週休二日〜アニメと文学の分析〜

ネタバレあり。一緒に読み解いてくれる方募集中です。詳しくは→https://yomitoki2.blogspot.com/p/2-510-3010031003010013.html

読み解き物語 その2

前回

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2018年 7月

 

2週間後に返信が届いた。

 

・「雪」に出てくる二人の老婆はセテムブリーニとナフタに相当する

・「風立ちぬ」を見た流れで読んでみたが手強くて中断した

Twitterやっているのでそっちで連絡取ってほしい

 

という内容だった。

正直返信がくると思わなかったのでたいへん驚いた。もっと驚いたのはTwitterをやっていることだった。意外とヤングな人である。急いで検索したらfufufufujitaniなるアカウントが浮上した。主に経済方面のツイートが多く、「だから指環の解説ができたのだな」と合点がいった。

 

早速、フォローさせてもらい、読み解きライフが始まった。

 

「読み解きライフが始まった」といってもすぐに「魔の山」が読み解けるわけでもなく、脇に置きながら主にアニメの読み解きに取り組んでいた。

 

Twitter運用前から「週休二日~アニメと文学の分析~」(当時は別名だった記憶がある)のはてなブログを立ち上げていた。CLANNADやヴァイオレット・エヴァ―ガーデン(二つとも途中で挫折)を読み解いていた。この辺については「私の京アニ史」で語る。

 

2018年 7月~9月

7月~9月は涼宮ハルヒを見まくって、fufufufujitani氏の真似して表を作り、闘っていた。やってみて分かったのが、とてつもなく地道で、とてつもなく面倒で、とてつもなく疲れる作業であることだった。人間答えがあるのか見当がつかない努力はできない。はやくもへこたれそうであった。「どうやったら、うまく章立て表を作れますか?」と聞いてみたが、上手い方法はなく氏もかなり時間を掛けているようだった。やはり自分にはセンスが無いのだろうか、と落ち込んだが、氏曰く「感度は関係ない」とのことだった。少し希望が見える。

 

2018年 10月

ここいらで「魔の山」の主人公はファウストなんじゃないかと勘繰りだす。神曲煉獄篇を下敷きにしているのでダンテではあるのだろうが、どうもそれだけではないような気がしてならなかった。第5章には「ワルプルギスの夜」が出てくる。これで関係ないわけないだろう。そう決めつける反面、ハンス・カストルプはあまりファウストっぽくなかった。モヤモヤしたまま時間だけが過ぎた。

 

しかし、一つだけ前進があった。宮澤賢治注文の多い料理店」解説記事の完成である。

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なんで「注文」の読み解きをやったのかというと、セテムブリーニとナフタの議論を追うのに疲れていたときにfufufufujitani氏が鴎外「阿部一族」のNaverまとめをアップしたからである。解説読んですぐに本文も読んだ。かなり短い作品である。「自分もものすごい短い作品をやろう」ということで手元にあった「注文」の章立て表を作り始めた。

 

ラストシーンが紙幣批判を意味しているというのは、コンビニでお会計をしているときに思い浮かんだものである。手渡されたくしゃくしゃの野口英世を見て「何か」が脳内に降ってきたのを覚えている。だから私の手柄というより金髪の新人バイト君のおかげなのだが、ともかく一気呵成に一晩で書き上げてしまった。

 

これが文学作品としては初めての解説記事である。

 

fufufufujitani氏は「読み解き仲間は初めてできた」と喜んでくださった。これは衝撃的だった。

氏の一番古いブログ記事はカラマーゾフに関するもので、2010年だったと思う。8年間、読み解きを続けてきたという胆力とこれほど素晴らしい解説に大半の人間がろくすっぽ関心を示さなかったという事実に打ちのめされた。特に、後者は読み解きを広めていく上で無視することのできない、我々と所謂文学プロパーとの乖離である。

 

 このあと、アニメ記事を少し書いた。依然として「魔の山」の進捗が悪かったので、代わりに短編「トニオ・クレーガー」の章立て表を作る。

 

2018年 11月

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この辺で「いきなり長編に挑むのは危険なんでは?」と思い始める。そこで同じ作者の短編をやってみる。非常に堅苦しく胃もたれするほど濃い文章であるが、なかなか心に沁みる内容であった。

 

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その勢いのまま、もう一つの短編「ベニスに死す」にも挑む。こちらはヴィスコンティの映画で有名だったので内容はすんなり入ったが、素直に気持ち悪いという感想が出た。最後にアッシェンバッハが見たのは善悪の彼岸なのだろうが、とにかく古代ギリシャ世界に対する思い入れが強い。

 

2018年 12月

魔の山」のエクセルとにらめっこする毎日が続く。同時並行で読んでいた「ブッデンブローク家の人びと」の章立て表を作り始める。こちらもかなり長いが、ストーリーはかなり面白い。

 

特に進捗が無いまま大晦日を迎えた。

 

つづき

 

 

 

読み解き物語 その1

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トーマス・マン魔の山」の読み解きついにアップした。

 

ここまでくるのに2年かかった。2018年から読んでいるので、「注文の多い料理店」や「輪るピングドラム」よりもずっと前から読み解きしていたのである。脱線しすぎかもしれないが、全然突破口が出てこなかったのだから仕方ない。来るまで待つ。とにかく待つ。何が来るのか。ある時、ビビッと電流が走って、モヤモヤがパァッと晴れるのである。自分でもよく分かっていない。

 

神曲 煉獄篇」が下敷きになっていることはもうずっと前に、fufufufujitani氏が見抜いていた。

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この時点で半分は読み解けていたのである。他人の功績だが。あと半分を自分がやってしまおう、という魂胆であった。我ながらせこい人間である。

 

しかし、いざ自分でやってみると全然上手くいかない。まず読めない。エクセルで表を作ろうとしても細部が気になって進まない。

 

そもそも、なぜこの人は文学読むのにエクセル使っているのだろうか?

 

最初は凄く不思議だった。批評家でも文学研究者でもない彼の書いた解説記事は、しかし誰よりも説得力があった。説得力というよりも、彼だけがドストエフスキーとか太宰治といった文豪たちに立ち向かっていたことへの感動だった。他の優秀な人たちが優秀であるが故に避けるところを、彼だけががっぷり四つで戦っていた。その度胸がどこから湧いてくるのか理解できなかったが、どうもエクセルで作った章立て表及び登場人物一覧表にあるらしい。

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一度だけ、fufufufujitani氏が運営する「新よみとき草紙」にコメントを送ろうとしたが、なぜか反映されなかった。今思うとあれは私のアカウントに問題があったのだと思う。

 

依然として、苦しい時間が続いた。知恵熱が出るほど頭が煮えたぎり、エクセルでぽちぽちするのが死ぬほど面倒になった。「ワルプルギスの夜」とか「神の国の樹立」とか「セテムブリーニ」とか意味不明な単語が脳みそをぐるぐる旋回して、私の肉体を大いに疲弊させた。

 

我慢の限界であった。

 

私は立ち上がると「魔の山読み解けないんでアドバイスくれ」と、fufufufujitaniと名乗る正体不明の人物に電子メールを送信した。強く叩きすぎてエンターキーが悲鳴を上げた。その破壊音は状況を打破できたときに鳴るBGMみたいなものだと私は認識した。「ネットリテラシー」という言葉を知ったのは、もっとずっと後のことだった。

 

それは、2018年7月ーーサッカー日本代表がベルギーに惜敗し、西日本豪雨がワルプルギスばりに猛威を振るったとき。インターネットの片隅で何かが動き始めた。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

「読み解き物語 その2」から時系列で読み解き作業を振り返っていきます。

「魔の山」解説【トーマス・マン】

魔の山」は1924年に発表された長編小説です。第一次世界大戦を挟んで、ドイツ人作家トーマス・マンが10年かけて完成させた代表作です。

魔の山(上)(新潮文庫)

魔の山(上)(新潮文庫)

 

 

原題

魔の山」の原題はDer Zauberbergです。ドイツ語です。英語だとThe Magic Mountainになります。魔の山と聞くと、おどろおどろしく悪魔的ですが、Magicと聞くとポップな感じしますね。

 

 日本語訳のニュアンス→(悪)魔の山

英語訳のニュアンス→魔(法)の山

 (後述しますが、「魔(法)の山」は「錬金術の山」とするのがより適切です)

 

それで、どっちがDer Zauberbergに近いかというとThe Magic Mountainになります。 Zauberも「不思議な」という意味です。同じヨーロッパの言語ですから当たり前ですね。

 

しかし、個人的には「魔の山」という日本語訳もこの作品にふさわしいと考えています。魔法の山であり悪魔の山でもある、ということを踏まえていただくのが読解の第一歩になります。

 

長い、読みにくい、うんちく満載

Question Mark Shape Bokeh Backdrop : ストックフォト

難解として知られる作品ですので一回読んだだけでは理解するのは難しいです。が、そもそも一回読み切るのも難しいです。原因はたくさん考えられます。固有名詞の頻出、長ったらしい文章、いつまでも終わらない議論、緩慢なストーリー展開、、、挙げたらキリがありません。面白い箇所を見つける方が難しいです。あったとしても極々少量です。

 

試しに冒頭の一文を引用してみます。

 ここに物語ろうとするハンス・カストルプの話——これはハンス・カストルプのためにするのではなくて(やがて読者もおわかりになるであろうが、彼は人好きはするが単純な青年にすぎない)、ごく話し甲斐のありそうな話そのものためにするのである(もっとも、これが彼の話であること、そして誰にでもそれぞれの人なりのおもしろい話がもちあがるわけのものではないということ、これはハンス・カストルプのために言っておかねばならない)。

魔の山 上巻 トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫

 長い、長い。たった一文でこの長さ。しかもまどろっこしい。

 

そして、名作度と面白さは往々にして比例しません。だいたい芸術なんてそんなものです。だから「魔の山」を読んでつまらないと感じるのは自然なことです。というか作者は意図的につまらなく書いています。グダグダとダラダラと感じること自体は、作者の込めたニュアンスに沿っているから問題ないのです。

 

問題は「難解なのが良いんだよ」「つまらないのが逆に面白いんだよ」と認知を歪めてしまうことです。作者はわざと冗長に、緩慢に感じてほしくて書いています。それを快感であると思い込んで神聖化すると理解から遠のきます。「正直よく分からんけどトーマス・マンだから凄いのだろう」という結論に帰結します。

 

もう死んで久しい作家の作品です。素直な感想を包み隠さず読み進めていきましょう。

魔の山 [DVD]

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  • 発売日: 1999/03/25
  • メディア: DVD
 

 映画化されています。日本で売られているのは2時間半ダイジェスト版ですがドイツ版本編は5時間半もあるそうです。見る必要ありません。正直タルいです。有名な「雪」のシーンがあるのですが、セットがチープで萎えます。既に読破した者が確認で鑑賞する程度です。

 

それでは、あらすじの説明からはじめます。

 

あらすじVer1

Germany - Berlin - Berlin: Maxim-Gorki-Theatre ; play: The Magic Mountain (Der Zauberberg) by: Thomas Mann. director: Stefan Bachmann. premiere: 27. September 2008actors: Gunnar Teuber, Miguel Abrantes Ostrowski, Marek Harloff (Hans Castorp), Ruth Re : ニュース写真

主人公ハンス・カストルプが結核患者である従兄弟の住むサナトリウムへ赴きます。滞在するうちに自分も結核だと診断されて、そのまま山の上の人々と食べたり議論したりして過ごします。やがて7年が経過すると山を下りて、ハンスは第一次世界大戦へ従軍します。

 

おしまいです。我ながら綺麗にまとめられました。長編の割に大したことはしてません。表面的なストーリーはだいたいこんなもんです。

しかし、内容を深く吟味しようとすると難解かつ複雑で大変です。一つずつ構成要素を解きほぐしていきましょう。

 

ヒントは冒頭にあり

 冒頭、物語が始まる前に「まえがき」が書かれてあります。恐らくあとで足したものです。マンもさすがに難解しすぎたと思って、ヒントを残してくれました。

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この時点ですでに難しいのですが、内容ざっくり凝縮すると

1、7という数字が重要になってくること

2、この物語は過去であり、時間の二重性が主題であること

の2点になります。

それぞれ構成要素に関わってくるので覚えておいてください。

 

あらすじVer2

 Hiking in the mountains of Wakayama, Japan : ストックフォト

ハンス・カストルプはいとこのヨーアヒムのお見舞いのために、山地のサナトリウムに向かいます。汽車の窓から見える森の景色はひどく暗く鬱々としていました。

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サナトリウムでの生活は自由気ままで、ハンスは食事を楽しみ、本を読んで、眠って思う存分謳歌します。

食事は食堂にある七つのテーブルで食べることになっています。テーブルごとにグループが形成されています。高校生なんかが、仲の良い固定メンバーでお弁当食べるのと似てますね。

 

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ベルクホーフの人々はみな個性的ですが、特に、気になる人物が二人います。イタリアの文士セテムブリーニとロシアのショーシャ夫人です。セテムブリーニはハンスの教育係で、ショーシャはハンスが惚れた人妻です。

 

そうこうするうちに3週間の滞在のはずが、ハンスも結核と診断されます。ハンス内心嬉しそうです。モラトリアム万歳。

 Teenage girl walking out the front door of her house. Back view of her leaving the house. She is on her way to school, wearing a back pack and holding the door open. : ストックフォト

滞在から7ヶ月目のある日、謝肉祭の夜がやってきます。みんなコスプレをしてパーティーを楽しみます。テンション上がってはしゃいでいます。ハンスも釣られてテンション上がります。ついにショーシャ夫人に声を掛けます。さらに思い切って告白しますが、振られます。ショーシャはサナトリウムを去ります。

(第1章〜第5章 上巻 終了)

 

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下巻から新たな人物が登場します。セテムブリーニの論争相手ナフタです。セテムブリーニとナフタの議論を聴きながら、ハンスとヨーアヒムはサナトリウムで治療(という名の食っちゃ寝生活)を続けます。

 Father and daughter on sofa : ストックフォト

その後、医者の制止も聞かず山を下りたヨーアヒムが、すぐに戻ってきてそのまま死んだり、ショーシャが男を連れて戻ってくると、奇妙な三角関係ののちに、男が自殺したり、色々なことを経験しつつ堕落した生活を送ります。

 

三年目以降は、奇妙なオカルトでヨーアヒムを降霊させたり、蓄音器で音楽聴いたり、セテムブリーニとの決闘でナフタが自殺したりして7年の時を過ごします。

 第一次世界大戦 塹壕による長期化 | 趣味での独語

7年が経過すると、第一次世界大戦で世界は混乱に包まれていました。ハンスも召集されます。駅のホームで涙ぐむセテムブリーニと別れると、地獄と化した戦場の森で突撃していくハンス・カストルプの姿が見えます。生きて帰れる見込みは薄いです。さようなら、ハンス・カストルプ。

 

(第6章〜第7章 下巻 終了)

 

ハンスは最初24歳でしたが7年経つと31歳になります。冷静に考えると、長すぎるモラトリアムですね。

 

構成要素1:神曲 煉獄篇

 「魔の山」はダンテの「神曲 煉獄篇」を下敷きにしています。

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神曲」はイタリアの詩人ダンテが書いた作品で、地獄、煉獄、天国の三部作で構成されています。西洋文化の中でも最重要な古典の一つです。今回マンが取り上げたのは煉獄篇です。詳しくは上記記事を参考なのですが、以下の二つのことだけは最低でも知っておく必要があります。

 

①煉獄山

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引用:http://www.myllyteatteri.fi/Node/117

煉獄山は天国と地獄の中間施設です。大まかに七つの階層に分かれていて、そこで贖罪者が罪を清めています。ダンテは頂上にいるヒロイン・ベアトリーチェと会うために、伝説の詩人ウェルギリウスに導かれて山を登っていきます。

 

ここで覚えてもらいたいのは煉獄山の構造です。

画像の通り、各フロアは円形状で上に行くほど先細りになっています。また頂上には地上楽園という常春の草原のような景色が広がっています。

 

七つの大罪

 七つの各フロアでは、それぞれ七つの大罪を贖います。

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第一冠に始まり一定時間贖罪をすると上のフロアに登ることができます。最終的に七つの大罪すべてを贖うと山頂の地上楽園に入ります。犯罪者が懲役に入って年数経ったら出所できるのと同じです。

