涼宮ハルヒの消失~構造、音楽、そして続編~
前回のつづきから
作品を読み解くには、構造を読み解く必要がある。構造を読み解くには、章立て表とキャラクター表が必要である。キャラ表は前回出したので今回は章立て表を使っていく。
章立て表は以下の通りである。
表ー1 章立て表
まずは冒頭である。
映画で一番大切なのはクライマックス。その次が冒頭である。構造を読み解くヒントが隠されているはずである。
冒頭は以下の通り。
キョンの部屋で目覚まし時計が鳴り、寝起きで薄目(観客の視点が半開きのまぶたからになっている)になりながら辺りを見渡す。カーテンの間から朝日の光が差し込んでいる。二度寝しようとしたところ妹に起こされる。
キーワードは目覚まし時計、薄目で辺りを見渡す、光、妹に起こされる、の四つである。この四つが繰り返し出てくるシーンが計8回ある。
これは繰り返し同じアイテムを登場させることによって、観客が無意識に美しいと感じさせるテクニックである。
例えば、 7-3の朝倉に刺されるシーンがハラハラするのはストーリーだけでなく1-1から5ー1までのシーンが繰り返し視聴者の頭の中に残っていたからだ、というわけである。
それを踏まえて、下に示す表を「繰り返し構造表」と呼ぶことにする。
表ー2 繰り返し構造表
章番号は先ほどの表―1を参照してほしい。
構造
注目すべきは7-3である。
表ー3
1-1から5-1までは基本的に同じだが、7-3は工夫が凝らしてある。
7-3には目覚まし時計が出てこないが、代わりに二人のみくるが泣きながらキョンを起こしている。目覚まし時計とは音を鳴らして人間を起こす、つまり「鳴く」である。みくるも泣いている、つまり「泣く」である。泣くと鳴くが掛かっている。
それがなんだ、と思われるかもしれないが、映画、文芸とは掛け合いの連続である。
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
百人一首に選ばれている小野小町の和歌で、「降る」と「経る」とが掛かっている。謎かけみたいなものであるが、文化なんぞこんなものである。
消失の話に戻る。キョンが二人のみくるに起こされたのは表-1の「目覚まし時計」(緑色)と「女性に起こされる」(黄色)の二つの役割を果たしていることを暗示しているからである。もっとも伏線だからということもあるが。
このシーンはキョンが目的を果たそうとする寸前に朝倉に不意打ちされるというショッキングなシーンであるが、より印象的なシーンにするために表のような工夫がなされた。
次は9-1に注目する。
表―4
目覚まし時計は出てこない。代わりに小泉がリンゴの皮を剥いている。9-1では夕日が差し込んでいる。街灯(夜)➡夕日➡朝日の順番になっているのは時系列がごちゃごちゃになっている本作の特徴を表している。
(ただし、×があるように必ずしもすべて揃っている訳ではない)
前回も述べた通り、このシーンはキョンとハルヒが隣で寝ている。憂鬱と逆でキョンが起こす立場であるが。
以上のように、表面的なスト―リーだけでは見えてこない「構造」というものが存在する。
(もちろん、すべての作品にこのような構造が存在するわけではない。あくまで一部の優れた作品のみに存在する)
表ー4 憂鬱とサムデイインザレインと消失の比較表
以前、紹介した憂鬱とサムデイインザレインを比較した表に消失を加えたものである。整合性がとれなかったのはキスの項目。 ストーリーの都合上仕方なかったものと思われる。
消失が成功したのも表ー4を見れば明らかである。テレビシリーズからの流れをしっかり押さえて作っているのだから。
音楽
ところで映画とは総合芸術である。映像、演劇、文学、そして音楽。ジブリの成功も半分は久石譲のおかげと言っても過言ではない。
オーケストラとは西洋の文化が産み出したものである。にもかかわらず、聴くと日本の森の風景が浮かんでくる。太く、荘厳な縄文杉の姿が。オーケストラという西洋の楽器を用いながら、日本の原風景を描き出すのだから天才である。
最近でいえば「君の名は。を思い出してください」と言われたら、頭の中で勝手にRADWIMPSの音楽が流れだすだろう。音楽とはそれほど重要なものである。
消失も音楽が優れている。具体的なシーンを挙げると、5-3~5-4(教室を飛び出して坂を駆け抜ける)、8-3(キョンが心の中のもう一人の自分を跳ね飛ばす)、9-2(病院の屋上で長門と話す)、の3つである。
5-3~5-4にかけてのBGMは疾走感があって良い。陰鬱な展開が多かったのが、ここで一気に加速していくことが伝わってくる。
あと表ー1の章立て表を見ると坂のシーンが合間に頻出しているのが分かる。これも一種の繰り返し構造で、脳に何度も坂を認識させることでBGMをより効果的にさせている。
