけど、公平に評価できんかったわ。作品外から流れ出てくるものが大きすぎる」
「TVアニメ版での違和感の答え合わせをしたかったのだが難しくなってしまった」
「どうも変なバイアスがかかってしまうのよな」
「一年前に祈りを捧げたし、四ヵ月前には黙祷もした。我々は関係者ではないからこれ以上何かできることはない。だから今こそ思いの丈を書きまくってきちんと向き合わなあかん。事件以前のフラットな状態には戻れないけど、そこに向かって努力しなければならない」
「かなり重たい話題になってしまったが、そろそろお開きということで」
「左様か」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
〈おまけ〉
「なあ」
「なんや」
「今回key三部作を紹介したわけなんだが」
「うむ」
「この三作品に関しては京アニ版とは別に東映アニメーションが制作したものがある」
「形式はKanonがTVアニメで全13話+1、AIRとCLANNADが劇場版で90分構成となっている」
「出来はどうなのかというと」
「京アニ版と比べると作画の面で厳しいものがある」
「尺の都合で大幅にカットしている部分が多く不満点も多い」
「そうは言うけど、3、4時間まで伸ばしたところで大赤字やろうし無理な注文や」
「さらにギャグというかノリが古い」
「よく分からないギャグが飛び出すのは原作と京アニ版も同じなので、そこは東映版の欠点ではなかろう」
「そんなこんなで東映版は京アニ版と比べるとやっぱり知名度は低く難点もある」
「世知辛いけど認めざるをえんな」
「ところで、こんなインタビューがある」
「ほう」
「答えているのは劇場版AIRとCLANNADの監督を務めた出崎統」
「『あしたのジョー』や『ガンバの冒険』と聞けば覚えのある人も多いかと思われる」
「要するにアニメ界の重鎮である」
「演出も凝っていて、AIRの海辺、CLANNADの屋上のシーンでも光と水の表現が独特で面白い」
「外に出て自然をよく観察した人の描き方である」
「他にも画面分割とか美しい止め絵などの手法を用いることで有名やね」
「惜しい人を亡くしたものである」
「上のインタビューで注目すべき部分を引用すると」
【出崎】『CLANNAD』をやっているときに、この子(ヒロイン)なんで死ぬの? って訊いたんです。そうしたら「ゲーム上死なないとね、泣けないんですよ」って答えられた。一見シリアスなんだけどさ、オレから見るとちゃんとした根っこがないんだよね。現象としてそういうのをやれば客は泣く、それがわかっているだけで。だから映画にするときは、どうして死ぬのか、少なくとも心の流れだけはきちんと作っていこう、と。で、その死に対して、ちゃんとそれを感じる人間を登場させようとした。それは当たり前。当たり前のドラマを作っただけなんです。「ここで死なないとゲームとしてマズイんですよね」。それは、視聴率だけよければいいや、というのと似ている。「とりあえず殺せば泣くんだよね」というのは、人間を甘く見ている。甘く見ているし、でもそれで通用する部分があるっていう世の中はなんかヘンだよね。とってもヘンだよね。
「苦言を呈している」
「どこか懐疑的な視線を向けているのが伝わってくる」
「『当たり前のドラマを作った』と言っているようにAIRもCLANNADも原作から改変している」
「改変自体はよくやる人なんだけどね」
「せやな」
「個人的には、朋也父の比重が大きくなり、渚の出産シーンはあえて削っていると感じた」
「この辺が『当たり前のドラマ』というものに繋がっているやもしれん」
「そのせいで色々大変だったようであるが」
「ちなみに東映版の公開が2007年9月、京アニ版1期放送が同年10月」
「出崎監督が京アニ版をどう思っていたのか気になるところではあるが」
「自分の調べた範囲では分からなかったので知っている方がいたら教えていただきたいです」
「結局のところ、どちらが良いのかは好みなので」
「ぜひ見比べてみてはいかがでしょうか」
「という訳で今度こそ本当に」
「さようなら」