トーマス・マン実吉捷郎訳について
以前、トニオ・クレーゲルの解説にて実吉訳の素晴らしさについて触れた。
原文通りなら「道に迷える俗人」と訳すところを「踏み迷える俗人」としたところがポイントで、この翻訳はソナタ形式を意識した上でとても重要なものであった。
B(第2主題)では「踊り」が対応していて、「道に迷った俗人」だとイマイチ伝わりにくい。「踏み迷える俗人」だと踊りのニュアンスが伝わりやすい。
これが単なる訳者の思いつきか、構造を意識してのものだったかについては判断を保留していた。
今回はそのことについて述べる。
ちなみに「ヴェネツィアに死す」の解説で用いたのは岸訳である。
上の表は「ヴェネツィアに死す」の構造を読む上でポイントとなる箇所を比較した表である。比べるのは岸訳である。
なお、実吉訳も光文社岸訳も決して誤訳ではない、という前提で話を進める。
第1章では「葬送行進曲」がポイントである。実吉訳では「墓地」が繰り返し文章に出てくるのに対し、岸訳では意図的に「墓地」という単語を省いている箇所がある。葬送行進曲をイメージする上では「墓地」を強調したほうが良い。
第2章と第3章に関しては特になし。
第4章はアダージェット、愛の楽章である。つまり「愛」がポイントである。実吉訳では「愛情」という単語を使うのに対し、岸訳は「恋い焦がれ」となっている。恋ではなく愛情のほうがアダージェットであることに気が付きやすい。
実吉訳では「愛の童神」、岸訳では「キューピッド」も同様に実吉訳のほうが伝わりやすい。
第5章では実吉訳は「美女」に対し、岸訳は「美」だけになっている。ヴァネツィアは水の象徴であり、女性の象徴であることも踏まえると実吉訳のほうが理解しやすい。
途中で主人公が見る夢はワルプルギスの夜に対応している。
実吉訳では「供物の祭典」、岸訳では「乱痴気騒ぎ」と表現される。これに関しては岸訳のほうがワルプルギスをイメージしやすい。
ラストの場面、海岸にいるタッジオと主人公。実吉訳では「見守る」、岸訳では「眺める」
第5章はソナタ形式になっている。提示部と展開部の主題が「後を追う」、「ストーキングする」であることを踏まえると「見守る」のほうがやや適切である。
以上の点から光文社岸訳より実吉訳のほうが、構造を読むという点で優れていることが分かる。
もちろん、実吉訳はただ直訳しただけで岸訳は現代風に言い換えたばかりにマンの意図から外れた、という可能性も捨てきれなくはない。
しかし、トニオ・クレーゲルでの「踏み迷える俗人」という訳から考えても、実吉捷郎は構造を読める人間だったと考えるのが自然である。
また、岸訳は無駄を省いて現代人でも読みやすい訳文になっているが、実吉訳は直訳風で硬く、言い回しが古い。
どちらの翻訳も長所、短所があるが、構造を読むという点から実吉訳で読むことを強くオススメする。
海外文学において、読者が内容を理解できるかは訳者の理解に強く依存する。訳者が内容を理解できていなければ、読者が理解するのは困難を極める。
そういった点で、実吉捷郎の翻訳は特筆に値する。
ちなみにブッデンブローク家の人びとと魔の山については実吉訳を見つけられなかったので比較を断念した。