8-3はクライマックスなので、言わずもがな一番盛り上がる音楽が流れる。主人公が自問自答の末、自らの退路を断つ。セリフや作画云々より音楽の素晴らしさ際立ったシーンである。
9-2で流れたエリック・サティのジムノペディは長門との会話のシーンで使われた。エヴァもそうだったが、クラシックを使おうという発想自体、アニメ、実写問わず勇気がいるものである。格がワンランク上になるので映像もそれに見合った完成度にしなければならない。
ゆったりとした静かなメロディが流れてくる。雪が降るように、白雪姫が眠るように。
キョンの言った「ゆき」は雪と有希が掛かっている。憂鬱の桜、サムデイインザレインの雨、消失の雪。まるで和歌の世界である。西洋人が聖書を大切にするように、日本人は和歌を重んじている。一瞬の美を切り取って、愛でるのが日本人の情趣である。そういう点で見ると、伝統的なアニメともいえる。
まとめ
話が長くなってしまったが、要するに
「自分に正直に生きろ。もっと積極的に関われ。さもないと、今ある幸せを無くしてしまうぞ」
ということである。斜に構えて、傍観者気取ってたら人生なんてあっという間である。時には悪意(朝倉)が向けられることもあったけど、良い仲間(SOS団)にだって出会えた。自分の人生もっと積極的に生きねばならぬ。
この部分が作品の根幹になるので、最低限ここだけは押さえなければならない。
図ー1 憂鬱のキョンの性格図
以前、紹介したキョンの性格図である。点Oがキョンである。原点にあるということはプラスでもマイナスでもない、つまり傍観者である。
この図が消失の物語を経て下のように変化する。
図―2 消失のキョンの性格図
赤い点O'がキョンの性格、心の変化である。ほんの少しではあるがプラスに進んだ。積極的になれたのである。ルフィのように熱い闘志を燃やしているわけではない。海賊でもないが、世界を守るために一歩だけ前に進んだのである。SOS団の団員その1として。
続編について予想
ところで、涼宮ハルヒの下敷きになっているエヴァは2018年の段階でまだ完結していない。下敷きであるエヴァが完結してないということは涼宮ハルヒも完結してなくて当然である。原作は確か驚愕で止まっていたような気がする。
ここまで読んでくださった皆様ならもうお分かりになると思うが、ハルヒの続編がなかなか更新されないのは、エヴァのせいであると考えている。
下敷きとなった作品の完結を見てからでないと着地点をうまく決められない。そうなったら更新を止めて待つしかない。
繰り返し言うがこれは「パクリ」などではない。アニメに限らず、物語とは名作から名作へとバトンをつなぐように作られてきた。
憂鬱から消失は旧劇までの内容を踏まえてで作られてきたが、新劇になって急に新しいストーリーが加わり、びっくりして更新が止まったのだと推測する。
こんな予告が出ているが、本当に2020年に公開されるかは分からない。そもそもこれで完結するかも分からないので、涼宮ハルヒシリーズが完結するのは当分先である。少なくともエヴァが完結するまではハルヒは完結しないと予想している。
#涼宮ハルヒ 5年ぶりとなる新作書き下ろし短編が発表されることが明らかになりました。https://t.co/02k3iWXxyB
— 毎日新聞 (@mainichi) 2018年9月25日
そんなことを言っていたらこんなツイートを発見した。ハルヒの新作短編である。連載が再開するか、まだ分からないが、自分の予想なんて戯言に過ぎないのだと悟った。
涼宮ハルヒの消失については以上である。
参考
https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/009.html
出典
http://www.caruta.net/ononokomachi.html
涼宮ハルヒの消失~エヴァの消失~
劇場版涼宮ハルヒの消失は大人気作となったテレビ版の続編であり、当時としては異例の興行収入を誇った作品である。
人気だけではなく、日本アニメ史的にも重要な作品である。涼宮ハルヒが後のアニメ与えた影響は大きい。
よって解析して内部構造をしっかり紐解く必要がある。解析せずに「あー面白かった」で終わらすには惜しい作品である。
テレビ版を見てないと分からない上に時系列がぐちゃぐちゃになる作品であるが、抽象的という訳ではない。一回見ただけで全体像はつかめるはず。
あらすじ
ある日、主人公は仲良くしてた女の子が存在ごといなくなってることに気付く。四苦八苦の末、タイムスリップに成功した主人公は犯人を突き止め、元の世界へ帰ってくる。めでたしめでたし。
タイトルの意味
この映画は題名の通り涼宮ハルヒが消失、つまりいなくなってしまうのか、というとそうではない。何者かによって一変した世界の中でハルヒは別の高校の学生になっていた。
ではなにが「消失」したのか?