 

魔の山」で煉獄山に対応するのはアルプスにあるサナトリウム「ベルクホーフ」です。「(悪)魔の山」とは煉獄山のことだったんですね。

 

魔の山」で七つの大罪に対応するのは「七つの食卓」です。

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食堂のテーブルは全部で7つあります。テーブルに座るメンバーはある程度固定されていて、ハンスは一年周期でそれぞれのテーブルを回っていきます。

 

ちなみに、「最初は3週間の滞在だった」というのも3×7=21で煉獄篇の3×7構造を模しています。全体構成に取り入れるほどのガッツは無かったようですね。

 

yomitoki2.blogspot.com

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引用:http://yomitoki2.blogspot.com/2014/10/28.html

煉獄篇と魔の山の対応表を上記サイトから引用させていただきました。合わせてどうぞ。

 

 

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一応、主要キャラも対応しています。

 

ハンスが序盤のベルクホーフへ向かう車窓から見える鬱蒼とした森の風景は、地獄篇冒頭の「道半ばにして暗き森をさまよう」に対応しています。

またハンスの部屋が34号室なのですが、地獄篇は全部で34歌です。つまり物語は地獄篇終了後を描くということです。

 

セテムブリーニはイタリアの文士で、頼んでもないのにハンスの導き手になってくれます。彼はベルクホーフという煉獄山を案内するウェルギリウスです。

 

ショーシャはベアトリーチェです。これはセテムブリーニもからかい半分で指摘します。主人公と出会った直後、冷たい態度で接するのも似てますね。

 

他の登場人物も奇妙な行動を取る人が多く、煉獄の住人を彷彿とさせます。シュテール夫人といういつも発音がおかしい女性が出てきますが、ダンテがトスカーナ方言つまり俗語で執筆した、というのを踏まえれば無駄な描写ではないということが分かります。

 

構成要素2:ファウスト第二部第二幕

 「魔の山」の元ネタはもう一つあります。ゲーテファウスト」です。

note.com

 しかし、ファウスト全編を下敷きにしている訳ではありません。参照しているのは「古代のワルプルギスの夜」が出てくる、第二部第二幕です。

 

鍵となる数字「7」

 七つの大罪が出たように煉獄篇では7が重要な数字でしたが、ファウスト第二部第二幕は全7章で構成されています。

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引用:https://matome.naver.jp/odai/2156129037898203701?page=2

神曲 煉獄篇」と「ファウスト(第二部第二幕)」が7という数字を介して繋げているのです。部分的にではありますが。

 

キャラ戦略

このように「ファウスト」の影響が強い「魔の山」ですが、キャラクター配置も同様です。下記の表は登場人物一覧表です。

 

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ただし、主人公ハンスに対応するのはファウストではありません。第二部に登場する人造人間ホムンクルスです。セテムブリーニは作中で仄めかされているようにメフィストフェレスです。また、いとこのヨーアヒムはヴァレンティンです。

 

実はこのキャラ配置、ドストエフスキー「悪霊」が元ネタです。

note.com

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引用:https://note.com/fufufufujitani/n/n0eaf0945da0d?magazine_key=m455b32f0875f

上の表の通り、悪霊はファウストを下敷きにしています。その悪霊をドイツ人のマンが下敷きにします。ドイツとロシア、二つの国による一大キャラ戦略プロジェクト、それが「魔の山」なのです。

 

みんな2人1組なのに、ホムンクルスが一人だけというのも継承しています。マンが「悪霊」を読み込み、その奥底にファウストがあることを理解している証拠です。彼、ドスト好きみたいですね。

 

ハンス・カストル

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ハンス・カストルプは造船会社に内定しているエンジニアの卵です。おしゃべりで、うんちく好きで、その割に中立的です。作中で何度も繰り広げられる議論でも一貫してニュートラルな立場を取ります。

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ショーシャ夫人へ愛の告白するシーンでは、彼女の肉体が欲しいと言い、跪いて膝にキスさせて欲しいと懇願します。初めての会話でいきなり告白しちゃうのです。若いというか拗らせてますね。結局、振られてショーシャは山を下りてしまいます。

 

あと理屈っぽいせいなのか男らしくありません。ショーシャ夫人が男を連れて戻ってきた時も、嫉妬するどころかその男をリスペクトする始末です。そんな彼を見てショーシャは少しやきもきします。

 

主人公ハンスはホムンクルスと対応しているのですが、ホムンクルスについての説明を引用します。

蒸留器に人間の精液を入れて(それと数種類のハーブと糞を入れる説もある)40日密閉し腐敗させると、透明でヒトの形をした物質ではないものがあらわれる。それに毎日人間の血液を与え、馬の胎内と同等の温度で保温し、40週間保存すると人間の子供ができる。ただし体躯は人間のそれに比するとずっと小さいという

ホムンクルスは、生まれながらにしてあらゆる知識を身に付けているという。また一説によるとホムンクルスはフラスコ内でしか生存できないという。

 

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9

 

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引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Faust_image_19thcentury.jpg

ファウスト」でも科学者ワーグネルがホムンクルス生成に成功します。

 

 ここで「魔の山というタイトルは魔法の山という意味である」ことを思い出してください。

魔法とは錬金術のことです。ホムンクルスがフラスコに一定期間、密閉されることで誕生するように、ハンス・カストルプもサナトリウムに密閉されることで人間として成長します。

現に、ハンスはサナトリウムに到着してから従軍するまで一度も途中下山をしておりません。

 

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引用:https://livedoor.blogimg.jp/mement_mori_6/imgs/7/0/7028b387.jpg

そういえば、フラスコも先細りで断面が円形ですね。煉獄山の形状と似ています。魔の山とは煉獄山でありフラスコでもあるようです。錬金術は近代化学の基礎になりましたから、ある意味宗教と科学が合体していると言えます。

 

ホムンクルスはワーグネルの錬金術で誕生し、ファウストともにタイムリープして古代ギリシアの海に沈んで死にます。

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詳細なホムンクルスとハンス・カストルプの対応表(ついでに悪霊のキリーロフも)です。

かなり「文学的に」言い換えられています。

ホムンクルスは精神だけの光の玉の状態で肉体を手に入れて人間として出来上がりたいと願っています。つまり半人前です。セテムブリーニがハンスを指して言う「人生の厄介息子」とは半人前だということです。

また、ホムンクルスもハンスもおしゃべりです。よくしゃべるのをセテムブリー二(メフィスト)に咎められます。

 

ヨーアヒムとペーペルコルン

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ヴァレンティンはファウストの恋人グレートヘンの兄です。職業は軍人です。妹をたぶらかしたファウスト(とメフィスト)に挑んで死にます。直線的な熱血タイプです。実はヴァレンティンはファウストの全編の中で出番が少ないのです。

 

ヨーアヒム

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ヨーアヒムはハンスのいとこで、軍人見習いの好青年です。結核と診断され、サナトリウムで療養しています。軍務を全うできていないことにフラストレーションを感じています。ハンスが彼を見舞うことから物語は始まります。物語後半で、軍人の夢を捨てきれず、なかば強引に退院してしまいます。結局、症状を悪化させて舞い戻ってきて程なく死んでしまいます。普段は静かで議論に参加しませんが、直線的な熱血タイプです。

 

ちなみに、6-8のタイトル「勇敢な軍人として」はヴァレンティンの最期の言葉から来ています。

 

ペーペルコルン

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ヨーアヒムの死後つまり第七章から登場するのがペーペルコルンです。老人ですが恰幅が良くてカリスマ性があります。ショーシャの愛人です。

 

ハンスから軍人的だと評されます。また本来恋敵であるはずですが、なぜかハンスは好意的に接します。これもヴァレンティン族つまりヨーアヒムと同じ属性だからですね。

 

ちなみにモデルはノーベル文学賞取った劇作家のハウプトマンだそうです。マンの先輩ですね。

 

セテムブリーニとナフタ

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悪魔メフィストフェレスファウストと契約を結んで彼の魂を奪おうとします。その代わりファウストの願いはドラえもんばりに何でも叶えてくれます。

 

 セテムブリーニ(あんまり似てないです。。。)

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セテムブリーニはイタリアの文士で、フリーメイソンに所属しています。ハンスに負けず劣らずの議論好きです。ハンスを「人生の厄介息子」と呼んで導き手になると宣言。お節介ですね。進歩的な知識人で、自由や理性を愛し、民主主義を擁護します。つまりリベラル派です。キャラ濃いですね。。。

 

セテムブリーニはメフィストのようにからかってきますが、基本的にウェルギリウス役としてハンスを導いてくれます。

 

ナフタ

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 ナフタはオーストリア生まれのユダヤ人で、イエズス会に所属している神父見習いです。醜い小男ですがもっと印象的なのはその思想です。非合理主義を唱え、「拷問は理性的」と主張し、テロによる神の国の樹立望みます。危険です。かなりの危険人物ですが、セテムブリーニと論戦できるくらいの知性の持ち主です。二人の議論が良くも悪くもこの作品の特徴です。

 

意外にも登場するのは第6章からです。下巻からの登場のわりに存在感が凄いです。セテムブリーニよりナフタの方がメフィストっぽいかもしれません。

なんやかんやあって、セテムブリーニと決闘して自殺します。

 

 ショーシャとヒッペ

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ガラテアはファウスト第二部「古代のワルプルギスの夜」に出てくる女神です。海神ネーレウスの娘で年に一度だけ父親と邂逅しますが、すぐに去ってしまいます。それを見たホムンクルスは彼女の足元の海に溶け込んで、人間へ進化しようとします。

 

ショーシャ

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本作のヒロインです。

ロシア人の既婚者で、ハンスは彼女に激しく惹かれます。ロシア人といってもヨーロッパ系ではなくアジア系の顔立ちです。作中で何度も「タタール人に似た」「キルギス人のような眼」と形容されます(キルギス人は日本人とよく似てますね、関係ないですけど)。つまり、「悪霊」のリザヴェータと同じくアジア的世界観の女性、つまり円環時間の象徴です。

 

また、ショーシャは人妻である点からヘレネー要素も含まれています。ヘレネーは古代ギリシャの美女で、人妻でしたがファウストが略奪。その後ファウストとの子供が事故死すると冥界へ行きます(=死)。

 

ヒッペ

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ヒッペはハンスが幼い時に一度だけ鉛筆を借りた男の子です。鉛筆の貸借以外にこれといった思い出はないのですが、目がショーシャによく似ていることが判明します。ヒッペは鉛筆を貸したあと、すぐに転校してしまいます。

 

ショーシャとヒッペは目が似ているのもありますが、「主人公と出会ってすぐ別れる」という特徴を持ちます。そして、これはガラテアの属性を引き継いでいると言えます。

 

ベーレンスとクロコフスキー

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ワーグネルは科学者でファウストの弟子です。彼はホムンクルスの生成に成功します。つまりホムンクルスにとっては父親に当たる人物です。

ベーレンス

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 ベーレンスはベルクホーフの顧問官、つまりサナトリウムの院長である医師です。ハンスは彼を「父親的権威」と呼びます。ホムンクルスの父親ですから、彼はファウストの弟子の科学者ワーグネルです。父親ですから、ハンスに対して時に厳しく、時に情けをかけて接します。

 

クロコフスキー

クロコフスキーも医師で、精神分析や愛についての講演をしています。第7章でエレン・ブランドという少女に接する態度が父親のようだと描写されます。

 

疲れてしまったので、以降は割愛します。

 

スピンオフ

ゲーテ作「ファウスト」では、ホムンクルスもヴァレンティンも主役ではありません。あくまでも脇役です。しかし、「魔の山」では彼らに相当するカストルプとヨーアヒムは主役級になっています。

脇役が主役に、つまりスピンオフになっています。このことについて、冒頭と結末に暗示している部分があるので引用します。

冒頭から引用

ここに物語ろうとするハンス・カストルプの話——これはハンス・カストルプのためにするのではなくて(やがて読者もおわかりになるであろうが、彼は人好きはするが単純な青年にすぎない)、ごく話し甲斐のありそうな話そのものためにするのである(もっとも、これが彼の話であること、そして誰にでもそれぞれの人なりのおもしろい話がもちあがるわけのものではないということ、これはハンス・カストルプのために言っておかねばならない)。

魔の山 上巻 P.9 トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫

これはさきほども引用しました。

 

7-10から引用

 さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子。君の物語は終った。私たちは君の物語を語り終えた。短くも長くもない、錬金術的な物語だった。私たちは物語のために話したのであって、君のために話したのではなかった。なぜなら、君は単純な人間なのだから。だが、考えてみればこれは結局君の物語であった。

魔の山 下巻 P.789~790 トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫

冒頭と結末で同じような内容の文章が出てきます。ということは作者が伝えたいメッセージであるということです。 

 

言い換えます。

 

「さようなら、ホムンクルス、半人前の息子。君の物語は終わった。短くも長くもない、フラスコの中の君が生成されるまでの錬金術的な物語であった。私たちは『神曲』や『ファウスト』を下敷きにするために君を主役にしたのであって、君はあくまでも脇役に過ぎなかった。なぜなら、君はホムンクルスなのだから。だが、考えてみれば『魔の山』は結局ホムンクルスが主役の物語であった。」

 

言うまでもなく「ファウスト」は主人公ファウストのための物語であってホムンクルスのためではありません。

古今東西、スピンオフは盛んに行われています。踊る大捜査線シリーズもあとから「交渉人真下正義」とか「容疑者室井慎次」とか作っていました。

 

そしてスピンオフをやる上で注意しなければならないのは、原作主役キャラをあまり出しすぎないことです。 「交渉人真下正義」「容疑者室井慎次」に織田裕二が出てきたら、観客はそっちに目が移ってスピンオフの意味なしです。ほんのわずかな程度でしか登場させないのが鉄則です。

 

魔の山」でも、主役ファウストに当たるキャラは登場しませんし、グレートヘンはかなりの脇役です。

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(話ずれますが、こうやって一覧表眺めると、「悪霊」と同様に死んでいくキャラが多いですね。)

 

章立て表

 ここで章立て表を確認します。

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導入と7-1海辺の散歩は、物語から脱線しているので青で示しました。導入は物語を解くヒント、7-1は時間と空間に関する論考になっています。


長編は往々にして、構成が緩くなるコントロールが効かないものですが、マンも例外ではなかったようです。

しかし、部分的に構成にこだわっている箇所ありますので、次の項目で説明します。

 

ワルプルギス・ループ

ワルプルギス・ループは、ファウスト第二部第二幕のループ構成のことを便宜上、そう呼んでおきます。

 

ワルプルギス・ループは全部で7回あります。1年に1回のペースで発生します。それぞれ見ていきましょう。

 

1年目

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第二部第二幕は話の流れでループ時間を表現しています。

第二幕全体で理論の流れを見てみましょう。

1、若いものは年寄りより進歩していると思っている。
2、研究者が人造人間を作る
3、生まれたての人造人間はファウストメフィストと一緒に古代世界にタイムトリップする
4、人造人間は「人間として出来上がりたい」と希望して、古代の海に溶け込んで消える。その後時間をかけて人間になると思われる。

引用:https://note.com/fufufufujitani/n/n105415e6658f?magazine_key=m455b32f0875f

となっています。マンはこれを応用してワルプルギス・ループを作りました。

 

5-7でハンスは生理学などの科学の専門書を読みます。本文でも科学的記述がつらつらと続いて読みづらいですが、読んでいくと何だか賢くなってきている気がします。ハンスも科学の最先端を知ったと思って増長します。

 

5-9で増長しまくったハンスは謝肉祭の夜、セテムブリーニに皮肉を言って反発します。ここがメフィストフェレスと増長した学生に対応しています。

 

謝肉祭の夜はみんなコスプレして妖艶な雰囲気出ていて、ファウスト第一部の「ワルプルギスの夜」を彷彿とさせますが、これはフェイクです。

 

ハンスはセテムブリーニの制止を聞かず、ショーシャの方へ向かいます。ガラテアとホムンクルスの邂逅、すなわちループ時間が強まります。

 

ショーシャにゾッコンのハンスは、意を決して彼女に話しかけます。割と素っ気ない対応をするショーシャですが、ハンスの心は舞い上がります。会話が進むにつれ、感情は極限まで高まっていきます。

 

