神曲 追記その1
先日、「神曲」の解説記事をアップした。ファウストと同様、射程がややというかかなり広い作品なので、網羅的に説明するのが難しい。補足を加えて、もう少しまとまった記事に書き直さなければと思うが、ひとまずこれでいいことにする。
それでも、追記にしなければならないのは「視覚と聴覚」についてである。
神曲が優れているのは真に迫った情景描写である。地獄のおどろおどろしい光景、罰を受けて苦しむ大勢の罪人の姿、異種混交体ともいうべき魔獣の外観。ダンテは無論、地獄に行ったことない。しかし、「この人は行って見たことがあるんではないか」と思わせてしまうほどのグロテスクでリアリティある描写をする。
そして、ミケランジェロやダヴィンチがそうであるように、ヨーロッパはルネサンス以降、微細でリアルを重んじる目の文明になっていく。
これは三位一体の子=キリスト=視覚の存在感が強いカトリックの特徴である。とにかく、キリストのウェイトが高い。そのキリストを持ち上げるために視覚表現が発達したのではないか。
その一方で、叫び声や轟音、汚い罵り合いなど聴覚に関する描写も多々ある。大量にある罪人や贖罪者との対話も聴覚表現である。メインは視覚表現であるが、聴覚に対する反応も高い。
煉獄は制限時間付きの地獄なので叫び声や言葉を失うはあるが、ダンテが気絶したり、眠って夢を見たりするシーンが多い。地上楽園に入ると、あまりのすばらしさに文字通り言葉を失うし、視覚も超越しかける。
天国篇になると、視覚、聴覚ともに表現が雑になる。「この美しさは表現のしようがない」「言葉に書き表せない」と。それを表現するのが詩人なり作家なり芸術家の仕事ではないんだろうか、とツッコミたくなる。
なんで表現できないかというと神に近づいているからである。無限なる神は有限な存在である人間の視覚や聴覚など超越してしまっている。というか、表現してしまうと無限なる存在で無くなってしまう。それは由々しき問題である。
いよいよ、ラストになると目も潰れ、耳も聞こえなくなる。そして、神のビジョンだけが頭の中に、つまり脳に流れ込んできて幸福な気持ちになって終了する。
余談だが、リストが「ダンテ交響曲」を作曲家するとき、地獄、煉獄と作ってワーグナーに「天国の喜ばしさを表現するのは不可能」と言われて天国を除いた2楽章にしたといわれる。
このエピソードから察するに、天国篇を下敷きにした作品はほとんど、あるいは全く無いのかもしれない。地獄篇と煉獄篇はそこそこ確認されているが、天国篇はそういう噂を過分にして聞かない。
また天国篇は教皇批判がもっとも苛烈で、ダンテの死後にようやく発表されたくらいなので、色々とヤバイ作品である。
正直な感想を言うと、ダンテは情景描写は上手いが会話シーンは下手くそである。あなたはどこの出身?→私は〇〇の生まれです→何の罪でここに?→それは〜、みたいな単調な受け答えしかないので退屈で仕方ない。視覚と聴覚の両立に挑戦してはいるが視覚しか成功していない。
「Re:ゼロから始める異世界生活」について語るの巻
「というわけで、『Re:ゼロから始める異世界生活』について語っていこうと思うんやけど」
「なんで毎回毎回、話題の振りが唐突なんや」
「いや、照れくさいやんか。かしこまって、気を付け、礼して始めんのが」
「気を付け、礼はせんでもええけど、今更リゼロをやる理由を教えてくれるか」
「実は年明けから再放送してたのを見てて興味が出た次第や」
「新編集版と題して、2話分まとめて一時間で放送してたやつか」
「せや」
「つい数か月前の話なのに遠い昔のように感じるな」
「コロナですっかり新作アニメが放送できんくなってしまった」
「悲しいな」
「せやな」
「本題に入ると、リゼロは長月達平の同名ライトノベルが原作で、俗にいう『異世界系』なのだが」
「蓋を開けてみると、はっきり既存の異世界系やなろう系に批判的な内容となっている」
「引きこもりで、取り柄のない主人公がある日突然異世界に転生。魔獣や強敵を前に孤軍奮闘の大活躍。可愛いヒロインたちに囲まれて幸せ一杯」
「さすがにそこまで露骨なのは無いと思うけどな」
「全然あるしむしろそういうのが売れているらしい」
「そこは『らしい』なのか」
「本屋でぱっと見た感じなので断言できん」
「なるへそ」
「具体的に何を批判しているのか、というとこれは『SAO』ではないか」
「ほう」
「SAOの悪口については一年前に書いた」
「悪口を書くなて」
「主人公キリトは引きこもりのゲーム中毒者で、ソードアートオンラインなるネットゲームに閉じ込められ、黒のコートを着こなして「黒の剣士」の異名で周囲から孤立し、本名も知らん娘とNPC幼女の三人で家族ごっこを開始し、最終的によく分からんチートでラスボスを倒した、くらいのカッコいいヒーローである」
「それだけ聞くと完全に狂人やな」
「SAOとリゼロの設定などを比較してみた。発表年は原作の単行本が刊行された年にしている」
「対になっているな」
「どちらも異世界なのだがリゼロの舞台設定がどうなのかイマイチ言及されていなかった」
「アインクラッド編はゲーム内での死が現実世界での死に直結している。反対に、リゼロのスバルは何回死んでもスタート地点に生き返ってしまう能力を持つ」
「スバルは死に戻りの秘密を周囲に話せず孤立して、キリトは第1層のボス撃破直後に自分がβテスター(お試し版既プレイ組)であることを公言して孤立する」
「対応箇所が色々あるが、一番注目すべきは主人公の性格にある。性格の相違点こそがリゼロの最大の主張である」
「性格か」
「キリトはヒロインが傷つくと怒りで覚醒する」
「それ自体は悪くない」
「しかし、怒りに身を任せるあまり、視野が狭くなり周囲に迷惑をかけている」
「キリトくんは近視眼的というか単細胞なんよね」
「反対に、スバルはエミリアの危機を助けようと躍起になるが全然上手くいかず苛立つ。やがて過剰な英雄精神は歪んだ憎しみに変わり、周囲の人々に八つ当たりをする」
「エミリアやレムに思春期特有の情けないやつあたりをするシーンはかなりキツイものがあった」
「しかし、それこそが本作が描きたかったメッセージでもある」
「そもそもの話、引きこもりのニートでしかなかった人間が異世界に来たら英雄になれる、という発想自体がおこがましいねん」
「そのうえ交渉のテーブルに立てへんおつむの弱さときた」
「救いようがない。現にスバルは絶望的なニヒリズムに陥った」
「まとめるとリゼロがSAOをひいては異世界系の批判点として『現実逃避的な英雄精神が生み出す絶望』であり、さらに言うと『身の程を弁えて知恵を絞れ』である」
「とはいえスバルもずっと側にいたレムの支えで復活しちゃう単細胞なんやけど」
「別に単細胞なラノベ英雄譚を否定しているわけではない。視野を広げて冷静になれ、と言っているだけや」
「そうか」
「ついでに話しておくと」
「なんや」
「リゼロの悪役ペテルギウスとキリトの声優が一緒なんや」
「それはただの偶然やないの」
「確かに、アニメ限定の話である。これでペテルギウスが愛する女性を誤って殺してしまったとかいう過去があればキリトくんの過去と整合性がつくんやけどな。こればっかりは原作読まな分からんね」
「伴侶殺しはるろ剣から続く剣士の伝統やからな」
「しかし、これだけではSAOが、というより単なるアンチ異世界系であるだけな気がする」
「そう来ると思ってだな」
「なんや」
「魔女教に七つの大罪というワードがあったやろ」
「あったな」
「まあそうやな」
「仮に、神曲ーSAO-リゼロが繋がっていたとしたら」
「繋がっていたとしたら」
「こんな感じで対応表を作ってみた」
「茅場とウェルギリウスが対応しているのが納得できへんねけど」
「茅場は確かに悪役だが、ファントムバレット編の最後で判明したように難病患者のためのフルダイブマシーンを開発していたように完全な悪人という訳ではなかった。それ以降の展開でもキリトたちは知らず知らずのうちに茅場に導かれていくような場面に出くわしている」
「SAOは次のフェアリーダンス編でもシェイクスピア「夏の夜の夢」を参照している風だったが、内容は大して関係なかった。オーベロンとティターニアの名前が出るくらい」
「どちらかというとゲーム内の世界観構築に興味があるっぽいな」
「しかし、こちらをご覧いただきたい」
「神曲の煉獄山やな」
「続いてこちらをご覧いただきたい」
「SAOのアインクラッドやな」
「似ていないだろうか」
「はい?」
「煉獄山とアインクラッドの形状が似ていないだろうか」
「いや、まあそう言われればそうやけど」
「各フロアが円形であること、上に行くにしたがって先細りになる、最上階でゴール(地上楽園・現実世界)に到達」
「しかし、まあ内容での整合性が取れんからイマイチやな」
「考察不足の面もあるから食い下がってやろう」
「なぜ偉そうなのか」
「最後にリゼロの最終回、エミリアとの会話シーンなんやけど」
「エミリアに膝枕されているシーンか」
「非常に楽園ぽい」
「ということは煉獄山の頂上にいる」
「そしてスバルとエミリアの間でこんな会話が続く」
スバル「君が自分の嫌いなところを10個言うなら、おれは君の好きなところを2000個言う。おれは君をそうやって、おれの特別扱いしたいんだ」
エミリア「されて嬉しい特別扱いなんて生まれて初めて。どうして2000個なの?」
スバル「おれの気持ちを表現するのに100倍じゃ足りねーからだよ」
「この2000個、100倍云々はどういう意味なんやろうか。よく分からん」
「さきほどの説を採用すれば今スバルたちがいるのは煉獄山の頂上であり、アインクラッドの頂上である」
「うむ」
「そして『100倍じゃ足りねーから』というのはアインクラッド全100層のことを指し、要約すると『我々はSAOの欠点を克服して上回った』という宣戦布告になる」
「えらい攻撃的やな」
「攻撃的な作者なのかもしれない」
「しかし、原作者のTwitterを覗くとこんなツイートがある」
ソードアートオンラインなのに、アニメの途中でソードアートオンラインがクリアされてしまった…いったい、どうなるんだ…。
— 鼠色猫/長月達平 (@nezumiironyanko) 2017年4月23日
オーディナルスケール見てきた。
— 鼠色猫/長月達平 (@nezumiironyanko) 2017年4月27日
最後のアスナのスイッチ見て泣かないのって不可能ではないのか?(デジャ・ビュ)
「なんやこれは」
「リゼロの原作者は別にSAOに批判的なわけじゃなさそうやな」
「いや、これはフェイクかもしれん」
「まだ言うか」
「作家というものはみな嘘つきであり、作品の真意を簡単に見破られることを激しく嫌う。そのためだったらインタビューだろうがTwitterだろうが嘘をつくに決まっている」
「無茶苦茶や」
「無茶苦茶で何が悪い」
「ここまでくると陰謀論やな」
「読み解きは基本的に陰謀論やぞ」
「まあそんな感じで2期の放送を首を長くして待とうかなと」
「その前に自粛を解除してもらわな」
「事態の好転を切に願いながら」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
「神曲」解説【ダンテ・アリギエーリ】
リストの「ダンテ交響曲」
イタリアの国語
これら全部ある作品の影響を受けたと言われています。西洋文化に巨大な足跡を残し、ルネサンスへと導いた古典、それが「神曲」です。ただし、宗教、政治、科学、哲学...と扱う分野の射程が広すぎるためグロテスクな完成度になっています。現代の、特に日本人には皆目良さが伝わりません。一つ一つ紐解いていこうと思います。
詳細は闇の中
「神曲」はイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが作った詩です。完成は1321年ごろだとされますが、よく分かっておりません。なにぶん中世の作品ですので、解釈を巡って研究者の間で意見が割れています。「昔はこういう解釈だったけど近年それが間違いだった」「言葉足らずで意味不明」そういう箇所が続出します。
