週休二日〜アニメと文学の分析〜

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読書論 その1〜量であるか質であるか〜

「作家志望は1000冊読んでスタートライン」

「マイナーかつ難解な作品を読んでこそ教養人」

 

今も昔も読書家は読んだ本の冊数で競争し、読破したタイトルのマニアックさで自己を顕示します。普段は理性的なこと言っている人でも、読書になると急に根性論です。かくいう私も中学時代、読んだ冊数を同級生に自慢し、漱石ドストエフスキーのラベルを見せびらかして大威張りしてました。好きな作家はと聞かれて「ゴーゴリ」と答えたこともあります。恥ずかしい。死にたい。何が死にたいってゴーゴリは全然マイナーではないからです。

 

話戻しまして、「読書は量なのか質なのか」という永遠のテーマがあります。「量も質も大事だろ!」という意見はあまりにも自明なので話になりません。そこから議論が生まれないので一旦無視します。中庸と日和見紙一重です。

 

多くのインテリ、特に創作している人々は口を揃えて量であると答えます。とにかく読めと。息つく暇なく読め。余計なことを考えずに読め。1000冊読め。こう主張します。

 

これには賛成です。ただし、条件付きです。

条件とは「成人前までなら」です。

 

若い頃にどれだけ読み込んでも、古典の奥深さを感じ取るのは難しいです。あらすじ把握で精一杯というのが本音です。読み終わって数十年後、ようやくその価値を知ることになる。大半がそんなものです。

 

だから若いうちはたくさん読むのです。時間は膨大にあるはずです。部活動や宿題に追われているかもしれませんが、社会人のそれと比べたら大したことありません。できれば、ジャンルを問わず満遍なく読むのです。現代文学ライトノベル近代文学、古典、SF、ホラー、科学書、歴史書などなど。そのうちハマるジャンルが出てきます。好奇心の赴くまま、存分に読み漁ってください。

 

しばらくしたら、お腹いっぱいになって飽きてくると思います。そうしたらまた幅広くジャンルを漁って、好きなものを見つける。これを繰り返します。今回は読書論なのであまり触れませんが、実写映画やアニメも鑑賞するべきです。

 

いわゆる「濫読」です。後世に名を残した作家も若い頃はとにかく濫読してます。古典から流行りの大衆小説まで、やたらめったら読んでます。身体の成長期と一緒で、とにかく食らいまくることが大切なのでしょう。

1、「つねに第一流作品のみを読め」  

「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。」

 

2、「一流作品は例外なく難解なものと知れ」

「一流作品は(中略)少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。」

 

3、「一流作品の影響を恐れるな」

「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない」

 

4、「もしある名作家を択んだら彼の全集を読め」

「そして私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」

 

5、「小説を小説だと思って読むな」

「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」         (引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

 

小林秀雄曰く、「全集を読め」だそうです。確かに、全集を読むとその作家がどういうプロセスを経て傑作を生むに至ったかが分かるし、どんな偉大な作家でも駄作を書くことが分かるのでオススメです。あと作家の書簡なんかも読めるので、ゴシップ感覚で面白いです。(個人的に芥川のラブレターがツボでした)しかし、いかんせんハードルが高い。

 

 漱石全集で全10巻あります。かなり長いです。これでもマシな方で海外の作家は大長編を書く人が多いので、もっと悲惨です。自分はトーマス・マンの記事を書いているときに彼の全集を覗いたことがありますが、悲惨すぎて手に取る気さえ起きませんでした。そのくらい長いです。まあ作家志望者が読めばいいだけで、そうでないなら読む必要ないでしょう。駄作読むのは結構つらいですよ。

 

自分は中学時代に月100冊読んだことがあります。と言っても長編はほとんど避けて、短編集や漫画を中心に攻めたり、最後の方は時間が無いので通販カタログや映画のフリーペーパーもカウントしていたりなので、かなり曰く付きなのですが、なんとかやり遂げました。おかげで読む体力が付きましたし、達成感が得られたので読書が好きになりました。長編読んでて挫折しそうになっても「自分は月に100冊読んだのだぞ」と思えば、読む気力が湧いてきます。こういう経験があるだけで全然違ってきます。自信がついて挫折率がぐっと下がるのです。

 

若い頃に量をこなすのはかなり苦行ですが大人になって振り返ってみると、なんと幸せな時代だったのだろうと悟ります。十代の妄想力というのは半端ないですから。ただ読んでいるだけで、物語世界に入り込める、どこまでも行ける。かけがえのない時間です。

 

やがて成長して大人になると、妄想力も衰え、労働が始まります。読書に割ける時間も減ります。読む体力も衰えます。新興ジャンルに手を伸ばすのが億劫になります。漫画やライトノベルは継続しているシリーズの新作に手を出すのが精一杯になります。要するに、脳みそが保守化してしまいます。

 

自分も若い時は信じられませんでしたが、実際そうなっていて驚いています。若者の良いところはは後先考えないことですが、我々は後先考えてしまうので読書にフルコミットできません。休日はあるのに雑事に追われて気がついたら、日が暮れています。

 

そして、ここからが本題なのですが、そういう状況で読書量をこなすことができますか?毎日働いて疲労している状態で、一体何ページ読めますか?月に100冊はおろか10冊も厳しいのではありませんか?仮に数こなせたとしても、テキストの内容をどれだけ咀嚼できますか?どうして読書に対する方法論が子供のときのままなのですか?

 

量をこなすことが難しい状況で「読書は量をこなさいといけない」という価値観に囚われるのはキツいです。歳をとって肉体も精神も成熟するのですから、当然読書に対する姿勢、価値観もそれに合わせて変化させなければなりません。量から質へと変化させるのです。

 

ここまで時間的、現実的な問題から「読書は量」論を否定的に述べましたが、「読書は量」という価値観には大きなデメリットがあります。

 

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。(中略)文学に何んら患わされない眼で世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。

(引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

これは文学志望者へ向けられた言葉であるが創作を志していない人々にも通じる話です。

 

そして、「読書は量」という価値観こそが「知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされ」る元凶である、と私は主張します。

 

具体的にはどのようなことなのか。

 

次回はそれについて説明します。