週休二日〜アニメと文学の分析〜

ネタバレあり。一緒に読み解いてくれる方募集中です。詳しくは→https://yomitoki2.blogspot.com/p/2-510-3010031003010013.html

「風立ちぬ」キャラ配置戦略考

 

「風立ちぬ」キャラ配置戦略【宮崎駿】|fufufufujitani|note

fufufufujitani氏がジブリの「風立ちぬ」におけるキャラ戦略を読んだ。

記事読めばわかるが、母=カプロー二のポジションに該当する「魔の山」のキャラがまだ空欄である。

 

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自分でも色々考えたが、ヒッペしか該当する人物がいない。

ヒッペとはカストルプの夢に出てくる、鉛筆の貸し借りをしたきりそれ以上の関係は無い、しかし印象的な少年のことである。なぜ印象的なのかと言うと、その「キルギス人のような目」がサナトリウムにいるショーシャによく似ているからである。

 

ペーペルコルンとヨーアヒムがセット、セテムブリーニとナフタがセット、カストルプはホムンクルスなので一人。法則的に考えてしまえばショーシャとペアになるヒッペしかいない。

 

ただ断定するには気がかりな点が二つある。

一つは、「夢をふくらませる」という役割をヒッペが担っているか。言ってしまえば、カストルプに対するヒッペは、次郎に対するカプローニと母ほど関係が深くない。恋した女によく似た目をもつ、それだけの存在である。

過去にヒッペという少年との刹那的な、しかし印象的な出会いがあったからこそ、ショーシャへの憧れが盛り上がった。妄想が膨らんだ、と考えれば整合性がつかないこともない。

 

二つ目は、宮崎の発言である。

「カプローニは堀越二郎にとってのメフィストフェレスだ」

字義どおり受け取れば、カプローニ=ヒッペは成立しない。が、そもそも自己矛盾の権化である宮崎の発言を勘案する必要があるのか。いつものアンビバレンズからくる発言だと判断して棄却しても良いと思う。

いかにもセテムブリーニから連想されたはずのカプローニというキャラも性格、物語上の役割からしてあまり似ていない。(これには結構悩まされた)「カプローニはウェルギリウスなんです」とは言えなかったからそう言ったと推察する。

 

ただ、ラストの草原のシーンは魔の山にもあって、青天の霹靂ならぬ第一次大戦の勃発が告げられると、草原で寝ていたカストルプの元にセテムブリーニが起こしにくる、といった文章があったはずである。

 

書いてて思い出したが、煉獄篇の途中で地震が発生するシーンがある。これはもちろん作中の関東大震災に対応する。

あらためて密度の濃い、充実した作品である。もっとも文芸的に充実しているせいかアニメファンの追求が弱い気がする。宮崎の創作論だ、というのは結果的にはそうなるが、そこに至る過程を考えなければ作品鑑賞の意味がない。高畑勲への想いだの庵野へのメッセージだのといった言説は人間関係の考察に過ぎないし、過程を省いて結果だけ語ろうとするならファスト視聴以下である。

 

復活のお知らせ

「復活である」

 

「およそ九十日ぶりの復活である」

 

「週休九十日というわけやな」

 

「九十日と書いて”ここのそか”と読む」

 

「どうでもええわ」

 

「どうでもええことを突き詰めるのが文化なり教養っちゅうもんやないの」

 

「お久しぶりなのに調子ええなあ」

 

「お互いさまやで」

 

「ところで、なんで三か月も雲隠れしとったんか」

 

Twitterのパスワード忘れてログインできなかったんや」

 

「しょーもな」

 

「しょーもないの連続が人生の本質や」

 

「せやけど、ブログは更新できたんやないの」

 

「怠け癖というのは簡単には治らないのだよ、ワトソンくん」

 

「そんなださいホームズさんがあってたまるか」

 

「余談だが、人気作家コナン・ドイルの元にはホームズ宛のファンレターが大量届いていたらしく、ドイルはワトソン名義で『あいにくホームズさんは留守でして』と返事を書いたそうな」

 

「ホームズさんはお忙しかったのね」

 

「そんなことはさておき、今後はどういう予定なんね」

 

「『私の京アニ史』は完結させたいな」

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「書き始めてからずいぶん経ったせいで、当初の熱量が失われている感もあるが」

 

「しかし、問題意識は依然として頭ん中に残っておる。前にTwitterでとある漫画が流れてきたときも、やっぱり書かなあかんなと思ったもん」

 

「どれや」

「これや」

 

「これか」

 

「まああとはどうでもええけど」

 

「どうでもええって読書論も読み解きマニュアルもまだ途中やろ」

 

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「誰も覚えてないんやし、エタってもしゃーないやろ」

 

「最低や」

 

「まあ気が向いたら書くよ」

 

「読み解きはどうするつもりや。次は何をやるんや」

 

「これまでの経験上、あんまりこれやるあれやる言うとかえってやらなくなる人間だと分かったので、あえて何も言いません」

 

「これも気が向いたらやります、ね」

 

「fufufufujitaniさんの『明暗』解説を読んで、モチベーションが上がっているので首長くして待っていただけたらと思います」

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「おもしろかったね」

 

「おもしろかった」

 

「清子が坊ちゃんの清ポジションてのは察してたけどな」

 

「余談だが、『明暗』はあの漱石の遺作なだけあって未完を惜しむ声が多く、後世の作家がその続きを書いている」

 

「続 明暗か」

 

「これについてどう考える」

 

伊藤計劃屍者の帝国円城塔が完成させてるけど、いかんせん時代が違いすぎるからな」

 

「興味があれば読んでみるとおもしろいかもしらん」

 

「それにしても、今日は余談が多いな」

 

司馬遼太郎リスペクトやからね」

 

「彼もいろいろ批判されてかわいそうになってくるが」

 

「それだけ影響力がでかいという証左でもある」

 

「人気者はつらいね」

 

「という感じで今後も定期的に雲隠れするかもですが」

 

「決して放棄したわけではないので末永く見守っていただければと」

 

「そんなところで」

 

「今回はこの辺で」

 

ごきげんよう

 

 

作品と向き合う

昨日、「風立ちぬ」がテレビで放送された。2013年の公開から何度もテレビ放送されてきた。自分も好きで何回も視聴した。複数回の鑑賞に堪えうる価値を持った傑作である。

 

3週連続 夏はジブリ】明日は『風立ちぬ』 視聴者から届いた、ヒロイン・菜穂子の魅力とは|金曜ロードシネマクラブ|日本テレビ

 

2021年現在でも相変わらず人気なようで、Twitterでも様々な感想・考察が飛び交っている。

特に目立ったのは、「風立ちぬ宮崎駿の創作論・クリエイター論だ」というもの。そして、「宮崎は美しいものが作れれば、それでいいんだ!現実なんか知らん!と開き直っている」という考察だった。

 

「戦闘機は好きだけど、戦争は嫌いだ」という態度にあるように、宮崎の終生のテーマとして「テクノロジーと人間の相克」がある。美しいものが作りたい。しかし、その代償として多くの人間が死ぬ。

 

主人公・堀越二郎は宮崎自身である。だから声優は弟子的存在である庵野秀明が務める。二郎はゼロ戦を作る。彼が心血注いで作ったゼロ戦は、血を吐きながら美しく舞い、多くの人間を殺す。そのような残酷な現実に対して、宮崎は開き直っていると。だから菜穂子は「生きて」と言って消えていくのだと。

 

こういう意見が見受けられた。

自分もこれにはおおむね同意である。

 

風立ちぬ」は堀辰雄風立ちぬ」及び「菜穂子」を下敷きにしている。ガソリンを吐きながら墜落していく戦闘機と、血を吐きながら病に倒れる菜穂子は表裏の関係にある。

 

美しく呪われた夢であるゼロ戦を菜穂子と重ね合わせている以上、宮崎は美しいものが好きで、そこで発生する何万人という犠牲者には目を瞑っているのである。

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更にさかのぼるとトーマス・マン魔の山」が出てくる。サナトリウムカストルプという老人が出てくるが、魔の山の主人公もカストルプである。イタリア人が主人公を導くという点で、カプローニもセテムブリーニと一緒である。

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 さらにさらにさかのぼると、ダンテ「神曲」に辿りつく。

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ダンテもマンも堀辰雄も「風立ちぬ」のためだけに読んだ。人並みに本を読む方だったが、重厚な海外文学を読む習慣はなかったので辛かった。とにかく長い。読んでも読んでも終わらない。半分くらいまで読めば面白くなると思ったが、そんなことは無かった。他にもタルコフスキーとかあるが、面倒なので控える。

 

ここまで元ネタを洗ってようやくジブリ風立ちぬ」に戻ってくる。改めて鑑賞してみると、作品に対する理解がより深まっているのを実感する。宮崎が残酷な現実に直面しながら、それでも美しいものが好きだと叫んでいること。それがある種の開き直りであること。

 

長い道のりであったが、ようやく理解できたと思える位にはなれた。

 

以上が自分の「風立ちぬ」に対する所感なのだが、インターネット眺めているとどうもそこまでしている人が見当たらない。

 

みな足並みを揃えたかのように、「創作論、クリエイター論だ」と言っているばかりである。堀辰雄もマンもダンテも、訳知り顔で名前を上げるだけで、内容まで踏み込んでいる人はほぼいなかった。

 

なぜか。

 

批判されるのが怖いからである。

 

作家が自ら作品のテーマを語ることはない。作家は理解されたらおしまいの生物である。そして作家が語らない以上、答えは誰にもわからないのである。ゆえに作品分析には「間違っているかもしれない」という恐怖が常に付き纏う。

 

昔、輪るピングドラムというアニメの解説記事を上げたときに、Twitterでかなり批判的な意見をもらった。

かなり厳しい口調の意見だった記憶がある。きっと幾原邦彦のことに詳しく、だからこそ許せなかったのだろう。

 

これは運が良かったほうで、ひとたびバズってしまえば何万人という人々から攻撃的なリプライをもらう羽目になる。普通の人間なら耐えきれず、アカウントを閉鎖してしまうだろう。そのような状況下では、作品分析はおろか感想でさえ、思ったとおりに書くさえできない。

