「トニオ・クレーガー」追記 その2
「トニオ・クレーガー」ラストに出てくる二人組の男女はハンス・ハンゼンとインゲではない、という意見が翻訳者の間であるらしい。
はっきり言って不毛である。
仮にあの舞踏会にいたのが彼らではなく、赤の他人だったとしてもトニオの結論は変わらない。「僕は彼らのような純粋な市民にはなれないが、それでも彼らへの憧憬は忘れずにいよう」
というか、その辺はわざと濁してある。マンは比較的、一義的な文章を書く作家であるがこの場面では含みを持たせている。読者の自由であるから過度に考えすぎる必要が無い。
トニオの中間的、ニュートラルな結論は一見、二元論を超克している。しかし、結局のところその態度は中途半端である。よく言えばディレッタントであるが。
「芸術」と「市民」の二項対立が「芸術であり市民である」と「芸術でも市民でもない」にすり替わっているだけである。ここのあたり弁証法の限界だと思われる。
カントにしろ、ニーチェにしろ、マンにしろ、ドイツ人は相反する二つの世界で常にハイブリッドであろうとし続ける。それが西欧と東欧の間に位置するドイツの運命なのかもしれない。