怠惰
7月が終わってしまう。
2018年6月から「魔の山」読み解き開始して2年が経過した。ここまで来ると、「よし、読み解けた!」というよりも「もうこの辺でよしとするか」という諦観に至る。あと少しで手が届きそうな感触があるのだが、どつぼにハマる気もする。
正直、一人で溜め込んで頑張るよりさっさとアップしてしまって、同志に意見を伺った方が早いんではないかと思い始めたのが、今年の1月くらい。
しかし、不十分なまま出すのもどうかな、と考えあぐねている内にコロナ禍が世界に吹き荒れ、周囲が慌ただしくなった。腰を据えて読んでいる余裕がない。梅雨はまだ明けない。思考の雲行きもまだ晴れない。まさか、主人公ハンス・カストルプと同じく7年もそんなことをする訳にはいかないのでぼちぼち記事の作成を開始する。
そもそも初読に半年も掛かった作品である。ただ長い、だけでなく内容も退屈で難しい。読破してからエクセルでいじり始めて2回目読み始めて、という感じで行った。
その間、他のことには目も暮れず一心不乱に取り組んだ、というわけではなく別の本読んだり、アニメ見たり、普通にダラダラしていたのである。要するに怠慢が諸悪の根源なのだ。しかし、真面目に根詰めてやったところで挫折するのは目に見えている。
読み解きノートみたいなのを作ってみた。考えたことや会話の流れなどをとにかく書きまくった。しかし、あまり役に立たなかった。結局、エクセルで表作って印刷して、定期的にちらちら眺める方が効率も精度も良さそうだ。頑張った割に効果が薄い。
そういえば「私の京アニ史」というシリーズが途中で放ったらかしになっている。こちらは最初からダラダラ書いていくつもりで始めたのだが、ダラダラ書いている内に世界が激変してしまい、書き始めた当初から心情がかなり変化してしまった。これは本当に困った。放棄するのはあんまりなので続けるつもりだが、これも長く書くことの弊害なのだろう。
トーマス・マンも「魔の山」書いているときに、ちょうど第一次大戦が発生した。本人戦争に行ったわけではないが相当苦労したであろう。
とりあえず、書き始めてはいるのでいましばらくお待ち下さいませ。全然更新できていなかったので、一応報告がてら。
「ブリキの太鼓」感想
映画「ブリキの太鼓」を見た。監督はフォルカー・シュレンドルフ、原作はギュンター・グラスの同名小説。
昔、深夜にテレビを付けたらたまたま放送していた記憶がある。怖いというかグロいというか、とにかく気持ちが悪くて二度と見ないだろうと思っていたが見た。
具体的にどう気持ち悪いのか。例えば、
主人公オスカルとオスカル母アグネス、アルフレート、ヤン・ブロウンスキの4人で海岸を散歩するシーンがある。
アルフレートとアグネスは夫婦であるが、彼女は従兄のヤンと不倫している。もしかするとオスカルの父親はヤンかもしれない。さらに現在ヤンの子を妊娠中、そういう関係である。
バルト海の砂浜を歩いていると漁師がいる。話を聞くとウナギを獲っている。引き揚げてみると腐った馬の頭からウナギがニョロニョロと飛び出している。目や口からニョロニョロと。アグネスは嘔吐する。しばらくウナギ食べられなくなるトラウマシーンである。
気持ち悪いシーンであるがメッセージが込められている。
漁師の老人のセリフ「一番大漁だったのは第一次大戦中で、海戦で沈んだイギリス海兵を食べて鰻がよく育った時だった」
このシーンの後、アグネスは発狂して魚を生で食らいまくり、自殺する。お腹の子と一緒に。
ここでは、鰻=オスカル、馬=アグネスある。鰻は北海、バルト海の主要産業であり、ダンツィヒ=オスカルである。イギリス海兵を食べて太った鰻が取れた=第一次世界大戦において連合国側の勝利で形式上、独立国になれたことである。馬の頭から鰻が飛び出ているのは、オスカルの暴走が母親の精神を食い破っていることを暗示している。
さらに、別のシーンでアグネスはオスカルを連れて教会に不貞を懺悔しに行く。このときオスカルはマリアに抱かれたキリスト像に太鼓を持たせ「できないのか!それともやる気がないのか!」と叫ぶ。これは教会がナチスに抵抗せず従っていたことを揶揄している。
また、キリストに太鼓を持たせていることから、キリスト=オスカル、聖母マリア=アグネスである。アグネスの死後、後妻にくる少女の名前はマリアである。
アグネスはお腹の子が次なるオスカルになって、鰻のように自身を食らいつくされる恐怖を克服しようと、強迫感情で魚を食べまくるが、結局自殺する。マリアはアグネス二号なので復讐心からオスカルをビンタする。
こんな気持ち悪い映画であるが、優れた点は二つある。一つはオスカル役ダーフィト・ベンネント少年の怪演、いま一つは音楽である。
オスカルは産まれたときから全能の力を持っていたが、3歳の誕生日にブリキの太鼓を貰い、周囲の大人たちの姿(三角関係の両親たち)に幻滅して成長を止める。代わりに叫び声を上げるとガラスを割る能力を得る。
この捻くれた冷笑的な少年の表情は一級品である。ドイツ、ポーランド、カシュバイ、ユダヤなどの様々な人種が住むダンツィヒの歴史は複雑である。この内の誰かを主人公にしても一面的になってしまう。歴史の見方に偏りが生じてしまう。この複雑怪奇な歴史を描くには怪奇的な少年を語り手にするしかなかった、という算段である。
オスカルは悪魔的行動で周囲の人間を不幸にする。いい年なのに太鼓を叩いて道化になっている、16歳のマリアとのセックス、父アルフレートの膣外射精を邪魔してマリアを妊娠させる、アルフレートとヤンを間接的に死に追いやる等キリがない。
音楽について。この映画はやたら音楽が鳴っている。オスカルの太鼓、ラッパ吹き、母のピアノ。ドイツ人は本当に音楽が大好きなのであろう。
劇中でピアノの上に飾ってあるベートーベンの肖像画をヒトラーに取り替える。第二次大戦でドイツ降伏後、アルフレートは「やはりベートーベンは天才だ」と言ってヒトラーの肖像画を焼く。散々、ナチスに心酔していたアルフレートの手のひら返しもひどいが、ベートーベン→ヒトラー→ベートーベンとなっている。これにはドイツのロマン主義に対する批判も込められていると考える。
グラスの大先輩にトーマス・マンがいる。彼はマンのこと尊敬してたらしく、亡くなったときリューベックにいた。
マンの最後の長編である「ファウスト博士」では、天才作曲家レーヴェルキューンが自作を演奏する瞬間に発狂して、そのまま正気に戻ることなく死ぬ。曲のタイトルは「ファウスト博士の嘆き」。ゲーテ「ファウスト」の聖女の救済を否定し、ベートーベン交響曲第九番「歓喜の歌」も否定してしまう。つまりロマン主義の否定である。
マンの文体というのは実はドイツらしくない。執拗に写実的で、執拗に科学の専門用語を乱発する。文体に関してはゾラとかフローベルとかのフランス自然主義である。もちろん本人はワグネリアンなので本質的にはロマン主義の人なのだが、ロマンをロマンとして描かない、ロマンそのものを描かずに間接的に表現する。
要するに、マンは自分の最も愛するものを自らの手で否定したのである。とはいえ、二度の大戦とも従軍せず悠々自適の亡命生活を送ってた人間にナチス・ドイツの悲惨さなど描けるはずもなく、所詮は観念の遊戯であるに過ぎない。天才も老いる。
戦争体験の話で言うと、ギュンター・グラスはナチスの親衛隊に入って戦車の砲手をしていた(この事実は世界中でバッシングを受けた)。つまり、マンには出来なかった戦争のリアルを描くことができる。もっとも現実を知っているあまり、ロマンに逃げられないのが辛いところである。作風もグロテスクにならざるを得ない。もはやドイツ文学はロマン主義に回帰し得ないのか。
それでもロマン主義の片鱗が出てくる。ナチスの集会シーンである。
最初、市民たちは軍歌を演奏しているが、オスカルの太鼓にテンポを乱され「美しく青きドナウ」の有名なワルツにつられてしまう。ナチスの厳粛なパレードが一転して舞踏会に様変わりする。小さな抵抗でもこれだけ人を動かせる、とも解釈できるが、ドイツのロマン主義が発露するとともに、大衆の日和見的な態度、軽々しく鞍替えする姿勢を皮肉った名シーンである。
こういう非政治的で日和見的な市民の態度がナチスの台頭を許したとして批判している。しかし、この映画を傑作たらしめているのはこのシーンであり、ナチスの軍歌であり、ヨハン・シュトラウス2世である(オーストリアとドイツは民族的には同一である。日本でいう京都と東京の関係)。ナチスの犯罪によって、仕方なく封印しているが、本当はロマンが大好きでたまらない、というのがドイツ民族の本音ではないか。
「帰ってきたヒトラー」はこの姿勢を継承しつつも連合国側にかけられたナチスの呪いを脱却しようとしている。「ジョジョ・ラビット」に関しては監督がニュージーランド生まれのユダヤ人である。ドイツ人には決して描けない。
オスカルの本当の父親がアルフレートなのかヤンなのか分からない=ドイツ人なのかポーランド人なのかアイデンティティが分からないダンツィヒ市民であり、父の分からないキリストである。父が不明(信仰が不安定)、聖母は不貞に走り、キリストは醜い小人と化している。ナチスに対して抵抗しなかった教会を批判している、というところまで考えた。正直、1回見ただけではなんとも言えない。
ブリキの太鼓を読み解けば、現代のドイツ文学が色々分かってくるだろうが、順序的にトーマス・マンをやってからの方が良さそうである。原作もアホみたいに長いので正直やりたくないし、もっと言うとあまりにも政治的すぎて面白くない。こういう読者の姿勢も非政治的で批判の対象なのだろうが。
神曲 追記その2
解説ではあまり触れなかったが「神曲」では鋭い政治批判が展開されている。この時代の政治批判とはすなわち教皇批判である。現代では優れた翻訳と注釈があるので凄さを実感できないが、かなり遠まわしに揶揄している。金銭欲に溺れた教皇や大商人たちはみな地獄の罪人に言い換えられてむごい仕打ちを受けている。理由はストレートに表現したら教会に異端審問にかけられるからである。それでもかなり危険だったらしく天国篇はダンテの死後に発表された。
フィレンツェでは白派と黒派が絶えず争いを繰り広げていた。ダンテは白派に属し、黒派のクーデターで政治争いに敗れると亡命者になった。そして亡命しながら書いたのが神曲である。
とはいえ作品中で批判されているのは敵である黒派だけではなく、白派の人間も多く断罪されている。さらにはなかなかイタリアにくる気配のない皇帝も批判している。全方位で批判を展開している。 凄まじい度胸である。