 

間違うのが怖いから確実な情報に縋るのである。そこで作者の人生研究である。元ネタ探しは不確定だが、作者の経歴や発言は確実な情報である。間違うことは少ない。

 

しかしそれでは、鑑識眼を育てることはできない。いつまでも外部情報に逃げていては、見えるものも見えなくなる。作品と正面から向き合わない限り、理解を深めることなどできない。

 

正解がないからこそ芸術鑑賞は面白いのであって、そんなに正解が欲しいならTOEICでも受けてればいい。

 

それなら批判を恐れず書いた文章の方が魅力的である。ピンドラの記事は批判こそ受けたが、もっともアクセス数の多い記事でもある。 

 

とはいえ、元ネタ探しに躍起になってそれが目的になってしまうのも本末転倒である。あくまで物語に軸足を置いて研究は進めなければならない。

 

長々と書いたが、なんでこんな文章を急に書いたのか自分でもよくわからない。「風立ちぬ」ほどの作品が安易に消費されていくのに我慢ならなかっただけかもしれない。知識量ばかり多くて物語そのものへの興味が薄い人々を見ていると、ああはなりたくないなという気持ちが強くなってくる。

 

これからはなにを語るにしても勇気がいる時代である。嫌な世の中になったが、それでも闘っていくしかない。

 

読み解きマニュアル~短編ver~

 構成読み解きと称して小説、映画、アニメの構成をエクセルに打ち込んでウンウン唸る日々をかれこれ2年ほど続けています。

 

と、我ながら自己紹介にはいつも「エクセルに打ち込んで」という文言を入れているのですが、具体的に「何を」「どうやって」エクセルに打ち込んでいるのか説明したことがありませんでした。それ以前にそもそもどういう工程で読み解きをしているのかも説明したことがありませんでした。

 

 

一応、こんな感じで「章立て表」というものを作っている、解説記事を書いているというのを本記事では紹介します。

 

短編と長編の場合で、アプローチが異なるので分けて書きます。まずは短編verから。今回は芥川龍之介「歯車」を例にとって説明します。

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 章立て表の作り方

 

1.まず通読

とりあえずサラッと読みます。一回通しで読んだ印象が重要なヒントになります。コツはあまり考えないことです。そして、少しでも脳が疲れたと感じたら放棄する。分からないところは後で読み直すことにしてとりあえず読み通すことを意識すると挫折率が下がります。

 

私は「歯車」を読んで「暗く鬱々とした話がだらだら続くな。作者は真面目すぎて病んでしまったのだろう。もう読みたくないな」と思いました。素直な感想です。川端康成堀辰雄は傑作だと褒めたらしいですが、関係ありません。

 

2.エクセルで章立て表を作る

読み終えましたらPCを立ち上げてExcelを開きます。そして章立て表を作成します。

 

では章立て表とはなんであるか。

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章立て表とは、上記記事にあるように作品の全体構成を視覚的に把握する方法のことを指します。試しに「歯車」の章立て表を載せます。

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完成形がこんな感じになるのをイメージして表作成に取り組みます。

 

エクセルで章ごとに一行ずつ分けます。たまに不親切な作者が章分けを明記していないことがあります。困ったんもんです。「トニオ・クレーガー」がそうでした。

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そういうときは、行間で区切るしかありません。

 

行間もない場合は、自分で「場面の変わり目だな」と思う部分で区切るしかありません。「注文の多い料理店」なんかあまりに短すぎて区切りがありませんでした。なので自分で区切りをつけました。

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もっとも宮沢賢治という人は大変数学的な構成をする人だったので、この場合は「風がどうと吹いて」文言で区切りがついているのが分かりました。

 

この章立て表の作り方について詳しい解説が無かったため、読み解き家のみなさんのセンスで作成されていたかと思います。

 

2.1セルに入力する

まず章内容をセルに入力します。あまり長いとセルに収まらないのでざっくり短くで結構です。

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 こんな感じです。

 

基本的には話の内容や場所、特徴的な出来事を単語で羅列するだけです。文章にしてしまうと表がごちゃごちゃして視覚的な明瞭さが失われます。

 

2.2眺める

表ができたらA4印刷します。

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別にA3でも構いませんが持ち運びに不便です。ポケットに忍ばせておいて 暇な時間にチラチラ表を眺めます。傍から見ると変質者ですが研究のためですから止むをえません。眺めているとだんだん共通部分や対になっている部分があることに気づきます。名作とはだいたいそういうもんです。無かったらそれは名作ではないということです。ちょっと暴論ですけど。

 

2.3色分け

共通項を見つけましたら再びエクセルを開きます。次は色塗りです。色塗りの目的は対句や共通部分を視覚的に強調することです。

 

「歯車」ですと

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こんな感じになります。1章と6章が対応しているなということに気づいて色を塗りました。となると他の部分にも共通項があるのではと勘が働きます。

 

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眺めていると2章と5章で共通項を見つけました。 色分けします。

 

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となると3章と4章にもあるだろうと勘がついていきます。調べると現にそうでした。

 

これらをまとめると完成形に辿りつきます。

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完成した表を見れば真ん中を折り目として対称構造になっているのが分かります。始まりと終わりが共通ですから円環的とも言います。そして内部では共通項が機械のパーツのように緻密に構成されています。まるで「歯車」のように。

 

2.4簡略化

章立て表ができましたらこれを更に簡略化します。

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すっきりしましたね。「歯車」の構成が一目瞭然です。「歯車」はここからさらに構成に工夫がなされていて、

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隣り合う章どうしで共通項組んで流れを作っています。 もっともこれはやりすぎです。隣の章でも共通項が組んであるとかえって、読者が対称構造を認識しづらくなるからです。全部の章が似たり寄ったりになってしまう。

 

3.感想と照らし合わせる

 

ここで1.まず通読でやった初読の感想を思い出します。

 

「暗く鬱々とした話がだらだら続くな。作者は真面目すぎて病んでしまったのだろう。もう読みたくないな」

 

これをここまでの分析に当てはめれば、

 

暗く鬱々とした話がだらだら続く=対称構造に加えて隣り合う章でも共通項を作っているから全体的に似たり寄ったりになって、物語が単調になっている

作者は真面目すぎて病んでしまったのだろう=作者は対句にこだわりすぎて限度を見失っている

もう読みたくない=技術は凄いが、それが物語の推進力にはなっていない

 

となります。分析結果がファーストインプレッションから外れていない。読み解きと直感が合致していることになります。ここで合致していないと章立て表が間違っているか、感想が的外れかのどっちかになります。どちらを信じればよいか。自分も感想と一致しないと気持ち悪くなるタイプなのですが、何回検討しても分からないときは章立て表を信じます。

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fufufufujitani氏のマクベス解説では、マクベスは「女性性を取り扱った作品」とあります。本人に聞いてみないと分かりませんが、これは氏の初読感想と一致していないと思います。

 

こういう例もありますので。自分は最終的には章立て表を信じることにしています。とはいえ直感をすぐに捨てることもできないので、ウンウン唸っているわけです。短編の読解で時間かかるのはここですね。

 

4.主題を掴む(+周辺情報収集)

全体構成が把握できますと、自然に主題を把握できているはずです。作者の伝えたかったことが分かる。なぜか。形式と内容は分離できないからです。全体構成はその物語の主題と密接に関わりがあります。その逆も然りです。

 

ここで作者の経歴や他の著作も確認しておくと作業がスムーズに進みます。ただし注意して貰いたいことがあります。それは「作品の読解と作者の人生研究を混同してしまう」ことです。ウンチク集めはとても楽しいですが、あくまで補助的なものです。やりすぎは禁物です。

 

ちなみに周辺情報収集では、年代を意識するのがコツです。前後の出来事も把握するとどういう時代に発表されたのか背景を知ることができます。これも歴史的にインパクトのあるビッグイベントを意識するといいでしょう。

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神曲」解説より

5.記事を書く

「だいたい読み解けたな」という感触を持ちましたら解説記事を書き始めます。「だいたい」でいいのは書いているうちに、またなんか閃くからです。結構あるあるです。

 

媒体は各自の好みでいいと思います。私ははてなブログです。Naverまとめは終了してしまいましたが、fc2ブログとかWordPress、最近だとnoteなんかが主流ですね。今一番アクセス数が多い媒体でしょう。

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記事の構成ですが論文ではないので自由に書けばよいと思います。あんまり文字数が多くて、改行が少ないと露骨にアクセス数が減ります(経験談)。この辺は試行錯誤して自分がしっくりする形式を探すべきです。

 

以上が短編verのマニュアルです。だいたいこんなもんです。短編は比較的挫折率が低いです。調子がいいとすぐに読み解けることもあります。とりあえず読んだらエクセル開くことから作業は始まります。

 

次回は長編verの説明をします。

 

 

魔の山 追記その4~ワルプルギス・ループについて~

 

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 上の解説で最も肝になるのが「ワルプルギス・ループ」の項である。トーマス・マンはあるいは当時の文学者は、時間問題をかなり重要視していた。

 

ワルプルギス・ループと名付けてはみたが、実際にはループが完成しない。ループするギリギリのところで始点と終点は交わらず、軌道は螺旋のように上へ昇っていく。

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引用:https://blog.studiofruitjam.com/2018/11/20/conical-spiral/

 

作中、ワルプルギス・ループは7回ある。カストルプくんは7回中7回ともループの失敗する。ループチャンスは一年に一回しかない。彼は毎年チャレンジしては失敗して、7年間のうのうと生き続けニート同然になったとき、第一次世界大戦が勃発するわけである。

 

以下、本解説で端折ってしまったワルプルギス・ループについて

 

ワルプルギス・ループとは

週休二日が勝手に命名した直線時間と円環時間の折衷案的表現である。円環時間で代表的なのはゲーテファウスト」。この手法について、命名者は私ですが、発見者はfufufufujitani氏である。

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ここでストーリー上重要なのはファウストの旅だけなのですが、
ホムンクルス劇はストーリー以上に、全体の思想を決定づけています。

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「古代のワルプルギスの夜」は、第二部の第二幕にあります。ワルプルギスに先立って二つの章が置かれています。

