文学と方程式
以下は仮説である。
通常、物語は一つの主題に沿って描かれる。
一つの主題は一つの文化に基づいているとする。
作者が日本人なら日本の文化に基づいた主題を、ロシア人ならロシアの文化に基づいた主題を選ぶことが多い。
数学で例えるなら一次方程式である。シンプルで解きやすい。だけど、ちょっと物足りない。世界中に存在する多くの作品がここに該当する。
そこに天才が現れる。天才は二つの主題、つまり二つの異なる文化を合体させることに成功する。
ダンテの神曲、ゲーテのファウストがこれに当たる。日本文学も大変苦労しながら西洋文化と日本文化を融合させた。
二次方程式である。解が二つある。これが二つの文化を表している。
ただし、解がちょっと汚い。美しくないのである。あと計算も大変である。
そこに超天才が現れる。
係数を上手くいじって綺麗な解を出せました。これなら簡単に計算できる。さっきの方程式よりも分かりやすく、一般的である。
この超天才の名前はドストエフスキー。作品はカラマーゾフの兄弟。
では、三次方程式はどうか。
ご覧の通り、解の公式も半端なく長い。
三つの異なる文化のドッキング。このかつてない難題に挑んだ作家はいるのだろうか。
あるとすれば相当な大長編で、難解だと思われる。係数を綺麗に揃えるどころか一生のうちに完成することすら危うい。
一つだけ心当たりがある。
プルーストの失われた時を求めてがそうなのではないか。そう考えると、あれほど長い理由も納得がいく。三次方程式なのだから長くなって当然である。
果たしてプルーストは成功したのだろうか。読んでる途中なのでまだ何も言うことができない。
ただ成功していたら、次は四次方程式だ!となるのが人間である。失われた時を求めて以降、四つの異なる文化のドッキングなんて作品は生まれていないはず。
つまり、三次方程式は無理だったということになる。
文学の世界では二次方程式までが限界で、それを証明してくれたプルーストは偉大である。自分の一生をかけて「無理だということ」を発見したのだから。
あくまで仮説なので読んでみにゃ分からないのだが、本当にめんどくさい。
トーマス・マン実吉捷郎訳について
以前、トニオ・クレーゲルの解説にて実吉訳の素晴らしさについて触れた。
原文通りなら「道に迷える俗人」と訳すところを「踏み迷える俗人」としたところがポイントで、この翻訳はソナタ形式を意識した上でとても重要なものであった。
B(第2主題)では「踊り」が対応していて、「道に迷った俗人」だとイマイチ伝わりにくい。「踏み迷える俗人」だと踊りのニュアンスが伝わりやすい。
これが単なる訳者の思いつきか、構造を意識してのものだったかについては判断を保留していた。
今回はそのことについて述べる。
ちなみに「ヴェネツィアに死す」の解説で用いたのは岸訳である。
上の表は「ヴェネツィアに死す」の構造を読む上でポイントとなる箇所を比較した表である。比べるのは岸訳である。
なお、実吉訳も光文社岸訳も決して誤訳ではない、という前提で話を進める。
第1章では「葬送行進曲」がポイントである。実吉訳では「墓地」が繰り返し文章に出てくるのに対し、岸訳では意図的に「墓地」という単語を省いている箇所がある。葬送行進曲をイメージする上では「墓地」を強調したほうが良い。
第2章と第3章に関しては特になし。
第4章はアダージェット、愛の楽章である。つまり「愛」がポイントである。実吉訳では「愛情」という単語を使うのに対し、岸訳は「恋い焦がれ」となっている。恋ではなく愛情のほうがアダージェットであることに気が付きやすい。
実吉訳では「愛の童神」、岸訳では「キューピッド」も同様に実吉訳のほうが伝わりやすい。
第5章では実吉訳は「美女」に対し、岸訳は「美」だけになっている。ヴァネツィアは水の象徴であり、女性の象徴であることも踏まえると実吉訳のほうが理解しやすい。
途中で主人公が見る夢はワルプルギスの夜に対応している。
実吉訳では「供物の祭典」、岸訳では「乱痴気騒ぎ」と表現される。これに関しては岸訳のほうがワルプルギスをイメージしやすい。
ラストの場面、海岸にいるタッジオと主人公。実吉訳では「見守る」、岸訳では「眺める」
第5章はソナタ形式になっている。提示部と展開部の主題が「後を追う」、「ストーキングする」であることを踏まえると「見守る」のほうがやや適切である。
以上の点から光文社岸訳より実吉訳のほうが、構造を読むという点で優れていることが分かる。
もちろん、実吉訳はただ直訳しただけで岸訳は現代風に言い換えたばかりにマンの意図から外れた、という可能性も捨てきれなくはない。
しかし、トニオ・クレーゲルでの「踏み迷える俗人」という訳から考えても、実吉捷郎は構造を読める人間だったと考えるのが自然である。
また、岸訳は無駄を省いて現代人でも読みやすい訳文になっているが、実吉訳は直訳風で硬く、言い回しが古い。
どちらの翻訳も長所、短所があるが、構造を読むという点から実吉訳で読むことを強くオススメする。
海外文学において、読者が内容を理解できるかは訳者の理解に強く依存する。訳者が内容を理解できていなければ、読者が理解するのは困難を極める。
そういった点で、実吉捷郎の翻訳は特筆に値する。
ちなみにブッデンブローク家の人びとと魔の山については実吉訳を見つけられなかったので比較を断念した。
輪るピングドラムの余談
頑張ってシンプルに説明したつもりである。
「銀河鉄道の夜」は賢治なりに頑張って全編対句しようとした作品である。その作業が大変すぎて完成できなかったが。
幾原監督も恐らくそのことに気づいている。気づいているがアニメでそれをやるのは無謀と判断したと勝手に妄想している。
村上春樹の影響があるかどうかは判断しかねる。もっと分析すれば分かるかもしれないが、もう疲れたのでやらない。気になる人は各自でお願いする。「生存戦略」の意味はそのうち考える。
キリスト教といえば近代日本文学は西洋文化の消化、すなわちキリスト教を吸収する闘いだったともいえる。
漱石は神経衰弱になって胃に穴が開いたが西洋文化の正体分からなかった。芥川はキリスト教なんじゃないかと推測までしたが自殺、賢治はキリスト教の中心にある三位一体教義を理解したが過労で倒れる。「銀河鉄道の夜」は未完成。戦後になって太宰と三島が挑んだ。そして二人とも自殺。
彼ら以外にも挑んだ作家はたくさんいるだろう。そして闘いでボロボロになって死んでいった。文化と文化を消化する作業は想像を絶するほど大変なのだ。
「輪るピングドラム」は彼らの屍の上に成り立っている。
つまり「ピングドラム」をこうやって鑑賞できるのは彼らの自己犠牲のおかげである。彼らはこのアニメを見てなんと思うだろうか。
私が知らないだけで他にもキリスト教を取り扱ったアニメはある。テクノロジーの進歩によって現代の主役は文芸からアニメへ移り変わったわけだが、これは別に悲しむことではない。
現代文学にも優れた才能はいる。ただ、アニメの理解度の高さが半端ないのだ。
「漫画アニメなんぞより文学のほうが優れている」なんて言ったら恥をかく時代になった。
「輪るピングドラム」解説
(以下、ネタバレあります)
2011年に放送されたアニメ。タイトルからして難しそうです。「輪るピングドラム」。なんで「輪る」なのでしょうか、「回る」じゃダメなのか。最初はそんなことを思っていましたが、最後まで見たらタイトルの意味が理解できました。
あらすじ
昌馬、冠葉、陽毬の三人兄妹は水族館に行きました。しかし、妹の陽毬は病気で倒れ死んでしまいます。悲しみに暮れる二人の前に突然、ペンギン帽を被り復活した陽毬が。そして彼女の口から「ピングドラムを探せ」とかなんたらかんたら
内容がてんこ盛りです。頭がパンクしそう。考察しようにも底なし沼にはまっていきそうです。こういうときは一つずつ丁寧に紐解いていく。そうすれば必ず理解できます。
地下鉄で見える95という数字、事件があったのは16年前。2011年から16年前は1995年。もうお分かりだと思います。
1995年地下鉄サリン事件です。オウム真理教が東京の丸の内線に毒ガスをまいて多くの人の命を奪ったテロ事件。
劇中に何度も地下鉄が出てくるのはそのためです。直接は触れていませんが、間接的に匂わせています。そういえば「荻窪線」に出てくる新宿御苑、荻窪などは実際の丸ノ内線の駅名ですね。
つまり昌馬と冠葉の両親が所属していた組織ピングフォースはまんまオウムです。あと熊のぬいぐるみのような爆弾がサリンです。
酒鬼薔薇聖斗事件
劇中に「子供ブロイラー」というのが出てきます。捨てられた子供をバラバラにし、透明にするための施設らしいです。ちょっと怖いですし、よく分からない。
これは1997年酒鬼薔薇聖斗事件です。
酒鬼薔薇の書いたマークには扇風機のようなものがあります。
子供ブロイラーにある大きな換気扇。
酒鬼薔薇聖斗の犯行声明に「透明な存在になる」という文言があります。これが子供ブロイラーの透明にすると対応しています。
グロテスクですね。書いてて気分が悪くなってきました。やたら不気味で怖いシーンなのは残虐な事件をオマージュしているからです。
昌馬たちの父親はかつて南極観測隊に所属していました。
1983年映画「南極物語」です。
そり犬たちは南極で観測隊員に置き去りにされます。
16年前の事件で突然両親が逮捕され置き去りにされる昌馬、冠葉、陽毬。
多蕗と時籠ゆりはそれぞれ苗字を訓読みすると、「たろ」と「じろ」になって、南極物語に出てくる犬の太郎と次郎になりますね<RT
— テリー・ライス (@terry_rice88) 2019年1月20日
自分では気が付きませんでしたが、多蕗と時籠ゆりは苗字が「タロ」「ジロ」と読めます。ほぼ間違いなく下敷きにしています。
こんな感じで「ピングドラム」は残酷な事件も取り扱っています。どこか暗い雰囲気があるのはそのためでしょう。
しかし、一番重要なのは「銀河鉄道の夜」です。
一番ウェイトが高い元ネタが「銀河鉄道の夜」なのです。1話の冒頭で二人の少年が話しているようにジョヴァンニとカムパネルラの物語。「ピングドラム」はまんま「銀河鉄道の夜」です。
表の通り、銀河鉄道の世界観満載です。
ところが「銀河鉄道の夜」はとても難しいんです。童話だとあなどるなかれ。実はキリスト教を取り扱っています。だから「ピングドラム」も難しい。一回見ただけで理解できた人はほとんどいないでしょう。
というわけで最初に「銀河鉄道の夜」について知る必要があります。下の記事はその解説です。
(最悪「銀河鉄道」本文は読まなくていいのでこちらの解説だけでも読んでくださると助かります。一応、軽く説明はしますが。)
三位一体教義
「銀河鉄道」を理解するにはキリスト教を理解しないといけません。キリスト教を理解するには三位一体教義を理解しないといけません。面倒ですね。
しかもこの三位一体教義がとても難しい。我々日本人には理解しづらいです。(だから日本でキリスト教が流行しなかったのかもしれない)
なるべく分かりやすく説明します。間違っていたら信者の方申し訳ありません。
以下、小芝居
神「がっはっは、人間と違ってわしはこの宇宙を作った全治全能の神であるぞ~」
人間「神よ、その通りです」
神「ところで、無限の存在である神を有限な存在の人間が認識できるのはおかしくないか」
人間「あ、確かに」
人間は困りました。これでは理屈に合いません。なんとか考えた結果、次のような理屈を思いつきました。
人間「神よ、確かに我々は神を断片的にしか認識できません。バラバラに、部分的にしか認識できませんが、恐らくそれらを一体のものなのだろうと考えています」
神「うむ、よかろう」
このバラバラになった断片を「父なる神」「キリスト」「聖霊」と呼びます。3つ合わせて一つのもの、三位一体ですね。
実はこの考え方は聖書よりも大事なのです。え、分からない?それは困りました。この考え方から外れると、異端と呼ばれて皆殺しにされます。殺されたくなかったら理解するしかありません。
人間の体に置き換えて考えてみましょう。
脳が「父なる神」、視覚が「イエスキリスト」(目で見えるから)、聴覚が「聖霊」です。
神「わしは考え(脳)、見て(視覚)、予言を聞き(聴覚)認識するぞー」