ダンテはこの作品を単にCommediaとだけ題した。「Commediaは喜劇と訳されるのは正確ではない。正しくは文体が卑俗で、悪い状態に始まりハッピーエンドで終わる形式の劇」とのこと。
ダンテは強烈な政治批判、社会批判をあくまで下品で通俗的に書いている。俗っぽさの
裏側に強烈な皮肉を込めたのである。シェイクスピアの戯曲がそうであるように道化師はしばしば真実を語る。ダンテはいわば命がけの道化をやったともいえる。もしかするとチャップリンの大先輩かもしれない。もっともダンテは民主主義ではなく皇帝権による地上支配を願ったのだが。
ダンテの後進であるボッカチョは単にCommediaと名付けられたこの詩にLa Divina Commedia(神聖喜劇)と呼んだ。なぜ「神聖」なのか?Commediaは文体が下品であるから神聖ではない。文体だけを考えるなら、神聖なのは悲劇であって喜劇ではない。矛盾している。
私が思うに、ボッカチョはダンテの勇気ある命がけの道化に尊敬の念を込めてDivinaと名付けた。とてつもない巨大権力の恐怖に誰もが口を閉ざしているとき、真実を口にできるのは、自由にものを言えるのは誰であったか。
La Divina Commedia(神聖なる道化)である。さすがに道化と訳すのは飛躍しすぎであるが。
神曲 追記その1
先日、「神曲」の解説記事をアップした。ファウストと同様、射程がややというかかなり広い作品なので、網羅的に説明するのが難しい。補足を加えて、もう少しまとまった記事に書き直さなければと思うが、ひとまずこれでいいことにする。
それでも、追記にしなければならないのは「視覚と聴覚」についてである。
神曲が優れているのは真に迫った情景描写である。地獄のおどろおどろしい光景、罰を受けて苦しむ大勢の罪人の姿、異種混交体ともいうべき魔獣の外観。ダンテは無論、地獄に行ったことない。しかし、「この人は行って見たことがあるんではないか」と思わせてしまうほどのグロテスクでリアリティある描写をする。
そして、ミケランジェロやダヴィンチがそうであるように、ヨーロッパはルネサンス以降、微細でリアルを重んじる目の文明になっていく。
これは三位一体の子=キリスト=視覚の存在感が強いカトリックの特徴である。とにかく、キリストのウェイトが高い。そのキリストを持ち上げるために視覚表現が発達したのではないか。
その一方で、叫び声や轟音、汚い罵り合いなど聴覚に関する描写も多々ある。大量にある罪人や贖罪者との対話も聴覚表現である。メインは視覚表現であるが、聴覚に対する反応も高い。
煉獄は制限時間付きの地獄なので叫び声や言葉を失うはあるが、ダンテが気絶したり、眠って夢を見たりするシーンが多い。地上楽園に入ると、あまりのすばらしさに文字通り言葉を失うし、視覚も超越しかける。
天国篇になると、視覚、聴覚ともに表現が雑になる。「この美しさは表現のしようがない」「言葉に書き表せない」と。それを表現するのが詩人なり作家なり芸術家の仕事ではないんだろうか、とツッコミたくなる。
なんで表現できないかというと神に近づいているからである。無限なる神は有限な存在である人間の視覚や聴覚など超越してしまっている。というか、表現してしまうと無限なる存在で無くなってしまう。それは由々しき問題である。
いよいよ、ラストになると目も潰れ、耳も聞こえなくなる。そして、神のビジョンだけが頭の中に、つまり脳に流れ込んできて幸福な気持ちになって終了する。
余談だが、リストが「ダンテ交響曲」を作曲家するとき、地獄、煉獄と作ってワーグナーに「天国の喜ばしさを表現するのは不可能」と言われて天国を除いた2楽章にしたといわれる。
このエピソードから察するに、天国篇を下敷きにした作品はほとんど、あるいは全く無いのかもしれない。地獄篇と煉獄篇はそこそこ確認されているが、天国篇はそういう噂を過分にして聞かない。
また天国篇は教皇批判がもっとも苛烈で、ダンテの死後にようやく発表されたくらいなので、色々とヤバイ作品である。
正直な感想を言うと、ダンテは情景描写は上手いが会話シーンは下手くそである。あなたはどこの出身?→私は〇〇の生まれです→何の罪でここに?→それは〜、みたいな単調な受け答えしかないので退屈で仕方ない。視覚と聴覚の両立に挑戦してはいるが視覚しか成功していない。
「Re:ゼロから始める異世界生活」について語るの巻
「というわけで、『Re:ゼロから始める異世界生活』について語っていこうと思うんやけど」
「なんで毎回毎回、話題の振りが唐突なんや」
「いや、照れくさいやんか。かしこまって、気を付け、礼して始めんのが」
「気を付け、礼はせんでもええけど、今更リゼロをやる理由を教えてくれるか」
「実は年明けから再放送してたのを見てて興味が出た次第や」
「新編集版と題して、2話分まとめて一時間で放送してたやつか」
「せや」
「つい数か月前の話なのに遠い昔のように感じるな」
「コロナですっかり新作アニメが放送できんくなってしまった」
「悲しいな」
「せやな」
「本題に入ると、リゼロは長月達平の同名ライトノベルが原作で、俗にいう『異世界系』なのだが」
「蓋を開けてみると、はっきり既存の異世界系やなろう系に批判的な内容となっている」
「引きこもりで、取り柄のない主人公がある日突然異世界に転生。魔獣や強敵を前に孤軍奮闘の大活躍。可愛いヒロインたちに囲まれて幸せ一杯」
「さすがにそこまで露骨なのは無いと思うけどな」
「全然あるしむしろそういうのが売れているらしい」
「そこは『らしい』なのか」
「本屋でぱっと見た感じなので断言できん」
「なるへそ」
「具体的に何を批判しているのか、というとこれは『SAO』ではないか」
「ほう」
「SAOの悪口については一年前に書いた」
「悪口を書くなて」
「主人公キリトは引きこもりのゲーム中毒者で、ソードアートオンラインなるネットゲームに閉じ込められ、黒のコートを着こなして「黒の剣士」の異名で周囲から孤立し、本名も知らん娘とNPC幼女の三人で家族ごっこを開始し、最終的によく分からんチートでラスボスを倒した、くらいのカッコいいヒーローである」
「それだけ聞くと完全に狂人やな」
「SAOとリゼロの設定などを比較してみた。発表年は原作の単行本が刊行された年にしている」
「対になっているな」
「どちらも異世界なのだがリゼロの舞台設定がどうなのかイマイチ言及されていなかった」
「アインクラッド編はゲーム内での死が現実世界での死に直結している。反対に、リゼロのスバルは何回死んでもスタート地点に生き返ってしまう能力を持つ」
「スバルは死に戻りの秘密を周囲に話せず孤立して、キリトは第1層のボス撃破直後に自分がβテスター(お試し版既プレイ組)であることを公言して孤立する」
「対応箇所が色々あるが、一番注目すべきは主人公の性格にある。性格の相違点こそがリゼロの最大の主張である」
「性格か」
「キリトはヒロインが傷つくと怒りで覚醒する」
「それ自体は悪くない」
「しかし、怒りに身を任せるあまり、視野が狭くなり周囲に迷惑をかけている」
「キリトくんは近視眼的というか単細胞なんよね」
「反対に、スバルはエミリアの危機を助けようと躍起になるが全然上手くいかず苛立つ。やがて過剰な英雄精神は歪んだ憎しみに変わり、周囲の人々に八つ当たりをする」
「エミリアやレムに思春期特有の情けないやつあたりをするシーンはかなりキツイものがあった」
「しかし、それこそが本作が描きたかったメッセージでもある」
「そもそもの話、引きこもりのニートでしかなかった人間が異世界に来たら英雄になれる、という発想自体がおこがましいねん」
「そのうえ交渉のテーブルに立てへんおつむの弱さときた」
「救いようがない。現にスバルは絶望的なニヒリズムに陥った」
「まとめるとリゼロがSAOをひいては異世界系の批判点として『現実逃避的な英雄精神が生み出す絶望』であり、さらに言うと『身の程を弁えて知恵を絞れ』である」
「とはいえスバルもずっと側にいたレムの支えで復活しちゃう単細胞なんやけど」
「別に単細胞なラノベ英雄譚を否定しているわけではない。視野を広げて冷静になれ、と言っているだけや」
「そうか」
「ついでに話しておくと」
「なんや」
「リゼロの悪役ペテルギウスとキリトの声優が一緒なんや」
「それはただの偶然やないの」
「確かに、アニメ限定の話である。これでペテルギウスが愛する女性を誤って殺してしまったとかいう過去があればキリトくんの過去と整合性がつくんやけどな。こればっかりは原作読まな分からんね」
「伴侶殺しはるろ剣から続く剣士の伝統やからな」
「しかし、これだけではSAOが、というより単なるアンチ異世界系であるだけな気がする」
「そう来ると思ってだな」
「なんや」
「魔女教に七つの大罪というワードがあったやろ」
「あったな」
「まあそうやな」
「仮に、神曲ーSAO-リゼロが繋がっていたとしたら」
「繋がっていたとしたら」
「こんな感じで対応表を作ってみた」
「茅場とウェルギリウスが対応しているのが納得できへんねけど」
「茅場は確かに悪役だが、ファントムバレット編の最後で判明したように難病患者のためのフルダイブマシーンを開発していたように完全な悪人という訳ではなかった。それ以降の展開でもキリトたちは知らず知らずのうちに茅場に導かれていくような場面に出くわしている」
「SAOは次のフェアリーダンス編でもシェイクスピア「夏の夜の夢」を参照している風だったが、内容は大して関係なかった。オーベロンとティターニアの名前が出るくらい」
「どちらかというとゲーム内の世界観構築に興味があるっぽいな」
「しかし、こちらをご覧いただきたい」
「神曲の煉獄山やな」
「続いてこちらをご覧いただきたい」
「SAOのアインクラッドやな」
「似ていないだろうか」
「はい?」
「煉獄山とアインクラッドの形状が似ていないだろうか」
「いや、まあそう言われればそうやけど」
「各フロアが円形であること、上に行くにしたがって先細りになる、最上階でゴール(地上楽園・現実世界)に到達」
「しかし、まあ内容での整合性が取れんからイマイチやな」
「考察不足の面もあるから食い下がってやろう」
「なぜ偉そうなのか」
「最後にリゼロの最終回、エミリアとの会話シーンなんやけど」
「エミリアに膝枕されているシーンか」
「非常に楽園ぽい」
「ということは煉獄山の頂上にいる」
「そしてスバルとエミリアの間でこんな会話が続く」
スバル「君が自分の嫌いなところを10個言うなら、おれは君の好きなところを2000個言う。おれは君をそうやって、おれの特別扱いしたいんだ」