以前述べたようにエヴァとの関係性から紐解いていく。
簡単に説明するとハルヒ=エヴァ(初号機)+アスカで作られたキャラクターである。
そして消失のハルヒを見てみる。憂鬱と比べて髪が長くなっている。もっと言うと、エヴァのアスカに近づいている。制服は北高ではないし、SOS団団長でもない。
改変後のハルヒに世界を変える力はない。憂鬱でハルヒはアスカとエヴァ(初号機)の言い換えだと説明したが、この世界のハルヒはアスカの要素しかない。
ここで以前、紹介した涼宮ハルヒとエヴァを比較したキャラクター構成表に注目する。
これが改変後の世界になると以下の表になる。
涼宮ハルヒの消失とは、「涼宮ハルヒ(の中のエヴァ)の消失」というタイトルである。
ところでエヴァの最終回にエヴァもネルフもない平和な日常が出てくる。幼馴染のアスカがいて、転校生のレイが出てくる世界。シンジはそれを「あったかもしれない世界」と言ったが、あの世界を長編映画にしたのが消失である。
キョンの精神世界
クライマックスでキョンの精神世界のシーンがある。キョンはもう一人の自分に問われる。自分の行動の矛盾を指摘される。これはエヴァでたびたび登場するシンジの心の葛藤に対応している。シンジもキョンももう一人の自分に苦しむが最終的にそのままの自分を受け入れる。
消失は長門の物語と思われがちだが、メインはキョンの成長物語である。何だかんだ言ってハルヒとSOS団が好きだった自分を受け入れるまでの物語である。シンジがエヴァのパイロットとしての自分を受け入れたように。
エヴァとの違い
エヴァと消失の違いは元の世界に帰ってきてからのヒロインの態度にある。
旧劇のラスト、シンジとアスカは隣で眠っている。シンジに首を絞められたアスカが一言「気持ち悪い」
消失はキョンが寝ているベッドの脇でハルヒが寝袋で寝ている。キョンに顔を撫でられて跳ね起きるハルヒ。キョンが目を覚まして安心しているようである。さらに病院の屋上で長門に「ありがとう」と言われる。明るい終わり方である。
以上の点をまとめたのが下の表である。
伝えたかったこと
結局は他人と生きる選択をしたシンジに「気持ち悪い」という現実を思い知らせるのがエヴァ。「そんなに現実は甘くないぞ。他人と生きることは傷つけあうことだぞ」ということである。
それに対し、キョンが目を覚ました時にはハルヒやSOS団から喜ばれる。みんな彼のことを心配してくれている。
病院の屋上で長門にはこんなことを言われる。
「ありがとう」
拒絶の言葉ではなく感謝の言葉。雪が降っているとても印象的なシーンである。シンジが受けた対応とは大違いである。
「他人と生きていくのは傷つけあうだけじゃない。助け合い、喜び合うこともある」
これを伝えるために涼宮ハルヒはエヴァを下敷きにしたと言ってもよい。
次回は涼宮ハルヒの消失の全体構造について説明する。
出典:
https://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/movie/
涼宮ハルヒの憂鬱~全体構造編~
前回までキャラクターについて考察してきた
今回は、涼宮ハルヒの憂鬱のなかでも重要な「憂鬱」の話に注目する。
憂鬱Ⅰ~Ⅵには奇妙なシーンが4つある。
- 憂鬱Ⅰのハルヒの髪型が曜日によって変わる話
- 憂鬱Ⅳの大人版みくるが言った白雪姫
- 憂鬱Ⅴのアパート管理人が言った「その娘は美人になる。取り逃がすでないぞ」
- 憂鬱Ⅵの終盤、キョンが言った「お前のポニーテールは似合っていたぞ」そしてキス
これらは何の意味も持たないシーンではなく、意図的に仕掛けられたものである。順を追って説明していく。
一つ目はキョンとハルヒの最初の会話で特に意味はなさそうだが、髪型と曜日に注意しろ、というメッセージである。ハルヒから我々への忠告ともいえる。