が、ショーシャは次の日にサナトリウムを去ることを告げます。出会ったばかりなのにもうお別れです。やけっぱちになったハンスは愛の告白をします。彼女に跪いて「君の肉体が欲しい」「死なせてくれたまえ」などと口走ります。恋愛慣れてないのでしょう。当然彼は振られますが、去り際に「鉛筆忘れずに返してね」とショーシャが呟きます。

 

これらはショーシャのガラテア要素が前面に出たシーンです。

 

また前段階としてハンスが夢で見たヒッペとの過去があります。

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すぐ去るのと約束を結ぶあたり、ショーシャと対応しているのが分かります。

 

2年目

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2年目に入っても植物学的記述やセテムブリーニとナフタの議論でハンスはどんどん知識を身に着けて増長していきます。

 

ヨーアヒムとの別れのあと、6-7雪でハンスはスキーに出かけます。死への親近感から奥に進んでいって遭難します。吹雪が吹き荒れる中、彼は夢を見ます。古代ギリシャの海辺のようです。健康的な若者たちが笑い合っている幸せな風景です。

 

後ろを振り返ると、神殿が立っています。中にはいっていくと母娘の像があり、さらに進むと、炎の中で醜い老婆が胎児を貪り食っています。ハンスは気分が悪くなり、目を覚まします。そして、死の危機を脱してサナトリウムに戻っていきます。

 

ここで、二人の老婆とはセテムブリーニとナフタを指します。となると胎児はハンス自身です。章全体の流れを考えると、二人の議論は結局どうどう巡りで答えなんてない、ということを言いたいのだと思われます。

 

3年目

ヨーアヒムの死後、ペーペルコルンがショーシャを連れて登場します。コーヒー園を営むオランダ生まれの老人です。

 

ペーペルコルンはそのカリスマ性でサナトリウムの支配者に君臨します。セテムブリーニとナフタは得意の議論で対抗しますが、彼の演説の前に面目を潰され存在感を失います。

 

ハンスは恋敵である彼とバチバチすると思いきや仲良く接します。

 

 

 

4年目

7-6巨大なる鈍感

ハンスはベーレンスにと診断されます。そこから医学的記述がしばらく続きます。

 

サナトリウムで周期的に流行するゲームについてです。

 

5年目

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7-7ではベーレンスが蓄音機を持ってきました。この当時最新の蓄音機です。ベーレンスはワーグネル役なので、この蓄音機はホムンクルスということになります。蓄音機なので登場人物一覧表には載せませんでした。

 

蓄音機はもちろんレコードをセットして回すことで音楽を流します。音楽にはもちろん肉体どころか物質はありません。となると正確には、音楽=ホムンクルスの精神、レコード=ホムンクルスの光、蓄音機=フラスコということになりますね。そこまで考える必要ないかもですけど。

 

6年目

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7-8では降霊体験についての話です。かなりオカルト染みてて読むに耐えないですが、錬金術もオカルトの部類なので仕方ありません。

7年目

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7年目は7-9立腹病です。

サナトリウムで喧嘩が流行ってます。些細なことで殴り合いが起きたり、悪口合戦が勃発します。いつも議論しているセテムブリーニとナフタも例外ではありませんでした。

 

科学に意義に関する議論で、ナフタはセテムブリーニを小馬鹿にします。そのくらいなら日常茶飯事なのですが、そこからテンション上がりすぎて二人は決闘の約束をします。やりすぎです。いつもハンスと傍観しているフェルゲとヴェーザルもセテムブリーニとナフタの陣営に分かれて、決闘の準備をします。ハンスだけが中立です。

 

決闘前にセテムブリーニは「決闘は原始的」と言います。科学の進歩を扱った高尚な議論の決着は原始的な決闘に委ねられます。ここでは二人の対決方法がループしています。

 

いよいよ二人はピストルを構えて対峙します。しかし、セテムブリーニは空に向けて弾を放ちます。さすがは理性の象徴、最後は正気に戻ります。

 

ナフタは彼に「卑怯者!」と「きわめて人間的な叫び」をします。そして自分の頭にピストルを打って死にます。

 

この「きわめて人間的な叫び」と形容するのには理由があります。「悪霊」においてピストル自殺するのはキリーロフです。キリーロフは自殺する着前、動物化します。ここでナフタはキリーロフ=ホムンクルスとなっています。

 

しかし、ナフタは動物化しませんでした。過激な思想の持ち主ではありましたが、イエズス会士として神への信仰を最後まで失いませんでした。これがキリーロフとの違いです。

 

もっとも自殺したことには変わらないのです。だからセテムブリーニは嘆きます「これが神への愛からなされたことか」と。

 

ループの失敗=煉獄山を登る

合計7回のループを見てきましたが、いずれも最後は失敗に終わります。そして次の年のループが始まり、また失敗して、、、とループは完成しません。

 

「悪霊」が円環時間と直線時間のどちらとも結論出せなかったように、「魔の山」もどちらが良いのか結論出せませんでした。そうしてマンが苦肉の策として考えたのが二つの時間観の折衷でした。具体的には「螺旋状に上がっていく」時間です。

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引用:http://w3e.kanazawa-it.ac.jp/math/physics/category/mechanics/motion/rotational_motion/henkan-tex.cgi?target=/math/physics/category/mechanics/motion/rotational_motion/helical_motion.html

ダンテは煉獄山を右回りに螺旋状に上がっていきます。螺旋状なので、回りながらもループは完結せず上に登っていくことになります。真上から見ればループしてますが、上に向かって直線的に歩みを進めている、とも捉えることができます。なかなか賢いアイデアですね。

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引用:有元利夫 / 『花降る日』(1977) 三番町小川美術館蔵

構成要素3:時間の伸び縮み

 

作中で「時間の伸び縮み」という現象が頻繁に出てきます。数分の会話を何十ページにも渡って続けると思えば、たった数行で何ヶ月も経っていたりします。

 

もっと具体的に言うと、一年経つごとに時間の縮みが増す、つまり時間の流れが速くなります。

 

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一年目は1-1から6-3まで(上巻丸々プラス下巻166ページまで)

二年目は6-4から6-8まで

三年目は7-2から7-5まで

四年目は...

 

というように一年に対してかける章数がどんどん少なくなります。細部では時間が伸び縮みしてますが、物語全体で見ますと時間はどんどん縮んでいくことが分かります。

普通、七年間描くとしたら、一年に割く量はそれぞれ均等になるようにします。その方がバランスが良いからです。

 

このことについて、説明しているのが7-1「海辺の散歩」です。物語の途中で、唐突に時間論が展開されます。読者が混乱しないようにわざわざページを割いてくれています。しかし、書き方が難解なので読んでもよく分かりません。ありがた迷惑とはこのことです。

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 要約すると

1)物語には内容時間と鑑賞時間の二種類があり、二つは必ずしも一致しないこと

2)ここから先、ますます時間感覚が狂って、物語内の時間、何年目の何月であるか明記しないから注意すること

3)海辺のような単調な空間では、時間と空間の区別が消滅して、運動が運動でなくなれば時間もなくなってしまうこと

 

が述べられています。

 

1)~3)について説明していきます。

 

1)物語には内容時間と鑑賞時間の二種類があり、二つは必ずしも一致しないこと

こちらが冒頭の「時間の二重性」を指します。内容時間と鑑賞時間の違いについて、例を挙げてみます。

 

例:主人公の高校生活3年間を描く2時間の映画

内容時間=3年間

鑑賞時間=2時間

 

鑑賞時間は見てる側の時間なので、メタっぽいですね。こういう感じで両者は必ずしも一致しません。というか一致しないのがほとんどです。

他にも、

「一夜のうちに夢の中で何百年の歴史を体験する」なんかだと

内容時間=何百年

鑑賞時間=一夜

となります。

 

youtu.be

 

ちなみに、音楽、特に器楽曲には鑑賞時間しかありません。音楽に明快な意味など存在しないので内容時間がないのです。確実に言えることは「鑑賞者が一定時間拘束されたこと」です。3分のワルツなら3分の時間、ブルックナー交響曲第九番なら約1時間の時間、ジョン・ケージ4分33秒なら4分33秒の時間、鑑賞者は拘束されます。

 

小説なら読者によって読むスピードは異なりますし、栞を挟んで次の日に回すこともできます。つまり、鑑賞時間が生じるのです。

note.com

(というようなことを書かれているのがfufufufujitani氏のコミュニケーション・サークル論です。興味のある方は是非)

 

2)ここから先、ますます時間感覚が狂って、物語内の時間、何年目の何月であるか明記しないから注意すること

物語開始当初は「今は8月で~」とか「1年目の冬が~」とか書いてくれていたのですが、第6章からだんだん少なくなり、滞在してからどのくらい経ったのか分からなくなり、7-1以降は明記しなくなります。「三週間が経過して~」「何か月か過ぎて~」のような曖昧な記述しか書かなくなりますので、読者は時間経過が把握できずに混乱します。そして、7-10でいきなり「七年間、ハンス・カストルプはここの上にいた。」という文章にぶつかるのです。

 

作中でハンスは時間感覚が狂っていくのを感じますが、実は読者の時間感覚も狂わされていくのです。

 

 

3)海辺のような単調な空間では、時間と空間の区別が消滅して、運動が運動でなくなれば時間もなくなってしまうこと

これはアインシュタインの「相対性理論」を指しています。

なんで「相対性理論」を出してくるのか、というと煉獄山が上に行くほど先細りになる構造をしているからです。各フロアが円形になっているのを、「魔の山」では一年周期という円環で喩えています。同じ一年間を描くにしてもページ数を減らせば、サイクルが短くなる=円が小さくなります。物語の内容時間は一緒でも鑑賞時間が減っているのです。

 

「時間の伸縮は分かったけど、煉獄山の構造(=空間)と滞在期間7年(=時間)は別物だから比喩として間違っているんじゃない?」

 

という鋭い質問が飛んできそうです。

ここで、アインシュタインの「相対性理論」を思い出します。

 相対性理論の話を始めると長くなってしまいますので、ざっくり捉えると

特殊相対性理論

→止まっている人から見ると、光速で動いている人の時計が示す時間は遅れている

 →時間は観測者ごとに存在する

→時空(=時間と空間の一体化)は観測者の運動状態によって、伸び縮みする

 

一般相対性理論

→重力も時間を遅らせる原因

→重力は地球の中心から離れるほど弱くなる

→例えば、地上の時計はエベレストの山頂の時計と比べて遅れている

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引用:http://www.myllyteatteri.fi/Node/117

相対性理論に則ると、煉獄山の山頂に近づくほど時間の進みが速くなる、つまり時間は縮んでいることになります。物理学を援用することで、煉獄山の構造を巧みに表現しています。まさに、時間小説(Zeitroman)と呼ぶにふさわしいです。

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もちろん、舞台となっているスイスのダヴォスは標高1500mくらいなので、相対時間はほぼ生じませんが、「文学的表現」ということで勘弁していただければと思います。

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 アインシュタインユダヤ人です。そういえばナフタもユダヤ人でした。前者は科学者、後者は宗教家。ナフタは科学を「無神論的似非宗教」と徹底的に批判します。特に、宇宙の神秘を解明する行為はニヒリズムに陥ると警鐘を鳴らしています。まあアインシュタインも「宇宙的宗教感覚」を持っていたようですし、そもそも神学が無ければ科学の進歩もなかったでしょう。

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二元論

魔の山」には二項対立が大量に出てきます。その中でも重要なのは「精神と肉体」の二項対立、二元論です。

 

二元論というと「トニオ・クレーガー」を思い出しますね。

dangodango.hatenadiary.jp

 火の中から生まれたホムンクルスには肉体がなく精神だけの光の玉の状態です。タイムリープして肉体を欲してガラテアの足元に沈んでいきます。火と水の二項対立です。

 

これ以外にも様々な二項対立が大量に出てきます。あまりに多くて紹介しきれませんが、ハンス・カストルプがトニオ・クレーガーの変化形であることは確かです。

 

みんな実はホムンクルス

ワルプルギス・ループの考え方でいくと、途中下山して死んだヨーアヒム、自殺したペーペルコルン、人間的な叫びを放って頭に弾丸を撃ったナフタ、みなホムンクルスということになります。

 

そもそもサナトリウムの人間は結核を患っています。この当時結核は不治の病ですので、みな死に瀕している状態です。ホムンクルスには肉体がありませんでしたが、患者の肉体も存在はしますが危機的状況にあります。

 

さらにメインキャラほぼ全員がホムンクルスと共通点を持っています。

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散々「人生の厄介息子」と説教していたセテムブリーニも百科事典を作成中の半人前です。ヨーアヒムは途中下山した、つまりまだ不完全なのにフラスコから出てしまったために死にます。ホムンクルス生成失敗です。

 

それぞれ目標は違えど、一人前になろうともがいていた点ではホムンクルスなのです。夢半ばで病に倒れた魂たちなのです。スピンオフの項目で述べた通り、「『魔の山』は結局ホムンクルスが主役の物語だった」となるわけです。

 

例外は、ショーシャとベーレンスですが、彼らはガラテアとワーグネルなので該当しないのでしょう。

 

もっとも、これだとキャラ戦略が複雑なりすぎて効果が薄くなってしまいます。現にドストエフスキーほどの引き込まれる感じありません。秀才が天才の真似をして失敗した、というのが実態でしょう。

 

 第一次世界大戦

ベルクホーフは国際色豊かな施設で登場人物の出身も様々です。

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 イタリアのセテムブリーニとオーストリアのナフタが議論の末、決闘をします。大戦前、イタリアとオーストリアは領土問題を起こしていました。

 

その他、対応を考えれば当時のヨーロッパ情勢が見えてくると思われますが、限界が来たのでこの辺にしておきます。

 

ファウスト批判=ドイツ批判

 キャラ配置で見たように「魔の山」は「ファウスト」を典拠にしながら、ファウストに該当する人物がいません。肝心の主人公が不在なのです。それは批判を行いたいからです。

 

ファウスト」ではキリスト教道徳からの解放を描いています。具体的には、ループ時間の採用と、土地干拓=生活空間の拡大です。「魔の山」はこれに異議を唱えているのでその反対を描きました。

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またマンの批判はファウストにとどまらずドイツ文化にまでゆきます。「魔の山」が執筆されたとき第一次世界大戦はドイツの敗北で終結しており、ワイマール共和国が誕生しています。世界でもっとも民主的な国を非政治的なドイツ国民がいかにして守っていくのか。マンの答えは「フランスを見習え」でした。

 

5-9「ワルプルギスの夜」でもハンスとショーシャの会話はフランス語でした。ロシア人のショーシャがフランス語しか分からないというのもありますが。

 

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 7-7「妙音の饗宴」にて、蓄音機の主となったハンスは5つの曲を聴きます。ラインナップ見ると、フランス人作曲家が多いですね。

 

ここで注目すべきは、4番目のグノーのオペラ「ファウスト」の「ヴァレンティンの祈り」です。

Nellie Melba In The Role Of Marguerite In Faust In 1920 : ニュース写真

このグノー版ファウストは内容は第一部のみで原作と結末違っています。当然ドイツ人から評判悪いみたいです。もっとも原作版が要素詰め込みだったのに対し、恋愛劇に絞って作られたので「面白さ」ではグノーの方が上です。

 

「フランス人がドイツが誇るゲーテに曲をつけている」これだけでドイツ人は気に食わないようですが、戦争で負けてフランスに占領され、民主化されたドイツの姿と被るものがあります。「悔しいけど民主化されましょう。グノーのファウストが評価されているように、ワイマール共和国だって素晴らしいものですよ」とでもマンは言いたいのでしょう。かつて兄貴ハインリヒ・マンを「フランス贔屓」「文明の文士」と蔑んでいた保守派のトーマス・マンは消えて、兄貴そっくりの左翼になった姿がそこにはありました。

 

時勢を読めるあたりしたたかですが、こういう八方美人な態度が後年、ドイツで居場所を無くす原因でもあります。

 

 愛国心

 では、トーマス・マンはドイツへの愛を失ってしまったのでしょうか。

 

7-10霹靂では、ハンスは戦場である森を行軍しています。本来、煉獄山の頂上には地上楽園があるはずなのですが、ハンスの眼前には、第一次世界大戦という名の地獄が広がっていました。煉獄山を登った先は再び地獄だったのです。

 

「彼は魔法を解かれ、救い出され、自由になったのだと知った」という文章があることから大戦勃発によって錬金術による生成が終了したことが分かります。ついに、フラスコの中から、魔の山から出るのです。