エミリア「されて嬉しい特別扱いなんて生まれて初めて。どうして2000個なの?」
スバル「おれの気持ちを表現するのに100倍じゃ足りねーからだよ」
「この2000個、100倍云々はどういう意味なんやろうか。よく分からん」
「さきほどの説を採用すれば今スバルたちがいるのは煉獄山の頂上であり、アインクラッドの頂上である」
「うむ」
「そして『100倍じゃ足りねーから』というのはアインクラッド全100層のことを指し、要約すると『我々はSAOの欠点を克服して上回った』という宣戦布告になる」
「えらい攻撃的やな」
「攻撃的な作者なのかもしれない」
「しかし、原作者のTwitterを覗くとこんなツイートがある」
ソードアートオンラインなのに、アニメの途中でソードアートオンラインがクリアされてしまった…いったい、どうなるんだ…。
— 鼠色猫/長月達平 (@nezumiironyanko) 2017年4月23日
オーディナルスケール見てきた。
— 鼠色猫/長月達平 (@nezumiironyanko) 2017年4月27日
最後のアスナのスイッチ見て泣かないのって不可能ではないのか?(デジャ・ビュ)
「なんやこれは」
「リゼロの原作者は別にSAOに批判的なわけじゃなさそうやな」
「いや、これはフェイクかもしれん」
「まだ言うか」
「作家というものはみな嘘つきであり、作品の真意を簡単に見破られることを激しく嫌う。そのためだったらインタビューだろうがTwitterだろうが嘘をつくに決まっている」
「無茶苦茶や」
「無茶苦茶で何が悪い」
「ここまでくると陰謀論やな」
「読み解きは基本的に陰謀論やぞ」
「まあそんな感じで2期の放送を首を長くして待とうかなと」
「その前に自粛を解除してもらわな」
「事態の好転を切に願いながら」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
「神曲」解説【ダンテ・アリギエーリ】
リストの「ダンテ交響曲」
イタリアの国語
これら全部ある作品の影響を受けたと言われています。西洋文化に巨大な足跡を残し、ルネサンスへと導いた古典、それが「神曲」です。ただし、宗教、政治、科学、哲学...と扱う分野の射程が広すぎるためグロテスクな完成度になっています。現代の、特に日本人には皆目良さが伝わりません。一つ一つ紐解いていこうと思います。
詳細は闇の中
「神曲」はイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが作った詩です。完成は1321年ごろだとされますが、よく分かっておりません。なにぶん中世の作品ですので、解釈を巡って研究者の間で意見が割れています。「昔はこういう解釈だったけど近年それが間違いだった」「言葉足らずで意味不明」そういう箇所が続出します。
一つだけ確かなことは、「神曲」という作品が中世から現代に至るまで多くの人々に読み継がれてきた古典であることです。どれだけ細かい部分の解釈が揺れようとも、知識の間違いを指摘されようとも、「神曲」の評価は揺るぎません。
ということは、「神曲」の本質を知るにはミクロではなくマクロな視点を持つことが大切だと考えられます。
そこで本稿では細かい、ミクロな部分には目をつぶっていただいて、大雑把に、マクロな部分に着目して解説していきます。詳細は専門家に任せればよいのです。
それでも気になる方は講談社学術文庫の原基晶訳を読んでください。2014年に出た新訳なので分かりやすい上に、丁寧な注釈と解説が載っています。理由はあとで説明しますが、三位一体を意識して三行一組で分割しているのも素晴らしいです。
あとは漫画でイメージを付けることです。こちらは永井豪による「神曲」の漫画化です。さすがはデビルマンの作者。本物の地獄を味わうことができます。
前置きが長くなりすぎたので始めていきます。
登場人物
最初に登場人物です。先述の通り、神曲ではキャラが大量に出てきます。覚えられません。なので重要人物を4人だけ挙げます。この4人さえ把握すればとりあえずは「神曲」攻略できます。
ダンテ
主人公です。そして作者自身でもあります。物語開始時点では地獄の辺境をさまよっています。臆病なタイプで地獄のモンスターにしょっちゅうビビってます。たびたび気絶して夢(幻視)を見るのも特徴です。職業は詩人で、かなりの腕前であることが死後の世界にも伝わっています。
旅に必要なのは頼れるガイドです。特に地獄巡りなんか道に迷ったら最期、悪魔や魔獣に殺されてしまいます。これから紹介する3人はビビりのダンテのために地獄・煉獄・天国を案内してくれます。
古代のローマの詩人です。代表作「アエネーイス」はローマ帝国建国を謳った詩として崇められる伝説の詩人です。
古代ローマということは紀元前の人です。ダンテは14世紀の人なので、かなり世代間ギャップのある二人旅です。おっさんと若者どころではありません。日本で例えると、弥生時代と鎌倉時代のコンビになります。時代が離れすぎてイメージ全然湧きませんね。
ともかく主人公ダンテは伝説上の人物の案内で死後の世界を歩んでいくことが分かればよいと思います。
ウェルギリウスは地獄篇第1歌から煉獄篇第30歌までガイドを担当します。
本作のヒロインです。そんでもってガイド2号です。
ダンテが幼少のころに出会った年上の美女で恋心を抱くのですが、24歳の若さで死んでしまいます。美人ですがダンテには少し冷たく、威厳のある感じで接します。
実在の女性をモデルにしたのか作者の妄想なのか議論が絶えないようです。一つ確かなことはダンテが年上お姉さん好きだということです。なんだかラノベ・ネットコミックでありそうな設定ですね。
煉獄篇第30歌から天国篇第31歌まで担当します。
ベルナール
ガイド3号です。カトリック教会で聖人とされるおじいさんです。
もっともこの人はあまり重要ではありません。なんせ登場するのが天国篇の第31歌から、つまり三部作の最後の最後にしか登場しないのです。
以上、4人の紹介を終えました。
「いや、もっとたくさんいるだろ」という声が聞こえてきそうです。他に登場する人物、異形のモノを分類すると以下のようになります。
(1) キリスト教関連の人物
(2) ギリシャ神話の神々及び魔獣と古代の哲学者
(3) ダンテと同時代のイタリア人たち
(1)イエスやマリアなど有名どころはみなさん知っています。これがパウロやヨハネなども「なんとなく名前聞いたことあるな」レベルであれば問題ありません。
(2)ギリシャ神話の神々はソシャゲやカードゲームやってた人ならだいたい察しが付くと思います。ゼウスとかヘレネーとかテーセウスとかオデュッセウスとか。あと魔物は基本的に異種混交体です。代表的なのはケンタウロスとかの半獣半人です。おどろおどろしいイメージが湧けば十分です。
古代ギリシャの哲学者はソクラテスとかプラトンとかです。ずらっと出てくるだけで名前を覚える必要ありません。
(3)ダンテの同時代人についてはファリナータという人以外は覚える必要ありません。ファリナータは煉獄篇の途中から旅を共にします。実際のところはあの当時にタイムスリップしないと分からないからです。しょせんは中世の内輪ノリなので気にせず読み進めていきましょう。
ダンテはキャラ戦略をあまり重視していません。というかほとんどの人物は出番が一回きりです。モブです。なんせキャラ同士の会話もほとんどワンパターンですから。代わりに全体構成こだわっています。
あらすじver1
地獄の周辺をうろついてたダンテは3人の人物に導かれて、罪人や悪魔、聖人たちと対話をしながら地獄・煉獄・天国を巡り、最後は宇宙の至高天で神の神秘に触れて終了です。
あらすじver2
地獄篇
主人公ダンテは森で一人迷っています。不安です。よく見るとそこは地獄です。そうこうしていると狼が現れました。まずいです。絶体絶命です。
するとそこにウェルギリウスが登場します。彼はかつてダンテの憧れの女性で今は地上楽園にいるベアトリーチェの頼みでダンテの導き手になってくれます。狼を追い払うと地獄への冒険がスタートです。
地獄巡りでは責め苦に遭う罪人、異形の魔獣、悪魔などが存在するグロテスクな世界が待っていました。ダンテは彼らに質問したり、ウェルギリウスと会話しながら最下層まで下っていきます。なんか工場見学みたいですね。
最下層のコキュートスを見学したあとは地球の核、マントルを通過して南半球にある煉獄山へ向かいます。「マントルを通過できるわけないだろ」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が爆発しているだけです。
煉獄篇
ダンテ一行が南半球に出るとそこには煉獄山がそびえ立っていました。
登ってみるとフロアが七つに分かれており、それぞれ七つの大罪に沿って罪人たちが罰を受けています。なんだか地獄と似ていますが異なる点があります。
同じようにウェルギリウスの案内で煉獄の各フロアを見て回ると頂上には楽園が存在していました。そして、そこにいたのがベアトリーチェです。ここからの案内は彼女になりまして、ウェルギリウスはお役御免で元々居た地獄のリンボに帰っていきます。
地上楽園でキリストを中心に神秘的な行進の中にベアトリーチェの姿を見ます。この辺はキリスト教の深遠さ、偉大さをアピールするための記述が続きます。
天国篇
煉獄山の頂上からベアトリーチェとともに宇宙を旅します。「宇宙服もロケットもなしに宇宙に行けるか」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が(以下略)
星々にいるのは生前善き行いをした者、聖人たちです。ベアトリーチェの案内を受けながら、彼らと対話をしていきます。
やがて最終地点である原動天に到着し至高天に入ると、ガイドがベアトリーチェからベルナールに交代します。そして、ついに神の神秘と対面します。もっともダンテ曰く「無限なる神を人間ごときが見ることも記述することもできない」そうで、断片だけ匂わせて終了します。なんじゃそりゃ。
地獄・煉獄・天国の構造
神曲の死後の世界はとても面白い形状・構造をしています。
地獄
円錐を逆さまにしたような形をしています。一番上の地獄の森がスタート地点で下に向かって、回りながら降りていきます。
煉獄
上の画像が煉獄山です。見ていただきますと、各フロアが円形になっており上に行くにしたがって先細りになっているのが分かります。
上部の7階は「七つの大罪」に沿っています。第一の罪:高慢が最も重く、第二、第三と罪が軽くなっていることを示しています。