・狭いゴシック式の丸天井の部屋
・実験室
の二つです。

「実験室」はホムンクルス誕生の説明ですが、特に意味はありません。重要なのは最初の、「狭いゴシック式の丸天井の部屋」です。
ここでメフィストフェレスが昔(第一部で)馬鹿にして煙に巻いた学生が再度登場します。学生は成長しており、増長しています。第一部の時点では尊敬していたメフィスト扮する老先生を散々に侮辱します。この増長学生をホムンクルス劇の前に置いたのが、天才の天才たるゆえんです。

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第二幕全体で理論の流れを見てみましょう。

1、若いものは年寄りより進歩していると思っている。
2、研究者が人造人間を作る
3、生まれたての人造人間はファウストメフィストと一緒に古代世界にタイムトリップする
4、人造人間は「人間として出来上がりたい」と希望して、古代の海に溶け込んで消える。その後時間をかけて人間になると思われる。

つまり、ここでは「進歩」がループしているのです。科学技術が最先端にたどり着くと、古代ギリシャに戻って一からやり直す。時間がループしていると言っても良いです。増長学生ナシでもいけますが、彼が居たほうがこのループがわかりやすいのです。

キリスト教の世界では、時間は必ず一方方向に流れます。いつか御国が来る。主は御国の王である。その日を待つのがキリスト教です。このループ時間はそれの完全否定です。永劫回帰の時間です。ファウスト第二部の出版が1833年ニーチェの「ツァラトゥストラ」が1885年です。ツァラトゥストラの背後にはファウストが立っているのです。

時間計算は「~を法とする計算」をします。60分経過すると0分から始まる。24時間経過すると0時間から始まる。365日経過すると1日目から始まる。今は西暦が多いですが、元号改元すると元年から始まります。
「西暦」という考え方、キリスト生誕から一直線に伸びる時間という感覚が、実はなにげにマイナーな趣向なのです。

引用:「ファウスト」解説【ゲーテ】|fufufufujitani|note

 長々と引用させてもらったが、ワルプルギス・ループとは、

 

1、若いものは年寄りより進歩していると思っている。
2、研究者が人造人間を作る
3、生まれたての人造人間はファウストメフィストと一緒に古代世界にタイムトリップする
4、人造人間は「人間として出来上がりたい」と希望して、古代の海に溶け込んで消える。その後時間をかけて人間になると思われる。

 

という手順をパロディにしたものである。作者のトーマス・マンは自分のことをパロディストと言ってたくらいで、当然自国の文豪であるゲーテをパロディにしていても不思議ではない。

 

もっともマンが伝えたかったのはループではなく「ループの失敗」なので、正確には「ワルプルギス・ループの失敗」かもしれぬ。

 

 

 1回目:5-7〜5-9

1回目はサナトリウムに引っ越してきたハンスがヨーアヒムやセテムブリーニとの交流、ショーシャへの恋、そしてベーレンスによる結核宣告(=死に漸近する)を経て、5-7でベッドで専門書を読むところから始まる。解剖学、生理学の本を読むシーンなのだが、専門的な記述が何十ページと続く。ハンスは読んでいるうちに「これを読んでいる自分は凄い。なんだか解剖学や生理学の知識が身についてきた」と錯覚する。そして賢くなったと傲慢になる。増長する。

 

そして5-9「ワルプルギスの夜」に入る前に、5-8「死人の踊り」が入る。クリスマスパーティーのあと、ハンスの発案で危篤患者をお見舞いするシーン。何人かの危篤患者を見送ったあと、カレンという少女と出会う。まだ幼いのに死に瀕している少女を憐れんで、ハンスとヨーアヒムは一緒に観劇やスケートをして遊んであげる。そして、3人は墓地に行く。そこで二つの墓の間に空き地がある。「三人は左右の石碑のいたいけな年数を読んだ」とあるので、おそらくカレンと同じくらいの幼い子供の墓である。つまり、この空き地にはやがてカレンの墓が立つことになる。死の予感である。

 

ここ自分でもよく分からなかったのだが、死人の踊りという題から察するに、ワルプルギスがすでに始まっている。やたら固有名詞が一回限りのモブキャラが出てくるあたり臭い。そうすると、カレンという死の予感がする少女はグレートヘンに対応することになる。清純な感じはたしかにグレートヘンだが、かなりモブ扱いになっている。

 

いよいよ5-9「ワルプルギスの夜」。謝肉祭の夜、サナトリウムでパーティーが開かれる。患者たちはみなコスプレやゲームで盛り上がり、ちょっと妖艶な雰囲気も出ている。

 

恐らく多くの読者が「ファウスト」第一部のワルプルギスの夜を想起されたと思われるが、人込みから外れてショーシャと二人きりになる場面からは第二部古代のワルプルギスの夜である。

 

ショーシャのいる部屋に入る途中、セテムブリーニから警告されるのですがハンスは無視する。この辺、メフィストと増長学生の関係をうまく再現できている。

 

note.com

 

ここも「ガラテア」の意味がわからないと理解不能です。「ファウスト」第二部の第二幕、「古代のワルプルギスの夜」の最終章、「岩に囲まれたエーゲ海の入江」に、女神ガラテアが登場します。

ホムンクルスが人間への進化方法を探してギリシャを旅していると、海神ネーレウスが娘たちを待っています。彼女たちは年に1度だけ父親ネーレウスに邂逅します。今回は彼女たちは、難破した船から救った若者たちを連れています。
「父上、この者たちを不死にしてください」
「ゼウスには出来ても私には無理だ」

そして最愛の娘ガラテアが来ます。一瞬の邂逅です。すぐに父の元から離れてゆきます。それを見たホムンクルスはガラテアの足元の海に溶け込んで、人間への進化の過程を歩みだします。

引用:「悪霊」解説【ドストエフスキー】|fufufufujitani|note

 

第一部の雰囲気を出しておいて、内容は第二部のガラテアをやる。三島が評したように、トーマス・マンという作家は「したたかな」作家である。

 

以降のハンスの告白がショーシャに振られる流れは本解説でも話したので割愛する。思春期モテない男子の勝算ゼロの特攻は痛々しいが、ショーシャを追って死ねなかったホムンクルスの魂と解釈すると、時間問題を扱った上手い文学的表現だということが分かる。

 

ちなみに新潮文庫の高橋訳だと2人の会話はカタカナで大変読みにくい。これはフランス語で話していることを表現しているためである。「戦争と平和」にもあるように、当時のロシア富裕層はロシア語ではなくフランス語を話す。

 

2回目:6-4〜6-7

 

ショーシャへの失恋をあっさり克服して2年目に入ると、またしてもハンスは増長する。植物学や天文学の長々とした記述に当てられ、セテムブリーニとナフタの議論を立ち会っているうちに賢くなったと増長する。そして死への親近感を覚える。死にたい、つまり円環時間を手にしたいということである。そして、スキーに乗って山奥へ入っていく。

 

この時もセテムブリーニはハンスへ警告するが、無視する。反抗期の厄介息子は手に負えない。

 

この後、雪をスキーの杖でつつくと雪の光が見えて、それがヒッペの眼に似てるという文章が出てくるように、ショーシャ=ヒッペは確定である。

 

以降は本解説で説明したので割愛する。訳者高橋は、「あそこで終わっていて決して不自然でもぶさまでもない」とあるが、ループの失敗を7回やらなければ煉獄山の七つの大罪を贖ったことにはならない。早く終わってほしい気持ちは分かるが、意味がないのである。まだ2回しかやっていない。面白さとしては蛇足でも、第7章以降の話も重要なのである。

 

そして、7-1で時間について明記しないことが述べられる。すなわち以降のハンスの滞在時間は必ずしも断定できない。なので前後関係から洗って推定するほかない。違うのでは?と言われたら教えて欲しいのだがマンがわざと書いてない以上、どの説も断定できないと思われる。

 

その5へつづく

 

 

 

 

ヴィスコンティ「山猫」感想

ルキノ・ヴィスコンティ「山猫」を見た。

 

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随分前に見たきりになっていたから、新鮮な心持ちで鑑賞に臨めた。

 

この作品に限らず、ヴィスコンティ映画の魅力は「本物」の貴族が描かれることにある。徹底した時代考証とか地道な取材とかそういう次元ではなく、「ガチの貴族」が描かれる。なぜなら監督本人がミラノの貴族だからである。

 Luchino Visconti, Giancarlo Giannini And Laura Antonelli : ニュース写真

そもそも「山猫」は、原作者ランペドゥーサ(シチリアの貴族)が自身の祖先をモデルに書いた大河小説である。ガチ貴族が原作を書いている。

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さらに有名な舞踏会のシーンには、実際のシチリア貴族の末裔が出演している。

 

つまり、「貴族が原作を書き、貴族が監督を務め、貴族が演じる貴族映画」ということになる。当然ながら映画としての完成度は高くなる。取材を通して知った知識を元に組み立てるのと、自身の経験を元に組み立てるのではどうしても説得力に違いが出る。

 

ただ欠点もある。時間の進み方がスローなのである。オリジナル版は187分ありますが、現代なら2時間で収めないとOKでない。後半の舞踏会のシーンもサリーナ公爵とアンジェリカのワルツを除けば、ほとんどダラダラしている。貴族なので時間の使い方も悠々としているのだ。

 On the set of Il gattopardo : ニュース写真

また予算も馬鹿にならないので資金繰りが大変である。ヴィスコンティプルースト失われた時を求めて」、トーマス・マン魔の山」を映画化しようとして失敗している。予算が足らなかったようである。映画ファンは見たかっただろうが、個人的にはスローすぎてグロテスクな結果になっていたと思う。

 

貴族映画であるから登場キャラも貴族である。貴族である、ということは行動に裏表がある。表では笑い合いながら心の底で中指立てるような、見えない攻防をずっと続けている連中である。

 

サリーナ公爵役のバート・ランカスターが素晴らしい。時代に迎合するわけでも、逆らうわけでもなく、現実とすり合わせていく誇り高さが伝わってくる。

 On the set of Il gattopardo : ニュース写真

反対にサリーナ公爵以外の登場人物はスタンスは違えど、みな時代に流されている。

 

