魔の山 追記その2
「主人公ハンス・カストルプがホムンクルスである」というただこれだけのことに実質1年半掛かってしまった。
初読の段階でキャラ戦略がファウストなのではないかと疑っていたが、ファウスト最大の特徴である女好きがハンスにあんまりない。ショーシャ夫人に恋する辺りは非常にそれらしいのだが、女好きまでいかない。告白のシーンもショーシャが好きなのではなくショーシャの肉体が好きという印象を受ける。
ドストエフスキーは「悪霊」でファウストに挑んでいる。この「悪霊」の読み解きが無ければ、今回の解説記事は作れなかった。最大のポイントは「基本的にキャラは二人一組だが、ホムンクルスのみ一人ワンセット」である。
それでもすぐに気づいたわけではなく、2019年10月NAVERにアップされてから半年くらい経ってようやく思いついた。
なぜこれほどまでに難航したのか考えてみたが、主人公という枠組みに囚われすぎていたのが原因であった。
「神曲が下敷きなのだから主人公はダンテに対応するだろう」
「ファウストが下敷きなのだから主人公はファウストに対応するだろう」
「悪霊が下敷きなのだから主人公はスタヴローギンに対応するだろう」
それはセオリーなのでだいたい間違っていないのだが、「魔の山」の解析では上手くいかなかった。キャラ戦略を読み解く上で主人公に囚われすぎてはいけない、ということは貴重な経験になったのでここでシェアしておきたい。まあ「ワルプルギスの夜」という分かりやすい章名でそのまんま下敷きにしている訳がない、と言われればそうであるが。
恐らくトニオ・クレーガーの原型もホムンクルスであろう。二人とも自分にないもの(市民・肉体)を欲している。ラストは海に近づくのも同様である。円環時間そのものは出てこないが、ソナタ形式はそもそも回帰的構造である。この辺を考察する気力は無いのでやめておく。
そういえば「海辺のカフカ」で村上春樹はスメルジャコフを救おうとしている。春樹の描く主人公はどことなくスメルジャコフであり、もっと言うと「天人五衰」の安永透である。彼は別にドストエフスキーに批判的ではないが、これもスピンオフ戦略の一例であろう。
トーマス・マンにしろ村上春樹にしろ、彼らは単に先達の真似をしているわけではない。先達を吸収し、継承し、それ以上の世界を追求しようとする。そのためには、先達が最後に到達した地点から始めなくてはならない。ゲーテなら「ファウスト」、ドストエフスキーなら「カラマーゾフ」、三島なら「天人五衰」から後継者たちの問題意識は始まる。
パロディだのオマージュだの、作家たちはなぜ先行作品の参照を行うのか。作家それぞれ理由はあるが、少なくとも単なる文学趣味ではないことを読者は頭に入れておかねばならない。