山頂に地上楽園があります。煉獄は地獄と天国がミックスした不思議な空間です。
地獄と異なるのは「制限時間」があることです。煉獄では一定期間、贖罪をすると解放されて天国に行けるシステムです。なんだか現代の懲役制度と似ていますね。両目を縫われたりとか、石を背負うとかスケールが違いますけど。
そもそもキリスト教の世界観では死後の世界は天国と地獄しかありませんでした。天国に行けるのは善人、地獄に行くのは悪人です。しかし、このシステムには問題があります。
それは「善人とも悪人ともいえない微妙なライン」の人々です。
例えば、
「悪いことをしたけど最期に改心した」
「地獄に堕とすほど悪人ではないが、天国にそのまま送る訳にもいかない」
こういうケースを白か黒かで判定するのは至難の業です。あんまり理不尽にやるとキリスト教への不信が高まり信者が減っていく可能性もあります。
なので天国と地獄の中間を取った施設が煉獄になります。罪人は地獄と同じように罰を受けますが、罪の重さによって滞在時間が決まっており、終わればめでたく天国に昇天できます。なんだか都合がいい話ですね。現に煉獄は聖書には書かれておらず後から作られた概念です。
天国
宇宙では月→水星→金星→太陽→・・・と星々を巡っていきます。もちろん中世ですので地動説ではなく天動説です。ただし、地球が丸いことは分かっていました。そういう時代です。ダンテもプトレマイオスの宇宙観をもとに物語を展開させていきます。
天動説は地球が中心になっていることで有名ですが、ここで重要なのは星々が公転している軌道の外側で星々を動かしている存在、原動天です。さらにその奥には大いなる神が待つ至高天があいります。ここから全宇宙をコントロールしている、いわば指令室です。
現代人はガリレオを異端審問にかけた教会を「愚かだ」と馬鹿にできますが、神が天地を、宇宙を創造したと主張するにはどうしても天動説というストーリーが必要だったのです。まあ実際間違いだったのですが。
という感じで地獄から降りていって、最終的に天国へと昇ってくプロセスであることがお分かりいただけたと思います。上ったり下ったりと方向が分からなくなりますが、実はずっと一直線に進んでいるだけです。重力の向きが変わっただけです。
このプロセスには元ネタがあるそうで「階段の書」という書物なのですが、実はイスラム教の死後の世界を描いた作品なのです。地獄の描写が似ていることと導き手がいることから影響を受けているのでは、と指摘する研究者もいます。
しかし、「階段の書」は現段階で日本語訳が無く、入手も大変そうなので読めていません。考察不足なのです。ただ訳者の原が言うには「神曲」とは逆の天国→地獄というプロセスらしいので、関連性は強いと睨んでいます。
死後の世界の概要を掴んだら、次はキリスト教の中心教義三位一体についてです。
三位一体教義
三位一体教義については下の記事に説明があります。
では「神曲」どうなんだ、というと聖霊に関する描写がいくつかあります。しかし、視覚と聴覚がごちゃ混ぜになっています。つまりカトリックと同じ路線です。
天国篇第10歌冒頭から引用です。
第一の、言葉で言い表すことのできない御力は、
自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、
子を深く見つめることにより、
この場合、御力= 父、子=キリスト、愛=聖霊です。「自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、」は「父と子が発する生まれる聖霊を通じて」と言い換えることができます。
三行韻詩
「神曲」は全体を通して「三行韻詩(テルツァ・リーマ)」と呼ばれる技法が用いられています。
なんで「三行韻詩」を採用したのかというと三位一体教義を取り入れるためです。一つの組に三つの行が入っている。一なる神と三つなる神。
三行一組になっているばかりでなく、aba-bcb-cdcという風に組どうしで掛かっているようです。これを全100歌やるのだからダンテは凄い詩人です。反対にいうと、これだけでも作るの労力がかかるので物語の展開が単調になるのも仕方ありません。
そもそも詩は音楽に近い多義的な言語を扱います。つまり抽象的で意味ふんわりしている。しかし、ふんわりしたままでは困りますので形式に当てはめてコントロールしています。音楽でもソナタやロンドなどの形式がありますね。
全体構成
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani15.pdf
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani14.pdf
「神曲」の構成研究は進んでいまして、上記の研究書は全体構成についてかなり詳しく解析してあります。著者は 慶応義塾大学の藤谷道夫先生です。以下では藤谷先生のお力も借りて進めていきます。
通常、小説なんかですと物語の流れに沿って分割できるのですが、「神曲」は見学して対話しての繰り返しでストーリー性がありませんので、死後の世界の「場所」で分類します。
ここでも3編ともに3つに分類です。三位一体です。
さらに、場所の数についても外部と内部で分類しています。地獄と天国は1+9=10個、煉獄は3+7=10です。煉獄だけはパターンが少し違うようです。
各編それぞれの構成
実は神曲三編には一貫して3と7の数字が頻出します。勘の良い読者ならお気づきですが、3+7=10という簡単な計算式です。10はキリスト教の完全数です。そんでもって全歌数は100(=10×10)歌です。「神曲」は一貫して数学的構成なのです。
地獄篇
主に3が頻出です。7も少し出てきます。
地獄篇で注目すべきは、第七圏と第八圏です。
第七圏は3つの小圏に分かれています。これは次の煉獄を意識してのことです。
第八圏は10の巣窟に分かれています。そのことが直前の第17歌の「10歩進む」で暗示されています。
煉獄篇
ダンテは七つの大罪をそれぞれ3歌ずつに割り振っています。いわば7×3の構造です。歌の途中で、次の環道に進んでいるパターンもありますが美しい構造です。煉獄篇のテーマ数7と三位一体の3を掛けています。この辺はさすが天才詩人です。
そして、そのことが直前の第17歌で暗示されています。
ダンテは煉獄門の前で胸を3回叩き、3つの段差を登って、天使から額に7つのPの印字をされるのです。かなり凝ってますね。
天国篇
実は天国篇は地獄、煉獄と比べると構成力が弱いです。代わりにオカルトチックな世界観が前面に出ています。神の領域に入りかけているのです。数学という理性が弱まって信仰心が強まっています。
それでも、最後はきっちり締めようと思ったのか、第33歌のラストは数学的であり神秘的です。
人間であるダンテと神の劇的なクライマックスです。といって神を見ることも聞くこともできませんので、イリュージョンが流れ込んでいるだけです。神を描くこと自体が異端になってしまいますから。
全部で22行あり、3行1組が7ペアあります。3×7=21です。天国篇のキーナンバーは10(=3+7)なので、3と7を使った数学的な構成です。
しかし、最後の1行が余っています。気持ち悪いですね。気持ち悪いですが、この説明は後に回します。
政治批判
「神曲」の裏テーマとして政治批判があります。もっと言うと、教皇批判です。
ダンテが生きたのは共和制ローマの時代でした。共和制とは金持ちが主体となって政治を行う体制です。金持ちという言い方が下品なら市民といってもよいです。
ただ上手くいかなかったみたいで代わりにローマ教皇を立てる勢力(教皇党)と神聖ローマ皇帝を立てる勢力(皇帝党)が誕生し、対立しました。
二つの勢力の争いの中でダンテも追放の憂き目に遭っています。そして政治もやっていた教皇の権力が膨張していました。というか宗教改革前の教会の権力なんてヒトラーやスターリンも真っ青の超絶権威なので、ダンテは相当度胸があります。
ダンテは教皇党です。しかし、宗教と政治はきちんと切り離すべきだと考えました。聖俗分離、政教分離です。ドイツからやってきた神聖ローマ皇帝がイタリアを救出し、政治を執り行うことを望んでいたのですね。派閥にとらわれないバランス感覚。
結果的にどうなったのかというと、教皇がそのまま力を強め、皇帝がイタリアを統治することはありませんでした。ダンテは天才詩人でしたが彼をもってしても世界の流れを変えることはできませんでした。ローマ帝国の復活なんか所詮ロマンでした。この辺は切ないですね。
しかし、その勇気は称えられるべきです。
当時の文学者はプロパガンダするのが普通だったようですが、ダンテは異議を発し金銭欲にまみれた教会及び教皇を非難しました。誰もが怖くて口に出せなかったことを書いたのです。例えば、独裁政権の圧政に苦しむ国の作家は「神曲」読んでその勇気に励まされたんじゃないでしょうか。
国語
当時は書き言葉と話し言葉が分離していました。書き言葉はみなラテン語でしたし、教養のある人間ならラテン語を使ってナンボ、という価値観が大勢を占めていました。
現代において、「神曲」は権威ある歴史的な古典という扱いですが、当時はライトノベルの台頭と同じくらいの衝撃があったはずです。
何より俗語で書かれたことで民衆も読むことができました。以後、各地でバラバラだった言語が統一され、イタリア語の基礎となりました。国民意識の向上、つまり「国語」の誕生です。
イタリアの国語を語る上で「神曲」は欠かせない存在なのです。
貨幣観
ダンテは金に目がくらみ汚職を繰り返す聖職者と大商人を地獄に落として糾弾しています。反対に清く貧しく信仰を貫いた者は聖人扱いです。
地獄の第八圏第十巣窟(第29歌と第30歌)では、錬金術師を貨幣の偽造者として罰しています。ここで注目すべきは、第30歌のアダーモ博士とシノンの悪口合戦です。
アダーモ博士はグイド伯爵家の命令で贋金造りに手を出して火刑に処せられました。シノンはトロイア戦争時のギリシャ人で、トロイの木馬でスパイとして活躍したことで有名です。地獄ではそれぞれ水腫患者と熱病患者になっているのが対になっています。
貨幣と言葉は先ほどの国語の話と深い関係があります。
金属貨幣から紙幣へ移行するには国内での言語の統一が最重要です。貨幣とはつまるところコミュニケーションツールでして、言葉が通じないなら、貨幣の意味をなさないからです。