人間「神よ、私たちにはそんなことできません。人間ですから。しかし、脳と視覚と聴覚の3つの方法を使えば、あなたに近づくことはできます」
神「その通り!」
めでたしめでたし。キリスト教徒でなければこのくらいの認識でいい気がします。ちゃんと知りたいという方はニケア信条というのを読んでください。
おまけ
Aさん「つーか、聖霊はキリストからも発するぜ」
Bさん「は?お前何言ってんの。視覚(キリスト)から聴覚(聖霊)が発するわけねーじゃん。目から耳が出るってどういうことだよ!」
Aさん「なんだと!」
Bさん「この野郎!」
二人は大喧嘩をして東西に分裂。今でも仲直りできていません。Aさんの名前はカトリック教、Bさんの名前はギリシャ正教といいます。
ちなみに、宮沢賢治が採用したのはカトリックの三位一体教義です。
小芝居終わり
聖霊とは
三位一体の概念自体イメージしづらいのですが、もっとイメージしづらいのが「聖霊」です。これも難しいです。お天道様を信じる日本人にはちんぷんかんぷんです。
要するに「人に予言させるインスピレーション」のようなもので、聖霊に降りてきてもらった人は様々な予言を口走ります。イタコとは違いますがイメージ的にはあんな感じで口走ります。
これは三位一体の絵です。キリスト教文化ではおじいさんが父なる神、若い兄ちゃんがキリスト、聖霊は鳩で描かれます。
聖霊とは聴覚、つまり言葉ですから言葉は鳩、鳥の絵で表現されます。鳥=言葉。
そして、「ピングドラム」はこの聖霊の言いかえが非常にうまいです。
作中、妹の陽毬はペンギン帽を被ると何かに憑かれたかのように「生存戦略」と叫びだし、「ピングドラムを探せ」と指示してきます。
取り憑く別人格(プリンセス・オブ・ザ・クリスタル)が父なる神、キリストが陽毬、聖霊つまり鳥がペンギン帽です。「ピングドラムを探せ」が予言(=言葉)に当たります。
というか陽毬は死んで復活するのですからイエスそのものですね。
アニメだと聖霊がイメージしやすいですね。ちゃんとペンギン帽にも意味がありました。「イマジン」と叫ぶのはインスピレーションが来た、ということなのでしょうか。
原罪
さっきからキリスト教の話ばかりですね。もう少しだけ我慢していただいて、「原罪」の話をします。
エデンの園にいたアダムとイブは神の言いつけに背いて禁断の知恵の実(=リンゴ)を食べてしまい、知恵と性に目覚めます。これに神様は激怒。二人を楽園から追放します。
アダムとイブは最初の人間なので親から子へ受け継がれ、やがて人類全員が罪を背負うことになりました。これが原罪です。
罪が相続されるなら善行も相続されないのでしょうか。突っ込みどころ満載ですが我慢してください。
そしてこの原罪から人類を解放してくれるのがイエス=キリストです。彼は無実の罪を背負い死刑になることで、人類の罪をチャラにしてくれます。
だからイエスを信じる者は自分の罪がチャラになるので救われます。めでたしめでたし。
これでようやく「銀河鉄道」の話ができそうです。
原罪=リンゴ
「銀河鉄道」で原罪が表現されるのはリンゴの話です。燈台守が眠っているひろしの膝の上にリンゴを置きます。ひろしは目覚めて「今お母さんの夢を見ていた。棚や本のあるところにいた。リンゴを取ってこようとしたら目が覚めた」と言います。
ちょっとよく分からないですが、ここで本とは知恵のことです。ひろしはリンゴを食べますので、禁断の知恵の実を食べたということです。
「ピングドラム」にもこれと似たシーンが出てきます。
9話で陽毬がドアを開けると図書館にたどり着きます。そこで司書をしている眞悧に出会い、過去が書かれた本を取り出しながら最後は元の世界に目覚めます。このとき眞悧に「忘れ物だよ」と渡されるのがリンゴです。
一見、意味不明ですが、実は先ほどのひろしのエピソードが元になっています。図書館の棚には本がたくさんありますから。燈台守=眞悧、ひろし=陽毬です。
ちなみに図書館の名前は「空の穴」と言いますが、これも「銀河鉄道」に出てくる用語です。
蠍の炎
今話したように、原罪から人類を解放するのがイエスの自己犠牲です。「銀河鉄道の夜」は自己犠牲にあふれています。
中でも象徴的な存在がサソリです。このサソリのエピソードが最も重要な箇所なのです。
以下、小芝居
サソリ「まずい、イタチに見つかってしまった。このままでは食べられてしまう。逃げなくては」
イタチ「待てー」
サソリ「どうしよう、このままでは捕まってしまう。そうだ!この井戸に飛び込もう」
イタチ「くそ、逃げられたか」
サソリ「しまった、井戸の水で溺れてしまった。ああ、なんて自分は愚かなのだろう。自分は今までたくさんの虫を殺して食べて生きてきた。それなのに自分が食べられそうになったら井戸に逃げた。なんで食べられて上げなかったのだろう。犠牲になってあげなかったのだろう」
神「素晴らしい。お前は自分の原罪に気づいた。そして自己犠牲を志した。お前の心臓を真っ赤な星として夜空に打ち上げてやろう」
これがさそり座のアンタレスです。サソリは虫を食べて生きています。原罪を背負っています。そのサソリが原罪に気づき、自分の命を差し出せばよかったと気づく、ここが「銀河鉄道」最大の主張です。
「銀河鉄道」に蠍の火というのが出てきます。真っ赤でとても美しいです。美しいのは
自己犠牲の象徴だからなのですね。
「ピングドラム」にも「蠍の炎」が出てきます。冠葉の心臓にあります。これはサソリの心臓、つまり自己犠牲の象徴です。
最終話で荻野目林檎が運命の乗り換えをしたときに出る炎も蠍の炎です。自己犠牲の代償として炎に焼かれるのです。
色々な自己犠牲
「銀河鉄道」は自己犠牲の物語ですから「ピングドラム」にも自己犠牲が出てきます。
父親は嵐の夜に熱を出した陽毬を病院までおぶっていきます。後を冠葉が追いかけるとガラスの破片が飛んできました。冠葉を庇って父親は傷を負います。
母親も鏡が陽毬に倒れてきたのを庇って、ガラスの破片で傷を負います。
冠葉は警察から逃げてるとき真砂子を庇って、ガラスの破片で傷を負います。
陽毬は昌馬の心臓からでたリンゴを冠葉に渡すためにガラスの破片で傷を負います。
冠葉は運命の乗り換えが終わると陽毬を助ける代償としてガラスの破片になって消えます。
なんだか共通点がありますね。
運命の輪
作中に出てくる自己犠牲をすべて表にしましょう。
実は登場人物全員が自己犠牲の代償を共有しあうのです。互いに罰を受けあう。互いに愛による自己犠牲で助け合う。他にも探せばペアが見つかるかもしれません。
そうです。これが「運命の輪」です。みんなで自己犠牲を、愛を繋げあう。輪のようにつながっていくのです。始まりは桃果です。彼女が始めた自己犠牲が多蕗、ゆりを巻き込み、元々家族ではなかった高倉家や真砂子を巻き込んでいくのです。
「輪るピングドラム」は難解ですが、それでもなんとなく面白いな、と思うのはこの表を見れば明らかです。一見他人どうしによる出来事が輪のように密接につながり合っているからです。
そしてこの輪に入れないのが眞悧です。彼は世界を憎むだけで自己犠牲をしません。だから輪に入れません。仲間はずれです。
輪廻転生
宮沢賢治は仏教徒でした。それも法華経を信仰していました。「銀河鉄道」にも仏教を示唆する文章が出てきます。
以下は「銀河鉄道の夜」本文より抜粋
「そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました」
天気輪の柱というのは賢治の造語なのですが、法華経の多宝塔なんじゃないかと言われています。そしてこれが賢治の輪廻思想を表していると推測されています。
三角標は形が三角形ですから3、つまり三位一体教義を表しています。
天気輪の柱が三角標になる、つまり仏教思想がキリスト教に溶け込んでいくということです。(銀河鉄道は未完成の作品なので、この辺あんまり詳しく分かっていません)
仏教思想に「輪廻転生」というものがあります。
生前、良い行いをすれば死んでも良い人間に転生して幸せな生活を送れるし、悪い行いをすれば死んでも悪い人間に転生してひどい人生を送るか、人間以下の獣に転生、もしくは幽霊のまま苦しみます。
これを繰り返して、最終的に輪廻から解脱することが目標です。仏教は基本的に生きる=苦なので。
つまり、転生が良くなるかどうかは生前の行動次第です。では良い行動とはなんでしょうか。
それが「愛による自己犠牲」です。自己犠牲をした登場人物たちの輪廻転生を見てみましょう。
・桃果
桃果は多蕗と時籠ゆりを救い、地下鉄テロも命を投げ出して救おうとしました。尊いです。だから転生先はもっと幸せな人生が歩めるはずです。転生したのは恐らく妹の林檎です。彼女には陽毬と穏やかな日常が待っているはずです。
・昌馬と冠葉
昌馬は荻野目林檎を助けるため、冠葉は陽毬を助けるために死にました。愛による自己犠牲の死です。だから不幸じゃありません。最終話で歩いていく二人の少年が彼らの転生です。
彼らはどこまで一緒に歩んでいきます。ジョバンニとカムパネルラのように。きっと幸せな人生が歩めるはずです。
・昌馬たちの両親
彼らは16年前の事件を起こした組織の幹部です。悪い人たちです。劇中で死んでいることが分かりました。しかし、自分の子供たちをガラスの破片から庇いました。愛による自己犠牲です。なので一応転生はできます。
恐らく、ペンギンです。もしくはその他の動物たちのどれかに転生しています。テロを起こしたので転生先は獣に降格です。当然です。でも、そんなに不幸って感じしませんね。
・眞悧
一番最悪なのは眞悧です。テロを起こした首謀者です。魔法で真砂子を生き返らせますが、対価として冠葉を組織に巻き込みます。自己犠牲じゃないです。輪廻転生ができません。善行を積まなければダメなのです。
だから幽霊です。ずっとさまよっています。彼は転生できるのでしょうか。たぶん無理です。もしかしたらできるのかもですが。
タイトルの意味
これでようやくタイトルの意味が分かりました。「回る」じゃダメなんです。回転ではなく、”輪”廻するんですから。ピングドラムは作中で言ってたように運命の果実=リンゴです。リンゴは原罪です。
つまり「輪るピングドラム」とは、
「原罪は一人ではなく、みんなで背負おう。そして愛による自己犠牲しよう。そうすれば輪廻転生してより良い人間に転生できるから」
という意味です。
最終話で少年が話していた「リンゴは愛による死を選んだ者へのご褒美なんだ。死んだら終わりじゃない。むしろそこから始まると賢治は言いたいんだよ」とはこのことを指しています。
作品の主題
平成に入り悪意を持った人間による残虐な事件が発生しました。かなりショッキングな事件で、加害者とその家族に対する報道も加熱しました。平成元年の宮崎勤事件では加害者の家族が自殺してしまいました。
「彼らは悪魔だった」その一言で済ましていいのでしょうか。
加害者に共通するのは幼少期に愛を受けずに育ったことです。愛を知らなかったことが悲惨な事件の始まりでした。
大切なのは二度とこのような悲劇を起こさないように行動することです。それが「愛による自己犠牲」です。みんなで助け合い、運命の輪を広げればみんなが輪廻転生してより良い人間に、より良い世界に生まれ変わるのではないか。輪を広げて眞悧のような人間を一人でも減らせるのではないか。
昌馬や冠葉たち高倉家は加害者家族です。彼らに罪はありませんが、理不尽な目に遭います。彼らも一歩間違えれば眞悧のように幽霊になっていたかもしれません。
「綺麗ごとだ」「遺族の気持ちを考えろ」そんな声が聞こえてきそうです。確かに口に出すのは憚られます。
だからこのアニメはこんなにも難解なのでしょう。これが「ピングドラム」を難しく、複雑に、抽象的にしなければいけなかった理由です。
口に出せないことを伝えるのが物語であり、芸術です。
愛を広げなくてはいけない。輪廻の輪を止めてはいけない。
これがこの作品の隠されたメッセージです。
感想
大変難しかったと思います。しかし、とてもよく出来たアニメです。「銀河鉄道」を読んだ人は「ピングドラム」を見てください。「ピングドラム」を見た人は「銀河鉄道」を読んでください。きっと理解が深まるはずです。
幾原監督は現代の宮沢賢治ですね。これからも注目していきたいです。
さいごにどうしても分からなかったのが「生存戦略」という言葉です。どういう意味なのでしょうか。誰か教えてください。