アラン・ドロン演じるタンクレディはサリーナ公爵の甥、つまり貴族なのだが、時代の変化をいち早く察知してガリバルディの赤シャツ隊に入隊する。ガリバルディは革命軍だから貴族の敵である。しかし公爵は甥の参加を許可して、お金まで渡してあげる。懐が広い。

 On the set of Il gattopardo : ニュース写真

しかし、その後革命軍が解散すると、今度は政府軍に入隊している。さらに物語の最終盤では政治家として立候補したい、と言う。コロコロと鞍替えばかりしている。時代を読む力があるが、少し節操が足りない。

 

タンクレディの義理の父セダーラはさらにひどい。時代に迎合する打算的な人物である。口では調子の良いことを言い、不正選挙をする狡猾な人間である。映画では彼を愚かに描く反面、新時代の中心になるのは間違いなく公爵ではなくセダーラであると暗示している。公爵はそのことを理解しているからタンクレデイとセダーラの娘アンジェリカとの結婚を後押しする。

 

そのアンジェリカであるが、大変な美人である。演じるのはクラウディア・カルディナーレ。やたらセクシーである。この映画の魅力の大部分は彼女の美貌であるがその反面、行動が下品である。母親が身分の低い人だったせいか、笑い方がやたらに下品で、その辺がガチ貴族のサリーナ家と新興ブルジョワジーのセダーラ家との格の差である。

 

彼らは新時代を象徴する人々であるが、やたらと節操がないし、下品である。サリーナ公爵は彼らが新しい時代を作ると理解しているが、彼らの身の振り方については冷ややかに見ている。

 

その反対にサリーナ家の人々は時代に取り残されている。公爵夫人は聖書にすがってヒステリーを起こすばかり、チッチョは忠誠心こそあるが汚い服装を着ていて落ちぶれている。

 

公爵の娘コンツェッタもタンクレディの想いをずっと引きずっているだけ。新たな恋をすることなくずっと拗らせている。

 

新時代の人々は節操がないのに対し、旧時代の人々は硬直的である。彼らは伝統を守っているつもりであるが、本音は変わるのが怖いだけである。

 

そんな中で、ただ一人サリーナ公爵だけが貴族としての矜持を守っている。伝統と革新の狭間で必死にバランスを取っている。それは「変わらずに生きてゆくためには、自分が変わらなければならない」というセリフに集約される。そういう堂々とした姿の中に見える悲哀が、些細な表情や仕草から伝わってくる。たとえ最後は滅びる運命にあったとしても…

 

ところで、これと似た感慨を小津安二郎秋刀魚の味」でも持った。

若い世代が新しい時代を作ればいい。しかし新しい世代、新しい考えに方針転換するつもりはない。節は守る。

 

私からすると、守るべきものがあっただけ彼らは幸せであったと思うが。

 

ヴィスコンティは他にも傑作を残しているが、一番気になっているのは「家族の肖像」である。

家族の肖像

家族の肖像

  • メディア: Prime Video
 

 これまたバート・ランカスターである。fufufufujitani氏は以前、「ニーベルングの関係があるのでは」とおっしゃっていたが、確かにコンラッドという名の青年がでてくるあたり怪しい。ドイツ三部作の次に撮られたこの作品にもワーグナーが隠されている可能性は十分考えられる。

涼宮ハルヒの新刊

 

f:id:ramuniku_31:20201129215119p:plain

引用:https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1600416931

2020年11月、涼宮ハルヒシリーズの新刊が出版された。

9年半ぶりの新刊らしい。

どちらかというと、9年経ったというのに大して成長していない自分の方に驚いているわけだが、ともかく新刊が出たとのことである。

 

涼宮ハルヒに関しては、以前こんな未来予測をした。

dangodango.hatenadiary.jp

 こちらはアニメ版ついてなのだが要約すると、「エヴァが完結しない限りハルヒも完結しない」である。ハルヒエヴァを下敷きにしているので、下敷きとなる作品が完結しないと後続作品も着地できないという理屈である。

 

涼宮ハルヒの直観」発売 2020年11月25日

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」公開 2021年1月23日

 

エヴァより先にハルヒが動き出して焦ったのだが、元々エヴァの公開が6月27日だったし(新型コロナの影響で延期)、なにより両作とも完結が決まったわけではないので大目に見てほしい。

www.evangelion.co.jp

 

ちなみに谷川流本人は押井守うる星やつらビューティフルドリーマーが好きであるらしい。

ja.wikipedia.org

 

もっとも作家がインタビューで本音を喋るとは限らないので(むしろミスリードする方が多い)、引き続き自説を推していく所存である。予測を外すことよりも信念を曲げることの方が恥なのである。

 

結局のところ、完結してからじっくり読み解かないと断言できないので、早いとこ完結して欲しいのだが、如何せん終わらないから困ったものである。

 

予測ついでに、ハルヒの2期について話す。

仮にエヴァが今回の劇場版で完結あるいはほぼそれに近い停滞を見せた場合、上の予想に従えば、ハルヒシリーズは再び長期休刊することなく物語が進み始める。

 

そうなるとストックが溜まるのでアニメ2期の噂も流れるであろう。果たして京アニは2期を作るのか。

 

恐らく製作しない。

なぜか。

 

それは痛ましい事件によって貴重な人材が失われたからというのもあるが、現在の京アニの志向性も関係している。

 

けいおん!ユーフォニアムを比べれば分かる通り、近年の京アニは自らが孵化させたユートピア、ファンタジーから脱却して、徹底的に「現実の人間」を描くようになっている。(もっとも徹底的すぎて逆に現実的ではなくなっているのだが)

 

そういう流れの中で、突然涼宮ハルヒを出されても非常に不自然であるし、彼らの態度と矛盾する。日常系アニメが限界を迎え、少しずつ物語性が復権しつつある現在において、さらに前時代の産物である涼宮ハルヒのアニメを作ることの意義というのはほとんど無い。佐々木をアニメで見たいというくらい。とはいえ資本主義パワーによって、2期が製作される未来もありうるのでなんとも言えない。

(その場合は、高まりまくった期待を超えることなく、かつてオタクだった亡霊たちが満足して帰るだけという悲しい結末が待っているであろう)

 

まあ色々語るのは新刊読んでからにしろ、と叱られそうなのでこの辺にしておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の京アニ史 その4

「私の京アニ史、第四回目である」

 

「随分とお久しぶりやな」

 

「数えてみたところ、前回から9ヶ月ぶり、我々の登場自体はおよそ半年ぶりとなる」

dangodango.hatenadiary.jp

 

dangodango.hatenadiary.jp

 

「えらい間が空いたな」

 

「今年は梅雨がやけに長かったので、それが原因だと考えられる」

 

「梅雨関係ないやろ」

 

「気圧が低いと筆が乗らんのや」

 

「高気圧でもサボっとるやろがい」

 

「前口上はええから、そろそろ始めるで」

 

「逃げたな」

 

7.Kanon

 

「今回はKanon

 

「アニメ放送2006年、ゲーム発売1999年」

 

「リアルタイムで見てた訳ではないので郷愁なんてものはないけれど、やはり時の流れを感じるな」

 

「顔に対してお目々が大きすぎる」

 

「それを言ってしまったらおしまいだし、今の技術がそれだけ進歩したっちゅう証拠である」

 

「こればかりはしゃーない」

 

「本題に入る。あらすじを述べると、七年ぶりに訪れた『雪の街』で主人公・相沢祐一が五人の少女と交流する」

 

「五人ともどこか頭のネジが外れておるな」

 

「やっぱり頭のネジが外れた女の子と青春がしたいんや。ベタなストーリーじゃ満足できない身体になってしまった」

 

「誰のエピソードが一番好きなのか」

 

「最近はその手の質問をされたとき、ベタな回答が恥ずかしくてついつい変化球を投げてしまう癖ができてしまった」

 

「そうなんや。で、誰なんかい」

 

沢渡真琴かな」

 

「ベタベタやないか」

 

「ちょっと暴走気味で天真爛漫な少女が次第に退行し、衰弱していく。その過程が切ない。丘の上の結婚式のシーンなんかは何度見ても泣いてしまう」

 

「助けた動物が数年後に娘になって現れるという点では、『鶴の恩返し』ぽい気もするが」

 

「一番は『ごんぎつね』であろう」

 

www.yanabe-e.ed.jp

 

「祐一への善意が裏目に出て空回りしてしまう辺りは、ごんぎつねに似ている」

 

「祐一と真琴はある意味すれ違いの悲劇なのでそうかもしらん」

 

「しかし、最後は想いが通じた」

 

「ところで、一応メインヒロインは月宮あゆなのだが」

 

「キスシーンの演出は良かったと思います」

 

「興味なさそうやなあ」

 

「真面目に話すと、祐一との思い出の大木が切り倒されていたシーンなんかは印象に残った。止まっていた時間を必死に探そうとするあたりが」

 

「いつまでもいつまでも、あるはずのない青春の断片を深夜アニメから拾い集めようとする我々の姿に重なるものがある」

 

「やめんか」

 

「へいへい」

 

「ともかく、五人のヒロインはそれぞれ異なるキャラクターであるが、祐一との過去を持っているという点で共通している。その過去が7年の時を経て再帰するとき、挿入歌が流れ、我々のもとにカタルシスがやってくる」

 

「まさしくKanon(追走曲)なんやな」

 

「カノンということはひょっとすると全体構成が対位法、つまり対称構造になっているかもと思ったが」

 

「構成読み解きは趣旨と外れるので今回は省略で」

 

「左様か」

 

8.AIR

 

「続いてはAIR

 

「これまた古い」

 

「OPの鳥の詩は一部ファンから国歌と呼ばれている」

 

「なぜあんなにも青臭く、そして深く感じさせることができるのか不思議である」

 

「原作はkey制作の恋愛アドベンチャーゲーム

 

Kanonに引き続きやな」

www.tbs.co.jp

「こちらも主人公が複数の少女と交流を深めることになるが」

 

「大部分を占めるのはメインヒロインの神尾観鈴の物語である」

 

「千年前の因縁が引き継がれ、彼女の肉体を蝕む」

 