順序としては通常言語→貨幣で発展していくようです。この「順序」をきちんと踏むことが大事でして、手順が前後すると大変な目に遭います。
では、「手順が前後する」とどうなるのかというとジョン・ローみたいになります。
ローの失敗は言語の全国統一の前に紙幣を導入したことです。言語の統一がまだだったフランスでは、錬金術師のように見られていたと思われます。現にアダーモ博士は錬金術師だとして火炙りの刑で死んでいます。
「神曲」がイタリアの国語の基礎となったことは話しました。ということはダンテの時代には言語がバラバラであったということです。つまり、まだ紙幣を導入する段階ではない、ということです。そもそもペーパーマネーの概念すらありませんが。
ダンテがそこまで理解して通貨発行に否定的だったのかは分かりません。たぶん理解していなかったと思います。しかしジョン・ローのような失敗をしないという点では、結果的に正しい選択でした。
これがローより数十年後、ダンテより数百年後のゲーテだと通貨発行を推進しています。実際に「ファウスト」はキリスト教批判が満載です。しかも主人公のファウストは錬金術師です。とはいえ神曲もファウストも教会を弾劾しているのでよっぽどだったのでしょう。
西洋には二つの異なる文化があります。一つはキリスト教文化、一つはギリシャ文化です。二つの文化をなんとかドッキングさせようとしてきたのが古今の文学者たちです。
ゲーテ「ファウスト」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」はその代表例です。異文化のドッキングは大変しんどい作業のようで、それに挑んだ作品は傑作として評価されています。
しかし、ドッキングに成功したから物語の完成度が高いわけではないのです。傑作度と名作度は必ずしも比例しません。現にファウストの第二部はダラダラしていて面白くありません。(逆に第一部はスピード感あって面白いですね)
もっともカラマーゾフだけはどちらも両立できたようですが。
ドッキングといっても二つの世界のキャラクターがごちゃ混ぜで登場するだけです。ヘラ、ユーノー、ミノタウロス、アケローン、オデュッセウス等々。ただし、格付けがあります。キリスト教キャラの方がギリシャ神話キャラよりも扱いが上なのです。現に、天国に行けば行くほどキリスト教キャラ多く、地獄ではギリシャ神話キャラの方が多いです。あくまでキリスト教がギリシャ神話を飲み込むという、上下関係があります。
時間観
キリスト教の時間観は直線時間です。正確には、始点(天地創造)と終点(終末に千年王国が訪れる)があるので、「線分」時間なのですが。
しかし、時間は円環だと考えた方が自然です。日が昇って沈んでまた昇る。春夏秋冬が繰り返される。「時間」というものは回り巡るものです。
かくいうギリシャ神話も円環時間を採用していまして、直線時間のキリスト教と矛盾が生じています。ドッキング作業の問題点ですね。ダンテもここの部分で相当頭悩ました気がしてなりません。直線時間と円環時間、どちらを採用するか。
結論から言うと、ダンテは答えを出せませんでした。
天国篇第10歌から引用します。
天国篇では「10」が重要ですから第10歌は当然ウェイトが高くなります。ダンテの比喩で分かりづらくなっていますが、神の花嫁=教会、花婿=キリスト、愛=聖霊です。当時開発されたばかりの時計や「栄光に満ちた輪」から限りなく円環時間に近づいています。しかし、キリスト教の世界観も否定しません。つまり、どっちつかずです。
円周率
ところで、円というと「円周率」の話が必ず出てきます。中世の円周率は22:7で表すのが通例でした。メソポタミアの時代から現代まで数学者を悩ませてきた問題、それが「円周率の計算問題」です。3.14159・・・と続く数の終わりを発見しようと躍起になります。なぜ西洋人はそこまでこだわるのでしょうか。
スーパーコンピューターでも計算しつくせないのですから、やはり円周率は無限なのです。しかし、円周率を無限数と認めるとキリスト教に都合が悪かったのです。中世の学者はみな神学者でしたから。
彼らの問題点を洗い出すために、AパターンとBパターンのストーリーを用意しました。
A:円は神の被造物である→円にも神の真理がある→円環時間が本源的→線分時間の崩壊→神と人との契約も無効→信者離れる
B:円は神の被造物ではない→神以外に無限な存在がある→唯一神の権威失墜→信者離れる
円周率を無限数と認めるとA、Bどちらもキリスト教教義の崩壊を招いていしまいます。だから何としてでも円周率の終わりを計算する必要がありました。まあ知的好奇心もいくらかあったのでしょうけど。
ダンテは詩人なので計算はできません。
では、いかにして「キリスト教と円周率」の問題に立ち向かったのか。天国篇第33歌ラストに戻ります。全体を構成していた三行韻詩のことも合わせて思い出してください。
ここで、中世の円周率が22:7であることを踏まえると、
詩行:三行韻詩=22:7
となります。
神の完全数10と三位一体の3を引くと7が出てきます。
「7」という数字はキリスト教と円周率を結ぶ架け橋だったのですね。そして、ダンテの提示した時間観は「時間は直線的でもあり円環的でもある」です。二つの矛盾した価値観の両立とも言えますし、結論出せなくて中間策に逃げたとも言えます。無理のあるドッキングです。
イスラム教
「神曲」誕生にはイスラム文明の存在が欠かせません。にも関わらず、ダンテはそのことを隠そうとしています。あろうことか、ムハンマドを 地獄に堕としています。イスラム社会への恐怖からくる反発心です。
まとめ
こうしてみると「神曲」という作品は二つの矛盾したものを両立させるという意志にあふれているのが分かります。皇帝と教皇、キリスト教文化とギリシャ文化(直線時間と円環時間)、三位一体と円周率、視覚と聴覚、貨幣と言語、信仰と理性.....
こういった志は必ずしも成功したわけではありません。中世クオリティのドッキングですので、地獄のキメラのようなグロテスク感があります。しかし、困難に立ち向かうダンテの姿勢は素晴らしいですし、後世の西洋人も尊敬の念を込めて読み継いでいます。
2020年冬アニメ感想 その2
マギア・レコード
まどマギの派生作品。スマホアプリが原作らしい。脚本は虚淵玄ではなく劇団イヌカレーであった。劇団イヌカレーさんを存じあげないのだが、宮沢賢治を匂わせるシーンが序盤にいくつかあった。第一話のモノレールが三陸鉄道もっと言うと銀河鉄道チック。カフェかなんかの窓にの名前にゴーシュ文字。駄菓子屋のイサド→「やまなし」のイサド。などなど。やたら賢治用語が多かった。
まどかとほむらの関係性はジョバンニとカムパネルラに似ているが、その精神を継承しているのか。最終回かと思いきやまだまだ続くようなのでどうなるか分からない。
ゲーム原作だからなのか、やたらキャラがバンバン出てくるのでどうしてもストーリーが薄くなっている感じがした。正直、まどマギ本編より面白くはない。
・Re:ゼロから始める異世界生活(新編集版)
数年前に人気を博した通称「リゼロ」。本来1話30分だが、新編集版ということで2話をまとめて60分で再放送していた。ラノベ原作ということもあって、流行りの異世界転生から無双モードのアレなのかなと思いきや真逆の路線で驚いた。
わざとらしい芝居がかった言い回しや主人公の子供じみた怒り、斜に構えた態度など見るに耐えない場面はあったが、かなり戦略的で野心のあるアニメであった。
この作品については気になることが多かったので、後日記事にする予定。
・劇場版SHIROBAKO
ぶっちゃけテレビ版より感動しなかったのだがそれでも良いなと思ったシーンがある。
宮森が仕事帰りに踊り出すシーン
なんかノリとテンションがクレヨンしんちゃんの「メイド・イン・埼玉」に感触似ていた。水島監督の初監督作品なので思うところがあったのだろうか。
ラストの劇中作アニメシーン
このシーンのBGMの出だしが、これまたクレヨンしんちゃんのオトナ帝国の「21世紀を手に入れろ」に似ている気がした。最も似ていたのは最初だけだったのだが。
この映画、全体的に哀愁が漂っているのだがオトナ帝国を意識していたのだろうか。監督は原恵一だが東京タワーを駆け上るあのシーンは水島監督が担当だったような。うろ覚えである。
個人的には深い感慨があったが納得できない点もいくつか。とりあえず新キャラの宮井楓がメインになっていること。そんなに佐倉綾音を出したかったのかと邪推してしまう。
まあそういう大人の事情も含めてSHIROBAKOらしいと思ってしまったので何も言えない。哀愁を振り切って前向きな気持ちになれたので良かったのである。
テレビ版SHIROBAKOがなぜ優れているのかは下のページを参考
トマス・アクィナスの功罪
絶賛、「神曲」解説書いている途中なのですが、あまりにも長くなりすぎたのと整理の意味も込めてPart2
前回、三位一体教義について簡単にまとめました。
前回はプロテスタントのことまで触れて終わったのですが、その前にトマス・アクィナスとスコラ哲学について書きます。
神曲はトマス・アクィナスの「神学大全」から影響を受けています。もちろん、すべての点でダンテはトマスに賛同しているわけではないのですが方針は一致しています。
では、その方針とは何なのか。
スコラ哲学
詳しい説明は省きますが、神学者たちの中でキリスト教と哲学の融合は行われていました。具体的には、カトリックとプラトン哲学の融合です。2~8世紀ぐらいの話です。そして生まれたのが教父哲学です。アウグスティヌスが有名ですね。
要するにキリスト教を哲学で補強することで正当性を高める戦略なのです。ギリシャ哲学でキリスト教の権威を高め、異教に信者を取られないようにしていました。
この宗教と哲学を混ぜる流れが強まってできたのが「スコラ哲学」です。英語のschoolはスコラが由来だそうです。では具体的に「理詰めでキリスト教について考える」をやるにはどうすればよいのでしょうか。
そこでスコラ学者が注目したのがアリストテレスです。
アリストテレスはプラトンと比べると理性的、科学的な態度であると知られています(というか今日の自然科学はアリストテレスから始まりました)。その活動の最たるものがトマス・アクィナスの「神学大全」でした。
ダンテもこのトマスの路線を採用しています。「神曲」には形相や質料といったアリストテレス哲学の用語が出てきますし、何より数学的な全体構成が理性を注入しようという意志にあふれています。
融合路線失敗?