「注文」は小学校の教科書に載っているのでほとんどの人が知っているはずです。オチが秀逸です。
同じく幾原監督の「ユリ熊嵐」です。「なめとこ山の熊」が下敷きになっています。
こちらは同志の焼売氏が作成した「さらざんまい」解説です。大変充実した内容かつユーモアな作品となっております。
現在、一緒に文学やアニメなど古今東西の物語を読み解く同志を募集しております。といっても特に活動や制約があるわけではありません。自分のペースで作品読み解くだけです。詳しくは上記ページをお読みください。
出典:
https://www.asahi.com/special/timeline/asahicom-chronicle/sarin.html
https://www.kitadenshi.co.jp/products/2017/penguindrum/strategy/index.html
http://bunshun.jp/articles/-/3091
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4
https://art.hix05.com/Michelangelo/Sistina/06.sin.html
http://www.gibe-on.info/entry/jesus-christ/
https://www.honda.co.jp/outdoor/knowledge/constellation/picture-book/scorpius/
https://www.shinchosha.co.jp/writer/2936/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94
http://www.gingatetudounoyoru.com/settei/sankakuhyo.html
https://www.sankeibiz.jp/smp/econome/news/180603/ecd1806031313001-s3.htm
https://www.lifehacker.jp/2017/08/170802-business-success-can-cause-brain-damage.html
「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の答え合わせと解説の巻
「前回、こんな予想をしたわけだが」
「早速、答え合わせというわけやな」
「最終回まで見た結果は下の通りになる」
「なんか増えてないか」
「結論から言うと、青ブタは涼宮ハルヒと化物語を合わせたもの、つまりドッキングだった」
「それはつまり、予想が外れたということか」
「半分合って、半分間違えたと言ってもらいたい」
「言い訳は醜いぞ」
「まあ最初だから仕方ない」
「点数は20点くらいでええか」
「いや、涼宮ハルヒが下敷きになっていたのは分かったし、50点くらいは欲しい」
「それはさすがに、甘すぎないか」
「そんなことはない」
「まあ点数なんてどうでもいいから、はやく解説をしてくれんか」
「どうでもよくはないが、なぜドッキングなのかについて説明していきたい」
「うむ」
「まず青ブタの登場人物について見ていく」
「なんか前回予想した時よりキャラクターが増えておるんやが」
「ここに涼宮ハルヒの憂鬱の登場人物を対応させる」
「古賀朋絵が不明やな」
「ハルヒに後輩の女の子なんて出てこなかったので分からなかった」
「もしかしたら原作で登場しているのかもな」
「それだったらごめんなさい」
「あと豊浜のどかが涼宮ハルヒっていうのがよく分からん」
「豊浜のどかは思春期症候群で姉と入れ替わっている。つまり姉と一体化しているわけで、姉の桜島麻衣は涼宮ハルヒなので、豊浜のどか=桜島麻衣=涼宮ハルヒとなる」
「次に、化物語の登場人物を対応させる」
「表をポン」
「国見佑真が不明やな」
「そもそも化物語はほとんど男が出てこないから」
「忍野メメは?」
「考えたがあまりにも似てなくて却下した」
「祥子は捨て猫を拾うので羽川翼と考えそうになるが、そうすると双葉理央に該当する人物が分からなくなる」
「そうすると表がぐしゃぐしゃになると」
「表がぐしゃぐしゃなアニメは大抵駄作なのだが、この作品はそうではないので、なんらかの理由で祥子が猫を拾うことになる」
「表で考えると理央が捨て猫を拾うほうが整合性が取れるのにな」
「この辺はよく分からない」
「以上3作品をまとめて比較した表がこちら」
「深夜アニメだと思ってタカをくくっていたがよく出来ているな」
「キャラクター戦略には徹底的にこだわったのが表からよく分かる」
「二匹の猫、なすのとはやてはそれぞれ涼宮ハルヒと化物語が下敷きになっているのを暗示している」
「ただ」
「なんや」
「青ブタは確かに良いアニメだが、それでも涼宮ハルヒの憂鬱よりワンランク下だと感じてしまう」
「それは恐らく、下の表のような構造がないからやな」
「こういう構造があると作品の奥行きが増すというか、視聴者の心に残りやすくなる」
「とはいえ、それが無くても全然不名誉なことではなくて、涼宮ハルヒが凄いだけである」
「最終回で主人公が全力疾走したり、ヒロインと二人で雪を見たりしたのは消失を意識した終わり方やし」
「まあ校庭のど真ん中で告白はさすがに痛かったけどな」
「憂鬱ラストのハルヒとのキスシーンを意識したっぽいが、いかんせん古臭かった」
「10年前だったら大絶賛だったかも分からん」
「そういえば、アニメが始まる前から劇場版が決まってたそうな。失敗したら偉いことになってたわ」
「 大した自信やな」
「その自信はどこから来るのかというと、大ヒットアニメ2作を下敷きにしたから」
「ということになるな」
「劇場版はどうなるんやろうな」
「普通に考えて、残っている笹の葉ラプソディーと傷物語を下敷きとした映画になると予想できる」
「朝比奈みくる、忍野忍を融合させた牧之原祥子がメインの話っぽいしな」
「まあこういうのはまたの機会に考えるとして」
「今回はこの辺で」
「さようなら」
今後の予定と車輪の再発明
年内にブッデンブローク家の人びとの解説が終わりそうにない。
更新予定としては
1月・・・ブッデンブローク、青ブタ(アニメ)予想の答え合わせ
2月・・・魔の山、何かアニメの予想
あくまで予定なのであしからず。基本は月2回更新である。
というわけで12月は0投稿になってしまう。楽しみにしていた方(存在するか不明)には残念だが、所詮はブログなので致し方ない。
以上なのだが、ここで終わるのは寂しいので何か適当に書く。
最近はアニメそっちのけでトーマス・マン祭りである。別にマンが好きという訳ではない。未だにあの文体はくどいと思っている。もっと言うと面白くない。
ただ、構造を読むシリーズをやる上でそこが都合良い。
どの作家をテーマにするか考えたとき以下の条件が浮かんだ。
・優れた構造を持っていること
・後世への影響力が大きいこと
・難解であること
最後が一番大切である。ストーリーが面白いと「面白いから評価されてるんだろ。構造とか関係ないじゃん」と言われかねない。これでは説得力に欠けてしまう。
「面白くはないけど評価が高い作家」ということでマンを研究対象にした。
当ブログでも参考にさせてもらっているfufufufujitaniさんの風立ちぬ解説である。(ジブリの風立ちぬはマンの魔の山を下敷きにしている。)
実はトニオ・クレーガーと魔の山に関してはfufufufujitaniさんが断片的に解説して下さっている。つまり私がわざわざやる必要は無かった。
こういうのを車輪の再発明と言うのだが、もう少し深く掘り下げるためにやった。再発明は効率が悪いのでなるべく避けるべきだが、「他人に頼る前にまずは自分でやれ」の精神である。
ということで当面は構造を読むシリーズが続く。
そんでもってアニメの展開予想をやっていく。
これは仮説なのだが、数話みて構造があると分かったアニメ(例えばSHIROBAKO)はその後の展開を予想できるのではないか。章立て表を用いて。
今期で言えば、「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」は予想できると判断した。単なるオタク向けアニメなのだが、実験台としてはちょうどいい。
できるのはあくまで一部の作品だけだが、なかなか面白い試みだと思っている。
本当はエヴァとか聲の形とかやりたいのだが、放ったらかしである。現代の主役は文学ではなく映像作品である。来年はアニメにも力を注いでいきたい。
こんな感じの当ブログではあるが、少ないまでも一定数読者がいるようである。自分が社会の役に立っているとは思わないが、皆さんのお役に立てれば幸いである。
疑問や要望があればコメント欄やTwitterで受け付けている。気軽にどうぞ。
ではまた来年。
たわごと~ヴァネツィアに死すの主題について~
「ヴェネツィアに死す」の主題について
この解説では、あえて作品の主題について触れていない。「構造を読む」がテーマなので、話が脱線しないようにした。以下にそれを示す。
「ヴェネツィアに死す」の主題
「若きウェルテルの悩み」は不倫愛という禁断の関係を描いている。
「ヴェネツィアに死す」は同性愛という(その当時は)禁断の関係を描いている。
ゲーテはウェルテルの本能的で衝動的な愛を正当化するために、ウェルテルは太陽の象徴、ロッテは水の象徴とした。(詳しくは下記のNaverまとめに書いてある)
不倫は衝動的な愛であるが、それが社会に受け入れられなくても、それは太陽の動きのように自然なことであるから、だれも非難できない。
これと同じことが「ヴェネツィアに死す」にも言える。
アッシェンバッハは道徳的で教育的な作品を書く作家であった。しかし、ヴェネツィアに行き、タッジオと出会ったことで衝動的な行動をとってしまう。
それが同性愛であり、ストーカー行為である。
つまり、アッシェンバッハもまた本能に駆られた人物なのである。ウェルテルと同一。
ウェルテル=アッシェンバッハ、ロッテ=ヴェネツィア=タッジオである。
(タッジオはイギリス風のセーラー服を着たり、水兵服を着たりしている。イギリスは海洋国家であるからタッジオ=水である。水=ヴェネツィアよりタッジオ=ヴェネツィア=ロッテが成り立つ)
アッシェンバッハが美しいヴェネツィアの街を、ひいては美少年タッジオを愛することは、1910年代の社会では受け入れられなくても、それは太陽の動きのように自然なことであるから、だれも非難できない。
これがこの作品の主題である。そこはかとない主張ではあるが。
さらに、下の表は「ヴェネツィアに死す」の登場人物(というか特徴の)構成表である。
イギリス風の項目に注目してほしい。
イギリス人もしくはイギリス風の格好をした人物が全部で3人いる。赤毛の男、タッジオ、旅行会社の事務員である。
3人とも比較的、主人公に好意的な人物である。旅のきっかけを与えてくれた者、愛する者、ヴェネツィアの実態を教えてくれた者。
他はみな不快な印象のある人物ばかりで、なぜイギリスだけが好印象なのか。
イギリスにはオスカー・ワイルドがいる。19世紀末に活躍し、男色の罪で投獄された作家である。イギリスは1967年まで男どうしの性的活動が犯罪だった。
「ヴェネツィア」が書かれた当時、同性愛を描くのは許されても、正当化するのは許されない情勢にあった。
作者のトーマス・マンは水の都ヴェネツィアとゲーテを使って、そこはかとなく正当化することに成功した。ヒントにイギリス風の人物たちを残した。理由はオスカー・ワイルドへの同情である。
数十年後、そのことにヴィスコンティが気づく。
そして、生まれたのが映画「ベニスに死す」のラストシーンである。
日の光と海が溶け込んでいる。
この瞬間、太陽と水が一つになった。
アッシェンバッハとタッジオが一つになった。死の間際、彼のかなわぬ想いは成就したともいえる。
実は、原作のラストシーンでは日の光に関する描写はない。
本文には、ただ「いつもより遅い朝に起きた」とだけある。波の光の描写もない。そして、いつもより遅い朝ならもう少し日が昇っているはずである。
なぜか?
