「神曲」解説【ダンテ・アリギエーリ】
リストの「ダンテ交響曲」
イタリアの国語
これら全部ある作品の影響を受けたと言われています。西洋文化に巨大な足跡を残し、ルネサンスへと導いた古典、それが「神曲」です。ただし、宗教、政治、科学、哲学...と扱う分野の射程が広すぎるためグロテスクな完成度になっています。現代の、特に日本人には皆目良さが伝わりません。一つ一つ紐解いていこうと思います。
詳細は闇の中
「神曲」はイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが作った詩です。完成は1321年ごろだとされますが、よく分かっておりません。なにぶん中世の作品ですので、解釈を巡って研究者の間で意見が割れています。「昔はこういう解釈だったけど近年それが間違いだった」「言葉足らずで意味不明」そういう箇所が続出します。
一つだけ確かなことは、「神曲」という作品が中世から現代に至るまで多くの人々に読み継がれてきた古典であることです。どれだけ細かい部分の解釈が揺れようとも、知識の間違いを指摘されようとも、「神曲」の評価は揺るぎません。
ということは、「神曲」の本質を知るにはミクロではなくマクロな視点を持つことが大切だと考えられます。
そこで本稿では細かい、ミクロな部分には目をつぶっていただいて、大雑把に、マクロな部分に着目して解説していきます。詳細は専門家に任せればよいのです。
それでも気になる方は講談社学術文庫の原基晶訳を読んでください。2014年に出た新訳なので分かりやすい上に、丁寧な注釈と解説が載っています。理由はあとで説明しますが、三位一体を意識して三行一組で分割しているのも素晴らしいです。
あとは漫画でイメージを付けることです。こちらは永井豪による「神曲」の漫画化です。さすがはデビルマンの作者。本物の地獄を味わうことができます。
前置きが長くなりすぎたので始めていきます。
登場人物
最初に登場人物です。先述の通り、神曲ではキャラが大量に出てきます。覚えられません。なので重要人物を4人だけ挙げます。この4人さえ把握すればとりあえずは「神曲」攻略できます。
ダンテ
主人公です。そして作者自身でもあります。物語開始時点では地獄の辺境をさまよっています。臆病なタイプで地獄のモンスターにしょっちゅうビビってます。たびたび気絶して夢(幻視)を見るのも特徴です。職業は詩人で、かなりの腕前であることが死後の世界にも伝わっています。
旅に必要なのは頼れるガイドです。特に地獄巡りなんか道に迷ったら最期、悪魔や魔獣に殺されてしまいます。これから紹介する3人はビビりのダンテのために地獄・煉獄・天国を案内してくれます。
古代のローマの詩人です。代表作「アエネーイス」はローマ帝国建国を謳った詩として崇められる伝説の詩人です。
古代ローマということは紀元前の人です。ダンテは14世紀の人なので、かなり世代間ギャップのある二人旅です。おっさんと若者どころではありません。日本で例えると、弥生時代と鎌倉時代のコンビになります。時代が離れすぎてイメージ全然湧きませんね。
ともかく主人公ダンテは伝説上の人物の案内で死後の世界を歩んでいくことが分かればよいと思います。
ウェルギリウスは地獄篇第1歌から煉獄篇第30歌までガイドを担当します。
本作のヒロインです。そんでもってガイド2号です。
ダンテが幼少のころに出会った年上の美女で恋心を抱くのですが、24歳の若さで死んでしまいます。美人ですがダンテには少し冷たく、威厳のある感じで接します。
実在の女性をモデルにしたのか作者の妄想なのか議論が絶えないようです。一つ確かなことはダンテが年上お姉さん好きだということです。なんだかラノベ・ネットコミックでありそうな設定ですね。
煉獄篇第30歌から天国篇第31歌まで担当します。
ベルナール
ガイド3号です。カトリック教会で聖人とされるおじいさんです。
もっともこの人はあまり重要ではありません。なんせ登場するのが天国篇の第31歌から、つまり三部作の最後の最後にしか登場しないのです。
以上、4人の紹介を終えました。
「いや、もっとたくさんいるだろ」という声が聞こえてきそうです。他に登場する人物、異形のモノを分類すると以下のようになります。