しかし、どうもこの路線、カトリック的には失敗だったのではないでしょうか。
信仰と理性の融合、なんて聞こえはいいですが理性が発展する、論理的思考能力が養われてくると既存の信仰に疑問を持つ者が現れます。「今のやり方は神の教えに従っているのだろうか」「そもそも神はいるのだろうか」と。教会に逆らい始めちゃうんですね。
そして16世紀に入ると宗教改革です。ということはカトリックの分裂、プロテスタント誕生の戦犯はトマス・アクィナスです。トマスはスコラ哲学を完成させ、カトリックの権威向上に貢献しましたが、アリストテレスをくっつけたことはまずかったです。まあそれ以上に、教会は金に目がくらんで相当腐敗していたようですが。
アリストテレスは「世界に始まりも終わりもない」と主張したのですがトマスはこれを「論理的に反駁できない」と発言し、断罪されています。「始まりも終わりもない」ということはループ時間ですから直線時間のキリスト教から離れています。トマスも薄々円環時間が本源的であると気づいていました。
というか「オッカムの剃刀」なんかプロテスタントどころか無神論に近づいています。なんせ神の存在を記述から省いているわけですから。オッカムはスコラ哲学の所属です。カトリックにとってアリストテレス哲学を混ぜたのは、長期的に見て失敗だったのです。
イスラム教
ところで宮崎市定曰く、「プロテスタントはキリスト教のイスラム化」だそうです。なるほど聖典主義、聖職者なし、偶像崇拝否定など共通点は多いです。
正教はキリスト教の教えを忠実に守っていますがそれ故にイスラム教の勢いに負けています。つまりカトリックしかイスラムに対抗できていない。これは非常にまずいです。キリスト教が、西洋がイスラムに飲み込まれてしまうことを当時の人々は恐れていたはずです。
そもそもルネサンス以前の西洋社会はイスラム社会に大きく遅れを取っています。
例えば、紙です。イスラム世界では8世紀ごろには紙を使った文書記録が始まっています。それに対して西洋社会が紙を使い始めるのは12世紀です。400年の遅れです。
さらに、ダンテは「神曲」を執筆する際、紙ではなく羊皮紙を使用しています。つまり14世紀初頭のイタリアでは、紙の使用はさほど普及していなかったということです。
イスラムついでに、先ほど紹介したアリストテレスも実はイスラム圏からの輸入でした。アリストテレスはギリシャ人ですからギリシャ語で書いています。普通はギリシャ語→ラテン語経由で彼の著作を読んでいる、と想像します。
ところが、ダンテが読んだのは、アヴェロエスという人物が注釈したアリストテレスの著作でした。アヴェロエス(Averroes)という名は通称でして、本名はイブン・ルシュド(أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد)です。アラビア語ですからイスラム圏の人です。
スペインのコルドバ生まれのようですが、この地方は8世紀ごろにイスラム教徒(後ウマイヤ朝)に支配されるとイスラム文化が大量に輸入されました。教会とモスクが融合したメスキータはその代表例です。
後ウマイヤ朝が滅びるとこれまたイスラム教のムワヒッド朝が支配します。アヴェロエスはこの王朝でお医者さんとして仕えていたようです。
ということで、当時のアリストテレス哲学はアラビア語からラテン語に翻訳されたものでした。どうもローマ帝国が崩壊してから、アリストテレスは忘れ去られたらしく、代わりにイスラム学者が大切にしていたようです。大切にするばかりでなく、彼の哲学から数学や化学などの自然科学の学問を発展させることにも成功しています。
こうしたイスラム文明の知見を、イスラム教徒から吸収することで、西洋はルネサンスでの飛躍に繋げることができました。西洋文明の発達はイスラム世界のおかげ、といっても良かったはずです。
イスラムへの恐怖
にも関わらず、「神曲」ではイスラム教徒は地獄に堕ちています。特にムハンマドは第八圏第九巣窟で顔を裂かれています。グロいです。またダンテは先ほどのアヴェロエスの考え方にも反発しています。参照しているにも関わらず、です。
そもそもなぜダンテはキリスト教中心の世界を描き、イスラム教やその他の異教を排除しようとしたのでしょうか。
「時代的にそう考えても仕方なかった」
「ダンテの無知がイスラム教徒の迫害を助長した」
これらは西洋中心の歴史観で産まれた意見です。だいたい今日の世界史は西洋人が作ったのだからそう考えても仕方無いのですが本音は違います。
西洋人はイスラムに恐怖しています。
警戒しているなどという上から目線の態度ではなく、はっきり恐れているのです。イスラムの教えが西洋に蔓延したら、必ずキリスト教は飲み込まれ、西洋はイスラム化する。
そもそもキリスト教とイスラム教は兄弟宗教なので似通っていて当たり前なんですが、行動理念や信仰の面から言っても、一神教としての完成度はイスラム教の方が上なんですね。しかも文明のレベルではるかに遅れを取っている。同じ土俵に立ったら、キリスト教はイスラム教に負ける。その自覚があったから何回も十字軍を送りました。
その一方で、文明の発展のためにイスラムの知見を積極的に利用もしています。もちろん表立ってそんなことを言えば、キリスト教の沽券に関わるのでばれないようにやっています。だからイブン・ルシュドもアヴェロエスというラテン語の名前で紹介されています。恐らくですが、彼以外にも大量のイスラム学者がイベリア半島経由でヨーロッパに潜入していたと考えられます。毒を以て毒を制す、じゃありませんけど、さすがはヨーロッパ人。とても強かです。
日本が西洋文明を吸収しながらも必死に日本独自のアイデンティティを模索したように、西洋文明もイスラム文明を吸収しながら必死に独自のアイデンティティを確立したようです。もっとも感謝するどころか迫害を加えたのはまったくいただけないのですが。
ダンテの時代にはプロテスタントはありませんでしたが、プロテスタント化する兆しは「神曲」には含まれていました。地獄のリアリティある情景描写もさることながら、うめき声や聖歌など音に関する描写も多いのです。西洋(主にカトリック)は目の文明で、イスラムは耳の文明です。視覚を前面に押しながらも聴覚も混じり込んでいる、というのが実態です。
「神曲」という邦題は森鴎外の翻訳です。原題から考えると誤訳もいいところなのですが、こうした事情を鑑みるとあながち悪いタイトルでもない気がします。といって鴎外がそこまで神曲を読めていたとは全然思えないのですが。
三位一体教義について
絶賛、「神曲」解説書いている途中なのですが、あまりにも長くなりすぎたのと整理の意味も込めて三位一体教義について簡単にまとめます。
三位一体について、下の記事の中段辺りで説明をしました。
簡単に言いますと、キリスト教の神は父・子・聖霊の三つが一体となっている、という教えです。とても大切な教義です。正直、聖書よりも重要度高いです。なんせこれを外すと異端審問にかけられて殺されるか、追放されますから。
非クリスチャンで日本人の私にはなんで重要なのか分かりません。といってキリスト教徒の方を責めているのではありません。理解できないのは私に信仰心が無いからなのです。
しかし、分からないなりに考えてみると、どうも三位一体は人間の知覚世界を表しているようです。
父(なる神)は脳、子(=キリスト)は視覚、聖霊(=鳥)は聴覚を表しています。この三つが付かず離れずの状態になっているのがキリスト教の神の特徴です。
ところが、1054年に東西分裂が起きておりキリスト教はカトリックとギリシャ正教に分かれてしまいました。
そのとき最大の争点になったのがこの三位一体の解釈です。具体的には、「聖霊は父のみから発するのか、父と子から発するのか」という議論です。
ぶっちゃけ整合性で考えれば正教の方が正しいのです。ただルールが厳しい。正教が力を持った東方ローマは地理的にイスラム圏と近かったのですね。このままではイスラム教の勢いに負けてしまう。
例えば、正教のイコンなんかは平面的で抽象的な絵です。偶像崇拝に否定的だった影響で立体的な彫刻などはありません。
もちろん、イスラムは偶像崇拝否定なのでムハンマドの顔は描きません。
実は正教のやり方だとイスラム教に飲み込まれてしまう危険性があったのです。その危険性に気づいた人々がカトリックになったということが考えられます。結果的に東ローマはオスマン帝国に滅ぼされています。
カトリックの方はより普遍的というか緩いんですね。子=キリストのウェイトが高すぎるせいで視覚と聴覚がごちゃ混ぜになっています。悪く言うとガバガバです。論理に敏感な人はこの辺が許せないはずです。
しかし、メリットもあります。それは「精緻な視覚表現の発展」です。
例えば、ルネサンス期の絵画を見ますと細部まで描写がしてあってリアルです。冒頭のミケランジェロの絵も大変リアルです。
さらに、立体的な彫刻まで創造しています。下の画像はピエタのマリアです。こちらもリアルです。ロダンの彫刻なんかも大変リアルですね。
リアリティある表現、つまり視覚のウェイトが高い。三位一体の中でもキリスト=視覚の存在が強いカトリックならではの文化が生まれました。