二つ目は憂鬱のラストに関わる伏線である。白雪姫(ディズニー版)は毒リンゴを食べて永遠の眠りについた姫が白馬に乗った王子様のキスで目覚める物語。ここで物語に出てくる数字に注目する。
姫が7歳のときに魔法の鏡は「世界で一番美しいのは白雪姫だ」と言い、姫は7人の小人に守られる。そして一つ目の話に出た曜日も一週間つまり7日である。さらに、ハルヒを取り巻く人物もSOS団+鶴屋さん+国木田+谷口=7人である。この7人が小人に対応している。
一つ目の話と白雪姫は7という数字で共通している。ちなみに白雪姫は春の話だが、「憂鬱」も4~5月なので春である。
三つ目は朝倉のアパートの管理人がキョンに向かってささやいた言葉。伏線というわけではなさそうなのに、キョンは意味ありげにハルヒを見つめている。
ここで白雪姫の話を思い出す。
その娘は美人になる、ということは美しい白雪姫のことだから言い換えると、「涼宮ハルヒは白雪姫だ。お前取り逃がすなよ」という管理人からの警告である。すなわちキョンは王子様である。王子様が白雪姫を見つけてくれないと物語は成立しないので管理人は注意した。
四つ目が最も謎であるが、以上の三点を踏まえれば発言の意図が見えてくる。
白雪姫ではリンゴと白馬に乗った王子様が出てくる。リンゴはこのシーンの前に小泉が言った「アダムとイブですよ」に関係してくる。イブは蛇にそそのかされて知恵の実、つまりリンゴを食べ、アダムにもそれを勧めて食べさせた。そして楽園を追放させられた。
アダム役はキョン、イブ役はハルヒである。ハルヒは閉鎖空間の中で共に生きようと勧めてくる。これはリンゴを勧めるのに対応している。
ただそうすれば楽園つまりSOS団を失うことになる。今の生活を選ぶにはハルヒの目を覚まさないといけない。
ちなみに聖書にも7は重要な数字として出てくる。「神は世界を7日で作った」「7つの大罪」聖書と白雪姫、そして涼宮ハルヒには深い関係があるとみてよい。
そしてキョンはSOS団のある世界を選択し、ハルヒにキスをする。ここで白馬の王子様が登場する。王子のキスにより白雪姫は目を覚まして、めでたしめでたし。ポニーテール発言はポニーつまり馬を示している。
キスする前に「ポニーテールが好きだ」と言ったのはキョンが白馬に乗った王子様と対応していることを暗示するためである。
白馬じゃなくてポニーだというところがいかにもキョンらしい。
ここまで見てきたように「憂鬱」には何気ない日常のシーンにも深い意味が込められていた。下の表は「憂鬱」の構造をまとめたものである。
青色は先ほど説明したシーン、赤色はハルヒが急に着替えだしたり帰ったりするシーン。各話に一回ずつ全部で6回ある。薄緑はハルヒの思想についてである。茶色はハルヒからみくるへのセクハラのシーン。
エヴァとの対応関係
表の太字はエヴァに対応する事象である。
長門のメガネとアパートへ行くはキャラクター構成の項で述べた。メガネがゲンドウと対応、アパートへ行くシンジが綾波レイのアパートへ行くのと対応
ハルヒがキョンの首を絞めるのは旧劇ラストでシンジがアスカの首を絞めているのに対応
ハルヒが望んだ世界はエヴァが暴走した結果起こる人類補完計画後の世界に対応。またそのどちらとも主人公に阻止されることで対応
ポニーテールとキスはポニーに乗るつまりハルヒ=エヴァを乗りこなすことに対応、キスはシンジとアスカのキスに対応
エンドレスエイトはエヴァでよく使われる過去の場面が繰り返し出てくる心理描写に対応
そもそもエヴァもキリスト教に深く関係した内容なので似ているのは当然なのかもしれない。
などキリスト教関連のワードがたくさん出てくる。
ちなみにシンジやアスカの年齢は14歳で白雪姫も14歳である。ただしエヴァが白雪姫を下敷きにしているかは不明である。