(1) キリスト教関連の人物
(2) ギリシャ神話の神々及び魔獣と古代の哲学者
(3) ダンテと同時代のイタリア人たち
(1)イエスやマリアなど有名どころはみなさん知っています。これがパウロやヨハネなども「なんとなく名前聞いたことあるな」レベルであれば問題ありません。
(2)ギリシャ神話の神々はソシャゲやカードゲームやってた人ならだいたい察しが付くと思います。ゼウスとかヘレネーとかテーセウスとかオデュッセウスとか。あと魔物は基本的に異種混交体です。代表的なのはケンタウロスとかの半獣半人です。おどろおどろしいイメージが湧けば十分です。
古代ギリシャの哲学者はソクラテスとかプラトンとかです。ずらっと出てくるだけで名前を覚える必要ありません。
(3)ダンテの同時代人についてはファリナータという人以外は覚える必要ありません。ファリナータは煉獄篇の途中から旅を共にします。実際のところはあの当時にタイムスリップしないと分からないからです。しょせんは中世の内輪ノリなので気にせず読み進めていきましょう。
ダンテはキャラ戦略をあまり重視していません。というかほとんどの人物は出番が一回きりです。モブです。なんせキャラ同士の会話もほとんどワンパターンですから。代わりに全体構成こだわっています。
あらすじver1
地獄の周辺をうろついてたダンテは3人の人物に導かれて、罪人や悪魔、聖人たちと対話をしながら地獄・煉獄・天国を巡り、最後は宇宙の至高天で神の神秘に触れて終了です。
あらすじver2
地獄篇
主人公ダンテは森で一人迷っています。不安です。よく見るとそこは地獄です。そうこうしていると狼が現れました。まずいです。絶体絶命です。
するとそこにウェルギリウスが登場します。彼はかつてダンテの憧れの女性で今は地上楽園にいるベアトリーチェの頼みでダンテの導き手になってくれます。狼を追い払うと地獄への冒険がスタートです。
地獄巡りでは責め苦に遭う罪人、異形の魔獣、悪魔などが存在するグロテスクな世界が待っていました。ダンテは彼らに質問したり、ウェルギリウスと会話しながら最下層まで下っていきます。なんか工場見学みたいですね。
最下層のコキュートスを見学したあとは地球の核、マントルを通過して南半球にある煉獄山へ向かいます。「マントルを通過できるわけないだろ」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が爆発しているだけです。
煉獄篇
ダンテ一行が南半球に出るとそこには煉獄山がそびえ立っていました。
登ってみるとフロアが七つに分かれており、それぞれ七つの大罪に沿って罪人たちが罰を受けています。なんだか地獄と似ていますが異なる点があります。
同じようにウェルギリウスの案内で煉獄の各フロアを見て回ると頂上には楽園が存在していました。そして、そこにいたのがベアトリーチェです。ここからの案内は彼女になりまして、ウェルギリウスはお役御免で元々居た地獄のリンボに帰っていきます。
地上楽園でキリストを中心に神秘的な行進の中にベアトリーチェの姿を見ます。この辺はキリスト教の深遠さ、偉大さをアピールするための記述が続きます。
天国篇
煉獄山の頂上からベアトリーチェとともに宇宙を旅します。「宇宙服もロケットもなしに宇宙に行けるか」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が(以下略)
星々にいるのは生前善き行いをした者、聖人たちです。ベアトリーチェの案内を受けながら、彼らと対話をしていきます。
やがて最終地点である原動天に到着し至高天に入ると、ガイドがベアトリーチェからベルナールに交代します。そして、ついに神の神秘と対面します。もっともダンテ曰く「無限なる神を人間ごときが見ることも記述することもできない」そうで、断片だけ匂わせて終了します。なんじゃそりゃ。
地獄・煉獄・天国の構造
神曲の死後の世界はとても面白い形状・構造をしています。
地獄
円錐を逆さまにしたような形をしています。一番上の地獄の森がスタート地点で下に向かって、回りながら降りていきます。
煉獄