一つだけ確かなことは、「神曲」という作品が中世から現代に至るまで多くの人々に読み継がれてきた古典であることです。どれだけ細かい部分の解釈が揺れようとも、知識の間違いを指摘されようとも、「神曲」の評価は揺るぎません。
ということは、「神曲」の本質を知るにはミクロではなくマクロな視点を持つことが大切だと考えられます。
そこで本稿では細かい、ミクロな部分には目をつぶっていただいて、大雑把に、マクロな部分に着目して解説していきます。詳細は専門家に任せればよいのです。
それでも気になる方は講談社学術文庫の原基晶訳を読んでください。2014年に出た新訳なので分かりやすい上に、丁寧な注釈と解説が載っています。理由はあとで説明しますが、三位一体を意識して三行一組で分割しているのも素晴らしいです。
あとは漫画でイメージを付けることです。こちらは永井豪による「神曲」の漫画化です。さすがはデビルマンの作者。本物の地獄を味わうことができます。
前置きが長くなりすぎたので始めていきます。
登場人物
最初に登場人物です。先述の通り、神曲ではキャラが大量に出てきます。覚えられません。なので重要人物を4人だけ挙げます。この4人さえ把握すればとりあえずは「神曲」攻略できます。
ダンテ
主人公です。そして作者自身でもあります。物語開始時点では地獄の辺境をさまよっています。臆病なタイプで地獄のモンスターにしょっちゅうビビってます。たびたび気絶して夢(幻視)を見るのも特徴です。職業は詩人で、かなりの腕前であることが死後の世界にも伝わっています。
旅に必要なのは頼れるガイドです。特に地獄巡りなんか道に迷ったら最期、悪魔や魔獣に殺されてしまいます。これから紹介する3人はビビりのダンテのために地獄・煉獄・天国を案内してくれます。
古代のローマの詩人です。代表作「アエネーイス」はローマ帝国建国を謳った詩として崇められる伝説の詩人です。
古代ローマということは紀元前の人です。ダンテは14世紀の人なので、かなり世代間ギャップのある二人旅です。おっさんと若者どころではありません。日本で例えると、弥生時代と鎌倉時代のコンビになります。時代が離れすぎてイメージ全然湧きませんね。
ともかく主人公ダンテは伝説上の人物の案内で死後の世界を歩んでいくことが分かればよいと思います。
ウェルギリウスは地獄篇第1歌から煉獄篇第30歌までガイドを担当します。
本作のヒロインです。そんでもってガイド2号です。
ダンテが幼少のころに出会った年上の美女で恋心を抱くのですが、24歳の若さで死んでしまいます。美人ですがダンテには少し冷たく、威厳のある感じで接します。
実在の女性をモデルにしたのか作者の妄想なのか議論が絶えないようです。一つ確かなことはダンテが年上お姉さん好きだということです。なんだかラノベ・ネットコミックでありそうな設定ですね。
煉獄篇第30歌から天国篇第31歌まで担当します。
ベルナール
ガイド3号です。カトリック教会で聖人とされるおじいさんです。
もっともこの人はあまり重要ではありません。なんせ登場するのが天国篇の第31歌から、つまり三部作の最後の最後にしか登場しないのです。
以上、4人の紹介を終えました。
「いや、もっとたくさんいるだろ」という声が聞こえてきそうです。他に登場する人物、異形のモノを分類すると以下のようになります。
(1) キリスト教関連の人物
(2) ギリシャ神話の神々及び魔獣と古代の哲学者
(3) ダンテと同時代のイタリア人たち
(1)イエスやマリアなど有名どころはみなさん知っています。これがパウロやヨハネなども「なんとなく名前聞いたことあるな」レベルであれば問題ありません。
(2)ギリシャ神話の神々はソシャゲやカードゲームやってた人ならだいたい察しが付くと思います。ゼウスとかヘレネーとかテーセウスとかオデュッセウスとか。あと魔物は基本的に異種混交体です。代表的なのはケンタウロスとかの半獣半人です。おどろおどろしいイメージが湧けば十分です。
古代ギリシャの哲学者はソクラテスとかプラトンとかです。ずらっと出てくるだけで名前を覚える必要ありません。
(3)ダンテの同時代人についてはファリナータという人以外は覚える必要ありません。ファリナータは煉獄篇の途中から旅を共にします。実際のところはあの当時にタイムスリップしないと分からないからです。しょせんは中世の内輪ノリなので気にせず読み進めていきましょう。
ダンテはキャラ戦略をあまり重視していません。というかほとんどの人物は出番が一回きりです。モブです。なんせキャラ同士の会話もほとんどワンパターンですから。代わりに全体構成こだわっています。
あらすじver1
地獄の周辺をうろついてたダンテは3人の人物に導かれて、罪人や悪魔、聖人たちと対話をしながら地獄・煉獄・天国を巡り、最後は宇宙の至高天で神の神秘に触れて終了です。
あらすじver2
地獄篇
主人公ダンテは森で一人迷っています。不安です。よく見るとそこは地獄です。そうこうしていると狼が現れました。まずいです。絶体絶命です。
するとそこにウェルギリウスが登場します。彼はかつてダンテの憧れの女性で今は地上楽園にいるベアトリーチェの頼みでダンテの導き手になってくれます。狼を追い払うと地獄への冒険がスタートです。
地獄巡りでは責め苦に遭う罪人、異形の魔獣、悪魔などが存在するグロテスクな世界が待っていました。ダンテは彼らに質問したり、ウェルギリウスと会話しながら最下層まで下っていきます。なんか工場見学みたいですね。
最下層のコキュートスを見学したあとは地球の核、マントルを通過して南半球にある煉獄山へ向かいます。「マントルを通過できるわけないだろ」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が爆発しているだけです。
煉獄篇
ダンテ一行が南半球に出るとそこには煉獄山がそびえ立っていました。
登ってみるとフロアが七つに分かれており、それぞれ七つの大罪に沿って罪人たちが罰を受けています。なんだか地獄と似ていますが異なる点があります。
同じようにウェルギリウスの案内で煉獄の各フロアを見て回ると頂上には楽園が存在していました。そして、そこにいたのがベアトリーチェです。ここからの案内は彼女になりまして、ウェルギリウスはお役御免で元々居た地獄のリンボに帰っていきます。
地上楽園でキリストを中心に神秘的な行進の中にベアトリーチェの姿を見ます。この辺はキリスト教の深遠さ、偉大さをアピールするための記述が続きます。
天国篇
煉獄山の頂上からベアトリーチェとともに宇宙を旅します。「宇宙服もロケットもなしに宇宙に行けるか」と無粋なツッコミをしてはいけません。作者の妄想力が(以下略)
星々にいるのは生前善き行いをした者、聖人たちです。ベアトリーチェの案内を受けながら、彼らと対話をしていきます。
やがて最終地点である原動天に到着し至高天に入ると、ガイドがベアトリーチェからベルナールに交代します。そして、ついに神の神秘と対面します。もっともダンテ曰く「無限なる神を人間ごときが見ることも記述することもできない」そうで、断片だけ匂わせて終了します。なんじゃそりゃ。
地獄・煉獄・天国の構造
神曲の死後の世界はとても面白い形状・構造をしています。
地獄
円錐を逆さまにしたような形をしています。一番上の地獄の森がスタート地点で下に向かって、回りながら降りていきます。
煉獄
上の画像が煉獄山です。見ていただきますと、各フロアが円形になっており上に行くにしたがって先細りになっているのが分かります。
上部の7階は「七つの大罪」に沿っています。第一の罪:高慢が最も重く、第二、第三と罪が軽くなっていることを示しています。
山頂に地上楽園があります。煉獄は地獄と天国がミックスした不思議な空間です。
地獄と異なるのは「制限時間」があることです。煉獄では一定期間、贖罪をすると解放されて天国に行けるシステムです。なんだか現代の懲役制度と似ていますね。両目を縫われたりとか、石を背負うとかスケールが違いますけど。
そもそもキリスト教の世界観では死後の世界は天国と地獄しかありませんでした。天国に行けるのは善人、地獄に行くのは悪人です。しかし、このシステムには問題があります。
それは「善人とも悪人ともいえない微妙なライン」の人々です。
例えば、
「悪いことをしたけど最期に改心した」
「地獄に堕とすほど悪人ではないが、天国にそのまま送る訳にもいかない」
こういうケースを白か黒かで判定するのは至難の業です。あんまり理不尽にやるとキリスト教への不信が高まり信者が減っていく可能性もあります。
なので天国と地獄の中間を取った施設が煉獄になります。罪人は地獄と同じように罰を受けますが、罪の重さによって滞在時間が決まっており、終わればめでたく天国に昇天できます。なんだか都合がいい話ですね。現に煉獄は聖書には書かれておらず後から作られた概念です。
天国
宇宙では月→水星→金星→太陽→・・・と星々を巡っていきます。もちろん中世ですので地動説ではなく天動説です。ただし、地球が丸いことは分かっていました。そういう時代です。ダンテもプトレマイオスの宇宙観をもとに物語を展開させていきます。
天動説は地球が中心になっていることで有名ですが、ここで重要なのは星々が公転している軌道の外側で星々を動かしている存在、原動天です。さらにその奥には大いなる神が待つ至高天があいります。ここから全宇宙をコントロールしている、いわば指令室です。
現代人はガリレオを異端審問にかけた教会を「愚かだ」と馬鹿にできますが、神が天地を、宇宙を創造したと主張するにはどうしても天動説というストーリーが必要だったのです。まあ実際間違いだったのですが。
という感じで地獄から降りていって、最終的に天国へと昇ってくプロセスであることがお分かりいただけたと思います。上ったり下ったりと方向が分からなくなりますが、実はずっと一直線に進んでいるだけです。重力の向きが変わっただけです。
このプロセスには元ネタがあるそうで「階段の書」という書物なのですが、実はイスラム教の死後の世界を描いた作品なのです。地獄の描写が似ていることと導き手がいることから影響を受けているのでは、と指摘する研究者もいます。
しかし、「階段の書」は現段階で日本語訳が無く、入手も大変そうなので読めていません。考察不足なのです。ただ訳者の原が言うには「神曲」とは逆の天国→地獄というプロセスらしいので、関連性は強いと睨んでいます。
死後の世界の概要を掴んだら、次はキリスト教の中心教義三位一体についてです。
三位一体教義
三位一体教義については下の記事に説明があります。
では「神曲」どうなんだ、というと聖霊に関する描写がいくつかあります。しかし、視覚と聴覚がごちゃ混ぜになっています。つまりカトリックと同じ路線です。
天国篇第10歌冒頭から引用です。
第一の、言葉で言い表すことのできない御力は、
自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、
子を深く見つめることにより、
この場合、御力= 父、子=キリスト、愛=聖霊です。「自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、」は「父と子が発する生まれる聖霊を通じて」と言い換えることができます。
三行韻詩
「神曲」は全体を通して「三行韻詩(テルツァ・リーマ)」と呼ばれる技法が用いられています。
なんで「三行韻詩」を採用したのかというと三位一体教義を取り入れるためです。一つの組に三つの行が入っている。一なる神と三つなる神。
三行一組になっているばかりでなく、aba-bcb-cdcという風に組どうしで掛かっているようです。これを全100歌やるのだからダンテは凄い詩人です。反対にいうと、これだけでも作るの労力がかかるので物語の展開が単調になるのも仕方ありません。
そもそも詩は音楽に近い多義的な言語を扱います。つまり抽象的で意味ふんわりしている。しかし、ふんわりしたままでは困りますので形式に当てはめてコントロールしています。音楽でもソナタやロンドなどの形式がありますね。