 

そして戦場にはハンスと同じような「人生の厄介息子」たちが数多く従軍しています。彼らは祖国ドイツのために戦います。魔の山執筆時はすでにドイツは敗戦していたので彼らの奮戦は虚しいものです。ここで「ファウスト」のラストを思い出していただきます。

 

ファウスト」のラストはホムンクルスやその他幼くして死んだ子供たちの魂がファウストを救い出します。

 

となると「魔の山」結末の意味は、

 

「ハンス・カストルプや死んだヨーアヒム、戦場で戦っている若きドイツ兵たち。これらはみなホムンクルスであり、彼らの魂が悪魔の手に落ちかけているファウスト=ドイツの魂を救い出してくれるだろう」

 

となります。

 

国際色豊かで愛と善意のヒューマニズムを描いたと評される作品の裏側には、強烈な愛国心が隠れていました。死んだ将兵の魂は無駄ではなかった。敗北したドイツの魂を救ってくれるのはきっと彼らに違いない。マンの秘めたる想いが伝わってきます。

 

ここで、もう一度蓄音機で流したプレイリストを確認します。

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最後の選曲はシューベルト菩提樹」です。

彼は歌曲の王と呼ばれるほどの作曲家ですが、ゲーテの作品に数多く曲を付けたことでも有名です。とはいえ生前、ゲーテから認められることは無かったようですが。

 

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さらにハンスは戦場で「菩提樹」を口ずさみます。

 

youtu.be

シューベルトが亡くなったのは31歳。

ハンスが出征したのは24+7=31歳。

 

もしかするとマンはハンス・カストルプを通して、自分をシューベルトと重ねていたのかもしれません。偉大なゲーテへの愛憎を込めて。

 

問題点

 と、ここまでまとめてみると、「魔の山」の凄さと同時に問題点も見えてきます。

・キャラ配置が複雑で効果が薄くなっている

「悪霊」を参考にしたキャラ配置をしたのは良かったのですが、主要キャラをホムンクルスに包括するのはやりすぎです。

 

・中庸の思想が八方美人になる危険性

トニオ・クレーガーもそうでしたが、二元論の中間、中庸を取るというのは確かに解決策になります。しかし同時に日和見で、どっちつかずの八方美人になる危険性も十分あります。

 

現に作者は大戦中はゴリゴリの保守派だったのに、戦後は民主主義を擁護する発言をします。インテリはともかく大衆は相当癪に触ったのではないかと予想できます。

 

(保守派時代のマンを知りたい方は「非政治的人間の考察」というアホみたいに長いエッセイを読んでください。大部分は「お兄ちゃんの馬鹿!」レベルの口喧嘩ですが、ドイツ人に対する考察はおもしろいです。タイトルはニーチェ「反時代的考察」にあやかってますね)

 

・ペーパーマネー問題への関心の薄さ

魔の山」はファウストの中でも「古代のワルプルギスの夜」に焦点絞っています。ワルプルギスは確かに有名で盛り上がりますが、「ファウスト」のテーマはそれだけではありません。

 

特に、紙幣発行をスルーしているのは頂けません。紙幣発行を肯定的に描いた文芸作品は極めて稀少で、だからゲーテは偉大なのですが、トーマス・マンはここをスルーしてます。一丁前に批判していますが、やはりゲーテの知性にはあと一歩及びません。

 

文学は無力

Benito Mussolini and Adolf Hitler on Review Stand : ニュース写真

 マンのアンビバレンツな愛国心も虚しく、ドイツは再び地獄を見る羽目になります。一人の男の存在に非政治的なドイツ人は熱狂しました。その男はオーストリアの生まれで、第一次大戦にも従軍し、演説の上手さで民主主義体制下で台頭しました。

 

ハンス・カストルプと同様、戦場を駆け抜けたホムンクルスの魂のなかに、その男は混ざっていたのです。皮肉なもんですね。

 

こうして「魔の山」以降のトーマス・マンは本格的な自己批判へと向かいます。

自らが愛したドイツ文化を、批判そして否定します。「ワイマルのロッテ」はゲーテ批判、「ドクトル・ファウストゥス」では本格的にゲーテファウスト」とベートーベン第九の「歓喜の歌」を否定します(主人公のモデルはニーチェです)。

 

しかし、そういった批判の裏側で、愛してやまないドイツ文化、ドイツという国、何より自分自身を肯定したい思いに苛まれています。否定半分、肯定半分の相反する感情が彼の内にあります。

 

参考

yomitoki2.blogspot.com

宮崎駿堀辰雄風立ちぬ」が「魔の山」を下敷きにしていることも、「魔の山」が「神曲 煉獄篇」を下敷きにしていることも知っています。その上で自分の世界観に合わせて組み立て直しています。我々は途方もない天才と同じ時代を生きているのです。

 

jaguchi975.seesaa.net

上記の「コミュニケーション・サークル」を応用したのが黒井マダラさんの「シビラゼーションサークル」です。文明の四つの環という発想は面白いですね。戦闘、性交、飲食、休息の4つとも「魔の山」で再現されていた光景です(性交は直接描写されませんが、サナトリウムの風俗はかなり乱れています)。

 

怠惰

7月が終わってしまう。

 

2018年6月から「魔の山」読み解き開始して2年が経過した。ここまで来ると、「よし、読み解けた!」というよりも「もうこの辺でよしとするか」という諦観に至る。あと少しで手が届きそうな感触があるのだが、どつぼにハマる気もする。

 

正直、一人で溜め込んで頑張るよりさっさとアップしてしまって、同志に意見を伺った方が早いんではないかと思い始めたのが、今年の1月くらい。

 

しかし、不十分なまま出すのもどうかな、と考えあぐねている内にコロナ禍が世界に吹き荒れ、周囲が慌ただしくなった。腰を据えて読んでいる余裕がない。梅雨はまだ明けない。思考の雲行きもまだ晴れない。まさか、主人公ハンス・カストルプと同じく7年もそんなことをする訳にはいかないのでぼちぼち記事の作成を開始する。

 

そもそも初読に半年も掛かった作品である。ただ長い、だけでなく内容も退屈で難しい。読破してからエクセルでいじり始めて2回目読み始めて、という感じで行った。

 

その間、他のことには目も暮れず一心不乱に取り組んだ、というわけではなく別の本読んだり、アニメ見たり、普通にダラダラしていたのである。要するに怠慢が諸悪の根源なのだ。しかし、真面目に根詰めてやったところで挫折するのは目に見えている。

 

読み解きノートみたいなのを作ってみた。考えたことや会話の流れなどをとにかく書きまくった。しかし、あまり役に立たなかった。結局、エクセルで表作って印刷して、定期的にちらちら眺める方が効率も精度も良さそうだ。頑張った割に効果が薄い。

 

そういえば「私の京アニ史」というシリーズが途中で放ったらかしになっている。こちらは最初からダラダラ書いていくつもりで始めたのだが、ダラダラ書いている内に世界が激変してしまい、書き始めた当初から心情がかなり変化してしまった。これは本当に困った。放棄するのはあんまりなので続けるつもりだが、これも長く書くことの弊害なのだろう。

 

トーマス・マンも「魔の山」書いているときに、ちょうど第一次大戦が発生した。本人戦争に行ったわけではないが相当苦労したであろう。

 

とりあえず、書き始めてはいるのでいましばらくお待ち下さいませ。全然更新できていなかったので、一応報告がてら。

「ブリキの太鼓」感想

映画「ブリキの太鼓」を見た。監督はフォルカー・シュレンドルフ、原作はギュンター・グラスの同名小説。

 

昔、深夜にテレビを付けたらたまたま放送していた記憶がある。怖いというかグロいというか、とにかく気持ちが悪くて二度と見ないだろうと思っていたが見た。

 

具体的にどう気持ち悪いのか。例えば、

主人公オスカルとオスカル母アグネス、アルフレート、ヤン・ブロウンスキの4人で海岸を散歩するシーンがある。

 ブリキの太鼓2

ルフレートとアグネスは夫婦であるが、彼女は従兄のヤンと不倫している。もしかするとオスカルの父親はヤンかもしれない。さらに現在ヤンの子を妊娠中、そういう関係である。

 

バルト海の砂浜を歩いていると漁師がいる。話を聞くとウナギを獲っている。引き揚げてみると腐った馬の頭からウナギがニョロニョロと飛び出している。目や口からニョロニョロと。アグネスは嘔吐する。しばらくウナギ食べられなくなるトラウマシーンである。

 

気持ち悪いシーンであるがメッセージが込められている。

 漁師の老人のセリフ「一番大漁だったのは第一次大戦中で、海戦で沈んだイギリス海兵を食べて鰻がよく育った時だった」

このシーンの後、アグネスは発狂して魚を生で食らいまくり、自殺する。お腹の子と一緒に。

 

ここでは、鰻=オスカル、馬=アグネスある。鰻は北海、バルト海の主要産業であり、ダンツィヒ=オスカルである。イギリス海兵を食べて太った鰻が取れた=第一次世界大戦において連合国側の勝利で形式上、独立国になれたことである。馬の頭から鰻が飛び出ているのは、オスカルの暴走が母親の精神を食い破っていることを暗示している。

ja.wikipedia.org

さらに、別のシーンでアグネスはオスカルを連れて教会に不貞を懺悔しに行く。このときオスカルはマリアに抱かれたキリスト像に太鼓を持たせ「できないのか!それともやる気がないのか!」と叫ぶ。これは教会がナチスに抵抗せず従っていたことを揶揄している。

 また、キリストに太鼓を持たせていることから、キリスト=オスカル、聖母マリア=アグネスである。アグネスの死後、後妻にくる少女の名前はマリアである。

 

アグネスはお腹の子が次なるオスカルになって、鰻のように自身を食らいつくされる恐怖を克服しようと、強迫感情で魚を食べまくるが、結局自殺する。マリアはアグネス二号なので復讐心からオスカルをビンタする。

 

こんな気持ち悪い映画であるが、優れた点は二つある。一つはオスカル役ダーフィト・ベンネント少年の怪演、いま一つは音楽である。

 

オスカルは産まれたときから全能の力を持っていたが、3歳の誕生日にブリキの太鼓を貰い、周囲の大人たちの姿(三角関係の両親たち)に幻滅して成長を止める。代わりに叫び声を上げるとガラスを割る能力を得る。

 David Bennent in The Tin Drum : ニュース写真

この捻くれた冷笑的な少年の表情は一級品である。ドイツ、ポーランド、カシュバイ、ユダヤなどの様々な人種が住むダンツィヒの歴史は複雑である。この内の誰かを主人公にしても一面的になってしまう。歴史の見方に偏りが生じてしまう。この複雑怪奇な歴史を描くには怪奇的な少年を語り手にするしかなかった、という算段である。

 

オスカルは悪魔的行動で周囲の人間を不幸にする。いい年なのに太鼓を叩いて道化になっている、16歳のマリアとのセックス、父アルフレートの膣外射精を邪魔してマリアを妊娠させる、アルフレートとヤンを間接的に死に追いやる等キリがない。

 

音楽について。この映画はやたら音楽が鳴っている。オスカルの太鼓、ラッパ吹き、母のピアノ。ドイツ人は本当に音楽が大好きなのであろう。

 

劇中でピアノの上に飾ってあるベートーベンの肖像画ヒトラーに取り替える。第二次大戦でドイツ降伏後、アルフレートは「やはりベートーベンは天才だ」と言ってヒトラー肖像画を焼く。散々、ナチスに心酔していたアルフレートの手のひら返しもひどいが、ベートーベン→ヒトラー→ベートーベンとなっている。これにはドイツのロマン主義に対する批判も込められていると考える。

 

グラスの大先輩にトーマス・マンがいる。彼はマンのこと尊敬してたらしく、亡くなったときリューベックにいた。

 

マンの最後の長編である「ファウスト博士」では、天才作曲家レーヴェルキューンが自作を演奏する瞬間に発狂して、そのまま正気に戻ることなく死ぬ。曲のタイトルは「ファウスト博士の嘆き」。ゲーテファウスト」の聖女の救済を否定し、ベートーベン交響曲第九番歓喜の歌」も否定してしまう。つまりロマン主義の否定である。

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

 

 

マンの文体というのは実はドイツらしくない。執拗に写実的で、執拗に科学の専門用語を乱発する。文体に関してはゾラとかフローベルとかのフランス自然主義である。もちろん本人はワグネリアンなので本質的にはロマン主義の人なのだが、ロマンをロマンとして描かない、ロマンそのものを描かずに間接的に表現する。

 

要するに、マンは自分の最も愛するものを自らの手で否定したのである。とはいえ、二度の大戦とも従軍せず悠々自適の亡命生活を送ってた人間にナチス・ドイツの悲惨さなど描けるはずもなく、所詮は観念の遊戯であるに過ぎない。天才も老いる。

 

戦争体験の話で言うと、ギュンター・グラスナチスの親衛隊に入って戦車の砲手をしていた(この事実は世界中でバッシングを受けた)。つまり、マンには出来なかった戦争のリアルを描くことができる。もっとも現実を知っているあまり、ロマンに逃げられないのが辛いところである。作風もグロテスクにならざるを得ない。もはやドイツ文学はロマン主義に回帰し得ないのか。

 

それでもロマン主義の片鱗が出てくる。ナチスの集会シーンである。

 

www.youtube.com

 

 最初、市民たちは軍歌を演奏しているが、オスカルの太鼓にテンポを乱され「美しく青きドナウ」の有名なワルツにつられてしまう。ナチスの厳粛なパレードが一転して舞踏会に様変わりする。小さな抵抗でもこれだけ人を動かせる、とも解釈できるが、ドイツのロマン主義が発露するとともに、大衆の日和見的な態度、軽々しく鞍替えする姿勢を皮肉った名シーンである。

 

こういう非政治的で日和見的な市民の態度がナチスの台頭を許したとして批判している。しかし、この映画を傑作たらしめているのはこのシーンであり、ナチスの軍歌であり、ヨハン・シュトラウス2世である(オーストリアとドイツは民族的には同一である。日本でいう京都と東京の関係)。ナチスの犯罪によって、仕方なく封印しているが、本当はロマンが大好きでたまらない、というのがドイツ民族の本音ではないか。

 

帰ってきたヒトラー」はこの姿勢を継承しつつも連合国側にかけられたナチスの呪いを脱却しようとしている。「ジョジョ・ラビット」に関しては監督がニュージーランド生まれのユダヤ人である。ドイツ人には決して描けない。

 

帰ってきたヒトラー(字幕版)

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ジョジョ・ラビット (字幕版)

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  • 発売日: 2020/05/20
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オスカルの本当の父親がアルフレートなのかヤンなのか分からない=ドイツ人なのかポーランド人なのかアイデンティティが分からないダンツィヒ市民であり、父の分からないキリストである。父が不明(信仰が不安定)、聖母は不貞に走り、キリストは醜い小人と化している。ナチスに対して抵抗しなかった教会を批判している、というところまで考えた。正直、1回見ただけではなんとも言えない。


ブリキの太鼓を読み解けば、現代のドイツ文学が色々分かってくるだろうが、順序的にトーマス・マンをやってからの方が良さそうである。原作もアホみたいに長いので正直やりたくないし、もっと言うとあまりにも政治的すぎて面白くない。こういう読者の姿勢も非政治的で批判の対象なのだろうが。

神曲 追記その2

 

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

 

 

解説ではあまり触れなかったが「神曲」では鋭い政治批判が展開されている。この時代の政治批判とはすなわち教皇批判である。現代では優れた翻訳と注釈があるので凄さを実感できないが、かなり遠まわしに揶揄している。金銭欲に溺れた教皇や大商人たちはみな地獄の罪人に言い換えられてむごい仕打ちを受けている。理由はストレートに表現したら教会に異端審問にかけられるからである。それでもかなり危険だったらしく天国篇はダンテの死後に発表された。

 

フィレンツェでは白派と黒派が絶えず争いを繰り広げていた。ダンテは白派に属し、黒派のクーデターで政治争いに敗れると亡命者になった。そして亡命しながら書いたのが神曲である。

 

とはいえ作品中で批判されているのは敵である黒派だけではなく、白派の人間も多く断罪されている。さらにはなかなかイタリアにくる気配のない皇帝も批判している。全方位で批判を展開している。 凄まじい度胸である。