上の画像が煉獄山です。見ていただきますと、各フロアが円形になっており上に行くにしたがって先細りになっているのが分かります。
上部の7階は「七つの大罪」に沿っています。第一の罪:高慢が最も重く、第二、第三と罪が軽くなっていることを示しています。
山頂に地上楽園があります。煉獄は地獄と天国がミックスした不思議な空間です。
地獄と異なるのは「制限時間」があることです。煉獄では一定期間、贖罪をすると解放されて天国に行けるシステムです。なんだか現代の懲役制度と似ていますね。両目を縫われたりとか、石を背負うとかスケールが違いますけど。
そもそもキリスト教の世界観では死後の世界は天国と地獄しかありませんでした。天国に行けるのは善人、地獄に行くのは悪人です。しかし、このシステムには問題があります。
それは「善人とも悪人ともいえない微妙なライン」の人々です。
例えば、
「悪いことをしたけど最期に改心した」
「地獄に堕とすほど悪人ではないが、天国にそのまま送る訳にもいかない」
こういうケースを白か黒かで判定するのは至難の業です。あんまり理不尽にやるとキリスト教への不信が高まり信者が減っていく可能性もあります。
なので天国と地獄の中間を取った施設が煉獄になります。罪人は地獄と同じように罰を受けますが、罪の重さによって滞在時間が決まっており、終わればめでたく天国に昇天できます。なんだか都合がいい話ですね。現に煉獄は聖書には書かれておらず後から作られた概念です。
天国
宇宙では月→水星→金星→太陽→・・・と星々を巡っていきます。もちろん中世ですので地動説ではなく天動説です。ただし、地球が丸いことは分かっていました。そういう時代です。ダンテもプトレマイオスの宇宙観をもとに物語を展開させていきます。
天動説は地球が中心になっていることで有名ですが、ここで重要なのは星々が公転している軌道の外側で星々を動かしている存在、原動天です。さらにその奥には大いなる神が待つ至高天があいります。ここから全宇宙をコントロールしている、いわば指令室です。
現代人はガリレオを異端審問にかけた教会を「愚かだ」と馬鹿にできますが、神が天地を、宇宙を創造したと主張するにはどうしても天動説というストーリーが必要だったのです。まあ実際間違いだったのですが。
という感じで地獄から降りていって、最終的に天国へと昇ってくプロセスであることがお分かりいただけたと思います。上ったり下ったりと方向が分からなくなりますが、実はずっと一直線に進んでいるだけです。重力の向きが変わっただけです。
このプロセスには元ネタがあるそうで「階段の書」という書物なのですが、実はイスラム教の死後の世界を描いた作品なのです。地獄の描写が似ていることと導き手がいることから影響を受けているのでは、と指摘する研究者もいます。
しかし、「階段の書」は現段階で日本語訳が無く、入手も大変そうなので読めていません。考察不足なのです。ただ訳者の原が言うには「神曲」とは逆の天国→地獄というプロセスらしいので、関連性は強いと睨んでいます。
死後の世界の概要を掴んだら、次はキリスト教の中心教義三位一体についてです。
三位一体教義
三位一体教義については下の記事に説明があります。
では「神曲」どうなんだ、というと聖霊に関する描写がいくつかあります。しかし、視覚と聴覚がごちゃ混ぜになっています。つまりカトリックと同じ路線です。
天国篇第10歌冒頭から引用です。
第一の、言葉で言い表すことのできない御力は、
自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、
子を深く見つめることにより、
この場合、御力= 父、子=キリスト、愛=聖霊です。「自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、」は「父と子が発する生まれる聖霊を通じて」と言い換えることができます。
三行韻詩
「神曲」は全体を通して「三行韻詩(テルツァ・リーマ)」と呼ばれる技法が用いられています。
なんで「三行韻詩」を採用したのかというと三位一体教義を取り入れるためです。一つの組に三つの行が入っている。一なる神と三つなる神。