全体構成
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani15.pdf
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani14.pdf
「神曲」の構成研究は進んでいまして、上記の研究書は全体構成についてかなり詳しく解析してあります。著者は 慶応義塾大学の藤谷道夫先生です。以下では藤谷先生のお力も借りて進めていきます。
通常、小説なんかですと物語の流れに沿って分割できるのですが、「神曲」は見学して対話しての繰り返しでストーリー性がありませんので、死後の世界の「場所」で分類します。
ここでも3編ともに3つに分類です。三位一体です。
さらに、場所の数についても外部と内部で分類しています。地獄と天国は1+9=10個、煉獄は3+7=10です。煉獄だけはパターンが少し違うようです。
各編それぞれの構成
実は神曲三編には一貫して3と7の数字が頻出します。勘の良い読者ならお気づきですが、3+7=10という簡単な計算式です。10はキリスト教の完全数です。そんでもって全歌数は100(=10×10)歌です。「神曲」は一貫して数学的構成なのです。
地獄篇
主に3が頻出です。7も少し出てきます。
地獄篇で注目すべきは、第七圏と第八圏です。
第七圏は3つの小圏に分かれています。これは次の煉獄を意識してのことです。
第八圏は10の巣窟に分かれています。そのことが直前の第17歌の「10歩進む」で暗示されています。
煉獄篇
ダンテは七つの大罪をそれぞれ3歌ずつに割り振っています。いわば7×3の構造です。歌の途中で、次の環道に進んでいるパターンもありますが美しい構造です。煉獄篇のテーマ数7と三位一体の3を掛けています。この辺はさすが天才詩人です。
そして、そのことが直前の第17歌で暗示されています。
ダンテは煉獄門の前で胸を3回叩き、3つの段差を登って、天使から額に7つのPの印字をされるのです。かなり凝ってますね。
天国篇
実は天国篇は地獄、煉獄と比べると構成力が弱いです。代わりにオカルトチックな世界観が前面に出ています。神の領域に入りかけているのです。数学という理性が弱まって信仰心が強まっています。
それでも、最後はきっちり締めようと思ったのか、第33歌のラストは数学的であり神秘的です。
人間であるダンテと神の劇的なクライマックスです。といって神を見ることも聞くこともできませんので、イリュージョンが流れ込んでいるだけです。神を描くこと自体が異端になってしまいますから。
全部で22行あり、3行1組が7ペアあります。3×7=21です。天国篇のキーナンバーは10(=3+7)なので、3と7を使った数学的な構成です。
しかし、最後の1行が余っています。気持ち悪いですね。気持ち悪いですが、この説明は後に回します。
政治批判
「神曲」の裏テーマとして政治批判があります。もっと言うと、教皇批判です。
ダンテが生きたのは共和制ローマの時代でした。共和制とは金持ちが主体となって政治を行う体制です。金持ちという言い方が下品なら市民といってもよいです。
ただ上手くいかなかったみたいで代わりにローマ教皇を立てる勢力(教皇党)と神聖ローマ皇帝を立てる勢力(皇帝党)が誕生し、対立しました。
二つの勢力の争いの中でダンテも追放の憂き目に遭っています。そして政治もやっていた教皇の権力が膨張していました。というか宗教改革前の教会の権力なんてヒトラーやスターリンも真っ青の超絶権威なので、ダンテは相当度胸があります。
ダンテは教皇党です。しかし、宗教と政治はきちんと切り離すべきだと考えました。聖俗分離、政教分離です。ドイツからやってきた神聖ローマ皇帝がイタリアを救出し、政治を執り行うことを望んでいたのですね。派閥にとらわれないバランス感覚。
結果的にどうなったのかというと、教皇がそのまま力を強め、皇帝がイタリアを統治することはありませんでした。ダンテは天才詩人でしたが彼をもってしても世界の流れを変えることはできませんでした。ローマ帝国の復活なんか所詮ロマンでした。この辺は切ないですね。
しかし、その勇気は称えられるべきです。
当時の文学者はプロパガンダするのが普通だったようですが、ダンテは異議を発し金銭欲にまみれた教会及び教皇を非難しました。誰もが怖くて口に出せなかったことを書いたのです。例えば、独裁政権の圧政に苦しむ国の作家は「神曲」読んでその勇気に励まされたんじゃないでしょうか。
国語
当時は書き言葉と話し言葉が分離していました。書き言葉はみなラテン語でしたし、教養のある人間ならラテン語を使ってナンボ、という価値観が大勢を占めていました。
現代において、「神曲」は権威ある歴史的な古典という扱いですが、当時はライトノベルの台頭と同じくらいの衝撃があったはずです。
何より俗語で書かれたことで民衆も読むことができました。以後、各地でバラバラだった言語が統一され、イタリア語の基礎となりました。国民意識の向上、つまり「国語」の誕生です。
イタリアの国語を語る上で「神曲」は欠かせない存在なのです。
貨幣観
ダンテは金に目がくらみ汚職を繰り返す聖職者と大商人を地獄に落として糾弾しています。反対に清く貧しく信仰を貫いた者は聖人扱いです。
地獄の第八圏第十巣窟(第29歌と第30歌)では、錬金術師を貨幣の偽造者として罰しています。ここで注目すべきは、第30歌のアダーモ博士とシノンの悪口合戦です。
アダーモ博士はグイド伯爵家の命令で贋金造りに手を出して火刑に処せられました。シノンはトロイア戦争時のギリシャ人で、トロイの木馬でスパイとして活躍したことで有名です。地獄ではそれぞれ水腫患者と熱病患者になっているのが対になっています。
貨幣と言葉は先ほどの国語の話と深い関係があります。
金属貨幣から紙幣へ移行するには国内での言語の統一が最重要です。貨幣とはつまるところコミュニケーションツールでして、言葉が通じないなら、貨幣の意味をなさないからです。
順序としては通常言語→貨幣で発展していくようです。この「順序」をきちんと踏むことが大事でして、手順が前後すると大変な目に遭います。
では、「手順が前後する」とどうなるのかというとジョン・ローみたいになります。
ローの失敗は言語の全国統一の前に紙幣を導入したことです。言語の統一がまだだったフランスでは、錬金術師のように見られていたと思われます。現にアダーモ博士は錬金術師だとして火炙りの刑で死んでいます。
「神曲」がイタリアの国語の基礎となったことは話しました。ということはダンテの時代には言語がバラバラであったということです。つまり、まだ紙幣を導入する段階ではない、ということです。そもそもペーパーマネーの概念すらありませんが。
ダンテがそこまで理解して通貨発行に否定的だったのかは分かりません。たぶん理解していなかったと思います。しかしジョン・ローのような失敗をしないという点では、結果的に正しい選択でした。
これがローより数十年後、ダンテより数百年後のゲーテだと通貨発行を推進しています。実際に「ファウスト」はキリスト教批判が満載です。しかも主人公のファウストは錬金術師です。とはいえ神曲もファウストも教会を弾劾しているのでよっぽどだったのでしょう。
西洋には二つの異なる文化があります。一つはキリスト教文化、一つはギリシャ文化です。二つの文化をなんとかドッキングさせようとしてきたのが古今の文学者たちです。
ゲーテ「ファウスト」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」はその代表例です。異文化のドッキングは大変しんどい作業のようで、それに挑んだ作品は傑作として評価されています。
しかし、ドッキングに成功したから物語の完成度が高いわけではないのです。傑作度と名作度は必ずしも比例しません。現にファウストの第二部はダラダラしていて面白くありません。(逆に第一部はスピード感あって面白いですね)
もっともカラマーゾフだけはどちらも両立できたようですが。
ドッキングといっても二つの世界のキャラクターがごちゃ混ぜで登場するだけです。ヘラ、ユーノー、ミノタウロス、アケローン、オデュッセウス等々。ただし、格付けがあります。キリスト教キャラの方がギリシャ神話キャラよりも扱いが上なのです。現に、天国に行けば行くほどキリスト教キャラ多く、地獄ではギリシャ神話キャラの方が多いです。あくまでキリスト教がギリシャ神話を飲み込むという、上下関係があります。
時間観
キリスト教の時間観は直線時間です。正確には、始点(天地創造)と終点(終末に千年王国が訪れる)があるので、「線分」時間なのですが。
しかし、時間は円環だと考えた方が自然です。日が昇って沈んでまた昇る。春夏秋冬が繰り返される。「時間」というものは回り巡るものです。
かくいうギリシャ神話も円環時間を採用していまして、直線時間のキリスト教と矛盾が生じています。ドッキング作業の問題点ですね。ダンテもここの部分で相当頭悩ました気がしてなりません。直線時間と円環時間、どちらを採用するか。
結論から言うと、ダンテは答えを出せませんでした。
天国篇第10歌から引用します。
天国篇では「10」が重要ですから第10歌は当然ウェイトが高くなります。ダンテの比喩で分かりづらくなっていますが、神の花嫁=教会、花婿=キリスト、愛=聖霊です。当時開発されたばかりの時計や「栄光に満ちた輪」から限りなく円環時間に近づいています。しかし、キリスト教の世界観も否定しません。つまり、どっちつかずです。
円周率
ところで、円というと「円周率」の話が必ず出てきます。中世の円周率は22:7で表すのが通例でした。メソポタミアの時代から現代まで数学者を悩ませてきた問題、それが「円周率の計算問題」です。3.14159・・・と続く数の終わりを発見しようと躍起になります。なぜ西洋人はそこまでこだわるのでしょうか。
スーパーコンピューターでも計算しつくせないのですから、やはり円周率は無限なのです。しかし、円周率を無限数と認めるとキリスト教に都合が悪かったのです。中世の学者はみな神学者でしたから。
彼らの問題点を洗い出すために、AパターンとBパターンのストーリーを用意しました。
A:円は神の被造物である→円にも神の真理がある→円環時間が本源的→線分時間の崩壊→神と人との契約も無効→信者離れる
B:円は神の被造物ではない→神以外に無限な存在がある→唯一神の権威失墜→信者離れる
円周率を無限数と認めるとA、Bどちらもキリスト教教義の崩壊を招いていしまいます。だから何としてでも円周率の終わりを計算する必要がありました。まあ知的好奇心もいくらかあったのでしょうけど。
ダンテは詩人なので計算はできません。
では、いかにして「キリスト教と円周率」の問題に立ち向かったのか。天国篇第33歌ラストに戻ります。全体を構成していた三行韻詩のことも合わせて思い出してください。
ここで、中世の円周率が22:7であることを踏まえると、
詩行:三行韻詩=22:7
となります。
神の完全数10と三位一体の3を引くと7が出てきます。
「7」という数字はキリスト教と円周率を結ぶ架け橋だったのですね。そして、ダンテの提示した時間観は「時間は直線的でもあり円環的でもある」です。二つの矛盾した価値観の両立とも言えますし、結論出せなくて中間策に逃げたとも言えます。無理のあるドッキングです。
イスラム教
「神曲」誕生にはイスラム文明の存在が欠かせません。にも関わらず、ダンテはそのことを隠そうとしています。あろうことか、ムハンマドを 地獄に堕としています。イスラム社会への恐怖からくる反発心です。
まとめ
こうしてみると「神曲」という作品は二つの矛盾したものを両立させるという意志にあふれているのが分かります。皇帝と教皇、キリスト教文化とギリシャ文化(直線時間と円環時間)、三位一体と円周率、視覚と聴覚、貨幣と言語、信仰と理性.....