恐らく、ヴィスコンティは「ヴェネツィアに死す」の奥にある「若きウェルテルの悩み」に気づいてた。
作者のトーマス・マンがゲーテを使って同性愛を正当化しようとしたことに。
だから波の光を映像にすることで、二人を融合させた。
誤解を恐れずに言えば、濡れ場である。
ただ、そんな意図は決してばれてはいけない。まだ1971年である。ばれたら批判どころか公開中止になる恐れがある。
ばれないように、しかし、そこはかとなく伝えている。
このラストシーンこそが、ヴィスコンティの力量のすごさである。これを「ヴェネツィアに死す」の解説にも書こうとしたのだがやめた。
話が脱線しすぎであるから。
下品な解釈かもしれない。トーマス・マンもヴィスコンティも下品だと思われたくなくて、必死に作っている。おっさんのストーカー物語を。
「ヴェネツィアに死す」を調べると、「老いていく作家の苦悩」「理想の美の追求」という文言が出てくる。
ギリシャ的な美に関する記述が多いのは確かであるが、本当にそれだけなのだろうか。アダージェットは愛の楽章である。「ヴェネツィア」も愛がテーマだと思えてしょうがない。
ただ自分はマンが同性愛者だったとかヴィスコンティが~、とかは語りたくない。そういうワイドショー的な考察が一番嫌いなのである。
どんなに作家の日記を調べても、過去の経歴を掘り返しても無駄なのだ。
そこに真実はない。知りたければ、作品を、中身を徹底的に読むしかない。そこから逃げて、作家の私生活からでしか語れない人間の文章に価値はない。
次回は「ブッデンブローク家の人々」をやる予定である。場合によっては変更もある。
構造を読むとは その2~ヴェネツィアに死す~
前回、音楽の形式(ソナタ形式)を用いた小説の説明をした。
今回も音楽の形式を用いた別の小説の説明をする。タイトルは「ヴェネツィアに死す」
「ヴェネツィアに死す」は1912年にドイツで発表された作品である。日本では明治天皇が崩御して、大正時代が始まった年。ヴィスコンティ監督の映画にもなった。これも中編小説で、壮大な作品というわけではない。
あらすじ
作家のおっさんがヴェネツィアで見つけた美少年をストーカーして死ぬ。
内容
おっさんが美しい少年をストーキングするだけの話である。面白くないどころか、気味が悪いと思う読者もいるかもしれない。しかし、この小説は美しいのである。
この小説はそもそもグスタフ・マーラーの死に触発されて作られたものらしい。主人公の名前もグスタフ・アッシェンバッハ。関連がありそうではある。
ただ、それだけで決めつけるのは早計なので、構造を見比べて確かめていく。
交響曲第5番は全5楽章、「ヴェネツィアに死す」も全5章である。
第1楽章
第1楽章は「葬送行進曲」となっている。お葬式で人々が厳かに列をなしているイメージ。だから、「ヴェネツィア」の冒頭で墓地が出てくる。主人公は墓地の近くで見つけた赤毛の男と視線が合ったことから、旅がしたくなる。
もう一つ、第1楽章は小ロンド形式になっている。
小ロンド形式はA+B+A+C+Aのメロディーで作られる形式である。
音楽の形式については、上のページに詳しい説明がある。
ということは、「ヴェネツィア」の第1章も小ロンド形式で作られているはずである。
表ー2 第1章の小ロンド形式表
A:アッシェンバッハについて B:赤毛の男について C:旅への欲求について
それぞれメロディーごとに分かれて、描写がなされている。何気ない冒頭であるが、きちんとした骨組み、つまり構造を持っている。
第2楽章
第2楽章は「嵐のように、激しい」となっている。これは若くして、才能を認められた作家アッシェンバッハの半生と対応している。大御所の地位を確立する一方で、妻を亡くし、娘は嫁に行き、一人老いていく芸術家の姿である。
第3楽章
第3楽章は「スケルツォ、楽しげ」である。スケルツォは音楽の世界では「力強く、速すぎず」という意味だが、ここでは「冗談、ふざけた」という意味合いである。
ヴェネツィアを目指して船に乗るが、そこではおしゃべりや馬鹿丁寧な態度をとる不快な人々がいた。
一番重要なのは若者の集団に紛れて、お化粧やおしゃれをした老人である。主人公はこの人物がおしゃべりでふざけている印象を受ける。ここがスケルツォに対応している。
「楽しげ」はヴェネツィアに着いてから、美少年のタッジオに出会って心を躍らせたことに対応。
第4楽章
第4楽章は「アダージェット、非常に遅く、愛」である。第4章も再びヴェネツィアに戻ってきたアッシェンバッハはそこでゆったりとした日々を送る。ここがアダージェットに対応している。
この第4楽章は愛の楽章とも呼ばれている。主人公もタッジオの微笑みを見て「私はお前を愛している」と言う。
ついついタッジオの美が注目されがちだが、アダージェットを意識するなら「愛」に注目しなければならない。
第5番を知らない方も第4楽章(アダージェット)だけは聴いておくべきである。静謐なメロディーが響く。
第5楽章
第5楽章は「アレグロ(陽気な)楽しげに、ソナタ形式」である。ソナタ形式については前回、説明した通り、(A+B+A1+B1+A+B)である。
表ー3 第5章のソナタ形式表
第1主題は問いかける、語りかけるといった「問いかける、語りかける」、第2主題は「眺める」である。(ストーカーは遠くから眺める行為なので同じ意味)
全体がソナタ形式の「トニオ・クレーゲル」に対し、部分的にソナタ形式なのが「ヴェネツィア」である。
「アレグロ」は浜辺でタッジオと少年たちが戯れるシーンに対応している。とても楽しげで、牧歌的である。
第5章の途中でアッシェンバッハは恐ろしい夢を見る。山の中で雄ヤギが現れ、人間と動物が入り乱れた乱痴気騒ぎが行われるシーンである。
とても気味が悪い夢なのだが、実は元ネタがある。ゲーテのファウストに出てくる「ワルプルギスの夜」である。同じく、山の中で開かれ、雄ヤギが出てくるのである。
そして、ワルプルギスの最中に恋人グレートヘンの死が予感される。
「ヴェネツィア」でも恐ろしい夢の後、主人公が死ぬのである。
ヴェネツィア=魔女
ところで、「ヴェネツィア」では女性がほとんど出てこない。(一応、タッジオの母親がいるがあまり関係ない)
「ファウスト」にはグレートヘンという魅力的な女性が主人公の恋人として登場する。しかし、この女性はファウストとの間にできた子供を水に漬けて殺す。悪い女性である。
同じくゲーテの「若きウェルテルの悩み」でもヒロインのロッテは魅力的だが悪い女性である。そして水に関連している。
ゲーテはドイツ人でドイツはもっとも魔女裁判が多かった国である。つまり魔女崇拝が強い。実はグレートヘンもロッテも水の魔女である。魔女だから魅力的で悪い女性なのである。
話を「ヴェネツィアに死す」に戻す。
主人公は一度は流行病を理由にヴェネツィアを離れようとするが、魅力的な街が名残惜しく(事故とはいえ)ヴェネツィアに戻る。そして戻れたことに安堵する。
結果的にこの判断が仇となり、コレラにかかってしまう。そして浜辺で死ぬ。浜辺ということは水に関連している。さらにヴェネツィアは「水の都」として有名である。
つまりヴェネツィアは女性であり、水の魔女である。
ヴェネツィアという街全体が一人の女性なのである。
女性が出てこない訳ではなく、舞台そのものが女性となっている。この小説は同性愛を描いているが、ある意味、男女の悲恋物語とも解釈できる。ファウストとグレートヘン、ウェルテルとロッテのように。アッシェンバッハとヴェネツィア。
章立て表
表ー5 ヴェネツィアに死す章立て表
「トニオ・クレーゲル」ではソナタ形式を支える構造として対句が用いられていたが、「ヴェネツィア」では対句があまり見つからなかった。手を抜いたとも捉えられるが、交響曲という構造自体が堅固かつ複雑なので対句が必要でなかったと考えるのが自然である。
冒頭、赤毛の男と視線が合って始まった旅が、愛するタッジオと視線が合って終わり、死ぬ。美しい構造である。
登場人物構成
表ー6 登場人物構成表
「ヴェネツィア」では、 登場人物の共通点がやたら多い。対句がない分、こちらでカバーしたともとれる。
冒頭の赤毛の男はタッジオと対応している。船で出会う若者のふりをしたおしゃれな老人はアッシェンバッハの未来を暗示している。彼はその後理容室で老人と同じおしゃれをするのだから。
これ以外にも共通点があるかもしれない。ぜひ読んで確認してもらいたい。
映画版のラストシーンである。日の光と海と音楽が溶け込んだ美しい場面である。
ヴィスコンティは「ヴェネツィアに死す」と「マーラー交響曲第5番」の構造に気づいていた。
だから劇中でアダージェットを流した。結果が大成功だったのは言うまでもない。
「構造を読む」世界を知る者
ここまで、「ヴェネツィアに死す」の構造を読んできた。
表面的には静かな、愛の物語であり、壮大ではない。
しかし、「構造を読む」という世界を知れば、その裏に隠された世界が広がっているのが分かる。
また、それを理解し、映画化に成功した人物もいる。
それがルキノ・ヴィスコンティである。
ヴィスコンティが劇中にマーラーの交響曲第5番を使ったということは、構造を読むという世界を知る人物が現実に存在していた、一つの証拠である。
ヴィスコンティは世界でも屈指の巨匠と言われた映画監督である。そして彼は構造を読むことができる。
これは「構造を読む」ということが、単なる一つの読み方ではなく、優れた読み方であることを示している。
読者諸兄には、この事実を強く念頭に置いてもらいたい。
ここまで、優れた構造を持つ中編小説について説明してきた。
次回は優れた構造を持つ長編小説について説明する。
この稿では「ヴェネツィアに死す」の主題について触れていない。もっと知りたい方はこちらをどうぞ。
<出典>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88
https://genalyn.com/mytrip/3250
構造を読むとは その1~トニオ・クレーゲル~
「構造を読む」という世界が存在する。
これは文学に限らず、映画やアニメといったジャンルにおいても優れた作品には、「構造」が存在する。
しかし、一般的に「構造を読む」という考え方が広まっていないせいで、その価値を理解されていない作品が多々ある。
特に、古典と呼ばれる名作でも年月を経るにしたがってその価値を忘れ去られている。
これは非常に由々しき事態であり、何としてでも解決しなけれならない。
では、「構造」とは何か?