「いきなり千年前に舞台が移った時はたまげたけどな」

 

「さらに第10話からは視点がカラスのそらになる」

 

「無力な存在であるカラスが視点になったことにより、我々は悲劇をただ傍観するしかない。プレイヤーは物語の不介入という事実に立たされ、我々の自意識に内在する無自覚でアンビバレンツな態度に対して物語自体が批評性を持つことになり…」

 

「いきなり何を言うてるんや君」

 

「急に懐かしくなってな。昔こういう批評モドキをよくやってたな」

 

「リアルタイムでゲームプレイ及びアニメ視聴したわけではないが、よくインターネットに潜ってそういう文章を探した記憶があるし、見よう見まねで怪文書を作成したこともある」

 

「思い出すだに恥ずかしい」

 

黒歴史である」

 

「そもそも上の文章は東浩紀のパクリやろ」

 

「少し言葉を変えただけでその通りや」

「せめて怪文書くらい自分の脳味噌で考えないとな」

 

「倫理と流儀に反する行為である」

 

剽窃はあかんけど、そういう黒歴史通過儀礼というか必要だったのだなと思う」

 

「優しくて頼りになるカッコイイ男はだいたい若いころヤンキーだからな」

 

「ヤンキーだった過去は黒歴史ではなく武勇伝やから」

 

「というか我々は現在進行形で黒歴史を生産しているのでは」

 

「それは言うな」

 

9.CLANNAD-クラナド-、CLANNAD~AFTER STORY~

「お次はCLANNADであるが」

 

「またもkey」

 

CLANNADといえば最近Switch版が出たことで話題になった」

 

「最近いうても一年前やで」

CLANNAD - Switch

CLANNAD - Switch

  • 発売日: 2019/07/04
  • メディア: Video Game
 

「せっかくだから買ってみよかなと思ったが、そもそもSwitchが無かった」

 

「遅れておるな」

 

「本題に入ると、CLANNADもゲーム原作なので最初複数のヒロインのエピソードののち、メインヒロインの古河渚と結ばれる」

 

「どちらかというと結ばれた後が真骨頂である」

 

「たいてい高校卒業と同時に物語も終了してしまうが、そこから社会人になっても続くアニメってのは物凄く新鮮に感じたな」

 

「さらにあんなことやこんなことが」

 

「卑猥な感じにすな」

 

「という感じでCLANNADは学園の枠を超えて、物語は続く。辛いこと悲しいこと、全部一つの街で経験する」

 

「まさに『CLANNADは人生』ということに」

 

「しかし人生という観点からすると、主人公・岡崎朋也は我々とかなり異なった人生を歩んでいる」

 

「まずスポーツ推薦で入学できるくらいのアスリートだったが不仲な父との喧嘩で選手生命を絶たれる」

 

「卒業後地元で働きながら高校で付き合った彼女とそのまま結婚する」

 

「しかし、その彼女は出産時に亡くなってしまう」

 

「波乱万丈の半生である」

 

「そして、この半生は我々と対極に位置するヤンキーの人生ではなかろうか」

 

「ヤンキーは地元離れないからな」

 

「せや」

 

「『もう一つの世界 智代編』では、外の世界へ出ていく智代と地元に残り続ける朋也が対比されていたが」

 

「経済的に厳しい以前に、朋也は『自分は地元に残るんだ』という意識が強いように見受けられた」

 

「踏切のくだりとかな」

 

「うむ」

 

「結局、智代が街に残ることでハッピーエンド」

 

「地元愛が強い男である」

 

「というようなことを東浩紀が語っている動画を見つけたので、合わせて紹介したい」

youtu.be

「なんちゅうサムネイルや」

 

「ここで東が指摘するように岡崎朋也のようなマイルドヤンキー的価値観が、個人主義的な傾向のオタクに称賛されたことは考える必要があるかもしれない」

 

「ということはつまり君はヤンキーとかアニメを解さない連中を馬鹿にしながら、その実彼らの価値観を称揚するアニメを愛でていたというわけか」

 

「急に皮肉言うのやめてくれるか」

 

「すまんな」

 

「ええんやで」

 

「しかし、朋也以上に地元愛が強い人物が渚ではないか」

 

「AFTER の12話で、父親が逮捕されて朋也が精神的に参るシーン。渚に『街を出て二人で暮らそう』と持ち掛けるが否定される」

 

「『ここで逃げたら帰ってくる場所じゃなくなってしまう。去るなら前向きに去らないとダメだ』と」

 

「別にそんなことないし、身内に犯罪者が出たら離れるのが吉であると思うが」

 

「結局そのまま残留して二人は結婚する」

 

「幸せ一杯である反面、朋也は身を固めて余計に移動できなくなる」

 

「しかし、渚は地元愛云々ではなく誕生秘話や出産時の苦しみから分かる通り、街と一体化しているからである」

 

「そのことは同時並行で語られる幻想世界にも通じてくる」

 

「朋也たち現実世界のストーリーの合間に、謎の少女とガラクタの人形だけがいる不思議な世界のストーリーが挿入され、二つの物語が一点で交わったとき物語はクライマックスを迎える」

 

村上春樹が長編で用いる手法でもある」

 

「『世界の終りとハードボイルドワンダーワールド』とか『1Q84』とか」

 

「だから渚に関しては地元愛が強い云々は的外れなんではないか」

 

「ファンタジー要素でヤンキー的保守的価値観を中和してるだけやろ」

 

「ファンタジー要素がCLANNADを傑作たらしめているんやで」

 

「その極致とも言うべきが最終回の幻想世界→坂道のシーンになる」

 

「現実世界と幻想世界が一点で結ばれるクライマックスとピアノの旋律が掛け合わさることで得も言われぬカタルシスが訪れる」

 

カタルシスアリストテレスが『詩学』で述べたように悲劇が観客の心にもたらす精神の浄化であるが」

 

CLANNADはここから超ド級ご都合主義的ハッピーエンドに向かっていく」

 

「このシーンがたまらなく好きで10回見たのだが、10回目の鑑賞でこれは論理の飛躍を音楽で誤魔化しているだけではないかと気づいた」

 

「気づくのに10回もかかったのか」

 

「妻も子も喪って絶望にあるはずの主人公の魂が唐突にファンタジーなアレコレに回収されてハッピーエンドに向かうのは無理がある」

 

「原作がギャルゲーやからルート分岐があるやろ。ハッピーエンドの世界線があったというだけや」

 

「だが無理矢理辻褄合わせたのを音楽の力で隠しているという部分は大いに批判しなければならない。傑作ならすべて許されのなら、それはただの神格化ではないか」

 

「そうなのか」

 

「音楽の快感は人を思考停止させる。『よく分からないけど音楽が良いから素晴らしいんだ』という姿勢は褒められたものではない。CLANNAD京アニ作品の中でも傑作の部類だけどやっぱりおかしい部分もある。それを音楽にたぶらかされて『泣ける』『感動する』で見て見ぬフリをするのは君の悪い癖なんだ」

 

「言いたいことは分かるが、なんでそこまでせにゃならんのだ」

 

「私の京アニ史と銘打ってる以上、君は京アニ作品を親しんできた自分と徹底的に向き合うべきだと思ってな」

 

「今回の三作品については原作がkeyなのだから京アニ関係ないのでは」

 

「アニメを作っているわけだから関係ないことないやろ」

 

「しかし、ああいう事件があってやっぱり京アニについて悪く言うのはなんとなく憚られるのだ」

「気持ちは分かるが、そうやって変に気を遣うのは亡くなった方にも今作っている方にも失礼になってしまう」

 

「『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も観に行ったけど、公平に評価できんかったわ。作品外から流れ出てくるものが大きすぎる」

 

「TVアニメ版での違和感の答え合わせをしたかったのだが難しくなってしまった」

 

「どうも変なバイアスがかかってしまうのよな」

 

「一年前に祈りを捧げたし、四ヵ月前には黙祷もした。我々は関係者ではないからこれ以上何かできることはない。だから今こそ思いの丈を書きまくってきちんと向き合わなあかん。事件以前のフラットな状態には戻れないけど、そこに向かって努力しなければならない」

 

「かなり重たい話題になってしまったが、そろそろお開きということで」

 

「左様か」

 

「今回はこの辺で」

 

「さようなら」

 

 

 

〈おまけ〉

 

「なあ」

 

「なんや」

 

「今回key三部作を紹介したわけなんだが」

 

「うむ」

 

「この三作品に関しては京アニ版とは別に東映アニメーションが制作したものがある」

 

劇場版 AIR (通常版) [DVD]

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  • 発売日: 2005/08/05
  • メディア: DVD
 
劇場版『CLANNAD』 DVD(通常版)

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  • 発売日: 2008/03/07
  • メディア: DVD
 

「形式はKanonがTVアニメで全13話+1、AIRCLANNADが劇場版で90分構成となっている」

 

「出来はどうなのかというと」

 

京アニ版と比べると作画の面で厳しいものがある」

 

「尺の都合で大幅にカットしている部分が多く不満点も多い」

 

「そうは言うけど、3、4時間まで伸ばしたところで大赤字やろうし無理な注文や」

 

「さらにギャグというかノリが古い」

 

「よく分からないギャグが飛び出すのは原作と京アニ版も同じなので、そこは東映版の欠点ではなかろう」

 

「そんなこんなで東映版は京アニ版と比べるとやっぱり知名度は低く難点もある」

 

「世知辛いけど認めざるをえんな」

 

「ところで、こんなインタビューがある」

www.cyzo.com

「ほう」

 

「答えているのは劇場版AIRCLANNADの監督を務めた出崎統

 

「『あしたのジョー』や『ガンバの冒険』と聞けば覚えのある人も多いかと思われる」

 

「世代的には高畑勲の8コ下、宮崎駿富野由悠季の2コ下」

 

「要するにアニメ界の重鎮である」

 

「演出も凝っていて、AIRの海辺、CLANNADの屋上のシーンでも光と水の表現が独特で面白い」

 

「外に出て自然をよく観察した人の描き方である」

 

「他にも画面分割とか美しい止め絵などの手法を用いることで有名やね」

 

「惜しい人を亡くしたものである」

 