 

 

ダンテはこの作品を単にCommediaとだけ題した。「Commediaは喜劇と訳されるのは正確ではない。正しくは文体が卑俗で、悪い状態に始まりハッピーエンドで終わる形式の劇」とのこと。

 

ダンテは強烈な政治批判、社会批判をあくまで下品で通俗的に書いている。俗っぽさの

裏側に強烈な皮肉を込めたのである。シェイクスピアの戯曲がそうであるように道化師はしばしば真実を語る。ダンテはいわば命がけの道化をやったともいえる。もしかするとチャップリンの大先輩かもしれない。もっともダンテは民主主義ではなく皇帝権による地上支配を願ったのだが。

https://youtu.be/xl2e69fEFf4

 

ダンテの後進であるボッカチョは単にCommediaと名付けられたこの詩にLa Divina Commedia(神聖喜劇)と呼んだ。なぜ「神聖」なのか?Commediaは文体が下品であるから神聖ではない。文体だけを考えるなら、神聖なのは悲劇であって喜劇ではない。矛盾している。

dangodango.hatenadiary.jp

私が思うに、ボッカチョはダンテの勇気ある命がけの道化に尊敬の念を込めてDivinaと名付けた。とてつもない巨大権力の恐怖に誰もが口を閉ざしているとき、真実を口にできるのは、自由にものを言えるのは誰であったか。

 

 

La Divina Commedia(神聖なる道化)である。さすがに道化と訳すのは飛躍しすぎであるが。

 

神曲 追記その1

 

dangodango.hatenadiary.jp

 先日、「神曲」の解説記事をアップした。ファウストと同様、射程がややというかかなり広い作品なので、網羅的に説明するのが難しい。補足を加えて、もう少しまとまった記事に書き直さなければと思うが、ひとまずこれでいいことにする。

 

それでも、追記にしなければならないのは「視覚と聴覚」についてである。

神曲が優れているのは真に迫った情景描写である。地獄のおどろおどろしい光景、罰を受けて苦しむ大勢の罪人の姿、異種混交体ともいうべき魔獣の外観。ダンテは無論、地獄に行ったことない。しかし、「この人は行って見たことがあるんではないか」と思わせてしまうほどのグロテスクでリアリティある描写をする。

 

そして、ミケランジェロダヴィンチがそうであるように、ヨーロッパはルネサンス以降、微細でリアルを重んじる目の文明になっていく。

 

これは三位一体の子=キリスト=視覚の存在感が強いカトリックの特徴である。とにかく、キリストのウェイトが高い。そのキリストを持ち上げるために視覚表現が発達したのではないか。

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地獄篇

その一方で、叫び声や轟音、汚い罵り合いなど聴覚に関する描写も多々ある。大量にある罪人や贖罪者との対話も聴覚表現である。メインは視覚表現であるが、聴覚に対する反応も高い。

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煉獄篇

煉獄は制限時間付きの地獄なので叫び声や言葉を失うはあるが、ダンテが気絶したり、眠って夢を見たりするシーンが多い。地上楽園に入ると、あまりのすばらしさに文字通り言葉を失うし、視覚も超越しかける。

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天国篇

天国篇になると、視覚、聴覚ともに表現が雑になる。「この美しさは表現のしようがない」「言葉に書き表せない」と。それを表現するのが詩人なり作家なり芸術家の仕事ではないんだろうか、とツッコミたくなる。

 

なんで表現できないかというと神に近づいているからである。無限なる神は有限な存在である人間の視覚や聴覚など超越してしまっている。というか、表現してしまうと無限なる存在で無くなってしまう。それは由々しき問題である。

 

いよいよ、ラストになると目も潰れ、耳も聞こえなくなる。そして、神のビジョンだけが頭の中に、つまり脳に流れ込んできて幸福な気持ちになって終了する。

 

余談だが、リストが「ダンテ交響曲」を作曲家するとき、地獄、煉獄と作ってワーグナーに「天国の喜ばしさを表現するのは不可能」と言われて天国を除いた2楽章にしたといわれる。

 

このエピソードから察するに、天国篇を下敷きにした作品はほとんど、あるいは全く無いのかもしれない。地獄篇と煉獄篇はそこそこ確認されているが、天国篇はそういう噂を過分にして聞かない。

また天国篇は教皇批判がもっとも苛烈で、ダンテの死後にようやく発表されたくらいなので、色々とヤバイ作品である。

 

正直な感想を言うと、ダンテは情景描写は上手いが会話シーンは下手くそである。あなたはどこの出身?→私は〇〇の生まれです→何の罪でここに?→それは〜、みたいな単調な受け答えしかないので退屈で仕方ない。視覚と聴覚の両立に挑戦してはいるが視覚しか成功していない。

 

 

 

 

 

「Re:ゼロから始める異世界生活」について語るの巻

3月28・29日はアニメ『リゼロ』を一気に見るチャンス! - 電撃オンライン

「というわけで、『Re:ゼロから始める異世界生活』について語っていこうと思うんやけど」

 

「なんで毎回毎回、話題の振りが唐突なんや」

re-zero-anime.jp

 

「いや、照れくさいやんか。かしこまって、気を付け、礼して始めんのが」

 

「気を付け、礼はせんでもええけど、今更リゼロをやる理由を教えてくれるか」

 

「実は年明けから再放送してたのを見てて興味が出た次第や」

 

「新編集版と題して、2話分まとめて一時間で放送してたやつか」

 

「せや」

 

「つい数か月前の話なのに遠い昔のように感じるな」

 

「コロナですっかり新作アニメが放送できんくなってしまった」

 

 

「悲しいな」

 

「せやな」

 

「本題に入ると、リゼロは長月達平の同名ライトノベルが原作で、俗にいう『異世界系』なのだが」

 

「蓋を開けてみると、はっきり既存の異世界系やなろう系に批判的な内容となっている」

 

「引きこもりで、取り柄のない主人公がある日突然異世界に転生。魔獣や強敵を前に孤軍奮闘の大活躍。可愛いヒロインたちに囲まれて幸せ一杯」

 

「さすがにそこまで露骨なのは無いと思うけどな」

 

「全然あるしむしろそういうのが売れているらしい」

 

「そこは『らしい』なのか」

 

「本屋でぱっと見た感じなので断言できん」

 

「なるへそ」

 

「具体的に何を批判しているのか、というとこれは『SAO』ではないか」

 

「ほう」

dangodango.hatenadiary.jp

「SAOの悪口については一年前に書いた」

 

「悪口を書くなて」

 

「主人公キリトは引きこもりのゲーム中毒者で、ソードアートオンラインなるネットゲームに閉じ込められ、黒のコートを着こなして「黒の剣士」の異名で周囲から孤立し、本名も知らん娘とNPC幼女の三人で家族ごっこを開始し、最終的によく分からんチートでラスボスを倒した、くらいのカッコいいヒーローである」

 

「それだけ聞くと完全に狂人やな」

 

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「SAOとリゼロの設定などを比較してみた。発表年は原作の単行本が刊行された年にしている」

 

「対になっているな」

 

「どちらも異世界なのだがリゼロの舞台設定がどうなのかイマイチ言及されていなかった」

 

アインクラッド編はゲーム内での死が現実世界での死に直結している。反対に、リゼロのスバルは何回死んでもスタート地点に生き返ってしまう能力を持つ」

 

「スバルは死に戻りの秘密を周囲に話せず孤立して、キリトは第1層のボス撃破直後に自分がβテスター(お試し版既プレイ組)であることを公言して孤立する」

 

「対応箇所が色々あるが、一番注目すべきは主人公の性格にある。性格の相違点こそがリゼロの最大の主張である」

 

「性格か」

 

「キリトはヒロインが傷つくと怒りで覚醒する」

 

「それ自体は悪くない」

 

「しかし、怒りに身を任せるあまり、視野が狭くなり周囲に迷惑をかけている」

 

「キリトくんは近視眼的というか単細胞なんよね」

 

「反対に、スバルはエミリアの危機を助けようと躍起になるが全然上手くいかず苛立つ。やがて過剰な英雄精神は歪んだ憎しみに変わり、周囲の人々に八つ当たりをする」

 

エミリアやレムに思春期特有の情けないやつあたりをするシーンはかなりキツイものがあった」

 

「しかし、それこそが本作が描きたかったメッセージでもある」

 

「そもそもの話、引きこもりのニートでしかなかった人間が異世界に来たら英雄になれる、という発想自体がおこがましいねん」

 

「そのうえ交渉のテーブルに立てへんおつむの弱さときた」

 

「救いようがない。現にスバルは絶望的なニヒリズムに陥った」

 

「まとめるとリゼロがSAOをひいては異世界系の批判点として『現実逃避的な英雄精神が生み出す絶望』であり、さらに言うと『身の程を弁えて知恵を絞れ』である」

 

「とはいえスバルもずっと側にいたレムの支えで復活しちゃう単細胞なんやけど」

 

「別に単細胞なラノベ英雄譚を否定しているわけではない。視野を広げて冷静になれ、と言っているだけや」

 

「そうか」

 

「ついでに話しておくと」

 

「なんや」

 

「リゼロの悪役ペテルギウスとキリトの声優が一緒なんや」

 

「それはただの偶然やないの」

 

「確かに、アニメ限定の話である。これでペテルギウスが愛する女性を誤って殺してしまったとかいう過去があればキリトくんの過去と整合性がつくんやけどな。こればっかりは原作読まな分からんね」

 

「伴侶殺しはるろ剣から続く剣士の伝統やからな」

 

「しかし、これだけではSAOが、というより単なるアンチ異世界系であるだけな気がする」

 

「そう来ると思ってだな」

 

「なんや」

 

「魔女教に七つの大罪というワードがあったやろ」

 

「あったな」

 

七つの大罪というとダンテの「神曲」が有名である」

 

「まあそうやな」

dangodango.hatenadiary.jp

「仮に、神曲ーSAO-リゼロが繋がっていたとしたら」

 

「繋がっていたとしたら」

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「こんな感じで対応表を作ってみた」

 

「茅場とウェルギリウスが対応しているのが納得できへんねけど」

 

「茅場は確かに悪役だが、ファントムバレット編の最後で判明したように難病患者のためのフルダイブマシーンを開発していたように完全な悪人という訳ではなかった。それ以降の展開でもキリトたちは知らず知らずのうちに茅場に導かれていくような場面に出くわしている」

 

神曲ーリゼロは分かるとして、神曲ーSAOの根拠が弱いな」

 

「SAOは次のフェアリーダンス編でもシェイクスピア「夏の夜の夢」を参照している風だったが、内容は大して関係なかった。オーベロンとティターニアの名前が出るくらい」

 

「どちらかというとゲーム内の世界観構築に興味があるっぽいな」

 

「しかし、こちらをご覧いただきたい」

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引用:http://www.myllyteatteri.fi/Node/117

神曲の煉獄山やな」

 

「続いてこちらをご覧いただきたい」

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©川原 礫/ アスキー・メディアワークス/SAO Project

「SAOのアインクラッドやな」

 

「似ていないだろうか」

 

「はい?」

 

「煉獄山とアインクラッドの形状が似ていないだろうか」

 

「いや、まあそう言われればそうやけど」

 

「各フロアが円形であること、上に行くにしたがって先細りになる、最上階でゴール(地上楽園・現実世界)に到達」

 

「しかし、まあ内容での整合性が取れんからイマイチやな」

 

「考察不足の面もあるから食い下がってやろう」

 

「なぜ偉そうなのか」

 

「最後にリゼロの最終回、エミリアとの会話シーンなんやけど」

 

エミリアに膝枕されているシーンか」

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©長月達平株式会社KADOKAWA刊/Re:ゼロから始める異世界生活1製作委員会

「非常に楽園ぽい」

 

「ということは煉獄山の頂上にいる」

 

「そしてスバルとエミリアの間でこんな会話が続く」

スバル「君が自分の嫌いなところを10個言うなら、おれは君の好きなところを2000個言う。おれは君をそうやって、おれの特別扱いしたいんだ」

エミリア「されて嬉しい特別扱いなんて生まれて初めて。どうして2000個なの?」

スバル「おれの気持ちを表現するのに100倍じゃ足りねーからだよ」

 

「この2000個、100倍云々はどういう意味なんやろうか。よく分からん」

 

「さきほどの説を採用すれば今スバルたちがいるのは煉獄山の頂上であり、アインクラッドの頂上である」

 

「うむ」

 

「そして『100倍じゃ足りねーから』というのはアインクラッド全100層のことを指し、要約すると『我々はSAOの欠点を克服して上回った』という宣戦布告になる」

 

「えらい攻撃的やな」

 

「攻撃的な作者なのかもしれない」

 

「しかし、原作者のTwitterを覗くとこんなツイートがある」

 

 

 「なんやこれは」

 

「リゼロの原作者は別にSAOに批判的なわけじゃなさそうやな」

 

「いや、これはフェイクかもしれん」

 

「まだ言うか」

 

「作家というものはみな嘘つきであり、作品の真意を簡単に見破られることを激しく嫌う。そのためだったらインタビューだろうがTwitterだろうが嘘をつくに決まっている」

 

「無茶苦茶や」

 

「無茶苦茶で何が悪い」

 

「ここまでくると陰謀論やな」

 

「読み解きは基本的に陰謀論やぞ」

 

「まあそんな感じで2期の放送を首を長くして待とうかなと」

 

「その前に自粛を解除してもらわな」

 

「事態の好転を切に願いながら」

 

「今回はこの辺で」

 

「さようなら」

 

「神曲」解説【ダンテ・アリギエーリ】

ミケランジェロシスティーナ礼拝堂天井画

 Vatican's Sistine Chapel is ready for the conclave and the election of the new Pope by the cardinals in Rome, Italy on April 16th, 2005. : ニュース写真

ロダンの「地獄の門」「考える人」

The gate of hell at the Rodin museum, 18 : ニュース写真

リストの「ダンテ交響曲

 Franz Liszt : ニュース写真

イタリアの国語

 Italy Flag : ストックフォト

これら全部ある作品の影響を受けたと言われています。西洋文化に巨大な足跡を残し、ルネサンスへと導いた古典、それが「神曲」です。ただし、宗教、政治、科学、哲学...と扱う分野の射程が広すぎるためグロテスクな完成度になっています。現代の、特に日本人には皆目良さが伝わりません。一つ一つ紐解いていこうと思います。

 

詳細は闇の中

神曲」はイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが作った詩です。完成は1321年ごろだとされますが、よく分かっておりません。なにぶん中世の作品ですので、解釈を巡って研究者の間で意見が割れています。「昔はこういう解釈だったけど近年それが間違いだった」「言葉足らずで意味不明」そういう箇所が続出します。

 

一つだけ確かなことは、「神曲」という作品が中世から現代に至るまで多くの人々に読み継がれてきた古典であることです。どれだけ細かい部分の解釈が揺れようとも、知識の間違いを指摘されようとも、「神曲」の評価は揺るぎません。

 

ということは、「神曲」の本質を知るにはミクロではなくマクロな視点を持つことが大切だと考えられます。

 

そこで本稿では細かい、ミクロな部分には目をつぶっていただいて、大雑把に、マクロな部分に着目して解説していきます。詳細は専門家に任せればよいのです。

 

それでも気になる方は講談社学術文庫原基晶訳を読んでください。2014年に出た新訳なので分かりやすい上に、丁寧な注釈と解説が載っています。理由はあとで説明しますが、三位一体を意識して三行一組で分割しているのも素晴らしいです。

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

 

あとは漫画でイメージを付けることです。こちらは永井豪による「神曲」の漫画化です。さすがはデビルマンの作者。本物の地獄を味わうことができます。

 

前置きが長くなりすぎたので始めていきます。

 

登場人物

最初に登場人物です。先述の通り、神曲ではキャラが大量に出てきます。覚えられません。なので重要人物を4人だけ挙げます。この4人さえ把握すればとりあえずは「神曲」攻略できます。

 

ダンテ

Dante Alighieri, Italian poet... : ニュース写真

主人公です。そして作者自身でもあります。物語開始時点では地獄の辺境をさまよっています。臆病なタイプで地獄のモンスターにしょっちゅうビビってます。たびたび気絶して夢(幻視)を見るのも特徴です。職業は詩人で、かなりの腕前であることが死後の世界にも伝わっています。

 