「構造を読む」とはどういうことなのか?
その意味を説明するために、まずは「トニオ・クレーゲル」という小説の説明から始めていく。
「トニオ・クレーゲル」は1903年に発表された作品である。日本でいえば日露戦争の前年に当たる。中編小説で、内容も壮大というわけではないが、構造的に優れている。
あらすじ
詩を愛する少年トニオ・クレーゲルが友人と下校したり、好きな女の子の踊りを見たり、旅をしたりする中で、芸術の世界で生きるか、平凡な一般市民として生きるかで揺れ動く青春ストーリー。
読むのが疲れる
この作品の最大の弱点は「文章が回りくどい」ことである。いちいち長ったらしいので短編なのに読むのが疲れる。胃もたれがする。
作品の主題としては、トニオ君が最後に言ってるように
「芸術と市民(=平凡に働く生き方)の両立が大事だよね」
というのが主題になっている。
この手の話は大体「芸術に身を捧げて破滅する」と「夢を諦めて現実を生きる」のどっちかに全振りになるのがお決まりだったので、そういう意味では普遍性がある。
だからって面白いわけではない。テーマに普遍性があるのとストーリーが面白いのは直結しない。
このままだと名作と呼ばれる理由が見当たらない。ただ普通に読んでいるだけでは、この小説の良さには気づきにくいようである。
ソナタ形式とは
「トニオ・クレーゲル」とは世界で初めて音楽の形式を用いた小説である。ドイツでは音楽(クラシック)が盛んであったから、そのやり方を小説でもやってみよう、ということで書かれた。
そこが評価されて今日まで読み継がれている。「トニオ・クレーゲル」の価値は表面的なストーリーではなく、ここにある。
使われたのはソナタ形式である。
音楽の形式について最も分かりやすい説明が上のページにある。
簡単に言うと、AとBというメロディーを思いついたとして、
(A+B+A1+B1+A+B)
という感じで並べて、曲を組み立てるやり方である。(A1とB1はAとBを微妙に変えたメロディー)
最初のA+Bを提示部、A1+B1を展開部、最後のA+Bを再現部と呼ぶ。
ソナタ形式を用いた構造
話を「トニオ・クレーゲル」に戻す。ソナタ形式を用いた構造を以下の表に示す。
表ー1 構造解析表
まず、Aは主人公が「歩く」ことが主題になっている。
提示部で男の子と一緒に「歩いて」下校し、展開部では微妙に変化を加えて、主人公が人生を歩む過程を描写し、再現部で旅をするという流れである。
ちなみに故郷やトニオのルーツであるデンマークを旅するのは、提示部を再現しているからである。
次に、Bは「踊り」が主題になっている。
提示部で好きな女の子の踊りを見て、展開部では女の友人に「踏み迷える俗人」言い放たれ、再現部でかつて好きだった女の子の踊りを見る。
B1は主人公が熱弁しているだけで、踊りとは関係ないのだが「踏み迷える俗人」というのが「踊り」と掛かかっている。
余談だが、「踏み迷える俗人」の原文はverirrter Bürger
直訳すると、道に迷った俗人である。
今回、取り上げたのは実吉捷郎訳なのだが、「踏み迷える」と訳した訳者のセンスは素晴らしい。この訳者がソナタ形式に気づいていたかは分からないが、翻訳が卓越していることは表ー1を見ても明らかである。
対句構造について
構造とは、いわば骨組みのことである。家を建てる際、骨組みが不安定なら家はたちまち倒れてしまう。これを防ぐには骨組みをより強化、堅固なものにする必要がある。
「トニオ・クレーゲル」もより堅固な構造とするための工夫が用いられている。それを明らかにするために章立て表を示す。
表ー2 章立て表
表ー2からA-A1-AとB-B1-Bにそれぞれ似たような出来事が起こっているのが分かる。このような工夫を「対句」と呼ぶ。対句については下の記事に説明がある。
それぞれの対句について説明していく。
青色と薄茶色の部分は、先ほど説明した通りである。
・恥をかく
Bで 踊りを間違えたトニオはみんなに笑われて恥をかく。B1でトニオは女の友人リザベタに大勢の前で詩を読んで恥をかいた少尉の話をする。Bで踊りで倒れて、恥をかいた蒼白い少女をトニオが助ける。
つまり、この蒼白い少女はかつてのトニオ自身である。トニオが助けたのは目の前の少女であり、過去の自分である。
・笑われる
Bで踊りを間違えたトニオは好きだった女の子にも笑われてしまう。B1でトニオは熱弁するもリザベタににやにや笑われてしまう。Bでかつて好きだった女の子を見つけたトニオは心の中で「あざ笑ったのか」と問いかける。
・名前
この説明をする前に、登場人物について整理する。
表ー3 外見の特徴による登場人物の分類
注目すべきは、「曲がった脚」という共通点を持つ、インメルタールとゼエハーゼである。(ちなみにトニオと蒼白い少女も黒い目をしている)
インメルタールが出てくるのは
Aでトニオは友人ハンスに「君の名前は変だ」と言われて傷つく。同級生のインメルタールは気の毒そうにしている場面。
ゼエハーゼが出てくるのは
Aで故郷のホテルでトニオは警官に名前を聴取され、詐欺師と疑われる。ホテルの支配人ゼエハーゼは気の毒そうにしている場面。
つまり、ハンス=警官でインメルタール=ゼエハーゼである。
この二つの場面は対句である。
どちらもトニオの名前を悪く言われ、脚の曲がった男がそれを気の毒そうにしている。
そしてA1ではトニオが詩人として名前が知れ渡る描写がある。これも対句に含まれる。
最初に名前をバカにされた思い出、次に詩人として名前が売れたこと、最後に警察に詐欺師疑われ、名前を聴取されるという展開である。
以上の対句構造が「トニオ・クレーゲル」の構造を支えている。
まとめ
ここまで、「トニオ・クレーゲル」の構造を読んできた。
このように、表面的に読むだけでは分からない裏の世界、「構造を読む」という世界が存在する。
今回取り上げた「トニオ・クレーゲル」の場合、それはソナタ形式であり、それを補強する対句構造であった。
そして、このような構造を持つ作品は他にも存在する。
次回は別の例について説明する。
<参考>
原文はこちらのページで見られる。ドイツ語に自信のある方はこちらからどうぞ。
http://www.gutenberg.org/files/23313/23313-h/23313-h.htm
<出典>
https://en-konkatsu.com/koitori/mune-kyun/2423/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%90%89%E6%8D%B7%E9%83%8E
「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の今後の展開を予想しようの巻
「さて、青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない、がどうなるか予想しようのコーナー」
「なんか突然やな」
「ただアニメを見るのも飽きるしな」
「そういうもんなのか」
「そういうもんや」
「それでも説明はしてもらわんと」
「その前にこのアニメ、タイトル長いから『青ブタ』と略してもええか?」
「別にそれは構わん」
「趣旨としては現在放送中の青ブタの今後のストーリー展開を予想して当てよう、ということや」
「今は4話の放送が終わったとこやな」
「原作のライトノベルは全く読んでないので予備知識ゼロで予想していく」
「読んでたら予想にならんやろ」
「確かに」
「あとやるのはええとして、ただ当てずっぽうというのも味が無いで」
「一応、目星は付いてる」
「ほう聞かせてもらうか」
「なんで偉そうやねん」
「ええやろ」
「まあええか」
「ということで予想していく訳だが、まず手がかりというかキャラクターやら何やらを整理する必要がある」
「せやな」
「ということで、ポン」
「なんやこれは」
「青ブタのキャラクター構成表や」
「そうじゃなくて、どうして隣に涼宮ハルヒがくっついている」
「それがさっき言った目星や」
「というと」
「この作品はキャラやストーリー展開が涼宮ハルヒの憂鬱を下敷きにしてると思うねん」
「たしかに似てる点は多い。主人公は無気力で独白が多い、ヒロインがバニーガールのコスプレをする、ヒロインが消失する(しかける)、部室にはメガネの少女がいて、よく主人公は彼女を頼りにしている、男前の同級生がいる、などなど」
「下敷きにしているという証拠は多い」
「だけど表を見たところ、似てない点も多いな」
「その辺はまだ4話だから仕方がない」
「仕方がないでええんか」
「朝比奈みくると朝倉涼子に相当する人物がいないというのは痛いが、今後出てくることに期待している」
「では予想とやらを始めてくれるか」
「ということで、ポン」
「なんやこれは」
「涼宮ハルヒの憂鬱の章立て表や」
「ぐちゃぐちゃすぎて分からん」
「そこは勘弁してくれ」