「上のインタビューで注目すべき部分を引用すると」

 

【出崎】『CLANNAD』をやっているときに、この子(ヒロイン)なんで死ぬの? って訊いたんです。そうしたら「ゲーム上死なないとね、泣けないんですよ」って答えられた。一見シリアスなんだけどさ、オレから見るとちゃんとした根っこがないんだよね。現象としてそういうのをやれば客は泣く、それがわかっているだけで。だから映画にするときは、どうして死ぬのか、少なくとも心の流れだけはきちんと作っていこう、と。で、その死に対して、ちゃんとそれを感じる人間を登場させようとした。それは当たり前。当たり前のドラマを作っただけなんです。「ここで死なないとゲームとしてマズイんですよね」。それは、視聴率だけよければいいや、というのと似ている。「とりあえず殺せば泣くんだよね」というのは、人間を甘く見ている。甘く見ているし、でもそれで通用する部分があるっていう世の中はなんかヘンだよね。とってもヘンだよね。 

 「苦言を呈している」

 

「どこか懐疑的な視線を向けているのが伝わってくる」

 

「『当たり前のドラマを作った』と言っているようにAIRCLANNADも原作から改変している」

 

「改変自体はよくやる人なんだけどね」

 

「せやな」

 

「個人的には、朋也父の比重が大きくなり、渚の出産シーンはあえて削っていると感じた」

 

「この辺が『当たり前のドラマ』というものに繋がっているやもしれん」

 

「そのせいで色々大変だったようであるが」

 

「ちなみに東映版の公開が2007年9月、京アニ版1期放送が同年10月」

 

「出崎監督が京アニ版をどう思っていたのか気になるところではあるが」

 

「自分の調べた範囲では分からなかったので知っている方がいたら教えていただきたいです」

 

「結局のところ、どちらが良いのかは好みなので」

 

「ぜひ見比べてみてはいかがでしょうか」

 

「という訳で今度こそ本当に」

 

「さようなら」

読書論 その1〜量であるか質であるか〜

「作家志望は1000冊読んでスタートライン」

「マイナーかつ難解な作品を読んでこそ教養人」

 

今も昔も読書家は読んだ本の冊数で競争し、読破したタイトルのマニアックさで自己を顕示します。普段は理性的なこと言っている人でも、読書になると急に根性論です。かくいう私も中学時代、読んだ冊数を同級生に自慢し、漱石ドストエフスキーのラベルを見せびらかして大威張りしてました。好きな作家はと聞かれて「ゴーゴリ」と答えたこともあります。恥ずかしい。死にたい。何が死にたいってゴーゴリは全然マイナーではないからです。

 

話戻しまして、「読書は量なのか質なのか」という永遠のテーマがあります。「量も質も大事だろ!」という意見はあまりにも自明なので話になりません。そこから議論が生まれないので一旦無視します。中庸と日和見紙一重です。

 

多くのインテリ、特に創作している人々は口を揃えて量であると答えます。とにかく読めと。息つく暇なく読め。余計なことを考えずに読め。1000冊読め。こう主張します。

 

これには賛成です。ただし、条件付きです。

条件とは「成人前までなら」です。

 

若い頃にどれだけ読み込んでも、古典の奥深さを感じ取るのは難しいです。あらすじ把握で精一杯というのが本音です。読み終わって数十年後、ようやくその価値を知ることになる。大半がそんなものです。

 

だから若いうちはたくさん読むのです。時間は膨大にあるはずです。部活動や宿題に追われているかもしれませんが、社会人のそれと比べたら大したことありません。できれば、ジャンルを問わず満遍なく読むのです。現代文学ライトノベル近代文学、古典、SF、ホラー、科学書、歴史書などなど。そのうちハマるジャンルが出てきます。好奇心の赴くまま、存分に読み漁ってください。

 

しばらくしたら、お腹いっぱいになって飽きてくると思います。そうしたらまた幅広くジャンルを漁って、好きなものを見つける。これを繰り返します。今回は読書論なのであまり触れませんが、実写映画やアニメも鑑賞するべきです。

 

いわゆる「濫読」です。後世に名を残した作家も若い頃はとにかく濫読してます。古典から流行りの大衆小説まで、やたらめったら読んでます。身体の成長期と一緒で、とにかく食らいまくることが大切なのでしょう。

1、「つねに第一流作品のみを読め」  

「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。」

 

2、「一流作品は例外なく難解なものと知れ」

「一流作品は(中略)少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。」

 

3、「一流作品の影響を恐れるな」

「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない」

 

4、「もしある名作家を択んだら彼の全集を読め」

「そして私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」

 

5、「小説を小説だと思って読むな」

「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」         (引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

 

小林秀雄曰く、「全集を読め」だそうです。確かに、全集を読むとその作家がどういうプロセスを経て傑作を生むに至ったかが分かるし、どんな偉大な作家でも駄作を書くことが分かるのでオススメです。あと作家の書簡なんかも読めるので、ゴシップ感覚で面白いです。(個人的に芥川のラブレターがツボでした)しかし、いかんせんハードルが高い。

 

 漱石全集で全10巻あります。かなり長いです。これでもマシな方で海外の作家は大長編を書く人が多いので、もっと悲惨です。自分はトーマス・マンの記事を書いているときに彼の全集を覗いたことがありますが、悲惨すぎて手に取る気さえ起きませんでした。そのくらい長いです。まあ作家志望者が読めばいいだけで、そうでないなら読む必要ないでしょう。駄作読むのは結構つらいですよ。

 

自分は中学時代に月100冊読んだことがあります。と言っても長編はほとんど避けて、短編集や漫画を中心に攻めたり、最後の方は時間が無いので通販カタログや映画のフリーペーパーもカウントしていたりなので、かなり曰く付きなのですが、なんとかやり遂げました。おかげで読む体力が付きましたし、達成感が得られたので読書が好きになりました。長編読んでて挫折しそうになっても「自分は月に100冊読んだのだぞ」と思えば、読む気力が湧いてきます。こういう経験があるだけで全然違ってきます。自信がついて挫折率がぐっと下がるのです。

 

若い頃に量をこなすのはかなり苦行ですが大人になって振り返ってみると、なんと幸せな時代だったのだろうと悟ります。十代の妄想力というのは半端ないですから。ただ読んでいるだけで、物語世界に入り込める、どこまでも行ける。かけがえのない時間です。

 

やがて成長して大人になると、妄想力も衰え、労働が始まります。読書に割ける時間も減ります。読む体力も衰えます。新興ジャンルに手を伸ばすのが億劫になります。漫画やライトノベルは継続しているシリーズの新作に手を出すのが精一杯になります。要するに、脳みそが保守化してしまいます。

 

自分も若い時は信じられませんでしたが、実際そうなっていて驚いています。若者の良いところはは後先考えないことですが、我々は後先考えてしまうので読書にフルコミットできません。休日はあるのに雑事に追われて気がついたら、日が暮れています。

 

そして、ここからが本題なのですが、そういう状況で読書量をこなすことができますか?毎日働いて疲労している状態で、一体何ページ読めますか?月に100冊はおろか10冊も厳しいのではありませんか?仮に数こなせたとしても、テキストの内容をどれだけ咀嚼できますか?どうして読書に対する方法論が子供のときのままなのですか?

 

量をこなすことが難しい状況で「読書は量をこなさいといけない」という価値観に囚われるのはキツいです。歳をとって肉体も精神も成熟するのですから、当然読書に対する姿勢、価値観もそれに合わせて変化させなければなりません。量から質へと変化させるのです。

 

ここまで時間的、現実的な問題から「読書は量」論を否定的に述べましたが、「読書は量」という価値観には大きなデメリットがあります。

 

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。(中略)文学に何んら患わされない眼で世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。

(引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

これは文学志望者へ向けられた言葉であるが創作を志していない人々にも通じる話です。

 

そして、「読書は量」という価値観こそが「知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされ」る元凶である、と私は主張します。

 

具体的にはどのようなことなのか。

 

次回はそれについて説明します。

 

 

 

 

 

読み解き物語 その4

2020年1月

dangodango.hatenadiary.jp

 

ダンテ「神曲」の解説記事を作成し始める。「神曲」は「魔の山」の下敷きにある作品で、読解には欠かせない。なので先に「神曲」の解説記事を作る必要があった。

 

「なんで先に読み解く必要があるのか?」というとその方が美しいからである。例えばfufufufujitani氏はゲーテファウスト」を読み解くに当たって先に「ヨブ記」とシェイクスピア「夏の夜の夢」の解説記事を書いている。さらに、その後ドストエフスキー「悪霊」を読み解く。

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氏のニーベルングの指環作品群研究も、体系的に読み解く手法の賜物である。

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「下敷き作品から順序立てて読み解く」というのは単なる美学であって義務ではない。作業量は増えるので挫折率も上がる。現に「神曲」の元となった一部で言われているイスラームの「階段の書」には手をつけなかった。日本語訳がなく、海外から取り寄せないといけなかったというのもあるが。

 

 それにしても「神曲」という邦題は本当にこれで良かったのかとかなり考えた。恐らく多くのダンテ研究者も疑問に思っているはずである。思っていながら鴎外に遠慮しているのはいかがなのか。

 

2020年2月

活動実績特になし。

生活に追われながら読み解き進める。思ったより「神曲」が重くて後悔した。「魔の山」に直接関係あるのは煉獄篇だけなので、それ単体の記事でもよいかと魔がさした。

 

新型コロナウイルスの話題が上り始めたのはこのころであった。

 

新たな同志としてnagi氏が参加してくださった。

naginagi8874.hatenablog.com

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nagi氏は主に宮沢賢治を読み解いている。自分は「注文」をやって以来、ほとんど放棄していたのでありがたいことであった。

 

2020年3月

 

新型コロナウイルスによるパンデミックで周辺が慌ただしくなる。自然、自分も忙しく本を読む余裕がなかった。

 

新たな同志として黒井マダラさんが参加してくださった。

jaguchi975.seesaa.net

優れている。そして文章も明瞭で鋭い。本質を貫いてシンプルに捌いている。

 