旅に必要なのは頼れるガイドです。特に地獄巡りなんか道に迷ったら最期、悪魔や魔獣に殺されてしまいます。これから紹介する3人はビビりのダンテのために地獄・煉獄・天国を案内してくれます。

 

ウェルギリウス

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9

古代のローマの詩人です。代表作「アエネーイス」はローマ帝国建国を謳った詩として崇められる伝説の詩人です。

古代ローマということは紀元前の人です。ダンテは14世紀の人なので、かなり世代間ギャップのある二人旅です。おっさんと若者どころではありません。日本で例えると、弥生時代鎌倉時代のコンビになります。時代が離れすぎてイメージ全然湧きませんね。

 ともかく主人公ダンテは伝説上の人物の案内で死後の世界を歩んでいくことが分かればよいと思います。

 

ウェルギリウスは地獄篇第1歌から煉獄篇第30歌までガイドを担当します。

 

ベアトリーチェ

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引用:https://oyakochoco.jp/blog-entry-1177.html

本作のヒロインです。そんでもってガイド2号です。

ダンテが幼少のころに出会った年上の美女で恋心を抱くのですが、24歳の若さで死んでしまいます。美人ですがダンテには少し冷たく、威厳のある感じで接します。

実在の女性をモデルにしたのか作者の妄想なのか議論が絶えないようです。一つ確かなことはダンテが年上お姉さん好きだということです。なんだかラノベ・ネットコミックでありそうな設定ですね。

 

煉獄篇第30歌から天国篇第31歌まで担当します。

 

ベルナール

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9

 ガイド3号です。カトリック教会で聖人とされるおじいさんです。

もっともこの人はあまり重要ではありません。なんせ登場するのが天国篇の第31歌から、つまり三部作の最後の最後にしか登場しないのです。

 

以上、4人の紹介を終えました。

「いや、もっとたくさんいるだろ」という声が聞こえてきそうです。他に登場する人物、異形のモノを分類すると以下のようになります。

(1) キリスト教関連の人物

(2) ギリシャ神話の神々及び魔獣と古代の哲学者

(3) ダンテと同時代のイタリア人たち

 

(1)イエスやマリアなど有名どころはみなさん知っています。これがパウロヨハネなども「なんとなく名前聞いたことあるな」レベルであれば問題ありません。

 

(2)ギリシャ神話の神々はソシャゲやカードゲームやってた人ならだいたい察しが付くと思います。ゼウスとかヘレネーとかテーセウスとかオデュッセウスとか。あと魔物は基本的に異種混交体です。代表的なのはケンタウロスとかの半獣半人です。おどろおどろしいイメージが湧けば十分です。

 

古代ギリシャの哲学者はソクラテスとかプラトンとかです。ずらっと出てくるだけで名前を覚える必要ありません。

 

(3)ダンテの同時代人についてはファリナータという人以外は覚える必要ありません。ファリナータは煉獄篇の途中から旅を共にします。実際のところはあの当時にタイムスリップしないと分からないからです。しょせんは中世の内輪ノリなので気にせず読み進めていきましょう。

 

ダンテはキャラ戦略をあまり重視していません。というかほとんどの人物は出番が一回きりです。モブです。なんせキャラ同士の会話もほとんどワンパターンですから。代わりに全体構成こだわっています。

 

あらすじver1

地獄の周辺をうろついてたダンテは3人の人物に導かれて、罪人や悪魔、聖人たちと対話をしながら地獄・煉獄・天国を巡り、最後は宇宙の至高天で神の神秘に触れて終了です。

 

あらすじver2

地獄篇

Webコラムマガジン「のらり」□ギュスターヴ・ドレとの対話~谷口江里也

主人公ダンテは森で一人迷っています。不安です。よく見るとそこは地獄です。そうこうしていると狼が現れました。まずいです。絶体絶命です。

 

するとそこにウェルギリウスが登場します。彼はかつてダンテの憧れの女性で今は地上楽園にいるベアトリーチェの頼みでダンテの導き手になってくれます。狼を追い払うと地獄への冒険がスタートです。

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地獄巡りでは責め苦に遭う罪人、異形の魔獣、悪魔などが存在するグロテスクな世界が待っていました。ダンテは彼らに質問したり、ウェルギリウスと会話しながら最下層まで下っていきます。なんか工場見学みたいですね。

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引用:https://www.pinterest.jp/pin/386887424235778485/

最下層のコキュートスを見学したあとは地球の核、マントルを通過して南半球にある煉獄山へ向かいます。「マントルを通過できるわけないだろ」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が爆発しているだけです。

 

煉獄篇

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ダンテ一行が南半球に出るとそこには煉獄山がそびえ立っていました。

登ってみるとフロアが七つに分かれており、それぞれ七つの大罪に沿って罪人たちが罰を受けています。なんだか地獄と似ていますが異なる点があります。

 神曲』地獄巡り2.地獄門 | この世は舞台、人生は登場

同じようにウェルギリウスの案内で煉獄の各フロアを見て回ると頂上には楽園が存在していました。そして、そこにいたのがベアトリーチェです。ここからの案内は彼女になりまして、ウェルギリウスはお役御免で元々居た地獄のリンボに帰っていきます。

 

地上楽園でキリストを中心に神秘的な行進の中にベアトリーチェの姿を見ます。この辺はキリスト教の深遠さ、偉大さをアピールするための記述が続きます。

 

天国篇

Light trail in outer space : ストックフォト

煉獄山の頂上からベアトリーチェとともに宇宙を旅します。「宇宙服もロケットもなしに宇宙に行けるか」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が(以下略)

 Stained galss window in St Vitus Cathedral : ストックフォト

星々にいるのは生前善き行いをした者、聖人たちです。ベアトリーチェの案内を受けながら、彼らと対話をしていきます。

 

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引用:https://www.pinterest.jp/pin/443393525796489460/

やがて最終地点である原動天に到着し至高天に入ると、ガイドがベアトリーチェからベルナールに交代します。そして、ついに神の神秘と対面します。もっともダンテ曰く「無限なる神を人間ごときが見ることも記述することもできない」そうで、断片だけ匂わせて終了します。なんじゃそりゃ。

 

地獄・煉獄・天国の構造

神曲の死後の世界はとても面白い形状・構造をしています。

 

地獄

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引用:https://ameblo.jp/kosmosskene-biosparodos/entry-12295914951.html

 

円錐を逆さまにしたような形をしています。一番上の地獄の森がスタート地点で下に向かって、回りながら降りていきます。

 

煉獄

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引用:http://www.myllyteatteri.fi/Node/117

上の画像が煉獄山です。見ていただきますと、各フロアが円形になっており上に行くにしたがって先細りになっているのが分かります。

 

上部の7階は「七つの大罪」に沿っています。第一の罪:高慢が最も重く、第二、第三と罪が軽くなっていることを示しています。

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山頂に地上楽園があります。煉獄は地獄と天国がミックスした不思議な空間です。

 

地獄と異なるのは「制限時間」があることです。煉獄では一定期間、贖罪をすると解放されて天国に行けるシステムです。なんだか現代の懲役制度と似ていますね。両目を縫われたりとか、石を背負うとかスケールが違いますけど。

 

そもそもキリスト教の世界観では死後の世界は天国と地獄しかありませんでした。天国に行けるのは善人、地獄に行くのは悪人です。しかし、このシステムには問題があります。

 

それは「善人とも悪人ともいえない微妙なライン」の人々です。

例えば、

「悪いことをしたけど最期に改心した」

「地獄に堕とすほど悪人ではないが、天国にそのまま送る訳にもいかない」

こういうケースを白か黒かで判定するのは至難の業です。あんまり理不尽にやるとキリスト教への不信が高まり信者が減っていく可能性もあります。

 

なので天国と地獄の中間を取った施設が煉獄になります。罪人は地獄と同じように罰を受けますが、罪の重さによって滞在時間が決まっており、終わればめでたく天国に昇天できます。なんだか都合がいい話ですね。現に煉獄は聖書には書かれておらず後から作られた概念です。

 

天国

宇宙では月→水星→金星→太陽→・・・と星々を巡っていきます。もちろん中世ですので地動説ではなく天動説です。ただし、地球が丸いことは分かっていました。そういう時代です。ダンテもプトレマイオスの宇宙観をもとに物語を展開させていきます。

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引用:http://litteralittera.blogspot.com/2016/07/4.html

天動説は地球が中心になっていることで有名ですが、ここで重要なのは星々が公転している軌道の外側で星々を動かしている存在、原動天です。さらにその奥には大いなる神が待つ至高天があいります。ここから全宇宙をコントロールしている、いわば指令室です。

 

現代人はガリレオを異端審問にかけた教会を「愚かだ」と馬鹿にできますが、神が天地を、宇宙を創造したと主張するにはどうしても天動説というストーリーが必要だったのです。まあ実際間違いだったのですが。

 

という感じで地獄から降りていって、最終的に天国へと昇ってくプロセスであることがお分かりいただけたと思います。上ったり下ったりと方向が分からなくなりますが、実はずっと一直線に進んでいるだけです。重力の向きが変わっただけです。

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引用:https://ameblo.jp/kosmosskene-biosparodos/entry-12312589774.html

このプロセスには元ネタがあるそうで「階段の書」という書物なのですが、実はイスラム教の死後の世界を描いた作品なのです。地獄の描写が似ていることと導き手がいることから影響を受けているのでは、と指摘する研究者もいます。

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引用:https://books.google.co.jp/books/about/Mi%CA%BFr%C4%81jn%C4%81ma.html?id=aPg2AQAAIAAJ&source=kp_cover&redir_esc=y

しかし、「階段の書」は現段階で日本語訳が無く、入手も大変そうなので読めていません。考察不足なのです。ただ訳者の原が言うには「神曲」とは逆の天国→地獄というプロセスらしいので、関連性は強いと睨んでいます。

 

死後の世界の概要を掴んだら、次はキリスト教の中心教義三位一体についてです。

 

三位一体教義

 三位一体教義については下の記事に説明があります。

dangodango.hatenadiary.jp

 

 では「神曲」どうなんだ、というと聖霊に関する描写がいくつかあります。しかし、視覚と聴覚がごちゃ混ぜになっています。つまりカトリックと同じ路線です。

天国篇第10歌冒頭から引用です。

第一の、言葉で言い表すことのできない御力は、

自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、

子を深く見つめることにより、

この場合、御力= 父、子=キリスト、愛=聖霊です。「自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、」は「父と子が発する生まれる聖霊を通じて」と言い換えることができます。

 

 三行韻詩

神曲」は全体を通して「三行韻詩(テルツァ・リーマ)」と呼ばれる技法が用いられています。

ja.wikipedia.org

 なんで「三行韻詩」を採用したのかというと三位一体教義を取り入れるためです。一つの組に三つの行が入っている。一なる神と三つなる神。

三行一組になっているばかりでなく、aba-bcb-cdcという風に組どうしで掛かっているようです。これを全100歌やるのだからダンテは凄い詩人です。反対にいうと、これだけでも作るの労力がかかるので物語の展開が単調になるのも仕方ありません。

 

そもそも詩は音楽に近い多義的な言語を扱います。つまり抽象的で意味ふんわりしている。しかし、ふんわりしたままでは困りますので形式に当てはめてコントロールしています。音楽でもソナタやロンドなどの形式がありますね。

 

全体構成

https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani15.pdf

https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani14.pdf

 

神曲」の構成研究は進んでいまして、上記の研究書は全体構成についてかなり詳しく解析してあります。著者は 慶応義塾大学の藤谷道夫先生です。以下では藤谷先生のお力も借りて進めていきます。

 

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通常、小説なんかですと物語の流れに沿って分割できるのですが、「神曲」は見学して対話しての繰り返しでストーリー性がありませんので、死後の世界の「場所」で分類します。

ここでも3編ともに3つに分類です。三位一体です。

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引用:https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani14.pdf

さらに、場所の数についても外部と内部で分類しています。地獄と天国は1+9=10個、煉獄は3+7=10です。煉獄だけはパターンが少し違うようです。

 各編それぞれの構成

 実は神曲三編には一貫して3と7の数字が頻出します。勘の良い読者ならお気づきですが、3+7=10という簡単な計算式です。10はキリスト教完全数です。そんでもって全歌数は100(=10×10)歌です。「神曲」は一貫して数学的構成なのです。

 

地獄篇

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主に3が頻出です。7も少し出てきます。

地獄篇で注目すべきは、第七圏と第八圏です。

 

第七圏は3つの小圏に分かれています。これは次の煉獄を意識してのことです。

第八圏は10の巣窟に分かれています。そのことが直前の第17歌の「10歩進む」で暗示されています。

 

煉獄篇 

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ダンテは七つの大罪をそれぞれ3歌ずつに割り振っています。いわば7×3の構造です。歌の途中で、次の環道に進んでいるパターンもありますが美しい構造です。煉獄篇のテーマ数7と三位一体の3を掛けています。この辺はさすが天才詩人です。

 

そして、そのことが直前の第17歌で暗示されています。

ダンテは煉獄門の前で胸を3回叩き、3つの段差を登って、天使から額に7つのPの印字をされるのです。かなり凝ってますね。

 

天国篇

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実は天国篇は地獄、煉獄と比べると構成力が弱いです。代わりにオカルトチックな世界観が前面に出ています。神の領域に入りかけているのです。数学という理性が弱まって信仰心が強まっています。

 

それでも、最後はきっちり締めようと思ったのか、第33歌のラストは数学的であり神秘的です。

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引用:https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani15.pdf

人間であるダンテと神の劇的なクライマックスです。といって神を見ることも聞くこともできませんので、イリュージョンが流れ込んでいるだけです。神を描くこと自体が異端になってしまいますから。

 

全部で22行あり、3行1組が7ペアあります。3×7=21です。天国篇のキーナンバーは10(=3+7)なので、3と7を使った数学的な構成です。

 しかし、最後の1行が余っています。気持ち悪いですね。気持ち悪いですが、この説明は後に回します。

 

 政治批判

神曲」の裏テーマとして政治批判があります。もっと言うと、教皇批判です。

ダンテが生きたのは共和制ローマの時代でした。共和制とは金持ちが主体となって政治を行う体制です。金持ちという言い方が下品なら市民といってもよいです。

ただ上手くいかなかったみたいで代わりにローマ教皇を立てる勢力(教皇党)と神聖ローマ皇帝を立てる勢力(皇帝党)が誕生し、対立しました。

Pope John Paul II Statue - Jerez de la Frontera : ストックフォト 

二つの勢力の争いの中でダンテも追放の憂き目に遭っています。そして政治もやっていた教皇の権力が膨張していました。というか宗教改革前の教会の権力なんてヒトラースターリンも真っ青の超絶権威なので、ダンテは相当度胸があります。

Equestrian bronze statue of Marcus Aurelius : ストックフォト

ダンテは教皇党です。しかし、宗教と政治はきちんと切り離すべきだと考えました。聖俗分離、政教分離です。ドイツからやってきた神聖ローマ皇帝がイタリアを救出し、政治を執り行うことを望んでいたのですね。派閥にとらわれないバランス感覚。

 

結果的にどうなったのかというと、教皇がそのまま力を強め、皇帝がイタリアを統治することはありませんでした。ダンテは天才詩人でしたが彼をもってしても世界の流れを変えることはできませんでした。ローマ帝国の復活なんか所詮ロマンでした。この辺は切ないですね。

 

しかし、その勇気は称えられるべきです。

当時の文学者はプロパガンダするのが普通だったようですが、ダンテは異議を発し金銭欲にまみれた教会及び教皇を非難しました。誰もが怖くて口に出せなかったことを書いたのです。例えば、独裁政権の圧政に苦しむ国の作家は「神曲」読んでその勇気に励まされたんじゃないでしょうか。

 

国語

ダンテはトスカーナ方言を用いて「神曲」を書きました。

当時は書き言葉と話し言葉が分離していました。書き言葉はみなラテン語でしたし、教養のある人間ならラテン語を使ってナンボ、という価値観が大勢を占めていました。

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現代において、「神曲」は権威ある歴史的な古典という扱いですが、当時はライトノベルの台頭と同じくらいの衝撃があったはずです。

 

何より俗語で書かれたことで民衆も読むことができました。以後、各地でバラバラだった言語が統一され、イタリア語の基礎となりました。国民意識の向上、つまり「国語」の誕生です。

