週休二日〜アニメと文学の分析〜

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ヴィスコンティ「山猫」感想

ルキノ・ヴィスコンティ「山猫」を見た。

 

山猫 4K修復版 [Blu-ray]

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  • 発売日: 2016/08/26
  • メディア: Blu-ray
 

随分前に見たきりになっていたから、新鮮な心持ちで鑑賞に臨めた。

 

この作品に限らず、ヴィスコンティ映画の魅力は「本物」の貴族が描かれることにある。徹底した時代考証とか地道な取材とかそういう次元ではなく、「ガチの貴族」が描かれる。なぜなら監督本人がミラノの貴族だからである。

 Luchino Visconti, Giancarlo Giannini And Laura Antonelli : ニュース写真

そもそも「山猫」は、原作者ランペドゥーサ(シチリアの貴族)が自身の祖先をモデルに書いた大河小説である。ガチ貴族が原作を書いている。

 Tomasi di Lampedusa.jpg

さらに有名な舞踏会のシーンには、実際のシチリア貴族の末裔が出演している。

 

つまり、「貴族が原作を書き、貴族が監督を務め、貴族が演じる貴族映画」ということになる。当然ながら映画としての完成度は高くなる。取材を通して知った知識を元に組み立てるのと、自身の経験を元に組み立てるのではどうしても説得力に違いが出る。

 

ただ欠点もある。時間の進み方がスローなのである。オリジナル版は187分ありますが、現代なら2時間で収めないとOKでない。後半の舞踏会のシーンもサリーナ公爵とアンジェリカのワルツを除けば、ほとんどダラダラしている。貴族なので時間の使い方も悠々としているのだ。

 On the set of Il gattopardo : ニュース写真

また予算も馬鹿にならないので資金繰りが大変である。ヴィスコンティプルースト失われた時を求めて」、トーマス・マン魔の山」を映画化しようとして失敗している。予算が足らなかったようである。映画ファンは見たかっただろうが、個人的にはスローすぎてグロテスクな結果になっていたと思う。

 

貴族映画であるから登場キャラも貴族である。貴族である、ということは行動に裏表がある。表では笑い合いながら心の底で中指立てるような、見えない攻防をずっと続けている連中である。

 

サリーナ公爵役のバート・ランカスターが素晴らしい。時代に迎合するわけでも、逆らうわけでもなく、現実とすり合わせていく誇り高さが伝わってくる。

 On the set of Il gattopardo : ニュース写真

反対にサリーナ公爵以外の登場人物はスタンスは違えど、みな時代に流されている。

 

アラン・ドロン演じるタンクレディはサリーナ公爵の甥、つまり貴族なのだが、時代の変化をいち早く察知してガリバルディの赤シャツ隊に入隊する。ガリバルディは革命軍だから貴族の敵である。しかし公爵は甥の参加を許可して、お金まで渡してあげる。懐が広い。

 On the set of Il gattopardo : ニュース写真

しかし、その後革命軍が解散すると、今度は政府軍に入隊している。さらに物語の最終盤では政治家として立候補したい、と言う。コロコロと鞍替えばかりしている。時代を読む力があるが、少し節操が足りない。

 

タンクレディの義理の父セダーラはさらにひどい。時代に迎合する打算的な人物である。口では調子の良いことを言い、不正選挙をする狡猾な人間である。映画では彼を愚かに描く反面、新時代の中心になるのは間違いなく公爵ではなくセダーラであると暗示している。公爵はそのことを理解しているからタンクレデイとセダーラの娘アンジェリカとの結婚を後押しする。

 

そのアンジェリカであるが、大変な美人である。演じるのはクラウディア・カルディナーレ。やたらセクシーである。この映画の魅力の大部分は彼女の美貌であるがその反面、行動が下品である。母親が身分の低い人だったせいか、笑い方がやたらに下品で、その辺がガチ貴族のサリーナ家と新興ブルジョワジーのセダーラ家との格の差である。

 

彼らは新時代を象徴する人々であるが、やたらと節操がないし、下品である。サリーナ公爵は彼らが新しい時代を作ると理解しているが、彼らの身の振り方については冷ややかに見ている。

 

その反対にサリーナ家の人々は時代に取り残されている。公爵夫人は聖書にすがってヒステリーを起こすばかり、チッチョは忠誠心こそあるが汚い服装を着ていて落ちぶれている。

 

公爵の娘コンツェッタもタンクレディの想いをずっと引きずっているだけ。新たな恋をすることなくずっと拗らせている。

 

新時代の人々は節操がないのに対し、旧時代の人々は硬直的である。彼らは伝統を守っているつもりであるが、本音は変わるのが怖いだけである。

 

そんな中で、ただ一人サリーナ公爵だけが貴族としての矜持を守っている。伝統と革新の狭間で必死にバランスを取っている。それは「変わらずに生きてゆくためには、自分が変わらなければならない」というセリフに集約される。そういう堂々とした姿の中に見える悲哀が、些細な表情や仕草から伝わってくる。たとえ最後は滅びる運命にあったとしても…

 

ところで、これと似た感慨を小津安二郎秋刀魚の味」でも持った。

若い世代が新しい時代を作ればいい。しかし新しい世代、新しい考えに方針転換するつもりはない。節は守る。

 

私からすると、守るべきものがあっただけ彼らは幸せであったと思うが。

 

ヴィスコンティは他にも傑作を残しているが、一番気になっているのは「家族の肖像」である。

家族の肖像

家族の肖像

  • メディア: Prime Video
 

 これまたバート・ランカスターである。fufufufujitani氏は以前、「ニーベルングの関係があるのでは」とおっしゃっていたが、確かにコンラッドという名の青年がでてくるあたり怪しい。ドイツ三部作の次に撮られたこの作品にもワーグナーが隠されている可能性は十分考えられる。