「表を見ると、1~3話の桜島麻衣が消える云々は憂鬱ラストの閉鎖空間に対応、4話以降はエンドレスエイトに対応している」
「今後の展開としては、退屈、笹の葉ラプソディ、ミステリックサイン、孤島症候群、溜息、朝比奈みくるの冒険、ライブアライブ、射手座の日、サムデイインザレイン、消失の中からどれかが出てくるというわけか」
「1クール13話しかないから全部をやるのは考えづらい。面白そうなのをピックアップしてやるとみている」
「それなら予想の基本形はこうやな」
「とりあえず今やってる古賀朋絵の話は何話進行するのかも含めて、空欄を埋めていく」
「じゃあこんなんはどうや」
「溜息と消失か」
「溜息に相当する話で新ヒロインが出て、長門役の双葉理央が消失をやる」
「妹がおらんけどええんか」
「妹はハルヒでもモブみたいなもんだったし大丈夫やろ」
「だけどトラウマで不登校というなかなかディープな設定だったで」
「そういうお前はどうなんや」
「こっちの予想はこう」
「溜息+ライブアライブは文化祭絡みのストーリーの中で、バンドの演奏シーンが出てくるということか」
「せやで」
「だけど妹のかえでが笹の葉ラプソディなのが納得いかん。ハルヒでは1話分しかない回やぞ」
「トラウマを解決しに主人公と過去へ戻るみたいな話を予想している」
「なんか一気にSFになったな」
「思春期症候群とかいう設定自体そもそもSFやろ」
「まあそうなんやけど」
「なんにせよ、新キャラが出てくること、理央が最終エピソードになることは決まりやな」
「そうしないと涼宮ハルヒとの関連性が薄くなってしまうからな」
「いろいろ組み合わせがあって面白い」
「こんなのはどうや」
「これは」
「やっぱり孤島に行ってお色気出すのも大切だと思わんか」
「ほぼないやろ」
「ないとも限らん」
「百歩譲って孤島で水着やるのはいいとしても、ヒロイン全員というのはいただけない」
「だれか一人でも欠けたらかわいそうやろ」
「わけわからん」
「ふざけるのはこれくらいにして、そろそろ最終決定を決めないと」
「可能性が高いのでいくとやっぱこれやろ」
「水着はなくてええんか」
「ええわ」
「という感じで予想してみましたが、皆様もぜひ考えてみてくださればと思います」
「こういう思考訓練は創作における筋トレのようなもので、クリエイター志望の方にもおすすめです」
「では、結果を楽しみにしながら今回はこの辺で」
「さようなら」
「なあ」
「なんや」
「さっきの涼宮ハルヒを下敷きにしてる云々の話やけど」
「これのことか」
「そう」
「これがどうした」
「偶然やろ、と言われたらそれまでやと思わないか」
「それを言ったらおしまいやろ」
「なんでや」
「ある程度の完成度を持つ作品は過去の名作を下敷きしているもので、それを偶然と言ってしまうのは乱暴にもほどがある。もしそう考えるなら、過去に偶然一致した作品を提示してそういう例があることを証明しなければいけない」
「そうは言うけど、涼宮ハルヒの憂鬱なんてほとんどのアニメが下敷きにしている教科書みたいなもんやろ」
「確かに。『氷菓』『やはり俺の青春ラブコメは~』など影響を受けた作品は多いな」
「だから似てるからって別に騒ぐことではないと思うねん」
「青ブタは露骨すぎるくらい似ているし、原作者もかなり意識していると思うんや」
「作者に関しては単なる妄想やろ」
「予想なんて、結局のところ妄想みたいなもんやで」
「無茶苦茶やないか」
「何にせよ、続きを見ないと分からん」
「それもそうやな」
「ということで、今度こそ本当に」
「さようなら」
答え合わせ編はこちら
「注文の多い料理店」解説【宮沢賢治】
宮沢賢治の代表作の一つ。国語の教科書に載るくらい有名である。子供向けに書かれた割には良くできている。しかし、何がそんなにすごいのか理解されていない。
あらすじ
あらすじは、わざわざ書かない。短編なので、忘れてしまった方は上記のページから読んでほしい。
「注文の多い料理店」の不可解な点
冒頭、「白熊のような犬二匹つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを言いながら、あるいておりました。」とある。
普通、日本で猟犬といえば柴犬である。そもそもシロクマのような大型犬が狩猟に向いているとは思えない。謎である。
さらに、この直後、二匹の犬は「あんまり山が物凄いので」という理由で泡を吹いて死んでしまう。山がすごいから犬が死ぬとはどういうことなのか?風に吹き飛ばされたのか、寒さのあまり死んだのか、それさえも書かれていない。意味不明である。
これ以外にも常識ではありえない展開が起こる。つまり、リアリティのある童話ではなく、昔話のような抽象的な物語とみて考えるべきである。頭柔らかくして、子供に戻った気持ちで読み進める。
読み解くヒント
抽象的な作品というのはたいてい読者が読み解けるように、作者からヒントが与えられている。賢治もヒントをちゃんと残してくれている。
ヒントその1
山猫軒に入ると、たくさんの扉がある。扉には料理店からの注文が書かれている。開けてみると裏側にも注文が書いてある。
ヒントその2
最後の扉には「さあさあおなかへおはいりください~」とある。
ヒントその3
二人が山猫軒に行く前にこんな描写がある。「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」
同じ描写がもう一度出てくる。復活した二匹の犬に助けられた後に、「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」
ヒントその4
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」「ぼくは二千八百円の損害だ」「山鳥を十円買って」等の不自然に強調された値段
ヒントその1とその2は「この物語も扉のように表と裏がある」ということである。(その2の「おなかへおはいりください」は、部屋の中とお腹が掛かっている)
扉の文字について、まとめたのが下の表-1である。
表ー1 扉の文字
ヒントその3は場面の切り替わりを教えてくれている。「風がどうと吹いてきて~」で場面が切り替わるので、そこで話を3分割する。
表ー2 章立て表
Aパート:山奥、Bパート:山猫軒、Cパート:東京である。A-1とB-1、A-2とB-3、A-3とB-2がそれぞれ対になっている。Cは短いが、結末部である。
さらに、AとBの対句はこれだけにとどまらない。作中に対句となる表現が頻出する。ここで「風がどうと吹いてきて~」を基準に、下の表ー3を作成する。
表ー3 対句対応表
これ以外にも対応する対句はあるかもしれないが、賢治の文章の密度の濃さが分かる。
一つ一つの事象が他の事象と密接にかかわっているので、密度が濃くなって読んだ人の頭の中に残りやすくなる。この文章の密度こそ賢治の特徴であり、「注文の多い料理店」の不気味さの正体である。
恐るべき構造
表ー1で見たように扉の枚数は7枚である。表ー2からA+B+C=3+3+1=7の構造になっているのが分かる。7で一致していることに注目して、二つの表を合体させる。
表ー4 章立て表2
表ー4を見れば、「風がどうと吹いてきて~」を基準に3分割したことが正しいと証明される。ここまで密度の濃い文章はすごい、というより怖い感じがする。
そしてCパートに対応するのが「大きな二つの鍵穴」である。つまりCパートが物語の鍵、核心部分であることが分かる。
紙幣
最後にヒントその4である。ここが主題に関わる重要なヒントになっている。
結局、「注文の多い料理店」は二人の紳士が二匹の犬に助けられるも、顔が「くしゃくしゃの紙くず」になったまま戻らなくなって幕を閉じる。ずいぶん不気味な終わり方である。
くしゃくしゃの紙くずの顔、とはどういう意味なのか?
二人の男は、金持ちで、山奥で獣がいないことに文句を言い、犬が死んでも金の話しかせず、助けてもらった後も十円(現在でいうと5000円くらい)もする山鳥を買って東京へ帰る。
彼らは金持ちであるがゆえに、金に卑しい人間である。それと同時に獣を無下に扱う。鹿の横っ腹を撃ちたいとか、犬が死んでも「二千四百円の損害だ」と金のことだけを考え、都合のいいときだけ、犬に助けてもらう。自然に対する敬意を持たない人々である。
賢治はそういう人々に抗議するために、子供たちがそういう大人にならないために「注文の多い料理店」を書いた。男たちの顔をぐしゃぐしゃにした。
つまり、この結末にある「ぐしゃぐしゃの紙くず」とは、顔がぐしゃぐしゃになっているのだから、顔の描かれた紙幣のことである。
自然を軽んじ、経済ばかりに囚われた社会そのものを批判している。
ヒントその4は紙幣を暗示させるために、わざと値段を強調して書いたのである。
犬
ところで、「白熊のような二匹の犬」とはなんだったのだろうか?