三行一組になっているばかりでなく、aba-bcb-cdcという風に組どうしで掛かっているようです。これを全100歌やるのだからダンテは凄い詩人です。反対にいうと、これだけでも作るの労力がかかるので物語の展開が単調になるのも仕方ありません。
そもそも詩は音楽に近い多義的な言語を扱います。つまり抽象的で意味ふんわりしている。しかし、ふんわりしたままでは困りますので形式に当てはめてコントロールしています。音楽でもソナタやロンドなどの形式がありますね。
全体構成
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani15.pdf
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani14.pdf
「神曲」の構成研究は進んでいまして、上記の研究書は全体構成についてかなり詳しく解析してあります。著者は 慶応義塾大学の藤谷道夫先生です。以下では藤谷先生のお力も借りて進めていきます。
通常、小説なんかですと物語の流れに沿って分割できるのですが、「神曲」は見学して対話しての繰り返しでストーリー性がありませんので、死後の世界の「場所」で分類します。
ここでも3編ともに3つに分類です。三位一体です。
さらに、場所の数についても外部と内部で分類しています。地獄と天国は1+9=10個、煉獄は3+7=10です。煉獄だけはパターンが少し違うようです。
各編それぞれの構成
実は神曲三編には一貫して3と7の数字が頻出します。勘の良い読者ならお気づきですが、3+7=10という簡単な計算式です。10はキリスト教の完全数です。そんでもって全歌数は100(=10×10)歌です。「神曲」は一貫して数学的構成なのです。
地獄篇
主に3が頻出です。7も少し出てきます。
地獄篇で注目すべきは、第七圏と第八圏です。
第七圏は3つの小圏に分かれています。これは次の煉獄を意識してのことです。
第八圏は10の巣窟に分かれています。そのことが直前の第17歌の「10歩進む」で暗示されています。
煉獄篇
ダンテは七つの大罪をそれぞれ3歌ずつに割り振っています。いわば7×3の構造です。歌の途中で、次の環道に進んでいるパターンもありますが美しい構造です。煉獄篇のテーマ数7と三位一体の3を掛けています。この辺はさすが天才詩人です。
そして、そのことが直前の第17歌で暗示されています。
ダンテは煉獄門の前で胸を3回叩き、3つの段差を登って、天使から額に7つのPの印字をされるのです。かなり凝ってますね。
天国篇
実は天国篇は地獄、煉獄と比べると構成力が弱いです。代わりにオカルトチックな世界観が前面に出ています。神の領域に入りかけているのです。数学という理性が弱まって信仰心が強まっています。
それでも、最後はきっちり締めようと思ったのか、第33歌のラストは数学的であり神秘的です。
人間であるダンテと神の劇的なクライマックスです。といって神を見ることも聞くこともできませんので、イリュージョンが流れ込んでいるだけです。神を描くこと自体が異端になってしまいますから。
全部で22行あり、3行1組が7ペアあります。3×7=21です。天国篇のキーナンバーは10(=3+7)なので、3と7を使った数学的な構成です。
しかし、最後の1行が余っています。気持ち悪いですね。気持ち悪いですが、この説明は後に回します。
政治批判
「神曲」の裏テーマとして政治批判があります。もっと言うと、教皇批判です。
ダンテが生きたのは共和制ローマの時代でした。共和制とは金持ちが主体となって政治を行う体制です。金持ちという言い方が下品なら市民といってもよいです。
ただ上手くいかなかったみたいで代わりにローマ教皇を立てる勢力(教皇党)と神聖ローマ皇帝を立てる勢力(皇帝党)が誕生し、対立しました。
二つの勢力の争いの中でダンテも追放の憂き目に遭っています。そして政治もやっていた教皇の権力が膨張していました。というか宗教改革前の教会の権力なんてヒトラーやスターリンも真っ青の超絶権威なので、ダンテは相当度胸があります。
ダンテは教皇党です。しかし、宗教と政治はきちんと切り離すべきだと考えました。聖俗分離、政教分離です。ドイツからやってきた神聖ローマ皇帝がイタリアを救出し、政治を執り行うことを望んでいたのですね。派閥にとらわれないバランス感覚。
