「歯車」解説【芥川龍之介】
「歯車」は1927年(昭和2年)発表の芥川龍之介の短編です。
川端康成や堀辰雄ら名だたる作家が「傑作だ!」と称賛しました。しかし、普通に読むと普通に意味不明です。話らしい話のない、暗く欝々とした、死のイメージに満ちています。
あらすじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF%E8%BB%8A_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
あらすじはウィキペディアにあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/40_15151.html
本文は青空文庫にあります。短編なのですぐに読めます。
対称構造
「歯車」は全体が6章で構成されています。
表の通り、対称構造です。鏡のようだから鏡像構造とも言えます。1章と6章、2章と5章、3章と4章がそれぞれ対になっています。
「本当か?」と思っている方もいると思うので、次は章内部を詳しく見ていきます。
対称構造(内部)
・1章と6章
1章と6章に関しては、多くの研究者が対になっていることを指摘していました。恐らく読んで気づいた人もいたと思います。冒頭が非常に似ているからです。
以下、対応関係です。
自動車に乗って結婚披露式へ向かう⇔自動車に乗ってると葬式を見かける
車内でレインコートの幽霊の話をする⇔運転手がレインコートをひっかけている
T君杖の柄を左に向ける⇔小道の右側に火事のあった家
西洋髪のみすぼらしい女はかつて洒落た格好をしていた⇔火事のあった家はかつて西洋家屋だった
右目に半透明な歯車が見える⇔右目の半透明な歯車が回りだす
翼の音がする⇔飛行機の音がする
・2章と5章
スリッパの片方がない、ギリシャ神話(イアーソーン)想起⇔車のタイヤに翼がある看板、ギリシャ神話(イカロスの翼)想起
火事を見て不安になる⇔日の光苦しい
大きいネズミが出る、白い帽子のコック冷ややか⇔「Black and White」というウイスキーを飲む
レストランに行くが引き返す(テーブルの上にリンゴとバナナ)⇔バーに行くが引き返す(赤い光が照らしている)
背後で復讐の神を感じる⇔悪魔に苦しめられる
・3章と4章
ナポレオンの肖像画を見て不安感じる⇔ベートーベンの肖像画を見て滑稽に思う
右目に半透明な歯車が見える⇔旧友の教授の左目から出血
停車場で大学生と年増の女⇔カフェで恋人のような息子と母親
遠くから見ても緑色のドレスのアメリカ人女性⇔遠くからだと綺麗だが、近づくと醜い断髪の女
「歯車」を作る上で、芥川が参考にしたのが漱石の「夢十夜」です。漱石は芥川の師匠に当たるので、お手本にしたのでしょう。
「夢十夜」も全体が対称構造となっています。幻想的で暗い雰囲気も歯車と似ています。歯車は夢十夜の後継作品なのです。
とはいえ、漱石が10章なのに対し、芥川は6章です。単純に数で考えれば漱石の方が凄いです。3個のペアより5個のペアを作る方が大変に決まっています。
技術の進歩
技術とは常に進歩しなければなりません。
「昔のほうが凄かった」と言う人は多いのですが大抵錯覚です。昨日より今日が、今日より明日が良くなっていかなければ駄目です。
小説も同じです。
芥川も漱石が積み上げたものの上に新たに積み上げようとしています。小説の技法もまた常にアップデートされていきます。
流れを作る工夫
芥川が考えたのは「流れを作る工夫」でした。
「夢十夜」は確かに構成的でした。その反面、個々の話がバラバラになってしまうという欠点も抱えていました。要するに、全体としての流れが悪いのです。
そこで「歯車」では、章と章の間に共通要素を結ぶことで流れを作っています。
3-4間は元々対応しているからやる必要ないと思うのですが、几帳面に結んであります。
芥川は「夢十夜」の対称構造に気づくと同時に、その欠点も発見しました。そこから改善方法を考え、生まれたのが「歯車」です。まさに技術のアップデートです。川端や堀が絶賛したのも恐らくこの点です。
10章から6章に減らしたのは難易度が高すぎたからでしょう。対句をやる上に共通要素を結ぶとなると、いかに芥川といえど10章やるのは無理だったようです。6章でも偉大ですが。
引用:https://note.com/fufufufujitani/n/n6039e0dd7a98
黒澤明の「夢」も「夢十夜」の後継作品です。実は黒澤も流れを作る工夫をやっていました。芥川は黒澤にさきがけていたのです。最も、黒澤が「歯車」を読めていたかは定かではありません。