こういった志は必ずしも成功したわけではありません。中世クオリティのドッキングですので、地獄のキメラのようなグロテスク感があります。しかし、困難に立ち向かうダンテの姿勢は素晴らしいですし、後世の西洋人も尊敬の念を込めて読み継いでいます。
2020年冬アニメ感想 その2
マギア・レコード
まどマギの派生作品。スマホアプリが原作らしい。脚本は虚淵玄ではなく劇団イヌカレーであった。劇団イヌカレーさんを存じあげないのだが、宮沢賢治を匂わせるシーンが序盤にいくつかあった。第一話のモノレールが三陸鉄道もっと言うと銀河鉄道チック。カフェかなんかの窓にの名前にゴーシュ文字。駄菓子屋のイサド→「やまなし」のイサド。などなど。やたら賢治用語が多かった。
まどかとほむらの関係性はジョバンニとカムパネルラに似ているが、その精神を継承しているのか。最終回かと思いきやまだまだ続くようなのでどうなるか分からない。
ゲーム原作だからなのか、やたらキャラがバンバン出てくるのでどうしてもストーリーが薄くなっている感じがした。正直、まどマギ本編より面白くはない。
・Re:ゼロから始める異世界生活(新編集版)
数年前に人気を博した通称「リゼロ」。本来1話30分だが、新編集版ということで2話をまとめて60分で再放送していた。ラノベ原作ということもあって、流行りの異世界転生から無双モードのアレなのかなと思いきや真逆の路線で驚いた。
わざとらしい芝居がかった言い回しや主人公の子供じみた怒り、斜に構えた態度など見るに耐えない場面はあったが、かなり戦略的で野心のあるアニメであった。
この作品については気になることが多かったので、後日記事にする予定。
・劇場版SHIROBAKO
ぶっちゃけテレビ版より感動しなかったのだがそれでも良いなと思ったシーンがある。
宮森が仕事帰りに踊り出すシーン
なんかノリとテンションがクレヨンしんちゃんの「メイド・イン・埼玉」に感触似ていた。水島監督の初監督作品なので思うところがあったのだろうか。
ラストの劇中作アニメシーン
このシーンのBGMの出だしが、これまたクレヨンしんちゃんのオトナ帝国の「21世紀を手に入れろ」に似ている気がした。最も似ていたのは最初だけだったのだが。
この映画、全体的に哀愁が漂っているのだがオトナ帝国を意識していたのだろうか。監督は原恵一だが東京タワーを駆け上るあのシーンは水島監督が担当だったような。うろ覚えである。
個人的には深い感慨があったが納得できない点もいくつか。とりあえず新キャラの宮井楓がメインになっていること。そんなに佐倉綾音を出したかったのかと邪推してしまう。
まあそういう大人の事情も含めてSHIROBAKOらしいと思ってしまったので何も言えない。哀愁を振り切って前向きな気持ちになれたので良かったのである。
テレビ版SHIROBAKOがなぜ優れているのかは下のページを参考
トマス・アクィナスの功罪
絶賛、「神曲」解説書いている途中なのですが、あまりにも長くなりすぎたのと整理の意味も込めてPart2
前回、三位一体教義について簡単にまとめました。
前回はプロテスタントのことまで触れて終わったのですが、その前にトマス・アクィナスとスコラ哲学について書きます。
神曲はトマス・アクィナスの「神学大全」から影響を受けています。もちろん、すべての点でダンテはトマスに賛同しているわけではないのですが方針は一致しています。
では、その方針とは何なのか。
スコラ哲学
詳しい説明は省きますが、神学者たちの中でキリスト教と哲学の融合は行われていました。具体的には、カトリックとプラトン哲学の融合です。2~8世紀ぐらいの話です。そして生まれたのが教父哲学です。アウグスティヌスが有名ですね。
要するにキリスト教を哲学で補強することで正当性を高める戦略なのです。ギリシャ哲学でキリスト教の権威を高め、異教に信者を取られないようにしていました。
この宗教と哲学を混ぜる流れが強まってできたのが「スコラ哲学」です。英語のschoolはスコラが由来だそうです。では具体的に「理詰めでキリスト教について考える」をやるにはどうすればよいのでしょうか。
そこでスコラ学者が注目したのがアリストテレスです。
アリストテレスはプラトンと比べると理性的、科学的な態度であると知られています(というか今日の自然科学はアリストテレスから始まりました)。その活動の最たるものがトマス・アクィナスの「神学大全」でした。
ダンテもこのトマスの路線を採用しています。「神曲」には形相や質料といったアリストテレス哲学の用語が出てきますし、何より数学的な全体構成が理性を注入しようという意志にあふれています。
融合路線失敗?
しかし、どうもこの路線、カトリック的には失敗だったのではないでしょうか。
信仰と理性の融合、なんて聞こえはいいですが理性が発展する、論理的思考能力が養われてくると既存の信仰に疑問を持つ者が現れます。「今のやり方は神の教えに従っているのだろうか」「そもそも神はいるのだろうか」と。教会に逆らい始めちゃうんですね。
そして16世紀に入ると宗教改革です。ということはカトリックの分裂、プロテスタント誕生の戦犯はトマス・アクィナスです。トマスはスコラ哲学を完成させ、カトリックの権威向上に貢献しましたが、アリストテレスをくっつけたことはまずかったです。まあそれ以上に、教会は金に目がくらんで相当腐敗していたようですが。
アリストテレスは「世界に始まりも終わりもない」と主張したのですがトマスはこれを「論理的に反駁できない」と発言し、断罪されています。「始まりも終わりもない」ということはループ時間ですから直線時間のキリスト教から離れています。トマスも薄々円環時間が本源的であると気づいていました。
というか「オッカムの剃刀」なんかプロテスタントどころか無神論に近づいています。なんせ神の存在を記述から省いているわけですから。オッカムはスコラ哲学の所属です。カトリックにとってアリストテレス哲学を混ぜたのは、長期的に見て失敗だったのです。
イスラム教
ところで宮崎市定曰く、「プロテスタントはキリスト教のイスラム化」だそうです。なるほど聖典主義、聖職者なし、偶像崇拝否定など共通点は多いです。
正教はキリスト教の教えを忠実に守っていますがそれ故にイスラム教の勢いに負けています。つまりカトリックしかイスラムに対抗できていない。これは非常にまずいです。キリスト教が、西洋がイスラムに飲み込まれてしまうことを当時の人々は恐れていたはずです。
そもそもルネサンス以前の西洋社会はイスラム社会に大きく遅れを取っています。
例えば、紙です。イスラム世界では8世紀ごろには紙を使った文書記録が始まっています。それに対して西洋社会が紙を使い始めるのは12世紀です。400年の遅れです。
さらに、ダンテは「神曲」を執筆する際、紙ではなく羊皮紙を使用しています。つまり14世紀初頭のイタリアでは、紙の使用はさほど普及していなかったということです。
イスラムついでに、先ほど紹介したアリストテレスも実はイスラム圏からの輸入でした。アリストテレスはギリシャ人ですからギリシャ語で書いています。普通はギリシャ語→ラテン語経由で彼の著作を読んでいる、と想像します。
ところが、ダンテが読んだのは、アヴェロエスという人物が注釈したアリストテレスの著作でした。アヴェロエス(Averroes)という名は通称でして、本名はイブン・ルシュド(أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد)です。アラビア語ですからイスラム圏の人です。
スペインのコルドバ生まれのようですが、この地方は8世紀ごろにイスラム教徒(後ウマイヤ朝)に支配されるとイスラム文化が大量に輸入されました。教会とモスクが融合したメスキータはその代表例です。
後ウマイヤ朝が滅びるとこれまたイスラム教のムワヒッド朝が支配します。アヴェロエスはこの王朝でお医者さんとして仕えていたようです。
ということで、当時のアリストテレス哲学はアラビア語からラテン語に翻訳されたものでした。どうもローマ帝国が崩壊してから、アリストテレスは忘れ去られたらしく、代わりにイスラム学者が大切にしていたようです。大切にするばかりでなく、彼の哲学から数学や化学などの自然科学の学問を発展させることにも成功しています。
こうしたイスラム文明の知見を、イスラム教徒から吸収することで、西洋はルネサンスでの飛躍に繋げることができました。西洋文明の発達はイスラム世界のおかげ、といっても良かったはずです。
イスラムへの恐怖
にも関わらず、「神曲」ではイスラム教徒は地獄に堕ちています。特にムハンマドは第八圏第九巣窟で顔を裂かれています。グロいです。またダンテは先ほどのアヴェロエスの考え方にも反発しています。参照しているにも関わらず、です。
そもそもなぜダンテはキリスト教中心の世界を描き、イスラム教やその他の異教を排除しようとしたのでしょうか。
「時代的にそう考えても仕方なかった」
「ダンテの無知がイスラム教徒の迫害を助長した」
これらは西洋中心の歴史観で産まれた意見です。だいたい今日の世界史は西洋人が作ったのだからそう考えても仕方無いのですが本音は違います。
西洋人はイスラムに恐怖しています。
警戒しているなどという上から目線の態度ではなく、はっきり恐れているのです。イスラムの教えが西洋に蔓延したら、必ずキリスト教は飲み込まれ、西洋はイスラム化する。
そもそもキリスト教とイスラム教は兄弟宗教なので似通っていて当たり前なんですが、行動理念や信仰の面から言っても、一神教としての完成度はイスラム教の方が上なんですね。しかも文明のレベルではるかに遅れを取っている。同じ土俵に立ったら、キリスト教はイスラム教に負ける。その自覚があったから何回も十字軍を送りました。
その一方で、文明の発展のためにイスラムの知見を積極的に利用もしています。もちろん表立ってそんなことを言えば、キリスト教の沽券に関わるのでばれないようにやっています。だからイブン・ルシュドもアヴェロエスというラテン語の名前で紹介されています。恐らくですが、彼以外にも大量のイスラム学者がイベリア半島経由でヨーロッパに潜入していたと考えられます。毒を以て毒を制す、じゃありませんけど、さすがはヨーロッパ人。とても強かです。
日本が西洋文明を吸収しながらも必死に日本独自のアイデンティティを模索したように、西洋文明もイスラム文明を吸収しながら必死に独自のアイデンティティを確立したようです。もっとも感謝するどころか迫害を加えたのはまったくいただけないのですが。
ダンテの時代にはプロテスタントはありませんでしたが、プロテスタント化する兆しは「神曲」には含まれていました。地獄のリアリティある情景描写もさることながら、うめき声や聖歌など音に関する描写も多いのです。西洋(主にカトリック)は目の文明で、イスラムは耳の文明です。視覚を前面に押しながらも聴覚も混じり込んでいる、というのが実態です。
「神曲」という邦題は森鴎外の翻訳です。原題から考えると誤訳もいいところなのですが、こうした事情を鑑みるとあながち悪いタイトルでもない気がします。といって鴎外がそこまで神曲を読めていたとは全然思えないのですが。
三位一体教義について
絶賛、「神曲」解説書いている途中なのですが、あまりにも長くなりすぎたのと整理の意味も込めて三位一体教義について簡単にまとめます。
三位一体について、下の記事の中段辺りで説明をしました。
簡単に言いますと、キリスト教の神は父・子・聖霊の三つが一体となっている、という教えです。とても大切な教義です。正直、聖書よりも重要度高いです。なんせこれを外すと異端審問にかけられて殺されるか、追放されますから。
非クリスチャンで日本人の私にはなんで重要なのか分かりません。といってキリスト教徒の方を責めているのではありません。理解できないのは私に信仰心が無いからなのです。
しかし、分からないなりに考えてみると、どうも三位一体は人間の知覚世界を表しているようです。
父(なる神)は脳、子(=キリスト)は視覚、聖霊(=鳥)は聴覚を表しています。この三つが付かず離れずの状態になっているのがキリスト教の神の特徴です。
ところが、1054年に東西分裂が起きておりキリスト教はカトリックとギリシャ正教に分かれてしまいました。
そのとき最大の争点になったのがこの三位一体の解釈です。具体的には、「聖霊は父のみから発するのか、父と子から発するのか」という議論です。
ぶっちゃけ整合性で考えれば正教の方が正しいのです。ただルールが厳しい。正教が力を持った東方ローマは地理的にイスラム圏と近かったのですね。このままではイスラム教の勢いに負けてしまう。
例えば、正教のイコンなんかは平面的で抽象的な絵です。偶像崇拝に否定的だった影響で立体的な彫刻などはありません。