ところで、yuki氏と黒井氏は創作もやられているとのこと。

 

kakuyomu.jp

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彼らもいつか向こう側に行ってしまうのかと思うと一抹の寂しさを感じる。しかし、頑張ってもらいたい。

 

 2020年4月

「四月は残酷な月」というが今年の四月は本当に残酷であった。

新型 コロナ・ウイルスは依然として人々を混乱の渦に巻き込んだ。人々が望んで巻き込まれにいった、という意見も存在するが、当事者である我々には判断のしようがない。歴史が決定することである。

 

時間の隙間を見つけては「神曲」を読んだ。何が書かれているのか、どのように書かれているのか、何を伝えようとしているのか。とにかく読んで考えた。ダンテに関する周辺情報も収集したが、あくまで二次的なもの、おまけのネタとして扱った。これまでもこれからも、私が作者の周辺情報を作品から読み取った情報より、優先させることはない。

 

しかし、現代日本人が中世ヨーロッパの詩人の気持ちなど分かるはずもなく、大変苦労した。

 

2020年5月

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ダンテ「神曲」の記事を書いた。正直なところ焦っていた。

 

いい加減この辺で書いてしまわないと、この先ずっと「書かなきゃな」という思いに駆られたまま終わってしまいそうであった。そのくらい面倒な作業だったし、この記事に関してももっと深掘りできたなと思っている。ストーリーについての言及、ギリシャ神話との対応など。もっと追求できたはずだが、そんなことを考えていたらいつまで経っても終わらない。ついでに、文字数が2万を超えているので読者の負担も大きい。書いた本人が言うのもアレだが、ここまで長いと読むのかったるい。

 

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ついでに勢いで書いた記事。アニメを見る本数は昔に比べて減った。若いころのように夜中まで視聴できる体力はない。無様なもんである。こういう話題でよく「時間が確保できない」というのがあるが、私の場合は嘘である。時間は作ろうと思えば作れる。

 

リゼロの原作はライトノベルである。ラノベは文学関係者から蔑視されている。「ラノベなんて...」と陰口をたたかれている。「そもそも『ライトノベル』という単語自体、意味不明だ」と言う人もいる。確かに、非常に定義が曖昧な用語である。表紙と挿絵、会話文の多用などから漠然と分類しているだけなのだろう。当初、出版社もライトノベルと呼ばれることに抵抗があったらしい。

 

そして、ライトノベルと同じくらい定義曖昧なのが「純文学」である。

純文学とは何であるか。

sakura-paris.org

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純文学もかなり適当に使われている用語である。「美的情操に訴える」とあるが、その美的情操とは誰が、なんの基準で決めるのか。それは芥川賞審査委員が決めるのだと言うのなら、これほど馬鹿げたものはない。

 

2020年6月

魔の山」読み解きに精を出す。よって実績なし。

 

2020年7月

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7月の終わりにようやく完成した。

 

 ところどころもっと深堀りできたなと後悔する箇所あるが、概ね満足しているし不満な部分は追記で補っていく。

 

2018年7月から始まったので、まるまる2年掛かったことになる。私の読み解き経歴は「魔の山」との格闘の歴史であった。それが達成されたとなると、どうしようかという気分になる。軽い喪失感である。

 

今後の予定

 

もっともやることはまだ残っている。トーマス・マンで言うと「ベニスに死す」の修正版、「ブッデンブロークス」「ワイマルのロッテ」「ファウストゥス博士」。「ヨセフとその兄弟たち」は規模の大きい図書館の書庫ぐらいにしかないので断念する。決して読むのが面倒なわけではない。決して...

 

最終的には、ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」に挑んでマン研究はひとまず片をつける計画である。何年かかるか分からないが。

 

短編では、宮沢賢治風の又三郎」、有島武郎「生まれ出づる悩み」、チェホフ「桜の園」、ツルゲーネフ「初恋」、O・ヘンリーの諸作品などを考えている。短編はそれほど時間かからないので頑張ってみたい。

 

井原西鶴「日本永代蔵」もやってみたいがどうなるか分からない。まずは読破からである。

 

アニメは映画「カラフル」に挑戦したい。以前、CLANNADAIRをやりたいと言っていたがどうなるか分からない。

 

なんにせよ読み解き物語が今後も続いていければ幸いである。始まった時より同志は増えた。じっくり長く続けていけばそのうち良いこともあるでしょう。

 

yomitoki2.blogspot.com

 

 

 

神曲 追記その3

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結構昔から「銀河鉄道」と「神曲」には強い繋がりがあるんではないかと考えている。しかし、有力な証拠は得られない。登場人物がイタリア名(ジョヴァンニ、カムパネルラ)と三位一体教義くらいである。

 

ストーリーとしては、

「3」という数字を軸に構成している→地獄篇

旅してきた道連れ(ウェルギリウス、カムパネルラ)との突然の別れ→煉獄篇

宇宙を旅する→天国篇

 

という感じで三部作の要素をかいつまんで取り入れていると邪推しているが、いまのところ邪推に終わっている。

 

しかし、ダンテも宮沢賢治も教養が広い。文学、科学、宗教など、本当に興味の幅が広い。現代人とは異なり、彼らは本当に詩人であり、科学者であり、宗教家であった。一つの世界に閉じこもってひたすら掘り進めるのではなく、色々な世界に飛び出して自分の世界を拡大していった。総合的なのである。

 

私も教養を広げていかないといけないのだが、これがなかなか難しい。

魔の山 追記その3

今更気づいたが、ヒトラーの別荘の名前が「ベルクホーフ」であった。

 

これは舞台となったサナトリウム「ベルクホーフ」と名前が一致している。皮肉なもんである。

 

もちろん「魔の山」発表が1925年、ヒトラーが山荘を改築して名称変更したのが1933〜1935年ごろなので真似したとすればヒトラーの方である。ヒトラーニーチェすらまともに読んだか怪しいくらいなので(ムッソリーニも怪しんでいる)、あの長ったらしい小説なんて途中で放棄したに決まっている、と勝手に思っている。

 

ところで、こんな本がある。

著者は昨年亡くなられたドイツ文学者池内紀である。「独裁者にペンで立ち向かった男」と帯文であるように日記を引用しながらナチスに抗ったマンを追っていく内容である。大変読みやすい。短いので手軽に読める。タイトルはいかついが、池内さんの文章もあいまってとてもぬるぬると頭に入ってきた。尊敬したノルウェーの作家クヌート・ハムスンの顛末や意外にカフカを読んでいたことなど面白いエピソードもたくさんあった。

 

しかし、マンがナチスと闘ったというのは本当だろうか?

 

そもそも彼は保守的な立場の作家だった。「非政治的人間の考察」を読めばそのことはすぐわかる。もっとも当時の作家たちはみな愛国精神を爆発させていたとロマン・ロランが嘆いていたので、マンに限った話ではない。

この長いエッセイで主張したいことはざっくり二つである。

 

1、デモクラティズム(民主主義)はドイツ人に向かない。なぜならドイツ人は非政治的であるから。

 

2、政治的とは非審美的である。審美的とはディレッタントである。

 

1に関しては民主主義批判である。現代人にとっては理解しにくいが、当時の帝政ドイツにとって民主主義者は左翼である。そして民主制はソクラテスプラトンが疑ってたように決して優れた政治体制ではない。

 

問題は2である。さらに読んでいくとこんな例え話が出てくる。

 

平和を支持する政治家も、戦争を支持する政治家も存在するが、戦争と平和どちらも賛美する政治家はいない。その立場は審美的でありディレッタントであるから。

 

ここでは、二項対立が肝になっている。白と黒のどちらかに属して立場を決めるのが政治家であり、白と黒の真ん中、グレーの位置に立つのが審美的であり芸術家である。中庸の思想、まんまトニオ・クレーガーである。

要約すると「芸術家は審美的なのだから政治に口出しすべきでない」というのが彼の主張である。政治は政治家、芸術は芸術家。

 

ノンポリ姿勢が第一次大戦におけるトーマス・マンの立場であったが、戦後態度を改める。いわゆる転向である。「ワイマール共和国を支持しよう」「民主主義を信じよう」と戦前から反対のことを述べる。

 

保守派からリベラルへの転身を果たしたマンは、ナチスが台頭すると1930年に講演「理性に訴える」でナチズムの危険性を指摘する。ここから彼の亡命生活が始まる。この辺の事情を語ってくれているのが上の著作である。

 

第二次大戦では、第一次大戦と打って変わって「政治的発言」を強調し、ナチス批判など積極的に「政治的行動」をする。ここでいう「政治的」とは「民主主義的」である。芸術家であってもノンポリ仕草を捨てて積極的に政治的発言をする。

 

「中立は中立ではなく、現状維持に加担している」

「芸術家だからといって政治から逃げることは許されない」

 

これらの精神はギュンター・グラスを始め戦後のドイツ作家たちに受け継がれてゆく。恐らく現代のリベラリストも同様の考えであろう。ナチスが犯した罪は今後1000年は消えることはない。ドイツ人は未来永劫贖い続けなければならない。

 

ワーグナーの中には、たくさんヒトラーがいる」とはマンの言葉である。

 

話変わるが、ドイツの名指揮者フルトヴェングラー(カラヤンの前のベルリン・フィル主席指揮者)はナチス台頭後も国内に留まり、ヒトラーの命令でベートーベンやワーグナーを指揮した。

戦後、マンはフルトヴェングラーを批判した。「自分は芸術家だからと見て見ぬを振りをした責任は取るべき」と。その一方で、ラジオから流れるフルトヴェングラー指揮のワーグナーに感心している。「やっぱり凄い…」と。ナチスと闘った文豪がナチスの音楽に感動している。芸術と政治の相克に揺れ続け、揺れ続けたまま死んだ。彼が本当に闘っていたのはナチスというより自分自身である。

 

Twitterなんかでも、リベラル派知識人はよく日本人を批判する。海外と比べて日本のここがダメであることを語る。日本のアニメはここがダメであると。そして、日本のユーザーはそのことに辟易している。「リベラルは鬱陶しい」と。よく見る光景である。

 

恐らく戦後のマンもこんな感じでドイツ国民にうざがられていたのだと想像がつく。アメリカで贅沢な亡命生活を送って、敗戦後の悲惨な国内状況を知らないのだから仕方ない。

 

