週休二日〜アニメと文学の分析〜

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「トニオ・クレーガー」追記 その3

新型コロナウイルスの影響で混乱が生じていたがようやくブログの更新ができる。

 

まるでペストの如き、猛威を振るうウイルスの前に戦争前夜のような生活が続いている。ペストと言えばトーマス・マンの「ベニスに死す」でもペストが出てくる。

dangodango.hatenadiary.jp

 

と、宣伝だけしておいて今回話すのは「トニオ・クレーガー」の方である。

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あらゆる作家・批評家・研究者が指摘するようにトニオの主題は「芸術と市民」である(正確には「芸術家と市民」)。では芸術家とは何か、市民とは何か、という疑問を考えねばならない。

 

芸術家は分かる。いわゆるインテリで芸術をありがたがり、現実で真面目に生きる人を見下している連中ことである。金を軽蔑する=金の心配がないので、連中は全員金持ちである。世間知らずのお坊っちゃん

 

では市民はどうかというと、実はこちらも金持ちなのである。ハンス・ハンゼンは材木屋、インメルタールは銀行頭取の息子である。他の登場人物も弁護士のお嬢さんとかそんな連中ばかりである。当然トニオも例外でなく、彼の父は名誉領事(地元の名士が務める)である。

 

なんだか書いていて腹が立ってきた。なぜ腹が立つのかというと、それは私が芸術センスのない庶民だからである。私だって芸術家にも市民にも属してないからトニオ・クレーガーのはずだが、お金持ちではないので仲間はずれである。

 

ついでに、日本では市民というと一般庶民を想像してしまうが、西洋の市民は「商売でのし上がった金持ち」である。共和制牛耳ってたのもこの連中であると思われる。この辺は言語のニュアンス問題であるので注意しないと勘違いしてしまう。

 

今日、トーマス・マンは時代遅れの作家である。100年近く前の外国人なので当たり前なのだが、例えばほとんど同級生のヘルマン・ヘッセはかなり日本で読まれている。「車輪の下」は自分も子供の頃読んだし、「デミアン」は「少女革命ウテナ」で引用されたことで有名である。

 

「芸術と市民」の最大の欠点はどちらもブルジョワであり、それより下の労働者階級や庶民にはあまり関心がないことである。というか庶民は馬鹿だと見下している(その後のドイツの末路を考えればその通りかもしれないが)。19世紀ならそれで通用したのだろうが激動の20世紀には対応できない。現実味がないのである。観念の遊戯だし、戦争の時代から絶望的に置いていかれている。

 

彼は第一次世界大戦後の1929年にノーベル文学賞を取る。54歳の受賞は今でも若いくらいだが、既に時代遅れの老作家のような認識をされていた、というのが私見である。当時は、塹壕戦での悲惨な体験をもとに「西部戦線異状なし」を書いたレマルクと弾丸が命中しても戦い続けたユンガーなどが最先端の文学者であり、彼らは悠々と亡命生活を送っていたマンとは現実に対する姿勢がまるで違う。

 

訳者の実吉捷郎が言うように、こんにちの一体どこにハンス・ハンゼンやインゲがいるのか、という批判をぶつけなければならない。とはいえ「トニオ・クレーガー」がソナタ形式で構成されていることもニーチェ哲学を体現させていることも指摘できなかった日本の研究者たちにそんなことを言う資格はないのだが。

 

結局、堀や太宰、三島など戦前生まれの作家が真剣に取り組んだだけで、たいして受容されないままカフカ・ブームを迎えてしまったというのが日本のトーマス・マン受容の現実である。