もちろん、イスラムは偶像崇拝否定なのでムハンマドの顔は描きません。
実は正教のやり方だとイスラム教に飲み込まれてしまう危険性があったのです。その危険性に気づいた人々がカトリックになったということが考えられます。結果的に東ローマはオスマン帝国に滅ぼされています。
カトリックの方はより普遍的というか緩いんですね。子=キリストのウェイトが高すぎるせいで視覚と聴覚がごちゃ混ぜになっています。悪く言うとガバガバです。論理に敏感な人はこの辺が許せないはずです。
しかし、メリットもあります。それは「精緻な視覚表現の発展」です。
例えば、ルネサンス期の絵画を見ますと細部まで描写がしてあってリアルです。冒頭のミケランジェロの絵も大変リアルです。
さらに、立体的な彫刻まで創造しています。下の画像はピエタのマリアです。こちらもリアルです。ロダンの彫刻なんかも大変リアルですね。
リアリティある表現、つまり視覚のウェイトが高い。三位一体の中でもキリスト=視覚の存在が強いカトリックならではの文化が生まれました。
ダンテはローマ・カトリックの人なので「神曲」もその一つです。地獄の生々しい描写の数々、楽園の常春のような情景はガバガバ教義の賜物なのです。
それから16世紀に宗教改革が起こり、カトリックが分裂してプロテスタントが誕生します。
とはいえ、プロテスタントはカトリックから分派したので三位一体も同じです。聖霊は父と子から発する。プロテスタントの特徴は聖職者ナシ、聖典重視、偶像崇拝否定なのでかなりイスラム化していますが、そのことについてはまた別の記事で。
映画「日の名残り」感想
日曜日を使って「日の名残り」を見た。読み解きする体力は無いが、ずらずらと書くだけ書く。
アンソニー・ホプキンスの演技は素晴らしく、音楽も格調高い。だがそれ以上に極めて政治的な作品ともいえる。
fufufufujitani氏が指摘するように「日の名残り」の主題はブレグジットであるが、さらに踏み込んで「アメリカへの警戒」が挙げられる。
スティーブンスの主人はダーリントン卿だったが彼がナチスびいきのレッテルを貼られて死んでからアメリカ人のルイスが新主人になっている。
原作だとこの新主人の名前はファラディ氏になっている。
あと序盤でスティーブンスの父が執事の品格にまつわる虎の話をする。これは明らかに不自然である。内容はこうである。
「ある日、執事食卓に行くと虎が下に潜っていた。執事は騒ぐことなく主人に虎の射殺の許可を願い出る。間もなく、三発の銃声が聞こてきた。その後、主人に問われた執事は『夕食までにはあらかた痕跡は消えているでしょう』と答える」
だいたいこんな感じだったが、恐らくこれはケネディ暗殺を暗示している。
ケネディの就任演説。4:21くらいから「愚かにも虎の背に乗って権力を欲した者が虎のエサになってしまった」という文言が出てくる。
そして「三発の銃声」というのはケネディ暗殺のときの三発の銃弾であり、「あらかた痕跡を消した」というのは犯人をオズワルドに仕立て上げ、真相を闇に葬ったことを意味している。ちなみに虎とは共産主義者(ソ連)のことを指している。
恐らく新主人のファラディという名前もJohn Fitzgerald Kennedyをもじったものだと察しが付く。
ただスティーブンスが乗っていた自動車はドイツ車のダイムラーである。これがケネディ暗殺時のリンカーン・リムジン、つまりフォード車だったら面白いのだが。原作読んでいないので分からない。
となるとキューバ危機のこととかも出てくると思われるがそこまで解読できる体力がなかったので以上である。
あとはちょこちょこ出てきたドアの覗き穴のシーンやラストの鳩が飛び立つシーンなどから「ニーベルングの指環」も下敷きにしているのかな、と思ったがイマイチ確信が無い。ただダーリントン卿は第一次大戦後のドイツを救おうと奔走するし、通貨問題が議論になるシーンもあったのであながち的外れでもない気がする。
カズオ・イシグロはジョセフ・コンラッドの後継者みたいな作家であり、そのコンラッドの「闇の奥」はニーベルングを下敷きにしている。もっともコンラッドはあまり通貨発行権を取り上げていなかったような。
いずれにしても深く掘り下げるなら原作を読んでからでないとダメである。映画は良いけど色々忖度をしている可能性がある。だから、いつか読むであろう。いつか、多分、きっと読むかも。
2020年冬アニメ感想 その1
実は深夜アニメ視聴してたので感想書いておく。
どうもアニメを見る体力が衰えているらしく、2020年冬アニメは6本(うち劇場版アニメが1本)のみとなる。寂しいかな。
感想長くなったので半分に分けて記事アップしていく。
今期一番楽しみにしてた作品。原作全巻読んだくらい好きだったりする。退廃的な「ホール」の街並みとキャラ同士の軽妙な掛け合いが堪らない。何が堪らないのかは自分でもよく分かっていない。3Dアニメなのでのっぺりしてしまうのかと思いきやそこまで気にならず。
1クールで原作の1/3も消化していないので2期をやってくれると信じて待つ。
・映像研には手を出すな!
こちらも原作少し読んだ作品。女子高生三人組がアニメ作るのだが細部へのこだわりが強い。芝浜高校とその周辺は古代文明の跡地のような雰囲気が出ている。なんだか設定資料集みたいなアニメであった。
妄想世界へのトリップシーンなど湯浅監督との相性は抜群だったと思われる。音楽の高揚感もあって面白かった。他にも宮崎駿、押井守、タルコフスキーなど巨匠たちのオマージュがちらほら。
ただなんでオマージュしたのかがイマイチ謎だった。
主人公がアニメ作りをするきっかけになった「未来少年コナン」は良いとして、第1話の「ソラリス」の水草とか第8話の「ビューティフルドリーマー」とか(文化祭だから?)、なんで下敷きにしたのか目的が不明なオマージュが多かった印象。自分の感性が鈍いだけかもしれないが、形だけ真似しているようでならない。
名作を下敷きにするのは目的があってすることである。徹底的に読み解き、主題や全体構成を理解した上でその作品と同等もしくはそれ以上の作品を作らなければならない。ということは宮崎・押井クラスのアニメを作らなければならない、というプレッシャーを感じる。実際そんなことはできないのだが、そのくらいの覚悟は求められる。しんどい。しんどいのである。
だから大抵の創作者は安易にオマージュをしないし、やるとしてもバレないようにする。それは賢明な判断である。別にそんなルールは無いのだが腰が引けてしまう。
と、ここまで書いてきて、なんとなく今敏の「千年女優」と方針似ている気がしてきた。現実と妄想が入り混じる感じそっくりである。もしかすると「アニメ好きによるアニメ作りのアニメ」というテーマを堅固にするために、大量のアニメ作品オマージュを配置したのではないか。
ただそれはアニメに限った話なので、原作漫画がどういう方針なのかは依然として分からず。
・恋する小惑星
髪色が個性的なのにキャラを覚えるのに時間がかかった。キャラが没個性的なのか自分の記憶力が衰えているのか原因は分からないが、とにかく印象が薄かった。作品がダメというか自分の脳みそが老化して楽しめなくなったのではないかと思って悲しくなった。
淡々とストーリーは進行していき、気がつけば先輩は卒業して新入生が入部して石垣島に行って、というところまでやって終わってしまった。このまま加速度的に物語が進行していくと、2期では大学卒業、就職まで決まってしまうのでは。それはそれで見てみたいものである。
と、嫌味を言ってみたが新鮮さを感じもした。
女子高生の日常を扱うアニメは大抵のっぺりした時間スピードだが、サバサバと進んでいく。その分感動も希薄になってしまうが。
MVみたいなEDは好きだったので毎回飛ばさずに視聴した。あと街や部室の風景をバックにLINE画面を切り抜いて写すのは今後も流行っていくと予想(とっくに導入されてたらごめんなさい)。スマホの画面アップにしたり、いじっているキャラの姿映しても味気がない。切り抜いて背景に映したほうが面白い。
その2へつづく
「トニオ・クレーガー」追記 その3
新型コロナウイルスの影響で混乱が生じていたがようやくブログの更新ができる。
まるでペストの如き、猛威を振るうウイルスの前に戦争前夜のような生活が続いている。ペストと言えばトーマス・マンの「ベニスに死す」でもペストが出てくる。
と、宣伝だけしておいて今回話すのは「トニオ・クレーガー」の方である。
あらゆる作家・批評家・研究者が指摘するようにトニオの主題は「芸術と市民」である(正確には「芸術家と市民」)。では芸術家とは何か、市民とは何か、という疑問を考えねばならない。
芸術家は分かる。いわゆるインテリで芸術をありがたがり、現実で真面目に生きる人を見下している連中ことである。金を軽蔑する=金の心配がないので、連中は全員金持ちである。世間知らずのお坊っちゃん。
では市民はどうかというと、実はこちらも金持ちなのである。ハンス・ハンゼンは材木屋、インメルタールは銀行頭取の息子である。他の登場人物も弁護士のお嬢さんとかそんな連中ばかりである。当然トニオも例外でなく、彼の父は名誉領事(地元の名士が務める)である。
なんだか書いていて腹が立ってきた。なぜ腹が立つのかというと、それは私が芸術センスのない庶民だからである。私だって芸術家にも市民にも属してないからトニオ・クレーガーのはずだが、お金持ちではないので仲間はずれである。
ついでに、日本では市民というと一般庶民を想像してしまうが、西洋の市民は「商売でのし上がった金持ち」である。共和制牛耳ってたのもこの連中であると思われる。この辺は言語のニュアンス問題であるので注意しないと勘違いしてしまう。
今日、トーマス・マンは時代遅れの作家である。100年近く前の外国人なので当たり前なのだが、例えばほとんど同級生のヘルマン・ヘッセはかなり日本で読まれている。「車輪の下」は自分も子供の頃読んだし、「デミアン」は「少女革命ウテナ」で引用されたことで有名である。
「芸術と市民」の最大の欠点はどちらもブルジョワであり、それより下の労働者階級や庶民にはあまり関心がないことである。というか庶民は馬鹿だと見下している(その後のドイツの末路を考えればその通りかもしれないが)。19世紀ならそれで通用したのだろうが激動の20世紀には対応できない。現実味がないのである。観念の遊戯だし、戦争の時代から絶望的に置いていかれている。
彼は第一次世界大戦後の1929年にノーベル文学賞を取る。54歳の受賞は今でも若いくらいだが、既に時代遅れの老作家のような認識をされていた、というのが私見である。当時は、塹壕戦での悲惨な体験をもとに「西部戦線異状なし」を書いたレマルクと弾丸が命中しても戦い続けたユンガーなどが最先端の文学者であり、彼らは悠々と亡命生活を送っていたマンとは現実に対する姿勢がまるで違う。
訳者の実吉捷郎が言うように、こんにちの一体どこにハンス・ハンゼンやインゲがいるのか、という批判をぶつけなければならない。とはいえ「トニオ・クレーガー」がソナタ形式で構成されていることもニーチェ哲学を体現させていることも指摘できなかった日本の研究者たちにそんなことを言う資格はないのだが。
結局、堀や太宰、三島など戦前生まれの作家が真剣に取り組んだだけで、たいして受容されないままカフカ・ブームを迎えてしまったというのが日本のトーマス・マン受容の現実である。
私の京アニ史 その3
「ここまで魂の遍歴を追ってきたわけだが」
「誰も追ってないけどな」
「私の京アニ史の続きをやっていく」
「前回の続きはこちら」
「5番目はこれ」
「これまた女子高生」
「痛いな」
「本作の特徴は日常と妄想のギャップにある」
「他愛ない高校生の日常がふとした拍子に、主人公の妄想世界に一変する」
「この妄想シーンを全力で描くのが京アニ」
「武器やら魔法陣やらはもちろん、戦闘シーンまで丁寧に、ダイナミックに映し出されるのでほんまもんの魔法大戦なんじゃと錯覚する」
「リアルを捨てつつ論理的に描く」
「論理を捨てつつリアルに描く、かもしれんで」
「どっちでもええわ」
「左様で」
「しかし、この妄想は物語が進むにつれ出てこなくなる」
「つまり中二病が治っていくわけか」
「劇場版ではほぼ出てこなかった記憶がある」
「少し寂しいけどそうやって大人になるんやろうな」
「ところで」
「なんや」
「この主人公、小鳥遊六花というのだが」
「たかなしりっか、と読む」
「難読ではないか」
「小鳥遊はさることながら六花も珍しいな」
「雪を指す言葉で結晶が六角形の花のように見えるのが由来らしい」
「雅なもんで」
「ともかく六花はライトノベル・アニメ辺りでよく見かける気がするので覚えておきたい」
「気がするだけなのか」
「珍しいから印象に残りやすいだけだと思われる」
「認知の歪みやな」
6.けいおん!