ゲーテのファウスト第一部 書斎(一)にこんな一節がある。悪魔メフィストフェーレウスが黒い犬に化けてファウストの書斎に現れた後、
この中に一人つかまっている。
みんな外におれ、ついてはいるな。
まるで罠にかかった狐のように、
地獄の古山猫がびくびくしている。
とある。賢治の時代には、森鴎外訳のファウストが出ていたはずなので彼が読んでいてもおかしくはない。山猫が犬を恐れてびくびくしている様子が分かる。山猫軒という店名はここからとったものと考えられる。ファウストも経済を扱った内容が出てくる。(ただし、賢治と異なり、ゲーテは貨幣発行を好意的にとらえている)
恐らく、賢治はファウストの一部を取り込もうとした。そこで使われたのが犬である。
西洋文化では犬は悪魔の化身であり、嫉妬の象徴でもあった。
しかし、日本では犬に対するイメージが昔からかなり良かった。南総里見八犬伝、忠犬ハチ公、最近でいうと「おおかみこどもの雨と雪」である。日本では犬は忌むべきものではなく、忠義の象徴として文化に吸収されてきた。
賢治はこれを理解し、悪魔メフィストの黒い犬の対比として白熊のような犬を作った。二匹なのは神社の狛犬のように、対になって存在するものという考えがあったのだろう。これは作品が対句構造をもっていることの暗示にもなっている。
そして賢治の犬を受け継ぐのが宮崎駿のもののけ姫である。人間を憎みながら、人間の子を育てるモロの君なんかは完全に「白熊のような犬」である。
余談
夏目漱石の弟子だった鈴木三重吉という作家は賢治の作品を読んで「ロシアにでも持っていけばいい」と言い放ったそうである。これはあながち間違いではない。ここまで緊密した構造はロシア文学に似ているからである。カラマーゾフの兄弟の主役は三兄弟である。だから3という数字で物語を組み立てている。こだわり方が異常である。
ただし、賢治に価値を見出せなかった鈴木には残念と言わざるを得ない。彼が冷たくあしらった男こそ師匠の漱石が探し求めていた答えを見つける人物だったのだから。
関連
涼宮ハルヒの憂鬱は6+1構造だった。注文の多い料理店は3+3+1構造である。どちらも7になるのは偶然なのだろうか。
この方の解説は一読の価値があります。漱石、鴎外が苦しんだ西洋文化の正体を賢治は突き止めています。完成はしませんでしたが。
nagi氏の「オツベルと象」の読み解きです。「注文」と同様、オチが凝っています。
同じくnagi氏による「セロ弾きのゴーシュ」解説です。三位一体教義が出てきます。
Bパートの猫だけ三位一体から外れているように見えますが、「子」のネズミと対応し、C2で猫の前で披露したインドの虎狩りを演奏する=予言が的中することから、カッコウと同じく「聖霊」に当たります。
つまり「子からも聖霊が発する」ので、カトリック的三位一体教義です。
出典
http://chigasakiws.web.fc2.com/taisyou01.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%8A%AC%E3%81%BE%E3%82%8B
http://gifu-art.info/details.php?id=900
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%86%86%E7%B4%99%E5%B9%A3
涼宮ハルヒの消失~構造、音楽、そして続編~
前回のつづきから
作品を読み解くには、構造を読み解く必要がある。構造を読み解くには、章立て表とキャラクター表が必要である。キャラ表は前回出したので今回は章立て表を使っていく。
章立て表は以下の通りである。
表ー1 章立て表
まずは冒頭である。
映画で一番大切なのはクライマックス。その次が冒頭である。構造を読み解くヒントが隠されているはずである。
冒頭は以下の通り。
キョンの部屋で目覚まし時計が鳴り、寝起きで薄目(観客の視点が半開きのまぶたからになっている)になりながら辺りを見渡す。カーテンの間から朝日の光が差し込んでいる。二度寝しようとしたところ妹に起こされる。
キーワードは目覚まし時計、薄目で辺りを見渡す、光、妹に起こされる、の四つである。この四つが繰り返し出てくるシーンが計8回ある。
これは繰り返し同じアイテムを登場させることによって、観客が無意識に美しいと感じさせるテクニックである。
例えば、 7-3の朝倉に刺されるシーンがハラハラするのはストーリーだけでなく1-1から5ー1までのシーンが繰り返し視聴者の頭の中に残っていたからだ、というわけである。
それを踏まえて、下に示す表を「繰り返し構造表」と呼ぶことにする。
表ー2 繰り返し構造表
章番号は先ほどの表―1を参照してほしい。
構造
注目すべきは7-3である。
表ー3
1-1から5-1までは基本的に同じだが、7-3は工夫が凝らしてある。
7-3には目覚まし時計が出てこないが、代わりに二人のみくるが泣きながらキョンを起こしている。目覚まし時計とは音を鳴らして人間を起こす、つまり「鳴く」である。みくるも泣いている、つまり「泣く」である。泣くと鳴くが掛かっている。
それがなんだ、と思われるかもしれないが、映画、文芸とは掛け合いの連続である。
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
百人一首に選ばれている小野小町の和歌で、「降る」と「経る」とが掛かっている。謎かけみたいなものであるが、文化なんぞこんなものである。
消失の話に戻る。キョンが二人のみくるに起こされたのは表-1の「目覚まし時計」(緑色)と「女性に起こされる」(黄色)の二つの役割を果たしていることを暗示しているからである。もっとも伏線だからということもあるが。
このシーンはキョンが目的を果たそうとする寸前に朝倉に不意打ちされるというショッキングなシーンであるが、より印象的なシーンにするために表のような工夫がなされた。
次は9-1に注目する。
表―4
目覚まし時計は出てこない。代わりに小泉がリンゴの皮を剥いている。9-1では夕日が差し込んでいる。街灯(夜)➡夕日➡朝日の順番になっているのは時系列がごちゃごちゃになっている本作の特徴を表している。
(ただし、×があるように必ずしもすべて揃っている訳ではない)
前回も述べた通り、このシーンはキョンとハルヒが隣で寝ている。憂鬱と逆でキョンが起こす立場であるが。
以上のように、表面的なスト―リーだけでは見えてこない「構造」というものが存在する。
(もちろん、すべての作品にこのような構造が存在するわけではない。あくまで一部の優れた作品のみに存在する)
表ー4 憂鬱とサムデイインザレインと消失の比較表
以前、紹介した憂鬱とサムデイインザレインを比較した表に消失を加えたものである。整合性がとれなかったのはキスの項目。 ストーリーの都合上仕方なかったものと思われる。
消失が成功したのも表ー4を見れば明らかである。テレビシリーズからの流れをしっかり押さえて作っているのだから。
音楽
ところで映画とは総合芸術である。映像、演劇、文学、そして音楽。ジブリの成功も半分は久石譲のおかげと言っても過言ではない。
オーケストラとは西洋の文化が産み出したものである。にもかかわらず、聴くと日本の森の風景が浮かんでくる。太く、荘厳な縄文杉の姿が。オーケストラという西洋の楽器を用いながら、日本の原風景を描き出すのだから天才である。
最近でいえば「君の名は。を思い出してください」と言われたら、頭の中で勝手にRADWIMPSの音楽が流れだすだろう。音楽とはそれほど重要なものである。
消失も音楽が優れている。具体的なシーンを挙げると、5-3~5-4(教室を飛び出して坂を駆け抜ける)、8-3(キョンが心の中のもう一人の自分を跳ね飛ばす)、9-2(病院の屋上で長門と話す)、の3つである。
5-3~5-4にかけてのBGMは疾走感があって良い。陰鬱な展開が多かったのが、ここで一気に加速していくことが伝わってくる。
あと表ー1の章立て表を見ると坂のシーンが合間に頻出しているのが分かる。これも一種の繰り返し構造で、脳に何度も坂を認識させることでBGMをより効果的にさせている。
8-3はクライマックスなので、言わずもがな一番盛り上がる音楽が流れる。主人公が自問自答の末、自らの退路を断つ。セリフや作画云々より音楽の素晴らしさ際立ったシーンである。
9-2で流れたエリック・サティのジムノペディは長門との会話のシーンで使われた。エヴァもそうだったが、クラシックを使おうという発想自体、アニメ、実写問わず勇気がいるものである。格がワンランク上になるので映像もそれに見合った完成度にしなければならない。
ゆったりとした静かなメロディが流れてくる。雪が降るように、白雪姫が眠るように。
キョンの言った「ゆき」は雪と有希が掛かっている。憂鬱の桜、サムデイインザレインの雨、消失の雪。まるで和歌の世界である。西洋人が聖書を大切にするように、日本人は和歌を重んじている。一瞬の美を切り取って、愛でるのが日本人の情趣である。そういう点で見ると、伝統的なアニメともいえる。
まとめ
話が長くなってしまったが、要するに
「自分に正直に生きろ。もっと積極的に関われ。さもないと、今ある幸せを無くしてしまうぞ」
ということである。斜に構えて、傍観者気取ってたら人生なんてあっという間である。時には悪意(朝倉)が向けられることもあったけど、良い仲間(SOS団)にだって出会えた。自分の人生もっと積極的に生きねばならぬ。
この部分が作品の根幹になるので、最低限ここだけは押さえなければならない。
図ー1 憂鬱のキョンの性格図
以前、紹介したキョンの性格図である。点Oがキョンである。原点にあるということはプラスでもマイナスでもない、つまり傍観者である。
この図が消失の物語を経て下のように変化する。
図―2 消失のキョンの性格図
赤い点O'がキョンの性格、心の変化である。ほんの少しではあるがプラスに進んだ。積極的になれたのである。ルフィのように熱い闘志を燃やしているわけではない。海賊でもないが、世界を守るために一歩だけ前に進んだのである。SOS団の団員その1として。
続編について予想
ところで、涼宮ハルヒの下敷きになっているエヴァは2018年の段階でまだ完結していない。下敷きであるエヴァが完結してないということは涼宮ハルヒも完結してなくて当然である。原作は確か驚愕で止まっていたような気がする。
ここまで読んでくださった皆様ならもうお分かりになると思うが、ハルヒの続編がなかなか更新されないのは、エヴァのせいであると考えている。
下敷きとなった作品の完結を見てからでないと着地点をうまく決められない。そうなったら更新を止めて待つしかない。
繰り返し言うがこれは「パクリ」などではない。アニメに限らず、物語とは名作から名作へとバトンをつなぐように作られてきた。
憂鬱から消失は旧劇までの内容を踏まえてで作られてきたが、新劇になって急に新しいストーリーが加わり、びっくりして更新が止まったのだと推測する。
こんな予告が出ているが、本当に2020年に公開されるかは分からない。そもそもこれで完結するかも分からないので、涼宮ハルヒシリーズが完結するのは当分先である。少なくともエヴァが完結するまではハルヒは完結しないと予想している。
#涼宮ハルヒ 5年ぶりとなる新作書き下ろし短編が発表されることが明らかになりました。https://t.co/02k3iWXxyB
— 毎日新聞 (@mainichi) 2018年9月25日
そんなことを言っていたらこんなツイートを発見した。ハルヒの新作短編である。連載が再開するか、まだ分からないが、自分の予想なんて戯言に過ぎないのだと悟った。
涼宮ハルヒの消失については以上である。
参考
https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/009.html
出典
http://www.caruta.net/ononokomachi.html
涼宮ハルヒの消失~エヴァの消失~
劇場版涼宮ハルヒの消失は大人気作となったテレビ版の続編であり、当時としては異例の興行収入を誇った作品である。
人気だけではなく、日本アニメ史的にも重要な作品である。涼宮ハルヒが後のアニメ与えた影響は大きい。
よって解析して内部構造をしっかり紐解く必要がある。解析せずに「あー面白かった」で終わらすには惜しい作品である。
テレビ版を見てないと分からない上に時系列がぐちゃぐちゃになる作品であるが、抽象的という訳ではない。一回見ただけで全体像はつかめるはず。
あらすじ
ある日、主人公は仲良くしてた女の子が存在ごといなくなってることに気付く。四苦八苦の末、タイムスリップに成功した主人公は犯人を突き止め、元の世界へ帰ってくる。めでたしめでたし。
タイトルの意味
この映画は題名の通り涼宮ハルヒが消失、つまりいなくなってしまうのか、というとそうではない。何者かによって一変した世界の中でハルヒは別の高校の学生になっていた。
ではなにが「消失」したのか?
