神曲 追記その1
先日、「神曲」の解説記事をアップした。ファウストと同様、射程がややというかかなり広い作品なので、網羅的に説明するのが難しい。補足を加えて、もう少しまとまった記事に書き直さなければと思うが、ひとまずこれでいいことにする。
それでも、追記にしなければならないのは「視覚と聴覚」についてである。
神曲が優れているのは真に迫った情景描写である。地獄のおどろおどろしい光景、罰を受けて苦しむ大勢の罪人の姿、異種混交体ともいうべき魔獣の外観。ダンテは無論、地獄に行ったことない。しかし、「この人は行って見たことがあるんではないか」と思わせてしまうほどのグロテスクでリアリティある描写をする。
そして、ミケランジェロやダヴィンチがそうであるように、ヨーロッパはルネサンス以降、微細でリアルを重んじる目の文明になっていく。
これは三位一体の子=キリスト=視覚の存在感が強いカトリックの特徴である。とにかく、キリストのウェイトが高い。そのキリストを持ち上げるために視覚表現が発達したのではないか。
その一方で、叫び声や轟音、汚い罵り合いなど聴覚に関する描写も多々ある。大量にある罪人や贖罪者との対話も聴覚表現である。メインは視覚表現であるが、聴覚に対する反応も高い。
煉獄は制限時間付きの地獄なので叫び声や言葉を失うはあるが、ダンテが気絶したり、眠って夢を見たりするシーンが多い。地上楽園に入ると、あまりのすばらしさに文字通り言葉を失うし、視覚も超越しかける。
天国篇になると、視覚、聴覚ともに表現が雑になる。「この美しさは表現のしようがない」「言葉に書き表せない」と。それを表現するのが詩人なり作家なり芸術家の仕事ではないんだろうか、とツッコミたくなる。
なんで表現できないかというと神に近づいているからである。無限なる神は有限な存在である人間の視覚や聴覚など超越してしまっている。というか、表現してしまうと無限なる存在で無くなってしまう。それは由々しき問題である。
いよいよ、ラストになると目も潰れ、耳も聞こえなくなる。そして、神のビジョンだけが頭の中に、つまり脳に流れ込んできて幸福な気持ちになって終了する。
余談だが、リストが「ダンテ交響曲」を作曲家するとき、地獄、煉獄と作ってワーグナーに「天国の喜ばしさを表現するのは不可能」と言われて天国を除いた2楽章にしたといわれる。
このエピソードから察するに、天国篇を下敷きにした作品はほとんど、あるいは全く無いのかもしれない。地獄篇と煉獄篇はそこそこ確認されているが、天国篇はそういう噂を過分にして聞かない。
また天国篇は教皇批判がもっとも苛烈で、ダンテの死後にようやく発表されたくらいなので、色々とヤバイ作品である。
正直な感想を言うと、ダンテは情景描写は上手いが会話シーンは下手くそである。あなたはどこの出身?→私は〇〇の生まれです→何の罪でここに?→それは〜、みたいな単調な受け答えしかないので退屈で仕方ない。視覚と聴覚の両立に挑戦してはいるが視覚しか成功していない。