「お次はこれ」
「こちらも大人気作」
「一時期、軽音楽部へ入部する学生が増加したとかなんとか」
「実際はどうなんやろうな」
「ところで、けいおん!について知人がこんなことを言っていた」
「知り合いなんておったんやな」
「ほう」
「低めの角度からカメラを固定したかのようなカットが幾度か散見された」
「アニメだからカメラなんて無いけどな」
「便宜上や」
「便宜上か」
「そういう訳でけいおん!は小津の影響を受けているんではないかと」
「なるほどね」
「ただ『東京物語』の登場人物を見れば分かる通り、小津映画は役者の顔が死んでいる」
「抽象性を高めるために、棒読み気味で固い演技をさせるのが小津安二郎の特徴だった」
「監督はこのために何度も撮り直し、役者を疲弊させていたらしい」
「昭和根性物語である」
「では、平成の革新的アニメはどうかというと」
「みな表情豊かである」
「バンドの練習、ティータイム、文化祭、至る所で一喜一憂しておるな」
「この理屈でいくと抽象度は低いとなるな」
「アニメやし抽象度なんて気にせんでええんや」
「芸術映画ではないからな」
「そんでもって東京物語にあった『家族』及び『時間の違い』の主題もけいおん!にはない」
「主人公の両親は一瞬しか映らず、放課後のスローな時間は描かれど例えば、夢に向かって前へ進む(時間を進めたい)少女と漫然と生きている(時間が停止している)少女の対比といった構図も出てこない」
「まあ対立のない穏やかな日常を描いたのが本作の魅力やからな」
「というか軽音部での日々はまるで時間が止まっている。視聴者である我々もずっとこのまま対立のない、生温い世界に居たくなってしまう」
「青春ってそういうもんやろ」
「時折、誰もいない廊下や教室を数秒映すのも時間の停止を表現している」
「それに1期の11話で澪と律の仲違いがあったやないか。きちんと対立は描いてる」
「ああ作中"唯一"、不穏な空気が流れるあの回か。明らかに不自然で、まるで『きちんと対立や葛藤は描かれています』と言って欲しいかのように」
「何が言いたい?」
「いや君は良いところだけを取り上げて、闇から目を逸らしているんではないかと思ってな」
「おもろいもんをおもろいと言って何が悪い」
「その通り。面白いだけでなくとても癒される。少女たちがただ戯れる姿を飽きさせずに構成する、そんな作品は未だかつて存在しなかった。歴史に残る傑作。間違いなくここ20年で最高のアニメの一つと言っていい。」
「問題ないやろ」
「ゆえに影響も絶大で後のアニメ文化の潮流を決定づけた。良くも悪くも」
「"悪くも"ってなんや」
「少女たちの停滞した時間を愛でるあまり君の時間まで止まっているのではないか?少女たちの閉鎖的な空間を愛するあまり君まで閉鎖的になっているのではないか?君のそれは好きだからではなく現実逃避なのではないか?」
「そんなの余計なお世話や」
「あるいは逆か。君の時間が停滞しているから、君が閉鎖的だから、君が現実逃避しているから彼女たちを愛するのか」
「時代遅れのオタク批判はやめてくれ。それにアニメと現実の区別くらいつく。ただ癒しを求めていただけや」
「傑作を礼賛するだけでなく、癒しを求めるだけでなく、その素晴らしさの裏には闇が内包されていることを認識する必要がある」
「そんなこといちいち口に出さんでもええやないか」
「感傷に浸るだけが『私の京アニ史』ではないし、今だからこそ闇と向き合わなければならないんや」
「そうなのか」
「そうや」
「承服しかねるな」
「まあ今回は言い過ぎたわ、すまんな」
「ええんやで。こっちもすまんな」
「ええんやで」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
「神曲」の原題について
ダンテの「神曲」一通り読み終わった。
しかし、どうも「神曲」というタイトルがおかしい。違和感を覚える。
原題はLa Divina Commedia。直訳すると神聖喜劇である。ダンテ自身はCommedia、とだけ呼んだらしいが、あとから神聖が前に付いた。
(ダンテの時代にはCommediaに喜劇という意味は無かったとのことだがひとまず置いておく)
問題は日本に入ってきたときに「神聖喜劇」が「神曲」と訳されたことである。初出は森鴎外訳のアンデルセン「即興詩人」の中に出てくる。この翻訳がいかにも鴎外らしく、古語たっぷり格調高いもので、はっきり言ってアンデルセンの原型ほぼ無い。しかし、名訳だということでかなり評価高い。もはや日本文学コーナーに分類されてしまっている。
それで大文豪の鴎外が「神曲」と訳したのだから「神曲」なのだろう、という流れで今日に至る。今では素晴らしいタイトルだ、などと言われている。
しかし、内容読むと「神曲」という感じがしない。俗っぽい言葉遣い(トスカーナ方言)、冒頭が暗く結末が明るい(=喜劇)、社会風刺から「神聖喜劇」の方が適切だと思われる。
地獄巡りを通して、社会批判、教会批判がなされる「神聖なる喜劇」なのである。神なる曲というのはニュアンスがズレている。鴎外がどういうつもりで訳したのか非常に気になっている。とはいえ、文句言っても仕方ないので「神曲」というタイトルで統一していく。
以上ここまで読んだ感想なのだが、なにぶん14世紀の作品なので読み解き難航している。
それにしてもダンテは一神教特有の極端な考え方で、例えばムハンマドは地獄に堕とされている。その他異教徒やダンテの政敵たちも地獄に堕とされている。
こういうところ日本人の私には理解し難いのだが、神曲は西洋文学でも最上級の古典なので避けては通れない。とにかく進めていくつもりである。
「トニオ・クレーガー」追記 その2
「トニオ・クレーガー」ラストに出てくる二人組の男女はハンス・ハンゼンとインゲではない、という意見が翻訳者の間であるらしい。
はっきり言って不毛である。
仮にあの舞踏会にいたのが彼らではなく、赤の他人だったとしてもトニオの結論は変わらない。「僕は彼らのような純粋な市民にはなれないが、それでも彼らへの憧憬は忘れずにいよう」
というか、その辺はわざと濁してある。マンは比較的、一義的な文章を書く作家であるがこの場面では含みを持たせている。読者の自由であるから過度に考えすぎる必要が無い。
トニオの中間的、ニュートラルな結論は一見、二元論を超克している。しかし、結局のところその態度は中途半端である。よく言えばディレッタントであるが。
「芸術」と「市民」の二項対立が「芸術であり市民である」と「芸術でも市民でもない」にすり替わっているだけである。ここのあたり弁証法の限界だと思われる。
カントにしろ、ニーチェにしろ、マンにしろ、ドイツ人は相反する二つの世界で常にハイブリッドであろうとし続ける。それが西欧と東欧の間に位置するドイツの運命なのかもしれない。
私の京アニ史 その2
「新年明けましておめでとうございます」
「本年もどうぞよろしくお願いいたします」
「というわけで早速、私の京アニ史第二弾をやっていく」
「うむ」
「前回の続きはこちら」
「まだの方は読んでいただければ」
「新年一発目なので、こちらもお屠蘇を傾けながら話していこうかなと」
「元旦はとっくに過ぎてるのだが」
3.氷菓
「3番目は『氷菓』」
「またしても最近のを」
「8年前を最近と言うのか」
「もうそんなに経ったのか」
「『日常』見たあと『京都アニメーションという会社がおもろいアニメ作っとる』という流れでこれ」
「原作はガチガチのミステリ作家のデビュー作、ということでかなり見応えのあるものだった」
「映像も角度を変えたり、遠くから近くから映してみたりと細かな工夫があり、視聴者を飽きさせなかった」
「特に、顔を映さずに足元だけ撮る技法は作中繰り返し使われていた」
「 好きなんやろうか」
「さあな」
「印象に残ったのが『愚者のエンドロール』」
「試写会のやつか」
「映画『カメラを止めるな!』でも似たようなトリックが出てきた」
「まあ氷菓の方が一枚上手だったけどな」
「日常のふとした出来事→主人公たちによる推理→壮大な陰謀なのではないか?→真実はありふれた暖かいものだった、というパターンやな」
「最後は日常的な、小さなものに収束していくのがいかにも京アニを感じる」
「あとは『遠回りする雛』の桜のシーンなんかも叙情的で素晴らしい出来かと」
「徹底したリアリズムによって、あったかもしれない青春が再生され、成仏していく」
「元々そんなもんはあるはずが無いのにな」
「それでも『あったかもしれない』と思えるだけで感動できるんやで」
「ところで、氷菓を見てからは深夜アニメに対する偏見は完全に消えた」
「偏見があったのか」
「変に小説とか戯曲とかメインカルチャーに触れていたせいか、ちょっと見下してたんやろうな」
「常に公平な態度で、曇りなき眼で鑑賞に臨まなあかんな」
4.涼宮ハルヒの憂鬱(2006年版、2009年版)、涼宮ハルヒの消失
「続いては『涼宮ハルヒの憂鬱』」
「ついに来たな」
「京アニといえば、いや深夜アニメといえばこれと言っても過言ではないな」
「せやな」
「内容についてしゃべりたいことは概ね上のシリーズで書いたので話すことがない」
「これも修正版を出さなあかんな」
「いつかやるつもりである」
「いつか、いつかで時は過ぎていく」
「さて、ハルヒは2006年版と2009年版がある訳だが」
「2006は時系列ぐちゃぐちゃで、2009は時系列通りに進行していくプラス幾つか新作エピソードが挿入された」
「2006は第一話が文化祭の出し物で作った映画(朝比奈みくるの冒険)なので、なにがなにやら分からんのがな」
「肝心の主人公が出てこんしな」
「意味わからんくて見るのやめた人もいたのではないか」
「やはり、今から見るなら2009年版やな」
「必ずなのか」
「必ずや」
「左様か」
「実は毎回微妙にカットが違う、というのは有名な話」
「ほんまにそうか実証しようとして、途中で放棄した」
「全部で8話あるからな」
「ネットは広大なので、その辺は誰かが調査済みだと思われる」
「とはいえいくらなんでも8話はやり過ぎや」
「しかし、斬新であったことは認めざるをえんやろ」
「斬新だから、奇抜だからという理由だけで賞賛するのは過度な焼き畑農業と一緒や」
「アレもきちんと休閑期間を設けた、ちゃんとした農法なんやけどな」
「要するに、伝家の宝刀を抜き過ぎるなっちゅうわけや」
「喩えがよう分からん」
「そういえば原作者の谷川流は『絶望系』というライトノベルを書いているのだが」
「ほう」
「これがまた妖しく、グロテスクでハルヒとは雰囲気全然違うらしい」
「それがどうした」
「内容は主人公が体験する不条理な7日間を描いてる」
「7日間というと、憂鬱+サムデイインザレインの合計7話=天地創造の7日間が想起されるな」
「どうも関連がありそうでならない」
「とはいえ読んでないからなんとも言えんな」
「トーマス・マンの読み解きが終わり次第読んでみるつもりである」
「はよ終わらせてな」
「今回はここまで」
「ちょっとスローペース過ぎではないか」
「別段急いでいるわけでもなし。問題は無かろう」
「完結するのに半年くらいかかりそうやな」
「息の長いシリーズ、ということでご勘弁願えれば」
「途中で筆を折るのだけはやめてな」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
「トニオ・クレーガー」追記 その1
年内ギリギリであったがアップできた。
トニオ・クレーガーの構成はソナタ形式である。
このことを先に発見したのは私ではなくfufufufujitani氏であった。これをもとに少し自分で解析を加えたのが以前の記事である。
今回の修正版では、「なぜソナタ形式を用いたのか」がテーマの一つだった。「その方が技巧的だから」では理由にならない。手段を目的化するほど彼は愚かではない。なんだかモヤモヤする。
ここが分からないとトニオ・クレーガー攻略にならないので着手した。
解説に書いてある通り、トニオ・クレーガーはニーチェの「悲劇の誕生」の影響が強い。アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、芸術と市民。