しかし、マンのドイツ批判というのはその経歴から分かる通り、愛国心から来るものである。ドイツとドイツ文化を心の底から愛しているから批判するのであり、その面倒臭さは太宰を嫌悪する三島、手塚を嫌悪する宮崎に匹敵する。

 

マンは芸術家の政治無関心を批判した。そういえばTwitterで政治的発言をする作家、監督は多い。そして作家の政治的発言というのは政権批判である。それを見たファンは「大好きな作品の作者がゴリゴリの政治的発言をして萎えた」と嘆く。芸術家が政治に首突っ込むのを嫌がる人も多いだろう(というか多数派であろう)。

 

もしもトーマス・マンTwitterを開いたら、日本のアニメファンを批判するかもしれない。「政治から目を背けるな」と。そうなったら私は何と答えようか。もしかしたら何も答えられないかもしれない。返す言葉がないかもしれない。しかし、黙って受け入れるつもりも毛頭ない。敗戦を経てもなお、ナショナリズムを保てる日本人を羨ましく思っているに違いないからである。思い切って皮肉の一つでも言ってやるのも良い。

 

ワーグナーの中には、たくさんヒトラーもいますが、あなたもたくさんいますよ」と。

 

 

 

読み解き物語 その3

前回はこちら

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2019年1月

依然として魔の山読み解きは難航していた。気を紛らわすためにブッデンブロークスのキャラ一覧表など作ってみたが、結局こちらも難航したのでやめた。

 

Twitterやってたら、面白いアニメがあるとフォロワーの方に薦められたのが「輪るピングドラム」である。

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結果は賛否両論であった。「面白い!」と言ってくれる人もいれば、「ふざけるな!」と怒る人もいた。しかし、未だに当ブログで一番読まれているのはこの記事である。良いのか悪いのか決めるのは読者であって私ではない。8年前のアニメにこれだけ反応があるのは予想外だった。間違いなくピングドラムは名作なのだろう。

 

余談だが、このときコメント欄に「fufufufujitani教の信者」を名乗る方が現れ、色々教えてもらった。いつのまに宗教化したんだと驚いた。この方がのちに同志となる焼売氏であった。彼は幾原フォロワーらしいのでちょっぴり恐縮する。

 

2019年2月〜3月

何をしていたのか記憶がない。SAOと小林秀雄の悪口を言っていた気がする。

 

2019年4月〜6月

記憶がない。エクセル開いてウンウン唸っていたと思われる。6月に「青春ブタ野郎(以下略)」の劇場版を観に行ったくらい。隣に座っていた高校生が心配になるくらい号泣していた。「やはり俺の青春ラブコメ(以下略)」三期を見てて思うのだが、思春期ってこんなに感受性豊かだったのか。

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また6月はfufufufujitaniさんがゲーテファウスト」の解説を上げられた。これは大変な功績であった。のちの私の読み解きにも大いに活用される。改めて感謝申し上げる。

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2019年7月

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芥川の「歯車」解説を書く。もちろんこれは、新たな同志、焼売氏の「河童」「さらざんまい」の読み解きに影響を受けてのことだった。

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芥川の母はヒステリーだったらしく息子も晩年はかなり狂っている。ただ狂っているだけでなく理性が暴走しているのだから始末が悪い。全体構成も緊密すぎて気味が悪い。ただ彼の努力は無駄ではなかった。太宰や幾原が意志を継いでくれている。お疲れさまでした、という言葉を掛けてあげたいくらいだ。

 

それにしても、同志が増えたのは本当に喜ばしい。焼売氏はピングドラムの記事にコメントを下さった「fufufufujitani教の信者」であった。同名の別人の可能性もあるけれど。

 

またyuki氏が新たな同志として参加してくださった。

同志が増えてとても嬉しいものである。

 

2019年8月~9月

実績なし。

新海誠「天気の子」を見た。新たな同志流レ水さんが参加してくださった。

どうも「君の名は。」より構成が緊密であるらしい。年下の陽菜が年上のようにふるまっているのは面白いというか監督の性癖なのではと疑っている。私の予想では、新海監督の次回作は田舎が舞台なのだが、私の予想はあんまり当たらない。

 

同志が増えてくださったのはありがたい。

 

2019年10月~11月

 なんとなくまどマギについて語ってみたくなった。口語体で申し訳ないが一応上げておく。このころから文学は説明文、アニメは会話文で書くという謎のルールを自分で作っていた。会話文は書いていて楽ちんなのだ。

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またyuki氏が三島由紀夫金閣寺」の読み解きをアップされた。

 

特に三島の二元論についての論考はかなり参考にさせてもらった。感謝申し上げる。

 

2019年12月

魔の山」の進捗は依然として進まない。締め切りなどないのだが焦燥感にかられる。

yuki氏のツイートに刺激を受けてショーペンハウアー「意志と表象としての世界」ニーチェ悲劇の誕生」を読んだ。トーマス・マンは「非政治的人間の考察」という糞長いエッセイで「トニオ・クレーガーはニーチェの色が強い」旨のことを語っていた。

作家の言葉なんて信じてはいけないのだが、完全には無視できないと自分も思っていたので以前の記事から大幅に修正を加えて書き直した。

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まさに年内ギリギリ、大晦日にアップした訳なのだが、あんまり細部にこだわって長くなってしまったと若干後悔しているがまあ仕方ない。書いてしまったもんはどうにもならないので放っておく。

 

魔の山」の読み解きは全然進まないが、それなりに充足感を得たまま年越しを迎えた。

 

魔の山 追記その2

 

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「主人公ハンス・カストルプがホムンクルスである」というただこれだけのことに実質1年半掛かってしまった。

 

初読の段階でキャラ戦略がファウストなのではないかと疑っていたが、ファウスト最大の特徴である女好きがハンスにあんまりない。ショーシャ夫人に恋する辺りは非常にそれらしいのだが、女好きまでいかない。告白のシーンもショーシャが好きなのではなくショーシャの肉体が好きという印象を受ける。

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ドストエフスキーは「悪霊」でファウストに挑んでいる。この「悪霊」の読み解きが無ければ、今回の解説記事は作れなかった。最大のポイントは「基本的にキャラは二人一組だが、ホムンクルスのみ一人ワンセット」である。

 

それでもすぐに気づいたわけではなく、2019年10月NAVERにアップされてから半年くらい経ってようやく思いついた。

 

なぜこれほどまでに難航したのか考えてみたが、主人公という枠組みに囚われすぎていたのが原因であった。

 

神曲が下敷きなのだから主人公はダンテに対応するだろう」

ファウストが下敷きなのだから主人公はファウストに対応するだろう」

「悪霊が下敷きなのだから主人公はスタヴローギンに対応するだろう」

 

それはセオリーなのでだいたい間違っていないのだが、「魔の山」の解析では上手くいかなかった。キャラ戦略を読み解く上で主人公に囚われすぎてはいけない、ということは貴重な経験になったのでここでシェアしておきたい。まあ「ワルプルギスの夜」という分かりやすい章名でそのまんま下敷きにしている訳がない、と言われればそうであるが。

 

恐らくトニオ・クレーガーの原型もホムンクルスであろう。二人とも自分にないもの(市民・肉体)を欲している。ラストは海に近づくのも同様である。円環時間そのものは出てこないが、ソナタ形式はそもそも回帰的構造である。この辺を考察する気力は無いのでやめておく。

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そういえば「海辺のカフカ」で村上春樹はスメルジャコフを救おうとしている。春樹の描く主人公はどことなくスメルジャコフであり、もっと言うと「天人五衰」の安永透である。彼は別にドストエフスキーに批判的ではないが、これもスピンオフ戦略の一例であろう。

 

トーマス・マンにしろ村上春樹にしろ、彼らは単に先達の真似をしているわけではない。先達を吸収し、継承し、それ以上の世界を追求しようとする。そのためには、先達が最後に到達した地点から始めなくてはならない。ゲーテなら「ファウスト」、ドストエフスキーなら「カラマーゾフ」、三島なら「天人五衰」から後継者たちの問題意識は始まる。

 

パロディだのオマージュだの、作家たちはなぜ先行作品の参照を行うのか。作家それぞれ理由はあるが、少なくとも単なる文学趣味ではないことを読者は頭に入れておかねばならない。

魔の山 追記その1

魔の山」では7という数字が鍵を握っている。これは下敷きとなっている神曲煉獄篇(七つの大罪)とファウスト第二部第二幕から来ている。なぜ7という数字が西洋人にとってここまで重要なのか、という淵源については依然として捜索中である。七つの大罪は枢要徳+対神徳が由来かなと思ったがイマイチ対応が悪い。fufufufujitani氏はメソポタミアの七賢人ではないかと、書かれていたが、メソポタミアの見識が足りていないので知っている方がいたら教えてくださると助かります。

ja.wikipedia.org

ゲーテは第二部第二幕において7=2+5に分類した。「狭いゴシック式の丸天井の部屋」と「実験室」の2章と古代のワルプルギスの夜の5章である。

魔の山は半分くらいファウスト批判である。ループ時間は人間を堕落させるので、契約結んで直線時間に帰ることも大切であると説く。

 

だからマンは7=5+2に分類した。

最初の第1章〜第5章が上巻、第6章〜第7章が下巻である。第5章のラストは「ワルプルギスの夜」である。最初の5章でワルプルギスやる。批判なのだから構成が裏返しになって当然なのである。

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物語全体の時間の流れはだんだん縮んでいると説明したが、細かく見ると伸びたり縮んだりしている。

例えば、セテムブリーニとナフタの議論はものすごく長いページ割かれていて、読むのに時間かかる。しかし、物語内の時間としてはさほど経過していない。会話が多いと時間経過が遅くなる。ちょうどドストエフスキーの作品があまり時間経過してないのと同じである。反対に、情景描写がつづくシーンはあっという間に数ヶ月経つ。トルストイは情景描写に長ける。「戦争と平和」をはじめ歴史絵巻はどんどん時間が進まなければ物語終わらない。

 

マンはこれらを上手く使いこなして時間の伸縮を表現した。凄いとは思うが、読者からするといい迷惑である。