ダンテはローマ・カトリックの人なので「神曲」もその一つです。地獄の生々しい描写の数々、楽園の常春のような情景はガバガバ教義の賜物なのです。
それから16世紀に宗教改革が起こり、カトリックが分裂してプロテスタントが誕生します。
とはいえ、プロテスタントはカトリックから分派したので三位一体も同じです。聖霊は父と子から発する。プロテスタントの特徴は聖職者ナシ、聖典重視、偶像崇拝否定なのでかなりイスラム化していますが、そのことについてはまた別の記事で。
映画「日の名残り」感想
日曜日を使って「日の名残り」を見た。読み解きする体力は無いが、ずらずらと書くだけ書く。
アンソニー・ホプキンスの演技は素晴らしく、音楽も格調高い。だがそれ以上に極めて政治的な作品ともいえる。
fufufufujitani氏が指摘するように「日の名残り」の主題はブレグジットであるが、さらに踏み込んで「アメリカへの警戒」が挙げられる。
スティーブンスの主人はダーリントン卿だったが彼がナチスびいきのレッテルを貼られて死んでからアメリカ人のルイスが新主人になっている。
原作だとこの新主人の名前はファラディ氏になっている。
あと序盤でスティーブンスの父が執事の品格にまつわる虎の話をする。これは明らかに不自然である。内容はこうである。
「ある日、執事食卓に行くと虎が下に潜っていた。執事は騒ぐことなく主人に虎の射殺の許可を願い出る。間もなく、三発の銃声が聞こてきた。その後、主人に問われた執事は『夕食までにはあらかた痕跡は消えているでしょう』と答える」
だいたいこんな感じだったが、恐らくこれはケネディ暗殺を暗示している。
ケネディの就任演説。4:21くらいから「愚かにも虎の背に乗って権力を欲した者が虎のエサになってしまった」という文言が出てくる。
そして「三発の銃声」というのはケネディ暗殺のときの三発の銃弾であり、「あらかた痕跡を消した」というのは犯人をオズワルドに仕立て上げ、真相を闇に葬ったことを意味している。ちなみに虎とは共産主義者(ソ連)のことを指している。
恐らく新主人のファラディという名前もJohn Fitzgerald Kennedyをもじったものだと察しが付く。
ただスティーブンスが乗っていた自動車はドイツ車のダイムラーである。これがケネディ暗殺時のリンカーン・リムジン、つまりフォード車だったら面白いのだが。原作読んでいないので分からない。
となるとキューバ危機のこととかも出てくると思われるがそこまで解読できる体力がなかったので以上である。
あとはちょこちょこ出てきたドアの覗き穴のシーンやラストの鳩が飛び立つシーンなどから「ニーベルングの指環」も下敷きにしているのかな、と思ったがイマイチ確信が無い。ただダーリントン卿は第一次大戦後のドイツを救おうと奔走するし、通貨問題が議論になるシーンもあったのであながち的外れでもない気がする。
カズオ・イシグロはジョセフ・コンラッドの後継者みたいな作家であり、そのコンラッドの「闇の奥」はニーベルングを下敷きにしている。もっともコンラッドはあまり通貨発行権を取り上げていなかったような。
いずれにしても深く掘り下げるなら原作を読んでからでないとダメである。映画は良いけど色々忖度をしている可能性がある。だから、いつか読むであろう。いつか、多分、きっと読むかも。
2020年冬アニメ感想 その1
実は深夜アニメ視聴してたので感想書いておく。
どうもアニメを見る体力が衰えているらしく、2020年冬アニメは6本(うち劇場版アニメが1本)のみとなる。寂しいかな。
感想長くなったので半分に分けて記事アップしていく。
今期一番楽しみにしてた作品。原作全巻読んだくらい好きだったりする。退廃的な「ホール」の街並みとキャラ同士の軽妙な掛け合いが堪らない。何が堪らないのかは自分でもよく分かっていない。3Dアニメなのでのっぺりしてしまうのかと思いきやそこまで気にならず。
1クールで原作の1/3も消化していないので2期をやってくれると信じて待つ。
・映像研には手を出すな!
こちらも原作少し読んだ作品。女子高生三人組がアニメ作るのだが細部へのこだわりが強い。芝浜高校とその周辺は古代文明の跡地のような雰囲気が出ている。なんだか設定資料集みたいなアニメであった。
妄想世界へのトリップシーンなど湯浅監督との相性は抜群だったと思われる。音楽の高揚感もあって面白かった。他にも宮崎駿、押井守、タルコフスキーなど巨匠たちのオマージュがちらほら。
ただなんでオマージュしたのかがイマイチ謎だった。
主人公がアニメ作りをするきっかけになった「未来少年コナン」は良いとして、第1話の「ソラリス」の水草とか第8話の「ビューティフルドリーマー」とか(文化祭だから?)、なんで下敷きにしたのか目的が不明なオマージュが多かった印象。自分の感性が鈍いだけかもしれないが、形だけ真似しているようでならない。
名作を下敷きにするのは目的があってすることである。徹底的に読み解き、主題や全体構成を理解した上でその作品と同等もしくはそれ以上の作品を作らなければならない。ということは宮崎・押井クラスのアニメを作らなければならない、というプレッシャーを感じる。実際そんなことはできないのだが、そのくらいの覚悟は求められる。しんどい。しんどいのである。
だから大抵の創作者は安易にオマージュをしないし、やるとしてもバレないようにする。それは賢明な判断である。別にそんなルールは無いのだが腰が引けてしまう。
と、ここまで書いてきて、なんとなく今敏の「千年女優」と方針似ている気がしてきた。現実と妄想が入り混じる感じそっくりである。もしかすると「アニメ好きによるアニメ作りのアニメ」というテーマを堅固にするために、大量のアニメ作品オマージュを配置したのではないか。
ただそれはアニメに限った話なので、原作漫画がどういう方針なのかは依然として分からず。
・恋する小惑星
髪色が個性的なのにキャラを覚えるのに時間がかかった。キャラが没個性的なのか自分の記憶力が衰えているのか原因は分からないが、とにかく印象が薄かった。作品がダメというか自分の脳みそが老化して楽しめなくなったのではないかと思って悲しくなった。
淡々とストーリーは進行していき、気がつけば先輩は卒業して新入生が入部して石垣島に行って、というところまでやって終わってしまった。このまま加速度的に物語が進行していくと、2期では大学卒業、就職まで決まってしまうのでは。それはそれで見てみたいものである。
と、嫌味を言ってみたが新鮮さを感じもした。
女子高生の日常を扱うアニメは大抵のっぺりした時間スピードだが、サバサバと進んでいく。その分感動も希薄になってしまうが。
MVみたいなEDは好きだったので毎回飛ばさずに視聴した。あと街や部室の風景をバックにLINE画面を切り抜いて写すのは今後も流行っていくと予想(とっくに導入されてたらごめんなさい)。スマホの画面アップにしたり、いじっているキャラの姿映しても味気がない。切り抜いて背景に映したほうが面白い。
その2へつづく
「トニオ・クレーガー」追記 その3
新型コロナウイルスの影響で混乱が生じていたがようやくブログの更新ができる。
まるでペストの如き、猛威を振るうウイルスの前に戦争前夜のような生活が続いている。ペストと言えばトーマス・マンの「ベニスに死す」でもペストが出てくる。
と、宣伝だけしておいて今回話すのは「トニオ・クレーガー」の方である。
あらゆる作家・批評家・研究者が指摘するようにトニオの主題は「芸術と市民」である(正確には「芸術家と市民」)。では芸術家とは何か、市民とは何か、という疑問を考えねばならない。
芸術家は分かる。いわゆるインテリで芸術をありがたがり、現実で真面目に生きる人を見下している連中ことである。金を軽蔑する=金の心配がないので、連中は全員金持ちである。世間知らずのお坊っちゃん。
では市民はどうかというと、実はこちらも金持ちなのである。ハンス・ハンゼンは材木屋、インメルタールは銀行頭取の息子である。他の登場人物も弁護士のお嬢さんとかそんな連中ばかりである。当然トニオも例外でなく、彼の父は名誉領事(地元の名士が務める)である。
なんだか書いていて腹が立ってきた。なぜ腹が立つのかというと、それは私が芸術センスのない庶民だからである。私だって芸術家にも市民にも属してないからトニオ・クレーガーのはずだが、お金持ちではないので仲間はずれである。
ついでに、日本では市民というと一般庶民を想像してしまうが、西洋の市民は「商売でのし上がった金持ち」である。共和制牛耳ってたのもこの連中であると思われる。この辺は言語のニュアンス問題であるので注意しないと勘違いしてしまう。
今日、トーマス・マンは時代遅れの作家である。100年近く前の外国人なので当たり前なのだが、例えばほとんど同級生のヘルマン・ヘッセはかなり日本で読まれている。「車輪の下」は自分も子供の頃読んだし、「デミアン」は「少女革命ウテナ」で引用されたことで有名である。
「芸術と市民」の最大の欠点はどちらもブルジョワであり、それより下の労働者階級や庶民にはあまり関心がないことである。というか庶民は馬鹿だと見下している(その後のドイツの末路を考えればその通りかもしれないが)。19世紀ならそれで通用したのだろうが激動の20世紀には対応できない。現実味がないのである。観念の遊戯だし、戦争の時代から絶望的に置いていかれている。