「非政治的人間の考察」にも「トニオ・クレーガーはニーチェの影響が強い」という旨の文章が出てくる。作家が自作についてコメントするときは、往々にして嘘が混じっているので疑ってかからないといけないが、今回は本当にその通りだと思われる。
そして、ニーチェは音楽大好きである。ワーグナーを崇拝していたことからもそれは分かる。ディオニュソス的芸術には音楽が含まれる。
「ソナタ形式」と「芸術と市民」が繋がってくる。ここでモヤモヤが解消される。
というかショーペンハウアーも好きだったようなのでドイツ人はみんな音楽好きなのだろう。
それはなぜか、というのを辿っていくとどうもマルティン・ルターが始まりのようである。彼は賛美歌も作っているくらい大好きである。と、ルターの話は長くなるのでまた別の機会。
「音楽的な文学」というとまっさきに「詩」が思い浮かぶ。
詩は韻を踏む、つまり響きだから当然音楽とも近しい関係になる。有名なベートーベンの交響曲第九番には、同じドイツの詩人シラーの歓喜の歌が出てくる。
しかし、小説は散文なのでずっと韻を踏んでいるわけにはいかない。(実際には詩的な小説を書く人もいるのだが)というかマンの文章は抑制された硬い文章、つまり一義的な文章が特徴的である。この辺はトルストイの影響であるかもしれない。
その一方で、音楽が流れると途端に陶酔的な、感情が溢れ出すような文章になる。こちらはニーチェっぽいし、踊り出すかのような会話文はドストエフスキーっぽい。
しかし、トルストイとドストエフスキーのどちらの影響も受けていながら、それでいてどちらでもないという印象が強い。中間的というかハイブリッドというか。
要するにどっちつかずなのである。
つまりトニオ・クレーガーそのまんまである。
「トニオ・クレーガー」解説【トーマス・マン】
「トニオ・クレーガー」は1903年に発表されました。日本では日露戦争の前年に当たります。ほろ苦い青春の書として、ドイツのみならず堀辰雄、太宰、三島、北杜夫など日本の作家にも影響を与えた作品です。
あらすじ
全体は6章に分けることができます。便宜上、AパートBパートに分けます。
A:トニオ少年は友人のハンスと下校しています。ハンスは優等生で顔もカッコイイです。対してトニオは陰気で詩作に夢中でみんなに馬鹿にされています。トニオにとってハンスは大切な友人ですが、ハンスにとって彼は単なる友人の一人です。そういう関係です。
B:トニオは恋をしています。初恋です。お相手の娘はインゲといいます。彼女の容姿や仕草に夢中になります。そんな中、舞踏会の練習が行われます。トニオは彼女の踊る姿を見て、惚れ惚れとします。自分が踊る番になりました。彼は失敗してしまいます。みんなに馬鹿にされ、インゲにも笑われてしまいました。苦い初恋の思い出です。
A1:初恋は終わりましたが、人生は終わりません。トニオは人生を歩んでいきます。父が死に、母は再婚して出ていきました。彼は故郷を離れ、詩人として名を馳せます。
B1:トニオは30歳になりました。画家の女友達の元を訪れます。彼は芸術について、まるで踊っているかのように、熱く語ります。熱弁のあまり、彼女には笑われてしましました。
A':トニオは故郷やデンマークを旅します。故郷の街を散策して帰ったら、警官に職務質問をされます。詐欺師と間違われたようです。
B':デンマークのホテルに滞在していると、舞踏会が開催されます。出席してみると、なんとそこにはハンスとインゲがいます。彼らは恋人同士になっていたのです。二人を遠くで眺めながら、幸福な気持ちになります。
C:画家の女友達に手紙を書きます。内容は旅を通して得られた、彼の芸術論、人生論です。芸術家でありながら善良で凡庸な市民に憧れを抱く、二つの世界のどちらにも存在して、どちらにも存在しないトニオ・クレーガーの生き方です。
文章の特徴
各章の特徴をざっくりまとめました。注目したのは文体と描写です。
A淡々とした文章:起こった出来事を淡々と、ありのままにした文章
B陶酔的な文章:対象を目の前にして酔いしれるような、情熱的な様子を描いた文章
という感じで定義しています。
Cパートは女友達に向けた手紙、という形式で書かれていますが、要するに全体のまとめです。この小説の主題です。ここだけ少し浮いているので、下の解説では主にAパートとBパートについて説明していきます。
ざっくりしすぎて雑なくらいですが、まずは全体のイメージ掴んでおきます。
規則性
この作品の難点は「文章が回りくどい」ことです。
物語自体はさほど長くありません(およそ120ページくらい)が、一文が長ったらしいので読むの疲れます。
しかし、さきほどの表を眺めていますと規則性というか、AとBが交互に配置されていることが分かります。
音楽的構造
作者のトーマス・マンはドイツの小説家です。
ドイツといえばバッハやベートーベンを産んだように音楽が盛んな国です。そんな土地柄で育つと音楽的な小説を書きたくなるようです。
そこで彼が考案したのが音楽の形式を物語の構成に用いた方法です。
もっと具体的に言うとソナタ形式で書かれた小説です。
と言われてもピンときませんね。「そもそもソナタ形式とは何ぞや」と思っている方のために簡単な説明をします。
ソナタ形式について
簡単に言うと、AとBというメロディーを思いついたとして
(A+B+A1+B1+A+B)
という感じで並べて、曲を組み立てるやり方です(A1とB1はAとBを微妙に変えたメロディー)。最初のA+Bを提示部、A1+B1を展開部、最後のA+Bを再現部と呼びます。ちなみにAが優しいメロディーだったらBは激しいメロディーというように飽きないように作ります。
詳しい説明は脱線してしまうので専門書をお読みください。
ソナタ形式を用いた構造
「トニオ・クレーガー」はこのソナタ形式を全体構成に利用しています。全体を把握するためにはざっくりと構成を示した表が必要です。これが章立て表です。エクセルで作れます。
大まかな構成を下の章立て表に示します。
「トニオ・クレーガー」は全体を6つに分けることができます。
各章を表にして眺めてみますと「歩く」と「踊り」が交互に展開する構造になっていることが分かります。こうすることで、何気ない物語に音楽のような調和が生まれます。
ここでは
第一主題A:「歩く」
第二主題B:「踊り」
とします。
第一主題A「歩く」
提示部A
提示部で友達のハンス・ハンゼンと一緒に「歩いて」下校します。
トニオにとってハンスは大切な友達ですが、ハンスにとってトニオは数ある友達の一人に過ぎません。というかトニオはちょっと依存気味です。
現代だと腐女子の方々が好みそうな関係性です。
展開部A1
展開部では主人公が人生を「歩む」過程が描かれています。詩を愛する文学少年が詩人として名前が知れ渡るようになります。
さきほどの「歩く」から「歩む」に変化しています。これがソナタ形式でいうA→A1のメロディーの変化に該当します。
再現部A’
再現部で、トニオは故郷や自身のルーツであるデンマークを「旅します」。
途中で詐欺師に間違われたり、船で商人と出会ったりします(これについては後述します)。
「旅をする」も「歩く」の発展形と言えます。歩く→歩む→旅するの変化です。
ここまできて「歩く 、歩む、旅するが似たようなニュアンスなのは日本語に翻訳したからで、ドイツ語ではそうならないのでは?」と思ったあなたは鋭いです。
念のため確認しておくと下の通りになります。翻訳によって生じた偶然ではなく作者の意図だと考えるべきです。
第二主題「踊り」
提示部B
トニオは好きな女の子の「踊り」を見て心奪われます。初恋の相手にメロメロです。
展開部B1
ここの場面はかなり不自然です。ということは重要な箇所です。
よく読みますと、トニオのセリフは芝居がかったような、くるくる回転しているかのように話題をかえながら熱弁しています。この「くるくる回転する」が「踊り」を連想させます。つまり、
くるくる回転的に熱弁する=トニオの踊り
インゲに笑われる=リザベタに笑われる
となり、提示部Aと対応していることが分かります。「踊り」が「熱弁」に言い換えられています。
作中、最も文学的な表現です。一読しただけでは分かりづらいです。展開部ということで冒険してみたかったのでしょうか。作者マンの遊び心です。
再現部B’
ここは明確に提示部Bと対応していますね。
インゲの踊りを見て心奪われます。トニオは笑われませんが踊りで転んだ少女が笑われています。
という感じで全体をソナタ形式で構成することで作品の完成度を高めています。
構成
先ほど見たのは大まかな構成でしたが、より詳細な章立て表を見ていきます。
上の表を見ますと、Aパートどうし、Bパートどうしで対応関係が構成されていることが分かります。それぞれの対応について見ていきます。
・歩く
・踊り
この二つはソナタ形式の項で説明済みなので省略します。
・恥をかく
Bで 踊りを間違えたトニオはみんなに笑われて恥をかきます
B1でトニオは女の友人リザベタに、大勢の前で詩を読んで恥をかいた少尉の話をします
B'で踊りで倒れて、恥をかいた蒼白い少女をトニオが助ける
つまり、この蒼白い少女はかつてのトニオ自身です。トニオが助けたのは目の前の少女であり過去の自分です。
・笑われる
Bでトニオはインゲに笑われてしまう
B1でトニオは熱弁するもリザベタににやにや笑われてしまう
B’で大人になったインゲを見つけたトニオは心の中で「あざ笑ったのか」と問いかけます
・名前
Aでトニオ・クレーガーという名前をハンスにバカにされた
A1で詩人として名前が売れる
A’で警察に詐欺師疑われ、名前を聴取される
ここの対応は登場人物の特徴を整理しながら説明します。
注目すべきは「曲がった脚」という共通点を持つ、インメルタールとゼエハーゼです。
インメルタールが出てくるのは
Aで下校中にトニオは友人ハンスに「君の名前は変だ」と言われて傷つく場面。同級生のインメルタールは気の毒そうに見ています。
ゼエハーゼが出てくるのは
A’で故郷のホテルでトニオは警官に名前を聴取され、詐欺師と疑われる場面。ホテルの支配人ゼエハーゼは気の毒そうにしています。
ハンス=警官
インメルタール=ゼエハーゼ
という対応関係になっていることが分かります。友人との下校と警官による事情聴取が対応しているのですね。
A1ではトニオが詩人として名前が知れ渡る描写がありますが、言及する人物と曲がった脚に該当する人物は出てきません。
さすがにくどいと考えたのかもしれません。
二項対立と二元論
多くの作家、研究者が指摘するように「トニオ・クレーガー」は「芸術と市民」の二項対立が根底にあります。
二項対立とは、二つの概念が互いに矛盾や対立をしていることです。
例えば、善と悪、精神と物体などが挙げられます。
二元論とは「二項対立を用いて世界の一切を説明する」という考え方です。
例えば、プラトンのイデア論、デカルトの実体二元論などが挙げられます。
もっともポピュラーなのはキリスト教の善悪二元論です。神と悪魔が対立し、最後は神が勝利する。
そして 、西洋人の大多数はキリスト教徒でしたのでみんな二元論が大好きになります。
現に西洋の文学には二項対立が頻出します。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と考えがちな日本人がそのまんま読むとわけワカメです。
当然ながらトーマス・マンも例外ではありません。
それどころか、二元論を文学で極めたスペシャリスト(偏執狂)と呼べるくらいです。
芸術と市民
「トニオ」で描かれる二項対立は「芸術と市民」です。
なぜ芸術と市民が対立するのでしょうか。
芸術家というと創作に打ち込み美しいものを求める反面、自堕落で生活能力ありません。現実よりも観念や美を追求します。
市民というのは、神戸市民とか横浜市民の「市民」ではありません。
商人のことです。