結果的にどうなったのかというと、教皇がそのまま力を強め、皇帝がイタリアを統治することはありませんでした。ダンテは天才詩人でしたが彼をもってしても世界の流れを変えることはできませんでした。ローマ帝国の復活なんか所詮ロマンでした。この辺は切ないですね。
しかし、その勇気は称えられるべきです。
当時の文学者はプロパガンダするのが普通だったようですが、ダンテは異議を発し金銭欲にまみれた教会及び教皇を非難しました。誰もが怖くて口に出せなかったことを書いたのです。例えば、独裁政権の圧政に苦しむ国の作家は「神曲」読んでその勇気に励まされたんじゃないでしょうか。
国語
当時は書き言葉と話し言葉が分離していました。書き言葉はみなラテン語でしたし、教養のある人間ならラテン語を使ってナンボ、という価値観が大勢を占めていました。
現代において、「神曲」は権威ある歴史的な古典という扱いですが、当時はライトノベルの台頭と同じくらいの衝撃があったはずです。
何より俗語で書かれたことで民衆も読むことができました。以後、各地でバラバラだった言語が統一され、イタリア語の基礎となりました。国民意識の向上、つまり「国語」の誕生です。
イタリアの国語を語る上で「神曲」は欠かせない存在なのです。
貨幣観
ダンテは金に目がくらみ汚職を繰り返す聖職者と大商人を地獄に落として糾弾しています。反対に清く貧しく信仰を貫いた者は聖人扱いです。
地獄の第八圏第十巣窟(第29歌と第30歌)では、錬金術師を貨幣の偽造者として罰しています。ここで注目すべきは、第30歌のアダーモ博士とシノンの悪口合戦です。
アダーモ博士はグイド伯爵家の命令で贋金造りに手を出して火刑に処せられました。シノンはトロイア戦争時のギリシャ人で、トロイの木馬でスパイとして活躍したことで有名です。地獄ではそれぞれ水腫患者と熱病患者になっているのが対になっています。
貨幣と言葉は先ほどの国語の話と深い関係があります。
金属貨幣から紙幣へ移行するには国内での言語の統一が最重要です。貨幣とはつまるところコミュニケーションツールでして、言葉が通じないなら、貨幣の意味をなさないからです。
順序としては通常言語→貨幣で発展していくようです。この「順序」をきちんと踏むことが大事でして、手順が前後すると大変な目に遭います。
では、「手順が前後する」とどうなるのかというとジョン・ローみたいになります。
ローの失敗は言語の全国統一の前に紙幣を導入したことです。言語の統一がまだだったフランスでは、錬金術師のように見られていたと思われます。現にアダーモ博士は錬金術師だとして火炙りの刑で死んでいます。
「神曲」がイタリアの国語の基礎となったことは話しました。ということはダンテの時代には言語がバラバラであったということです。つまり、まだ紙幣を導入する段階ではない、ということです。そもそもペーパーマネーの概念すらありませんが。
ダンテがそこまで理解して通貨発行に否定的だったのかは分かりません。たぶん理解していなかったと思います。しかしジョン・ローのような失敗をしないという点では、結果的に正しい選択でした。
これがローより数十年後、ダンテより数百年後のゲーテだと通貨発行を推進しています。実際に「ファウスト」はキリスト教批判が満載です。しかも主人公のファウストは錬金術師です。とはいえ神曲もファウストも教会を弾劾しているのでよっぽどだったのでしょう。
西洋には二つの異なる文化があります。一つはキリスト教文化、一つはギリシャ文化です。二つの文化をなんとかドッキングさせようとしてきたのが古今の文学者たちです。
ゲーテ「ファウスト」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」はその代表例です。異文化のドッキングは大変しんどい作業のようで、それに挑んだ作品は傑作として評価されています。
しかし、ドッキングに成功したから物語の完成度が高いわけではないのです。傑作度と名作度は必ずしも比例しません。現にファウストの第二部はダラダラしていて面白くありません。(逆に第一部はスピード感あって面白いですね)