彼は第一次世界大戦後の1929年にノーベル文学賞を取る。54歳の受賞は今でも若いくらいだが、既に時代遅れの老作家のような認識をされていた、というのが私見である。当時は、塹壕戦での悲惨な体験をもとに「西部戦線異状なし」を書いたレマルクと弾丸が命中しても戦い続けたユンガーなどが最先端の文学者であり、彼らは悠々と亡命生活を送っていたマンとは現実に対する姿勢がまるで違う。
訳者の実吉捷郎が言うように、こんにちの一体どこにハンス・ハンゼンやインゲがいるのか、という批判をぶつけなければならない。とはいえ「トニオ・クレーガー」がソナタ形式で構成されていることもニーチェ哲学を体現させていることも指摘できなかった日本の研究者たちにそんなことを言う資格はないのだが。
結局、堀や太宰、三島など戦前生まれの作家が真剣に取り組んだだけで、たいして受容されないままカフカ・ブームを迎えてしまったというのが日本のトーマス・マン受容の現実である。
私の京アニ史 その3
「ここまで魂の遍歴を追ってきたわけだが」
「誰も追ってないけどな」
「私の京アニ史の続きをやっていく」
「前回の続きはこちら」
「5番目はこれ」
「これまた女子高生」
「痛いな」
「本作の特徴は日常と妄想のギャップにある」
「他愛ない高校生の日常がふとした拍子に、主人公の妄想世界に一変する」
「この妄想シーンを全力で描くのが京アニ」
「武器やら魔法陣やらはもちろん、戦闘シーンまで丁寧に、ダイナミックに映し出されるのでほんまもんの魔法大戦なんじゃと錯覚する」
「リアルを捨てつつ論理的に描く」
「論理を捨てつつリアルに描く、かもしれんで」
「どっちでもええわ」
「左様で」
「しかし、この妄想は物語が進むにつれ出てこなくなる」
「つまり中二病が治っていくわけか」
「劇場版ではほぼ出てこなかった記憶がある」
「少し寂しいけどそうやって大人になるんやろうな」
「ところで」
「なんや」
「この主人公、小鳥遊六花というのだが」
「たかなしりっか、と読む」
「難読ではないか」
「小鳥遊はさることながら六花も珍しいな」
「雪を指す言葉で結晶が六角形の花のように見えるのが由来らしい」
「雅なもんで」
「ともかく六花はライトノベル・アニメ辺りでよく見かける気がするので覚えておきたい」
「気がするだけなのか」
「珍しいから印象に残りやすいだけだと思われる」
「認知の歪みやな」
6.けいおん!
「お次はこれ」
「こちらも大人気作」
「一時期、軽音楽部へ入部する学生が増加したとかなんとか」
「実際はどうなんやろうな」
「ところで、けいおん!について知人がこんなことを言っていた」
「知り合いなんておったんやな」
「ほう」
「低めの角度からカメラを固定したかのようなカットが幾度か散見された」
「アニメだからカメラなんて無いけどな」
「便宜上や」
「便宜上か」
「そういう訳でけいおん!は小津の影響を受けているんではないかと」
「なるほどね」
「ただ『東京物語』の登場人物を見れば分かる通り、小津映画は役者の顔が死んでいる」
「抽象性を高めるために、棒読み気味で固い演技をさせるのが小津安二郎の特徴だった」
「監督はこのために何度も撮り直し、役者を疲弊させていたらしい」
「昭和根性物語である」
「では、平成の革新的アニメはどうかというと」
「みな表情豊かである」
「バンドの練習、ティータイム、文化祭、至る所で一喜一憂しておるな」
「この理屈でいくと抽象度は低いとなるな」
「アニメやし抽象度なんて気にせんでええんや」
「芸術映画ではないからな」
「そんでもって東京物語にあった『家族』及び『時間の違い』の主題もけいおん!にはない」
「主人公の両親は一瞬しか映らず、放課後のスローな時間は描かれど例えば、夢に向かって前へ進む(時間を進めたい)少女と漫然と生きている(時間が停止している)少女の対比といった構図も出てこない」
「まあ対立のない穏やかな日常を描いたのが本作の魅力やからな」
「というか軽音部での日々はまるで時間が止まっている。視聴者である我々もずっとこのまま対立のない、生温い世界に居たくなってしまう」
「青春ってそういうもんやろ」
「時折、誰もいない廊下や教室を数秒映すのも時間の停止を表現している」
「それに1期の11話で澪と律の仲違いがあったやないか。きちんと対立は描いてる」
「ああ作中"唯一"、不穏な空気が流れるあの回か。明らかに不自然で、まるで『きちんと対立や葛藤は描かれています』と言って欲しいかのように」
「何が言いたい?」
「いや君は良いところだけを取り上げて、闇から目を逸らしているんではないかと思ってな」
「おもろいもんをおもろいと言って何が悪い」
「その通り。面白いだけでなくとても癒される。少女たちがただ戯れる姿を飽きさせずに構成する、そんな作品は未だかつて存在しなかった。歴史に残る傑作。間違いなくここ20年で最高のアニメの一つと言っていい。」
「問題ないやろ」
「ゆえに影響も絶大で後のアニメ文化の潮流を決定づけた。良くも悪くも」
「"悪くも"ってなんや」
「少女たちの停滞した時間を愛でるあまり君の時間まで止まっているのではないか?少女たちの閉鎖的な空間を愛するあまり君まで閉鎖的になっているのではないか?君のそれは好きだからではなく現実逃避なのではないか?」
「そんなの余計なお世話や」
「あるいは逆か。君の時間が停滞しているから、君が閉鎖的だから、君が現実逃避しているから彼女たちを愛するのか」
「時代遅れのオタク批判はやめてくれ。それにアニメと現実の区別くらいつく。ただ癒しを求めていただけや」
「傑作を礼賛するだけでなく、癒しを求めるだけでなく、その素晴らしさの裏には闇が内包されていることを認識する必要がある」
「そんなこといちいち口に出さんでもええやないか」
「感傷に浸るだけが『私の京アニ史』ではないし、今だからこそ闇と向き合わなければならないんや」
「そうなのか」
「そうや」
「承服しかねるな」
「まあ今回は言い過ぎたわ、すまんな」
「ええんやで。こっちもすまんな」
「ええんやで」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
「神曲」の原題について
ダンテの「神曲」一通り読み終わった。
しかし、どうも「神曲」というタイトルがおかしい。違和感を覚える。
原題はLa Divina Commedia。直訳すると神聖喜劇である。ダンテ自身はCommedia、とだけ呼んだらしいが、あとから神聖が前に付いた。
(ダンテの時代にはCommediaに喜劇という意味は無かったとのことだがひとまず置いておく)
問題は日本に入ってきたときに「神聖喜劇」が「神曲」と訳されたことである。初出は森鴎外訳のアンデルセン「即興詩人」の中に出てくる。この翻訳がいかにも鴎外らしく、古語たっぷり格調高いもので、はっきり言ってアンデルセンの原型ほぼ無い。しかし、名訳だということでかなり評価高い。もはや日本文学コーナーに分類されてしまっている。
それで大文豪の鴎外が「神曲」と訳したのだから「神曲」なのだろう、という流れで今日に至る。今では素晴らしいタイトルだ、などと言われている。
しかし、内容読むと「神曲」という感じがしない。俗っぽい言葉遣い(トスカーナ方言)、冒頭が暗く結末が明るい(=喜劇)、社会風刺から「神聖喜劇」の方が適切だと思われる。
地獄巡りを通して、社会批判、教会批判がなされる「神聖なる喜劇」なのである。神なる曲というのはニュアンスがズレている。鴎外がどういうつもりで訳したのか非常に気になっている。とはいえ、文句言っても仕方ないので「神曲」というタイトルで統一していく。
以上ここまで読んだ感想なのだが、なにぶん14世紀の作品なので読み解き難航している。
それにしてもダンテは一神教特有の極端な考え方で、例えばムハンマドは地獄に堕とされている。その他異教徒やダンテの政敵たちも地獄に堕とされている。
こういうところ日本人の私には理解し難いのだが、神曲は西洋文学でも最上級の古典なので避けては通れない。とにかく進めていくつもりである。
「トニオ・クレーガー」追記 その2
「トニオ・クレーガー」ラストに出てくる二人組の男女はハンス・ハンゼンとインゲではない、という意見が翻訳者の間であるらしい。
はっきり言って不毛である。
仮にあの舞踏会にいたのが彼らではなく、赤の他人だったとしてもトニオの結論は変わらない。「僕は彼らのような純粋な市民にはなれないが、それでも彼らへの憧憬は忘れずにいよう」
というか、その辺はわざと濁してある。マンは比較的、一義的な文章を書く作家であるがこの場面では含みを持たせている。読者の自由であるから過度に考えすぎる必要が無い。
トニオの中間的、ニュートラルな結論は一見、二元論を超克している。しかし、結局のところその態度は中途半端である。よく言えばディレッタントであるが。
「芸術」と「市民」の二項対立が「芸術であり市民である」と「芸術でも市民でもない」にすり替わっているだけである。ここのあたり弁証法の限界だと思われる。
カントにしろ、ニーチェにしろ、マンにしろ、ドイツ人は相反する二つの世界で常にハイブリッドであろうとし続ける。それが西欧と東欧の間に位置するドイツの運命なのかもしれない。