次に、下の表は涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版)全体の構造をまとめた章立て表である。
「憂鬱」「ライブアライブ」「サムデイインザレイン」「笹の葉ラプソディ」以外はそこまで良くない。
ライブアライブは9分間にわたるライブシーンの出来がとても良い。渚カヲルが言ってたように歌はリリンの産みだした文化の極みである。
笹の葉ラプソディは七夕、つまり7月7日が重要である。ここにも7が出てくる。劇場版へ続く伏線の一つなのでおさえておく必要がある。
サムデイインザレインは憂鬱に次ぐ重要なエピソード
ここまであえて触れなかったが、7が重要と言いつつ「憂鬱」は6話構成になっている。1話足りないので整合性がつかない。
ここで聖書に注目する。「神は7日で世界を作った」しかし厳密には7日目に神はお休みになったとある。つまり神は6+1日で世界を創造したことになる。この+1日に当たるのが「サムデイインザレイン」である。
この回だけ淡々と、静かに進んでいくのは神(ハルヒ)がお休みになっているためである。
1話冒頭で坂を上りながら始まり、最終話ラストで坂を下りながら終わる物語なのである。
憂鬱とサムデイインザレインの対比関係については下の表にまとめた。
思ったこと
はじめて見たときからなんとなく「サムデイインザレイン」は印象に残るというか、雰囲気が好きだったのだが、ようやく原因が見つかった 。わざわざ表なんか作らなくても直感的に「サムデイインザレイン」が重要だと分かっていたのだ。人間の脳はやはりよくできている。
聖書でイブをそそのかしたのは蛇なのだが、涼宮ハルヒの中に蛇はいるのだろうか。憂鬱Ⅵでキョンにハルヒと閉鎖空間で生きるように促す人物が一人いる。小泉一樹なのだが、蛇は裏切りの象徴であるので今後の展開が非常に気になる。
あと猫のシャミセンは三毛猫と三味線ということで3という数字が隠されていて、3とは長門、みくる、小泉の3人である。3人とも互いに異なる意見を持っていて対立していることを暗示している。
次回は劇場版涼宮ハルヒの消失について説明する。
涼宮ハルヒの憂鬱~エヴァとの関係~
前回のつづきから。
ハルヒとアスカ
共通点はツンデレ。セリフに「バカキョン!」「バカシンジ!」感情の起伏が激しく、情緒不安定であること。主人公とキスをすること。主人公とはアダムとイブの関係。
違いはハルヒが不思議を追うのに対してアスカはトラウマに追われる。ハルヒのポニーテールに対してアスカのツインテール。
みくるとミサト
共通点は年上であること。主人公に対して母性的に接すること、みくるは小泉とキス未遂し、ミサトは加持と何度もキスする。みくるは甘酒で、ミサトはビールで酔っ払う。そのときどちらも白いシャツを着ている。
違いはみくるが禁則事項によって未来に囚われているのに対してミサトはセカンドインパクトで父を失った過去に囚われている。
小泉と加持
共通点は男前であること。ヒロインの扱いに慣れていること。謎の「機関」に所属していること。主人公にアドバイスをする。
違いは小泉が同級生なのに対して加持は年上。小泉は女にモテないが、加持はモテる。
ここまで主要キャラクターの比較をしてきたが、肝心のエヴァンゲリオンが欠けていた。ここの比較ができないのでは二つの作品は結び付かない。
「憂鬱Ⅵ」のクライマックスのシーンに注目する。
神人が近づくなか世界の命運を懸けたシーンで、キョンはハルヒに向かって言う。
「いつだったかお前のポニーテールは、反則的なまでに似合っていたぞ」
さらに、現実世界に帰ったあとポニーテールにしたハルヒを見て、「似合ってるぞ」と言う。
意味不明である。涼宮ハルヒの憂鬱の中でも、謎めいたシーンの一つである。ハルヒでなくとも混乱するだろう。なぜクライマックスのシーンでショートヘアのヒロインに対してポニーテールの話をする必要があったのか?