もっともカラマーゾフだけはどちらも両立できたようですが。
ドッキングといっても二つの世界のキャラクターがごちゃ混ぜで登場するだけです。ヘラ、ユーノー、ミノタウロス、アケローン、オデュッセウス等々。ただし、格付けがあります。キリスト教キャラの方がギリシャ神話キャラよりも扱いが上なのです。現に、天国に行けば行くほどキリスト教キャラ多く、地獄ではギリシャ神話キャラの方が多いです。あくまでキリスト教がギリシャ神話を飲み込むという、上下関係があります。
時間観
キリスト教の時間観は直線時間です。正確には、始点(天地創造)と終点(終末に千年王国が訪れる)があるので、「線分」時間なのですが。
しかし、時間は円環だと考えた方が自然です。日が昇って沈んでまた昇る。春夏秋冬が繰り返される。「時間」というものは回り巡るものです。
かくいうギリシャ神話も円環時間を採用していまして、直線時間のキリスト教と矛盾が生じています。ドッキング作業の問題点ですね。ダンテもここの部分で相当頭悩ました気がしてなりません。直線時間と円環時間、どちらを採用するか。
結論から言うと、ダンテは答えを出せませんでした。
天国篇第10歌から引用します。
天国篇では「10」が重要ですから第10歌は当然ウェイトが高くなります。ダンテの比喩で分かりづらくなっていますが、神の花嫁=教会、花婿=キリスト、愛=聖霊です。当時開発されたばかりの時計や「栄光に満ちた輪」から限りなく円環時間に近づいています。しかし、キリスト教の世界観も否定しません。つまり、どっちつかずです。
円周率
ところで、円というと「円周率」の話が必ず出てきます。中世の円周率は22:7で表すのが通例でした。メソポタミアの時代から現代まで数学者を悩ませてきた問題、それが「円周率の計算問題」です。3.14159・・・と続く数の終わりを発見しようと躍起になります。なぜ西洋人はそこまでこだわるのでしょうか。
スーパーコンピューターでも計算しつくせないのですから、やはり円周率は無限なのです。しかし、円周率を無限数と認めるとキリスト教に都合が悪かったのです。中世の学者はみな神学者でしたから。
彼らの問題点を洗い出すために、AパターンとBパターンのストーリーを用意しました。
A:円は神の被造物である→円にも神の真理がある→円環時間が本源的→線分時間の崩壊→神と人との契約も無効→信者離れる
B:円は神の被造物ではない→神以外に無限な存在がある→唯一神の権威失墜→信者離れる
円周率を無限数と認めるとA、Bどちらもキリスト教教義の崩壊を招いていしまいます。だから何としてでも円周率の終わりを計算する必要がありました。まあ知的好奇心もいくらかあったのでしょうけど。
ダンテは詩人なので計算はできません。
では、いかにして「キリスト教と円周率」の問題に立ち向かったのか。天国篇第33歌ラストに戻ります。全体を構成していた三行韻詩のことも合わせて思い出してください。
ここで、中世の円周率が22:7であることを踏まえると、
詩行:三行韻詩=22:7
となります。
神の完全数10と三位一体の3を引くと7が出てきます。
「7」という数字はキリスト教と円周率を結ぶ架け橋だったのですね。そして、ダンテの提示した時間観は「時間は直線的でもあり円環的でもある」です。二つの矛盾した価値観の両立とも言えますし、結論出せなくて中間策に逃げたとも言えます。無理のあるドッキングです。
イスラム教
「神曲」誕生にはイスラム文明の存在が欠かせません。にも関わらず、ダンテはそのことを隠そうとしています。あろうことか、ムハンマドを 地獄に堕としています。イスラム社会への恐怖からくる反発心です。
まとめ
こうしてみると「神曲」という作品は二つの矛盾したものを両立させるという意志にあふれているのが分かります。皇帝と教皇、キリスト教文化とギリシャ文化(直線時間と円環時間)、三位一体と円周率、視覚と聴覚、貨幣と言語、信仰と理性.....
こういった志は必ずしも成功したわけではありません。中世クオリティのドッキングですので、地獄のキメラのようなグロテスク感があります。しかし、困難に立ち向かうダンテの姿勢は素晴らしいですし、後世の西洋人も尊敬の念を込めて読み継いでいます。