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%AA%9E#%E6%96%B9%E8%A8%80

イタリアの国語を語る上で「神曲」は欠かせない存在なのです。

 

貨幣観

ダンテは金に目がくらみ汚職を繰り返す聖職者と大商人を地獄に落として糾弾しています。反対に清く貧しく信仰を貫いた者は聖人扱いです。

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地獄の第八圏第十巣窟(第29歌と第30歌)では、錬金術師を貨幣の偽造者として罰しています。ここで注目すべきは、第30歌のアダーモ博士とシノンの悪口合戦です。

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アダーモ博士はグイド伯爵家の命令で贋金造りに手を出して火刑に処せられました。シノントロイア戦争時のギリシャ人で、トロイの木馬でスパイとして活躍したことで有名です。地獄ではそれぞれ水腫患者と熱病患者になっているのが対になっています。

貨幣と言葉は先ほどの国語の話と深い関係があります。

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金属貨幣から紙幣へ移行するには国内での言語の統一が最重要です。貨幣とはつまるところコミュニケーションツールでして、言葉が通じないなら、貨幣の意味をなさないからです。

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引用:https://matome.naver.jp/odai/2155622226434432401?&page=3

順序としては通常言語→貨幣で発展していくようです。この「順序」をきちんと踏むことが大事でして、手順が前後すると大変な目に遭います。

 

では、「手順が前後する」とどうなるのかというとジョン・ローみたいになります。

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ローの失敗は言語の全国統一の前に紙幣を導入したことです。言語の統一がまだだったフランスでは、錬金術師のように見られていたと思われます。現にアダーモ博士は錬金術師だとして火炙りの刑で死んでいます。

 ハロウィーンの魔法を作るフード付きのコートを着て男 : ストックフォト

神曲」がイタリアの国語の基礎となったことは話しました。ということはダンテの時代には言語がバラバラであったということです。つまり、まだ紙幣を導入する段階ではない、ということです。そもそもペーパーマネーの概念すらありませんが。

 

ダンテがそこまで理解して通貨発行に否定的だったのかは分かりません。たぶん理解していなかったと思います。しかしジョン・ローのような失敗をしないという点では、結果的に正しい選択でした。

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これがローより数十年後、ダンテより数百年後のゲーテだと通貨発行を推進しています。実際に「ファウスト」はキリスト教批判が満載です。しかも主人公のファウスト錬金術師です。とはいえ神曲ファウストも教会を弾劾しているのでよっぽどだったのでしょう。

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キリスト教文化とギリシャ文化

西洋には二つの異なる文化があります。一つはキリスト教文化、一つはギリシャ文化です。二つの文化をなんとかドッキングさせようとしてきたのが古今の文学者たちです。

 ドストエフ スキー : ストックフォト

ゲーテファウスト」、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」はその代表例です。異文化のドッキングは大変しんどい作業のようで、それに挑んだ作品は傑作として評価されています。

 

しかし、ドッキングに成功したから物語の完成度が高いわけではないのです。傑作度と名作度は必ずしも比例しません。現にファウストの第二部はダラダラしていて面白くありません。(逆に第一部はスピード感あって面白いですね)

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 もっともカラマーゾフだけはどちらも両立できたようですが。

Pallas -Athene -Brunnen 、ウィーン : ストックフォト

ドッキングといっても二つの世界のキャラクターがごちゃ混ぜで登場するだけです。ヘラ、ユーノー、ミノタウロス、アケローン、オデュッセウス等々。ただし、格付けがあります。キリスト教キャラの方がギリシャ神話キャラよりも扱いが上なのです。現に、天国に行けば行くほどキリスト教キャラ多く、地獄ではギリシャ神話キャラの方が多いです。あくまでキリスト教ギリシャ神話を飲み込むという、上下関係があります。

 

時間観

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引用:https://mathwords.net/senbun

キリスト教の時間観は直線時間です。正確には、始点(天地創造)と終点(終末に千年王国が訪れる)があるので、「線分」時間なのですが。

 

しかし、時間は円環だと考えた方が自然です。日が昇って沈んでまた昇る。春夏秋冬が繰り返される。「時間」というものは回り巡るものです。

 かくいうギリシャ神話も円環時間を採用していまして、直線時間のキリスト教と矛盾が生じています。ドッキング作業の問題点ですね。ダンテもここの部分で相当頭悩ました気がしてなりません。直線時間と円環時間、どちらを採用するか。

 

結論から言うと、ダンテは答えを出せませんでした。

 

天国篇第10歌から引用します。

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天国篇では「10」が重要ですから第10歌は当然ウェイトが高くなります。ダンテの比喩で分かりづらくなっていますが、神の花嫁=教会、花婿=キリスト、愛=聖霊です。当時開発されたばかりの時計や「栄光に満ちた輪」から限りなく円環時間に近づいています。しかし、キリスト教の世界観も否定しません。つまり、どっちつかずです。

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1364年、パドヴァの天文時計

 

円周率

ところで、円というと「円周率」の話が必ず出てきます。中世の円周率は22:7で表すのが通例でした。メソポタミアの時代から現代まで数学者を悩ませてきた問題、それが「円周率の計算問題」です。3.14159・・・と続く数の終わりを発見しようと躍起になります。なぜ西洋人はそこまでこだわるのでしょうか。

 Launch of the new supercomputer "Hawk" : ニュース写真

スーパーコンピューターでも計算しつくせないのですから、やはり円周率は無限なのです。しかし、円周率を無限数と認めるとキリスト教に都合が悪かったのです。中世の学者はみな神学者でしたから。

 

彼らの問題点を洗い出すために、AパターンとBパターンのストーリーを用意しました。

 

A:円は神の被造物である→円にも神の真理がある→円環時間が本源的→線分時間の崩壊→神と人との契約も無効→信者離れる

B:円は神の被造物ではない→神以外に無限な存在がある→唯一神の権威失墜→信者離れる

 

円周率を無限数と認めるとA、Bどちらもキリスト教教義の崩壊を招いていしまいます。だから何としてでも円周率の終わりを計算する必要がありました。まあ知的好奇心もいくらかあったのでしょうけど。

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引用:https://style.nikkei.com/article/DGXMZO80396050S4A201C1000000/

ダンテは詩人なので計算はできません。

では、いかにして「キリスト教と円周率」の問題に立ち向かったのか。天国篇第33歌ラストに戻ります。全体を構成していた三行韻詩のことも合わせて思い出してください。

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引用:https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani15.pdf

ここで、中世の円周率が22:7であることを踏まえると、

詩行:三行韻詩=22:7

となります。

神の完全数10と三位一体の3を引くと7が出てきます。

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「7」という数字はキリスト教と円周率を結ぶ架け橋だったのですね。そして、ダンテの提示した時間観は「時間は直線的でもあり円環的でもある」です。二つの矛盾した価値観の両立とも言えますし、結論出せなくて中間策に逃げたとも言えます。無理のあるドッキングです。

 

 イスラム

dangodango.hatenadiary.jp

神曲」誕生にはイスラム文明の存在が欠かせません。にも関わらず、ダンテはそのことを隠そうとしています。あろうことか、ムハンマドを 地獄に堕としています。イスラム社会への恐怖からくる反発心です。

 

まとめ

 こうしてみると「神曲」という作品は二つの矛盾したものを両立させるという意志にあふれているのが分かります。皇帝と教皇キリスト教文化とギリシャ文化(直線時間と円環時間)、三位一体と円周率、視覚と聴覚、貨幣と言語、信仰と理性.....

 

こういった志は必ずしも成功したわけではありません。中世クオリティのドッキングですので、地獄のキメラのようなグロテスク感があります。しかし、困難に立ち向かうダンテの姿勢は素晴らしいですし、後世の西洋人も尊敬の念を込めて読み継いでいます。

 

2020年冬アニメ感想 その2

マギア・レコード

まどマギの派生作品。スマホアプリが原作らしい。脚本は虚淵玄ではなく劇団イヌカレーであった。劇団イヌカレーさんを存じあげないのだが、宮沢賢治を匂わせるシーンが序盤にいくつかあった。第一話のモノレールが三陸鉄道もっと言うと銀河鉄道チック。カフェかなんかの窓にの名前にゴーシュ文字。駄菓子屋のイサド→「やまなし」のイサド。などなど。やたら賢治用語が多かった。

 

まどかとほむらの関係性はジョバンニとカムパネルラに似ているが、その精神を継承しているのか。最終回かと思いきやまだまだ続くようなのでどうなるか分からない。

 

ゲーム原作だからなのか、やたらキャラがバンバン出てくるのでどうしてもストーリーが薄くなっている感じがした。正直、まどマギ本編より面白くはない。

 

Re:ゼロから始める異世界生活(新編集版)

数年前に人気を博した通称「リゼロ」。本来1話30分だが、新編集版ということで2話をまとめて60分で再放送していた。ラノベ原作ということもあって、流行りの異世界転生から無双モードのアレなのかなと思いきや真逆の路線で驚いた。

わざとらしい芝居がかった言い回しや主人公の子供じみた怒り、斜に構えた態度など見るに耐えない場面はあったが、かなり戦略的で野心のあるアニメであった。

 

この作品については気になることが多かったので、後日記事にする予定。

 

 ・劇場版SHIROBAKO

ぶっちゃけテレビ版より感動しなかったのだがそれでも良いなと思ったシーンがある。

 

宮森が仕事帰りに踊り出すシーン

なんかノリとテンションがクレヨンしんちゃんの「メイド・イン・埼玉」に感触似ていた。水島監督の初監督作品なので思うところがあったのだろうか。

 

ラストの劇中作アニメシーン

このシーンのBGMの出だしが、これまたクレヨンしんちゃんのオトナ帝国の「21世紀を手に入れろ」に似ている気がした。最も似ていたのは最初だけだったのだが。

 

この映画、全体的に哀愁が漂っているのだがオトナ帝国を意識していたのだろうか。監督は原恵一だが東京タワーを駆け上るあのシーンは水島監督が担当だったような。うろ覚えである。

 

個人的には深い感慨があったが納得できない点もいくつか。とりあえず新キャラの宮井楓がメインになっていること。そんなに佐倉綾音を出したかったのかと邪推してしまう。

 

まあそういう大人の事情も含めてSHIROBAKOらしいと思ってしまったので何も言えない。哀愁を振り切って前向きな気持ちになれたので良かったのである。

 

テレビ版SHIROBAKOがなぜ優れているのかは下のページを参考

 

matome.naver.jp

matome.naver.jp

 

トマス・アクィナスの功罪

絶賛、「神曲」解説書いている途中なのですが、あまりにも長くなりすぎたのと整理の意味も込めてPart2

 

前回、三位一体教義について簡単にまとめました。

dangodango.hatenadiary.jp

 

前回はプロテスタントのことまで触れて終わったのですが、その前にトマス・アクィナスとスコラ哲学について書きます。

 

トマス・アクィナス

 神曲トマス・アクィナスの「神学大全」から影響を受けています。もちろん、すべての点でダンテはトマスに賛同しているわけではないのですが方針は一致しています。

 

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引用:https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/carlo-crivelli-saint-thomas-aquinas

では、その方針とは何なのか。

カトリックアリストテレス哲学の融合」です。

 

 

スコラ哲学

詳しい説明は省きますが、神学者たちの中でキリスト教と哲学の融合は行われていました。具体的には、カトリックプラトン哲学の融合です。2~8世紀ぐらいの話です。そして生まれたのが教父哲学です。アウグスティヌスが有名ですね。

神の国 上 (キリスト教古典叢書)

神の国 上 (キリスト教古典叢書)

 

 

要するにキリスト教を哲学で補強することで正当性を高める戦略なのです。ギリシャ哲学でキリスト教の権威を高め、異教に信者を取られないようにしていました。

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%A9%E5%AD%A6

この宗教と哲学を混ぜる流れが強まってできたのが「スコラ哲学」です。英語のschoolはスコラが由来だそうです。では具体的に「理詰めでキリスト教について考える」をやるにはどうすればよいのでしょうか。

 

そこでスコラ学者が注目したのがアリストテレスです。

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右のヒゲがアリストテレスで、左のヒゲがプラトンです

アリストテレスプラトンと比べると理性的、科学的な態度であると知られています(というか今日の自然科学はアリストテレスから始まりました)。その活動の最たるものがトマス・アクィナスの「神学大全」でした。

 

ダンテもこのトマスの路線を採用しています。「神曲」には形相や質料といったアリストテレス哲学の用語が出てきますし、何より数学的な全体構成が理性を注入しようという意志にあふれています。

 

融合路線失敗?

 

しかし、どうもこの路線、カトリック的には失敗だったのではないでしょうか。

 

信仰と理性の融合、なんて聞こえはいいですが理性が発展する、論理的思考能力が養われてくると既存の信仰に疑問を持つ者が現れます。「今のやり方は神の教えに従っているのだろうか」「そもそも神はいるのだろうか」と。教会に逆らい始めちゃうんですね。

 

そして16世紀に入ると宗教改革です。ということはカトリックの分裂、プロテスタント誕生の戦犯はトマス・アクィナスです。トマスはスコラ哲学を完成させ、カトリックの権威向上に貢献しましたが、アリストテレスをくっつけたことはまずかったです。まあそれ以上に、教会は金に目がくらんで相当腐敗していたようですが。

 

アリストテレスは「世界に始まりも終わりもない」と主張したのですがトマスはこれを「論理的に反駁できない」と発言し、断罪されています。「始まりも終わりもない」ということはループ時間ですから直線時間のキリスト教から離れています。トマスも薄々円環時間が本源的であると気づいていました。

 

というか「オッカムの剃刀」なんかプロテスタントどころか無神論に近づいています。なんせ神の存在を記述から省いているわけですから。オッカムはスコラ哲学の所属です。カトリックにとってアリストテレス哲学を混ぜたのは、長期的に見て失敗だったのです。

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0

 

イスラム

 ところで宮崎市定曰く、「プロテスタントキリスト教イスラム化」だそうです。なるほど聖典主義、聖職者なし、偶像崇拝否定など共通点は多いです。

 

 

正教はキリスト教の教えを忠実に守っていますがそれ故にイスラム教の勢いに負けています。つまりカトリックしかイスラムに対抗できていない。これは非常にまずいです。キリスト教が、西洋がイスラムに飲み込まれてしまうことを当時の人々は恐れていたはずです。

 

そもそもルネサンス以前の西洋社会はイスラム社会に大きく遅れを取っています。

例えば、紙です。イスラム世界では8世紀ごろには紙を使った文書記録が始まっています。それに対して西洋社会が紙を使い始めるのは12世紀です。400年の遅れです。

 

さらに、ダンテは「神曲」を執筆する際、紙ではなく羊皮紙を使用しています。つまり14世紀初頭のイタリアでは、紙の使用はさほど普及していなかったということです。

ja.wikipedia.org

 

イスラムついでに、先ほど紹介したアリストテレスも実はイスラム圏からの輸入でした。アリストテレスギリシャ人ですからギリシャ語で書いています。普通はギリシャ語→ラテン語経由で彼の著作を読んでいる、と想像します。

 

ところが、ダンテが読んだのは、アヴェロエスという人物が注釈したアリストテレスの著作でした。アヴェロエスAverroes)という名は通称でして、本名はイブン・ルシュド(أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد)です。アラビア語ですからイスラム圏の人です。

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ラファエロアテナイの学堂」より

スペインのコルドバ生まれのようですが、この地方は8世紀ごろにイスラム教徒(後ウマイヤ朝)に支配されるとイスラム文化が大量に輸入されました。教会とモスクが融合したメスキータはその代表例です。

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後ウマイヤ朝が滅びるとこれまたイスラム教のムワヒッド朝が支配します。アヴェロエスはこの王朝でお医者さんとして仕えていたようです。

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引用:「世界の歴史まっぷ」

 

ということで、当時のアリストテレス哲学はアラビア語からラテン語に翻訳されたものでした。どうもローマ帝国が崩壊してから、アリストテレスは忘れ去られたらしく、代わりにイスラム学者が大切にしていたようです。大切にするばかりでなく、彼の哲学から数学や化学などの自然科学の学問を発展させることにも成功しています。

 

こうしたイスラム文明の知見を、イスラム教徒から吸収することで、西洋はルネサンスでの飛躍に繋げることができました。西洋文明の発達はイスラム世界のおかげ、といっても良かったはずです。

 

イスラムへの恐怖

 