話らしい話のない
「歯車」はガチガチの構造から分かる通り、かなり力を入れた作品です。病的なまでにこだわっています。その一方で、物語全体は支離滅裂としています。何かあると思って読み込もうとすると、闇に引き込まれてゲシュタルト崩壊しそうになります。
なぜこうなってしまったのでしょうか。
作者の精神状態もさることながら、自分の才能以上のことをやろうとした結果、ストーリーが崩壊してしまったと考えられます。
例えば、「戯作三昧」では対句こそ多いものの、全体としては自然な三部構成になっています。小さいながらも綺麗にまとまっています。
また「河童」では「ガリバー旅行記」を下敷きにしていますが、ガチガチに対応させているわけではなく、物語に重点を置いています。
引用:https://note.com/shao1mai4/n/n59e2921a76e9
西洋文化の吸収
どうも、芥川は頑張りすぎてしまったようです。
芥川が生きた日本では、西洋文化流入に伴い、江戸時代までの絶対的価値観の喪失が発生しました。いわゆるニヒリズムです。
これを解決すべく明治以降の作家たちは日本文化と西洋文化の狭間で苦しみ、死んでいきました。芥川もその一人です。
過去を失った日本を何とか救おうと、必死に新しい価値観を作ろうとしますが、結局失敗してしまう。「歯車」の世界観はまさに芥川の、近代知識人たちの絶望そのものだったのです。
「歯車」のラストで主人公の右目に映る歯車が回りだします。歯車は近代化(工業化)の象徴です。それが回りだす、つまり元には戻れない。近代化を止めることはできない。そして主人公は「殺してくれ」と願う。苦しいですね。
結論から言って、西洋文明の理解に必要だったのは西洋の宗教、キリスト教の理解でした。
芥川もなんとなく直感で分かっていたようで、キリシタンを題材にした作品を書いています。現に、「歯車」でもリンゴ(=原罪の象徴)が出てきたり、聖書会社の老人が出てきます。
ただ核心部分にたどり着けず、途方に暮れています。
キリスト教理解に必要なのは、聖書もさることながら「三位一体教義」を理解することでした。
特に、聖霊の概念は日本人にはイメージしづらいです。
しかし、芥川が発狂しそうになるまで頑張ったことで、後輩たちが西洋文化の吸収に成功します。彼の努力は無駄ではなかったのです。
「さらざんまい」との関係
2019年に放送されたアニメ「さらざんまい」は芥川の河童と戯作三昧を下敷きに、人と人とのつながりを描いた作品です。監督はウテナやピングドラムで有名な幾原邦彦さんです。
さらざんまい6話で歯車が出てきます。春河がすり潰されそうになる奴です。
ただそれだけで、特に物語には関係なさそうに見えます。
さらざんまいの解説記事です。読めば分かる通り、さらざんまいの全体構成は歯車と同じ対称構造です。
上の記事を参考に章立て表を作ってみます。
綺麗な対称構造です。
6話の真ん中でちょうど折り返せるようになっています。
幾原監督は「歯車」の構造が読めています。だから6話で歯車を登場させました。そして「歯車」は6章構成です。優れた読み込み能力です。
ちなみに、流れを作る工夫は行っていません。そこまで凝る必要はないと判断したのでしょう。賢明です。
さらざんまい、構成力のある奥深いアニメだと思うのですが、最終回は少し慌ただしかったです。セリフもかなり多く、ギリギリ時間内に間に合わせた印象があります。
こうなると「なんで2クールにしなかったの?」「せめてあと1,2話増やすべきだった」という意見が出てきそうです。大人の事情があったにせよ、11話にこだわった理由があります。
まず2クールで対称構造を作るのは難易度が高いです。だいたい26話前後あるので、10個以上は対を考えなくてはいけません。恐らく無理です。
例えば、小説では長編になればなるほど全体構成が緩くなります。作者の才能は関係ありません。そういうもののようです。代わりにキャラ配置を徹底します。
12話や13話では駄目なのか、に関しては6話をちょうど真ん中にしたかったからでしょう。理由はもちろん歯車を登場させるためです。
という感じで、色々考えられるのですが、一番の理由は「芥川龍之介への敬意」でしょう。
芥川は短編の名手として知られる作家です。彼の作品のほぼすべては短編小説です。(「邪宗門」という長編を書こうとして挫折しています)
そんな彼への尊敬を表現するために、できるだけコンパクトに作ろうとしました。さりげないですが。
<参考>
「ピングドラム」では「さらざんまい」ほど構成凝っていません。理由は2クールだからです。その分キャラ配置にはこだわっています。少々エキセントリックですが。