ドイツといえば工業が思い浮かびますが、北のほうでは中世にハンザ都市同盟というのを作って商人たちが力を振るってました。マンの故郷リューベックはその盟主とも言うべき街で、現に彼の実家も裕福な穀物商人でした。
ここでは
「貴族よりは下だが庶民よりは上の生活力を持った人々」というイメージを持ってください。
彼らは健康で労働に励みながら明るく生活する反面、芸術に関心がありません。あったとしても嗜む程度です。生活に第一に考える真面目な人々です。目の前の現実と日々闘いながらお金を稼いで生きています。
(金持ちなんで生活には困ってませんが)
という感じで作者は芸術家と市民を対比させているのですが、日本人にはいまいち分かりづらいです。「仕事一筋の真面目な父親と小説家を目指す息子の対立」というドラマのワンシーンをご想像いただければと思います。
そしてトニオ・クレーガー」の登場人物たちは芸術グループと市民グループに分かれています。
ここで、重要なのは二つのグループが互いに対立する、距離を取っていることです。
トニオは、ハンスのようになろうとしませんし、インゲのことは遠くから眺めているだけでした。また二人もトニオと深く関わろうとしません。
トニオの父はお堅い名誉領事でしたが、母は情熱的でピアノとマンドリンが上手な人でした。父の死後、母はあっさり他の音楽家と再婚します。
しかし、この分類だけでは不十分です。芸術と市民の二項対立にはさらに「細かな仕分け」が必要です。
マンの「芸術と市民」はニーチェの「アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの」を下敷きにしています。
「アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。
アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。
ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと
アポロン的=理性、明るい、善良
ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌
くらいのイメージです。
さらに、芸術に置き換えてみると
ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩
となるそうです。
説明長くなるので気になる人は下の記事をお読みください。
さらに、ここからディオニュソス的芸術の中でアポロン的とディオニュソス的に分かれます。
トーマス・マンの「芸術と市民」はこのニーチェの哲学を踏まえています。
「細かな仕分け」とは芸術の内部で芸術と市民が対立している、いわば入れ子構造のことを指しています。
登場人物の分類
さきほどの登場人物表をもう一度出します。
これを細かく仕分けすると
となります。
芸術グループの中に、芸術ー芸術グループと 芸術ー市民グループがあるわけです。トニオはどちらにも所属します。
芸術ー芸術グループ
ザ・芸術家タイプです。芸術の世界で生きています。情熱的で堕落しています。奔放的なトニオ母がそうです。市民への愛を語るトニオを「踏み迷える俗人」と笑った画家のリザベタも該当します。
芸術ー市民グループ
芸術を嗜んでいますが、根っこは市民気質なタイプです。船上で会った詩を嗜む若い商人が該当します。直接出てきませんが、トニオの話に出てくる詩を披露した少尉もそうです。
さらに、「芸術と市民」、「アポロン的とディオニュソス的」の二項対立は全体構成にも及びます。
すべては「トニオ・クレーガー」になる
各章の特徴をざっくりまとめた表を思い起こしてください。Cパートは結論部なので省略します。
「淡々とした文章、風景描写」で描かれるのは破風屋根の多い故郷やデンマークの街並みであったり、ハンス・ハンゼンの美しい容姿です。
破風屋根の多い街並み、ということは建築です。アポロン的芸術です。ハンスの容姿は健康的で美しく、市民的です。
「陶酔的な文章、踊り、会話」で描かれるのはインゲの踊りを見て酔いしれるトニオの感情です。リザベタとの会話ではトニオはかなり饒舌です。
ディオニュソス的芸術の具体例は音楽、舞踏、抒情詩です。
陶酔、饒舌はトニオの感情を表現したものです。抒情的です。踊りは言わずもがな舞踏です。
このことから二つの表を合体させます。
冗長で退屈な風景描写もちょっとくどい会話文も、芸術と市民を表現するために必要だったのですね。だから面白いという訳ではないのですが美しいです。
さらに、
ニーチェの哲学の項目で「ディオニュソス的芸術にはアポロン的とディオニュソス的が含まれる」と説明しました。
ディオニュソス的芸術の代表例は音楽です。
音楽的構造の項目で「トニオ・クレーガー」は全体構成がソナタ形式となっていると説明しました。
当然、ソナタ形式=音楽です。
ここで、ソナタ形式の構成表も合体させると下の表になります。
「芸術と市民」という二元論と音楽的構造(ソナタ形式)はニーチェの哲学を通してつながっていました。
「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。それは「芸術の内部でも二項対立が発生している」入れ子構造の対立です。
「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。
トニオくんの外部と内部、両方の対立及び葛藤がそこにはあります。マンがソナタ形式を用いたのもこの複雑な関係を描くためでした。
つまり、「トニオ・クレーガー」の全体構成が主人公トニオ・クレーガーの精神そのものとなっていたのです。
だからこの小説のタイトルは「トニオ・クレーガー」以外ありえません。
主題
もちろん、この作品の主題は「芸術と市民」です。
しかし、そこには一筋縄ではいかない、矛盾した考え方が入り混じったものがあります。
結論部であるCパートは、トニオからリザベタへの手紙です。
ここまで、「芸術と市民」という相反する二つの概念について述べてきました。二つのグループに属する人々は互いに交わることなく人生を歩んでいます。
では、トニオくんはどちらに属するのでしょうか。またどのように属しているのでしょうか。Cパートより抜粋します。
「僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。」
二つの世界とは「芸術と市民」のことです。
芸術を愛し、市民を愛する。中間的、ニュートラルなポジションを取るのがトニオの生き方です。
しかし、しょせんトニオくんは芸術家です。
何をどう言おうと詩を愛する芸術家です。だから芸術に属します。ハンスやインゲの市民とトニオの市民は決定的に違うものです。純粋に芸術と対立するものとしての「市民」と芸術の内部で生まれた「市民」。
つまり、トニオは純粋な市民ではありません。と同時に純粋な芸術家でもありません。彼の半分は芸術ー市民ですから。
これこそが「そのいずれにも安住しません」なのです。どんなにトニオが市民への愛を語っても、ハンスやインゲのようにはなれませんし理解もされません。
ちょっと切ないというか悲劇的ですね。
それでもトニオは「真の芸術家」であろうとします。二つの狭間でもがき、苦悩する道を選びます。「どっちつかずのハッキリしない奴だ」と陰口を叩かれるでしょう。辛い人生です。
しかし、彼の姿はどこか前向きです。
最後の文章を紹介しましょう。
「この愛を咎めないで下さい、リザベタさん。それはよき、実りゆたかな愛です。その中には憧憬があり憂鬱な羨望があり、そしてごくわずかの軽侮と、それから溢れるばかりの貞潔な浄福とがあるのです。」
最後の一文はAパートにも出てきました。いわゆる回帰という奴ですが、冒頭の時に比べて、より深くより切実に伝わってきます。
日本への影響
戦前から戦後にかけてトーマス・マンは日本の作家たちに影響を与えてました。特に「トニオ・クレーガー」は文学青年の間で読まれていたそうです。背景にあるのは旧制高等学校のドイツ語教育です。構造的な作品の多いドイツ文学に触れたことが、戦後日本文学の隆盛に一役買いました。
ここでは「トニオ・クレーガー」を下敷きにした、影響を受けた作品をいくつか紹介します。
紹介するといっても私ではなく、fufufufujitani氏とyuki氏の読み解きです。
それぞれ全体構成が
美しい村:教会ソナタ
となっています。堀は多義的な言葉遣いをする作家です。多義的な言葉はとてもふわふわとしているというか、掴みどころがないので形式できっちり収めておかないと意味不明になります。(音楽と似てますね)
音楽の形式で小説を書く、という観点で堀は「トニオ・クレーガー」を参考にしました。
全体構成がロンド形式になっています。
トニオ・クレーガーを読んで「なら自分はロンドで書こう」と思ったのでしょうか。
富士山を通して自己を見つめ直し魂の再生が描かれます。傑作です。
西欧人のマンは二元論大好きですが、東洋人の太宰が書く「富嶽百景」は自然と人間が一体となる一元論です。
この辺は考え方の違いですね。芸術と市民をうまく使いこなしてのらりくらりと生き延びたマンと「家庭の幸福は文学の敵だ」と言い自己破滅した太宰の違いです。
最後に三島由紀夫です。
三島の多くの作品に共通するテーマとして「認識と行動」というものがあります。これはマンの「芸術と市民」を発展させたものです。
「トニオ・クレーガー」では芸術家トニオが市民側の人々を憧れの眼差しでもって、羨望の 眼差しでもって見つめている描写が多々あります。「眼差し」ですから目、つまり視覚です。
芸術家=見る者
市民=見られる者
という関係です。
三島はこの関係を応用しました。
「芸術と市民」を「認識と行動」にすることで見る者は必ずしも芸術家である必要もなく、見られる者は必ずしも市民である必要はなくなりました。
その反面、認識→行動という関係性は一方通行になりました。なぜって行動→認識ではおかしいからです。行動が認識を見るって訳分かりませんがな。
しかし、マンの「芸術と市民」は芸術→市民の一方通行な関係ではありませんでした。
例えば、彼の処女長編「ブッデンブローク家の人びと」ではトーマス・ブッデンブロークが芸術家肌の妻ゼルダと息子ハンノを嫌悪しつつもどこか羨望の眼差しで見ています。
例えば、「ファウストゥス博士」では市民側のツァイトブロームの目線で作曲家レーヴァーキュンの生涯を振り返るという形式で物語が進みます。
これらは市民→芸術です。
マンの二元論が相互的なのに対し、三島の二元論は一方通行です。
この違いは二人の育った環境が関係しているのでしょう。
かつて商人が自治していたハンザ同盟の盟主リューベックに生まれ、保守的で昔ながらの良い市民を見て育ったマンと終戦後かつての文化を忘れ、消費社会へと迎合していく市民に幻滅した三島の決定的な違いです。
もっともどちらが良い悪いではなく考え方が微妙にズレているだけです。二人とも偉大な作家であることに変わりありません。
他には北杜夫の「楡家の人びと」(これは名前からして「ブッデンブローク家の人びと」ですね)などたくさんあるので、興味のある方は読んでみてください。
翻訳について
余談ですが「踏み迷える俗人」の原文はverirrter Bürger。直訳すると、「道に迷った俗人」です。
「トニオ・クレーガー」は光文社も含めて翻訳いろいろあるのですが、一番良いのが実吉捷郎訳です。
訳者は明らかにソナタ形式に気づいています。「踏み」を加えることでB1の「踊り」との対応をより際立たせることを知っています(踊りはステップを”踏み”ますから)。マンの意図を読めています。
実吉捷郎は日本でのトーマス・マン受容の一番の功労者といっても過言ではないようです。
出典
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia
File:Wilhelm Gause Hofball in Wien.jpg - Wikimedia Commons