にも関わらず、「神曲」ではイスラム教徒は地獄に堕ちています。特にムハンマドは第八圏第九巣窟で顔を裂かれています。グロいです。またダンテは先ほどのアヴェロエスの考え方にも反発しています。参照しているにも関わらず、です。

 

そもそもなぜダンテはキリスト教中心の世界を描き、イスラム教やその他の異教を排除しようとしたのでしょうか。

 

「時代的にそう考えても仕方なかった」

「ダンテの無知がイスラム教徒の迫害を助長した」

 

これらは西洋中心の歴史観で産まれた意見です。だいたい今日の世界史は西洋人が作ったのだからそう考えても仕方無いのですが本音は違います。

 

西洋人はイスラムに恐怖しています。

 

警戒しているなどという上から目線の態度ではなく、はっきり恐れているのです。イスラムの教えが西洋に蔓延したら、必ずキリスト教は飲み込まれ、西洋はイスラム化する。

 

そもそもキリスト教イスラム教は兄弟宗教なので似通っていて当たり前なんですが、行動理念や信仰の面から言っても、一神教としての完成度はイスラム教の方が上なんですね。しかも文明のレベルではるかに遅れを取っている。同じ土俵に立ったら、キリスト教イスラム教に負ける。その自覚があったから何回も十字軍を送りました。

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十字軍のコンスタンティノープルへの入城 ドラクロワ

その一方で、文明の発展のためにイスラムの知見を積極的に利用もしています。もちろん表立ってそんなことを言えば、キリスト教の沽券に関わるのでばれないようにやっています。だからイブン・ルシュドもアヴェロエスというラテン語の名前で紹介されています。恐らくですが、彼以外にも大量のイスラム学者がイベリア半島経由でヨーロッパに潜入していたと考えられます。毒を以て毒を制す、じゃありませんけど、さすがはヨーロッパ人。とても強かです。

 

日本が西洋文明を吸収しながらも必死に日本独自のアイデンティティを模索したように、西洋文明もイスラム文明を吸収しながら必死に独自のアイデンティティを確立したようです。もっとも感謝するどころか迫害を加えたのはまったくいただけないのですが。

 

ダンテの時代にはプロテスタントはありませんでしたが、プロテスタント化する兆しは「神曲」には含まれていました。地獄のリアリティある情景描写もさることながら、うめき声や聖歌など音に関する描写も多いのです。西洋(主にカトリック)は目の文明で、イスラムは耳の文明です。視覚を前面に押しながらも聴覚も混じり込んでいる、というのが実態です。

 

神曲」という邦題は森鴎外の翻訳です。原題から考えると誤訳もいいところなのですが、こうした事情を鑑みるとあながち悪いタイトルでもない気がします。といって鴎外がそこまで神曲を読めていたとは全然思えないのですが。

三位一体教義について

絶賛、「神曲」解説書いている途中なのですが、あまりにも長くなりすぎたのと整理の意味も込めて三位一体教義について簡単にまとめます。

 

三位一体について、下の記事の中段辺りで説明をしました。

dangodango.hatenadiary.jp

簡単に言いますと、キリスト教の神は父・子・聖霊の三つが一体となっている、という教えです。とても大切な教義です。正直、聖書よりも重要度高いです。なんせこれを外すと異端審問にかけられて殺されるか、追放されますから。

 

非クリスチャンで日本人の私にはなんで重要なのか分かりません。といってキリスト教徒の方を責めているのではありません。理解できないのは私に信仰心が無いからなのです。

しかし、分からないなりに考えてみると、どうも三位一体は人間の知覚世界を表しているようです。

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父(なる神)は脳、子(=キリスト)は視覚、聖霊(=鳥)は聴覚を表しています。この三つが付かず離れずの状態になっているのがキリスト教の神の特徴です。

ところが、1054年に東西分裂が起きておりキリスト教カトリックギリシャ正教に分かれてしまいました。

ja.wikipedia.org

そのとき最大の争点になったのがこの三位一体の解釈です。具体的には、「聖霊は父のみから発するのか、父と子から発するのか」という議論です。

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ぶっちゃけ整合性で考えれば正教の方が正しいのです。ただルールが厳しい。正教が力を持った東方ローマは地理的にイスラム圏と近かったのですね。このままではイスラム教の勢いに負けてしまう。

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引用:https://33635090.at.webry.info/201301/article_1.html

例えば、正教のイコンなんかは平面的で抽象的な絵です。偶像崇拝に否定的だった影響で立体的な彫刻などはありません。

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3

もちろん、イスラム偶像崇拝否定なのでムハンマドの顔は描きません。

 ムハンマドの顔は何故描かれないのか | 雑学サークル

 

実は正教のやり方だとイスラム教に飲み込まれてしまう危険性があったのです。その危険性に気づいた人々がカトリックになったということが考えられます。結果的に東ローマはオスマン帝国に滅ぼされています。

 

カトリックの方はより普遍的というか緩いんですね。子=キリストのウェイトが高すぎるせいで視覚と聴覚がごちゃ混ぜになっています。悪く言うとガバガバです。論理に敏感な人はこの辺が許せないはずです。

 

しかし、メリットもあります。それは「精緻な視覚表現の発展」です。

例えば、ルネサンス期の絵画を見ますと細部まで描写がしてあってリアルです。冒頭のミケランジェロの絵も大変リアルです。

 5分で分かる! 「モナ・リザ」はどこがすごいのか? - ねとらぼ

さらに、立体的な彫刻まで創造しています。下の画像はピエタのマリアです。こちらもリアルです。ロダンの彫刻なんかも大変リアルですね。

 ミケランジェロの彫刻1:ルネサンス美術 - 続 壺 齋 閑 話

リアリティある表現、つまり視覚のウェイトが高い。三位一体の中でもキリスト=視覚の存在が強いカトリックならではの文化が生まれました。

 

ダンテはローマ・カトリックの人なので「神曲」もその一つです。地獄の生々しい描写の数々、楽園の常春のような情景はガバガバ教義の賜物なのです。

 

それから16世紀に宗教改革が起こり、カトリックが分裂してプロテスタントが誕生します。

Martin Luther : ニュース写真

 

とはいえ、プロテスタントカトリックから分派したので三位一体も同じです。聖霊は父と子から発する。プロテスタントの特徴は聖職者ナシ、聖典重視、偶像崇拝否定なのでかなりイスラム化していますが、そのことについてはまた別の記事で。

映画「日の名残り」感想

日曜日を使って「日の名残り」を見た。読み解きする体力は無いが、ずらずらと書くだけ書く。

 

アンソニー・ホプキンスの演技は素晴らしく、音楽も格調高い。だがそれ以上に極めて政治的な作品ともいえる。

 

fufufufujitani氏が指摘するように「日の名残り」の主題はブレグジットであるが、さらに踏み込んで「アメリカへの警戒」が挙げられる。

 

ティーブンスの主人はダーリントン卿だったが彼がナチスびいきのレッテルを貼られて死んでからアメリカ人のルイスが新主人になっている。

 

原作だとこの新主人の名前はファラディ氏になっている。

 

あと序盤でスティーブンスの父が執事の品格にまつわる虎の話をする。これは明らかに不自然である。内容はこうである。

 

「ある日、執事食卓に行くと虎が下に潜っていた。執事は騒ぐことなく主人に虎の射殺の許可を願い出る。間もなく、三発の銃声が聞こてきた。その後、主人に問われた執事は『夕食までにはあらかた痕跡は消えているでしょう』と答える」

 

だいたいこんな感じだったが、恐らくこれはケネディ暗殺を暗示している。

 

youtu.be

 

ケネディの就任演説。4:21くらいから「愚かにも虎の背に乗って権力を欲した者が虎のエサになってしまった」という文言が出てくる。

 

そして「三発の銃声」というのはケネディ暗殺のときの三発の銃弾であり、「あらかた痕跡を消した」というのは犯人をオズワルドに仕立て上げ、真相を闇に葬ったことを意味している。ちなみに虎とは共産主義者ソ連)のことを指している。

 

恐らく新主人のファラディという名前もJohn Fitzgerald  Kennedyをもじったものだと察しが付く。

 

ただスティーブンスが乗っていた自動車はドイツ車のダイムラーである。これがケネディ暗殺時のリンカーン・リムジン、つまりフォード車だったら面白いのだが。原作読んでいないので分からない。

 

となるとキューバ危機のこととかも出てくると思われるがそこまで解読できる体力がなかったので以上である。

 

あとはちょこちょこ出てきたドアの覗き穴のシーンやラストの鳩が飛び立つシーンなどから「ニーベルングの指環」も下敷きにしているのかな、と思ったがイマイチ確信が無い。ただダーリントン卿は第一次大戦後のドイツを救おうと奔走するし、通貨問題が議論になるシーンもあったのであながち的外れでもない気がする。

 

カズオ・イシグロはジョセフ・コンラッドの後継者みたいな作家であり、そのコンラッドの「闇の奥」はニーベルングを下敷きにしている。もっともコンラッドはあまり通貨発行権を取り上げていなかったような。

matome.naver.jp

いずれにしても深く掘り下げるなら原作を読んでからでないとダメである。映画は良いけど色々忖度をしている可能性がある。だから、いつか読むであろう。いつか、多分、きっと読むかも。

 

2020年冬アニメ感想 その1

実は深夜アニメ視聴してたので感想書いておく。

どうもアニメを見る体力が衰えているらしく、2020年冬アニメは6本(うち劇場版アニメが1本)のみとなる。寂しいかな。

感想長くなったので半分に分けて記事アップしていく。

 

ドロヘドロ

今期一番楽しみにしてた作品。原作全巻読んだくらい好きだったりする。退廃的な「ホール」の街並みとキャラ同士の軽妙な掛け合いが堪らない。何が堪らないのかは自分でもよく分かっていない。3Dアニメなのでのっぺりしてしまうのかと思いきやそこまで気にならず。

1クールで原作の1/3も消化していないので2期をやってくれると信じて待つ。

 

・映像研には手を出すな!

こちらも原作少し読んだ作品。女子高生三人組がアニメ作るのだが細部へのこだわりが強い。芝浜高校とその周辺は古代文明の跡地のような雰囲気が出ている。なんだか設定資料集みたいなアニメであった。

 

妄想世界へのトリップシーンなど湯浅監督との相性は抜群だったと思われる。音楽の高揚感もあって面白かった。他にも宮崎駿押井守タルコフスキーなど巨匠たちのオマージュがちらほら。

 

ただなんでオマージュしたのかがイマイチ謎だった。

主人公がアニメ作りをするきっかけになった「未来少年コナン」は良いとして、第1話の「ソラリス」の水草とか第8話の「ビューティフルドリーマー」とか(文化祭だから?)、なんで下敷きにしたのか目的が不明なオマージュが多かった印象。自分の感性が鈍いだけかもしれないが、形だけ真似しているようでならない。

 

名作を下敷きにするのは目的があってすることである。徹底的に読み解き、主題や全体構成を理解した上でその作品と同等もしくはそれ以上の作品を作らなければならない。ということは宮崎・押井クラスのアニメを作らなければならない、というプレッシャーを感じる。実際そんなことはできないのだが、そのくらいの覚悟は求められる。しんどい。しんどいのである。

 

だから大抵の創作者は安易にオマージュをしないし、やるとしてもバレないようにする。それは賢明な判断である。別にそんなルールは無いのだが腰が引けてしまう。

 

と、ここまで書いてきて、なんとなく今敏の「千年女優」と方針似ている気がしてきた。現実と妄想が入り混じる感じそっくりである。もしかすると「アニメ好きによるアニメ作りのアニメ」というテーマを堅固にするために、大量のアニメ作品オマージュを配置したのではないか。

ただそれはアニメに限った話なので、原作漫画がどういう方針なのかは依然として分からず。

 

・恋する小惑星

髪色が個性的なのにキャラを覚えるのに時間がかかった。キャラが没個性的なのか自分の記憶力が衰えているのか原因は分からないが、とにかく印象が薄かった。作品がダメというか自分の脳みそが老化して楽しめなくなったのではないかと思って悲しくなった。

 

淡々とストーリーは進行していき、気がつけば先輩は卒業して新入生が入部して石垣島に行って、というところまでやって終わってしまった。このまま加速度的に物語が進行していくと、2期では大学卒業、就職まで決まってしまうのでは。それはそれで見てみたいものである。

と、嫌味を言ってみたが新鮮さを感じもした。

女子高生の日常を扱うアニメは大抵のっぺりした時間スピードだが、サバサバと進んでいく。その分感動も希薄になってしまうが。

 

MVみたいなEDは好きだったので毎回飛ばさずに視聴した。あと街や部室の風景をバックにLINE画面を切り抜いて写すのは今後も流行っていくと予想(とっくに導入されてたらごめんなさい)。スマホの画面アップにしたり、いじっているキャラの姿映しても味気がない。切り抜いて背景に映したほうが面白い。

 

その2へつづく

 

「トニオ・クレーガー」追記 その3

新型コロナウイルスの影響で混乱が生じていたがようやくブログの更新ができる。

 

まるでペストの如き、猛威を振るうウイルスの前に戦争前夜のような生活が続いている。ペストと言えばトーマス・マンの「ベニスに死す」でもペストが出てくる。

dangodango.hatenadiary.jp

 

と、宣伝だけしておいて今回話すのは「トニオ・クレーガー」の方である。

dangodango.hatenadiary.jp

あらゆる作家・批評家・研究者が指摘するようにトニオの主題は「芸術と市民」である(正確には「芸術家と市民」)。では芸術家とは何か、市民とは何か、という疑問を考えねばならない。

 

芸術家は分かる。いわゆるインテリで芸術をありがたがり、現実で真面目に生きる人を見下している連中ことである。金を軽蔑する=金の心配がないので、連中は全員金持ちである。世間知らずのお坊っちゃん

 

では市民はどうかというと、実はこちらも金持ちなのである。ハンス・ハンゼンは材木屋、インメルタールは銀行頭取の息子である。他の登場人物も弁護士のお嬢さんとかそんな連中ばかりである。当然トニオも例外でなく、彼の父は名誉領事(地元の名士が務める)である。

 

なんだか書いていて腹が立ってきた。なぜ腹が立つのかというと、それは私が芸術センスのない庶民だからである。私だって芸術家にも市民にも属してないからトニオ・クレーガーのはずだが、お金持ちではないので仲間はずれである。

 

ついでに、日本では市民というと一般庶民を想像してしまうが、西洋の市民は「商売でのし上がった金持ち」である。共和制牛耳ってたのもこの連中であると思われる。この辺は言語のニュアンス問題であるので注意しないと勘違いしてしまう。

 

今日、トーマス・マンは時代遅れの作家である。100年近く前の外国人なので当たり前なのだが、例えばほとんど同級生のヘルマン・ヘッセはかなり日本で読まれている。「車輪の下」は自分も子供の頃読んだし、「デミアン」は「少女革命ウテナ」で引用されたことで有名である。

 

「芸術と市民」の最大の欠点はどちらもブルジョワであり、それより下の労働者階級や庶民にはあまり関心がないことである。というか庶民は馬鹿だと見下している(その後のドイツの末路を考えればその通りかもしれないが)。19世紀ならそれで通用したのだろうが激動の20世紀には対応できない。現実味がないのである。観念の遊戯だし、戦争の時代から絶望的に置いていかれている。

 

彼は第一次世界大戦後の1929年にノーベル文学賞を取る。54歳の受賞は今でも若いくらいだが、既に時代遅れの老作家のような認識をされていた、というのが私見である。当時は、塹壕戦での悲惨な体験をもとに「西部戦線異状なし」を書いたレマルクと弾丸が命中しても戦い続けたユンガーなどが最先端の文学者であり、彼らは悠々と亡命生活を送っていたマンとは現実に対する姿勢がまるで違う。

 

訳者の実吉捷郎が言うように、こんにちの一体どこにハンス・ハンゼンやインゲがいるのか、という批判をぶつけなければならない。とはいえ「トニオ・クレーガー」がソナタ形式で構成されていることもニーチェ哲学を体現させていることも指摘できなかった日本の研究者たちにそんなことを言う資格はないのだが。

 

結局、堀や太宰、三島など戦前生まれの作家が真剣に取り組んだだけで、たいして受容されないままカフカ・ブームを迎えてしまったというのが日本のトーマス・マン受容の現実である。