以前述べたようにエヴァとの関係性から紐解いていく。
簡単に説明するとハルヒ=エヴァ(初号機)+アスカで作られたキャラクターである。
そして消失のハルヒを見てみる。憂鬱と比べて髪が長くなっている。もっと言うと、エヴァのアスカに近づいている。制服は北高ではないし、SOS団団長でもない。
改変後のハルヒに世界を変える力はない。憂鬱でハルヒはアスカとエヴァ(初号機)の言い換えだと説明したが、この世界のハルヒはアスカの要素しかない。
ここで以前、紹介した涼宮ハルヒとエヴァを比較したキャラクター構成表に注目する。
これが改変後の世界になると以下の表になる。
涼宮ハルヒの消失とは、「涼宮ハルヒ(の中のエヴァ)の消失」というタイトルである。
ところでエヴァの最終回にエヴァもネルフもない平和な日常が出てくる。幼馴染のアスカがいて、転校生のレイが出てくる世界。シンジはそれを「あったかもしれない世界」と言ったが、あの世界を長編映画にしたのが消失である。
キョンの精神世界
クライマックスでキョンの精神世界のシーンがある。キョンはもう一人の自分に問われる。自分の行動の矛盾を指摘される。これはエヴァでたびたび登場するシンジの心の葛藤に対応している。シンジもキョンももう一人の自分に苦しむが最終的にそのままの自分を受け入れる。
消失は長門の物語と思われがちだが、メインはキョンの成長物語である。何だかんだ言ってハルヒとSOS団が好きだった自分を受け入れるまでの物語である。シンジがエヴァのパイロットとしての自分を受け入れたように。
エヴァとの違い
エヴァと消失の違いは元の世界に帰ってきてからのヒロインの態度にある。
旧劇のラスト、シンジとアスカは隣で眠っている。シンジに首を絞められたアスカが一言「気持ち悪い」
消失はキョンが寝ているベッドの脇でハルヒが寝袋で寝ている。キョンに顔を撫でられて跳ね起きるハルヒ。キョンが目を覚まして安心しているようである。さらに病院の屋上で長門に「ありがとう」と言われる。明るい終わり方である。
以上の点をまとめたのが下の表である。
伝えたかったこと
結局は他人と生きる選択をしたシンジに「気持ち悪い」という現実を思い知らせるのがエヴァ。「そんなに現実は甘くないぞ。他人と生きることは傷つけあうことだぞ」ということである。
それに対し、キョンが目を覚ました時にはハルヒやSOS団から喜ばれる。みんな彼のことを心配してくれている。
病院の屋上で長門にはこんなことを言われる。
「ありがとう」
拒絶の言葉ではなく感謝の言葉。雪が降っているとても印象的なシーンである。シンジが受けた対応とは大違いである。
「他人と生きていくのは傷つけあうだけじゃない。助け合い、喜び合うこともある」
これを伝えるために涼宮ハルヒはエヴァを下敷きにしたと言ってもよい。
次回は涼宮ハルヒの消失の全体構造について説明する。
出典:
https://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/movie/
涼宮ハルヒの憂鬱~全体構造編~
前回までキャラクターについて考察してきた
今回は、涼宮ハルヒの憂鬱のなかでも重要な「憂鬱」の話に注目する。
憂鬱Ⅰ~Ⅵには奇妙なシーンが4つある。
- 憂鬱Ⅰのハルヒの髪型が曜日によって変わる話
- 憂鬱Ⅳの大人版みくるが言った白雪姫
- 憂鬱Ⅴのアパート管理人が言った「その娘は美人になる。取り逃がすでないぞ」
- 憂鬱Ⅵの終盤、キョンが言った「お前のポニーテールは似合っていたぞ」そしてキス
これらは何の意味も持たないシーンではなく、意図的に仕掛けられたものである。順を追って説明していく。
一つ目はキョンとハルヒの最初の会話で特に意味はなさそうだが、髪型と曜日に注意しろ、というメッセージである。ハルヒから我々への忠告ともいえる。
二つ目は憂鬱のラストに関わる伏線である。白雪姫(ディズニー版)は毒リンゴを食べて永遠の眠りについた姫が白馬に乗った王子様のキスで目覚める物語。ここで物語に出てくる数字に注目する。
姫が7歳のときに魔法の鏡は「世界で一番美しいのは白雪姫だ」と言い、姫は7人の小人に守られる。そして一つ目の話に出た曜日も一週間つまり7日である。さらに、ハルヒを取り巻く人物もSOS団+鶴屋さん+国木田+谷口=7人である。この7人が小人に対応している。
一つ目の話と白雪姫は7という数字で共通している。ちなみに白雪姫は春の話だが、「憂鬱」も4~5月なので春である。
三つ目は朝倉のアパートの管理人がキョンに向かってささやいた言葉。伏線というわけではなさそうなのに、キョンは意味ありげにハルヒを見つめている。
ここで白雪姫の話を思い出す。
その娘は美人になる、ということは美しい白雪姫のことだから言い換えると、「涼宮ハルヒは白雪姫だ。お前取り逃がすなよ」という管理人からの警告である。すなわちキョンは王子様である。王子様が白雪姫を見つけてくれないと物語は成立しないので管理人は注意した。
四つ目が最も謎であるが、以上の三点を踏まえれば発言の意図が見えてくる。
白雪姫ではリンゴと白馬に乗った王子様が出てくる。リンゴはこのシーンの前に小泉が言った「アダムとイブですよ」に関係してくる。イブは蛇にそそのかされて知恵の実、つまりリンゴを食べ、アダムにもそれを勧めて食べさせた。そして楽園を追放させられた。
アダム役はキョン、イブ役はハルヒである。ハルヒは閉鎖空間の中で共に生きようと勧めてくる。これはリンゴを勧めるのに対応している。
ただそうすれば楽園つまりSOS団を失うことになる。今の生活を選ぶにはハルヒの目を覚まさないといけない。
ちなみに聖書にも7は重要な数字として出てくる。「神は世界を7日で作った」「7つの大罪」聖書と白雪姫、そして涼宮ハルヒには深い関係があるとみてよい。
そしてキョンはSOS団のある世界を選択し、ハルヒにキスをする。ここで白馬の王子様が登場する。王子のキスにより白雪姫は目を覚まして、めでたしめでたし。ポニーテール発言はポニーつまり馬を示している。
キスする前に「ポニーテールが好きだ」と言ったのはキョンが白馬に乗った王子様と対応していることを暗示するためである。
白馬じゃなくてポニーだというところがいかにもキョンらしい。
ここまで見てきたように「憂鬱」には何気ない日常のシーンにも深い意味が込められていた。下の表は「憂鬱」の構造をまとめたものである。
青色は先ほど説明したシーン、赤色はハルヒが急に着替えだしたり帰ったりするシーン。各話に一回ずつ全部で6回ある。薄緑はハルヒの思想についてである。茶色はハルヒからみくるへのセクハラのシーン。
エヴァとの対応関係
表の太字はエヴァに対応する事象である。
長門のメガネとアパートへ行くはキャラクター構成の項で述べた。メガネがゲンドウと対応、アパートへ行くシンジが綾波レイのアパートへ行くのと対応
ハルヒがキョンの首を絞めるのは旧劇ラストでシンジがアスカの首を絞めているのに対応
ハルヒが望んだ世界はエヴァが暴走した結果起こる人類補完計画後の世界に対応。またそのどちらとも主人公に阻止されることで対応
ポニーテールとキスはポニーに乗るつまりハルヒ=エヴァを乗りこなすことに対応、キスはシンジとアスカのキスに対応
エンドレスエイトはエヴァでよく使われる過去の場面が繰り返し出てくる心理描写に対応
そもそもエヴァもキリスト教に深く関係した内容なので似ているのは当然なのかもしれない。
などキリスト教関連のワードがたくさん出てくる。
ちなみにシンジやアスカの年齢は14歳で白雪姫も14歳である。ただしエヴァが白雪姫を下敷きにしているかは不明である。
次に、下の表は涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版)全体の構造をまとめた章立て表である。
「憂鬱」「ライブアライブ」「サムデイインザレイン」「笹の葉ラプソディ」以外はそこまで良くない。
ライブアライブは9分間にわたるライブシーンの出来がとても良い。渚カヲルが言ってたように歌はリリンの産みだした文化の極みである。
笹の葉ラプソディは七夕、つまり7月7日が重要である。ここにも7が出てくる。劇場版へ続く伏線の一つなのでおさえておく必要がある。
サムデイインザレインは憂鬱に次ぐ重要なエピソード
ここまであえて触れなかったが、7が重要と言いつつ「憂鬱」は6話構成になっている。1話足りないので整合性がつかない。
ここで聖書に注目する。「神は7日で世界を作った」しかし厳密には7日目に神はお休みになったとある。つまり神は6+1日で世界を創造したことになる。この+1日に当たるのが「サムデイインザレイン」である。
この回だけ淡々と、静かに進んでいくのは神(ハルヒ)がお休みになっているためである。
1話冒頭で坂を上りながら始まり、最終話ラストで坂を下りながら終わる物語なのである。
憂鬱とサムデイインザレインの対比関係については下の表にまとめた。
思ったこと
はじめて見たときからなんとなく「サムデイインザレイン」は印象に残るというか、雰囲気が好きだったのだが、ようやく原因が見つかった 。わざわざ表なんか作らなくても直感的に「サムデイインザレイン」が重要だと分かっていたのだ。人間の脳はやはりよくできている。
聖書でイブをそそのかしたのは蛇なのだが、涼宮ハルヒの中に蛇はいるのだろうか。憂鬱Ⅵでキョンにハルヒと閉鎖空間で生きるように促す人物が一人いる。小泉一樹なのだが、蛇は裏切りの象徴であるので今後の展開が非常に気になる。
あと猫のシャミセンは三毛猫と三味線ということで3という数字が隠されていて、3とは長門、みくる、小泉の3人である。3人とも互いに異なる意見を持っていて対立していることを暗示している。
次回は劇場版涼宮ハルヒの消失について説明する。
涼宮ハルヒの憂鬱~エヴァとの関係~
前回のつづきから。
ハルヒとアスカ
共通点はツンデレ。セリフに「バカキョン!」「バカシンジ!」感情の起伏が激しく、情緒不安定であること。主人公とキスをすること。主人公とはアダムとイブの関係。
違いはハルヒが不思議を追うのに対してアスカはトラウマに追われる。ハルヒのポニーテールに対してアスカのツインテール。
みくるとミサト
共通点は年上であること。主人公に対して母性的に接すること、みくるは小泉とキス未遂し、ミサトは加持と何度もキスする。みくるは甘酒で、ミサトはビールで酔っ払う。そのときどちらも白いシャツを着ている。
違いはみくるが禁則事項によって未来に囚われているのに対してミサトはセカンドインパクトで父を失った過去に囚われている。
小泉と加持
共通点は男前であること。ヒロインの扱いに慣れていること。謎の「機関」に所属していること。主人公にアドバイスをする。
違いは小泉が同級生なのに対して加持は年上。小泉は女にモテないが、加持はモテる。
ここまで主要キャラクターの比較をしてきたが、肝心のエヴァンゲリオンが欠けていた。ここの比較ができないのでは二つの作品は結び付かない。
「憂鬱Ⅵ」のクライマックスのシーンに注目する。
神人が近づくなか世界の命運を懸けたシーンで、キョンはハルヒに向かって言う。
「いつだったかお前のポニーテールは、反則的なまでに似合っていたぞ」
さらに、現実世界に帰ったあとポニーテールにしたハルヒを見て、「似合ってるぞ」と言う。
意味不明である。涼宮ハルヒの憂鬱の中でも、謎めいたシーンの一つである。ハルヒでなくとも混乱するだろう。なぜクライマックスのシーンでショートヘアのヒロインに対してポニーテールの話をする必要があったのか?
アスカのツインテールと掛けている、というのは惜しい気がする。
恐らくポニーは馬の一種で、ハルヒを馬に例えている。「ポニーテールが似合ってる」と言ってポニーテールにさせたキョンは馬の調教師という比喩である。唯我独尊のハルヒに命令できたのだから。
つまりあのシーンでキョンはハルヒをコントロールした、言い換えると操縦した、と言えるでしょう。初号機のパイロットがシンジにしかできないのと同様に、ハルヒのパイロットもキョンにしかできないことを暗示している。
この他にも、鶴屋さんがリツコ、谷口・国木田がトウジ・ケンスケと対応している等、比較できる点は多い。すべてではないが、大まかにまとめたのが下の表である。
ところで、「憂鬱Ⅰ」でハルヒとキョンが髪型と曜日に関する謎のシーンがあるが、あれはハルヒの髪型に注意しろよ、という作者からのメッセージだと推測する。なんとも親切なことよ。
キャラクター構成表については、疑問点・欠陥がありましたら教えて下さると助かります。
次回は全体構造について説明する。
参考
自分なんぞよりとっくの10年以上前にキャラクター表を作っている方がいた。おおむね一致しているが、細部で自分のものとは異なる。
偉大な先人に敬意を表して、ここに載せておく。
出典
http://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/gallery/200602.html
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