アスカのツインテールと掛けている、というのは惜しい気がする。
恐らくポニーは馬の一種で、ハルヒを馬に例えている。「ポニーテールが似合ってる」と言ってポニーテールにさせたキョンは馬の調教師という比喩である。唯我独尊のハルヒに命令できたのだから。
つまりあのシーンでキョンはハルヒをコントロールした、言い換えると操縦した、と言えるでしょう。初号機のパイロットがシンジにしかできないのと同様に、ハルヒのパイロットもキョンにしかできないことを暗示している。
この他にも、鶴屋さんがリツコ、谷口・国木田がトウジ・ケンスケと対応している等、比較できる点は多い。すべてではないが、大まかにまとめたのが下の表である。
ところで、「憂鬱Ⅰ」でハルヒとキョンが髪型と曜日に関する謎のシーンがあるが、あれはハルヒの髪型に注意しろよ、という作者からのメッセージだと推測する。なんとも親切なことよ。
キャラクター構成表については、疑問点・欠陥がありましたら教えて下さると助かります。
次回は全体構造について説明する。
参考
自分なんぞよりとっくの10年以上前にキャラクター表を作っている方がいた。おおむね一致しているが、細部で自分のものとは異なる。
偉大な先人に敬意を表して、ここに載せておく。
出典
http://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/gallery/200602.html
小泉一樹|無料GIF画像検索 GIFMAGAZINE [5678]
涼宮ハルヒの憂鬱~社会現象になった理由~
「涼宮ハルヒの憂鬱」は2006年に放送され、12年経った今でも愛される名作である。再放送での視聴率の高さがそれを物語っている。
なぜここまで愛される作品となったのか?普通の作品と何が違うのか?
結論から述べると
涼宮ハルヒの憂鬱はエヴァンゲリオンを下敷きに作られた作品だから
というのが理由である。これについて説明していく。
下敷きにする、というのは過去の名作の特徴(キャラクター、全体構成、セリフ)をうまく自分の作品に落とし込むことである。
自分の作品を人気作品にしたいなら過去の名作を参考にすればいい。至極、合理的な考え方である。
エヴァンゲリオンは90年代に社会現象になるほどの人気を呼び、現在でも続編を待たれる人気作品である。
注意してほしいのが下敷きにすることは決して「パクリ」などではない。良いところを吸収して自分なりのアレンジを加えたうえで、作品に活かすのである。
宮崎駿、細田守、新海誠、みな古典を下敷きとした作品を世に出している。
次に下敷きになっていると分かる根拠を示していく。まずはキャラクターから説明していく。
一番似ているのは長門と綾波レイである。これは気づかれた方も多いのではないか。
髪型と無表情である点から長門はレイを意識して作られたと考えて間違いない。
しかし、長門はメガネをかけているがレイはかけていない。大きな違いであるがこれについては後で述べる。
次にキョンとシンジである。
二人とも従来の主人公像と大きくかけ離れている。そしてともに「選ばれた子ども」である。
それまでのアニメの主人公と言えば、ポジティブだったり正義感の強い人物がセオリーであった。ワンピースのルフィはその代表例である。
それに対してシンジはネガティブで傷つきやすい臆病な性格をしている。
キョンはネガティブではないがどこか悟ったような平凡を求める生き方をしている。シンジのように思いつめたり、斜に構えたりする様子はない。
そして二人とも共通して活発的とは言えない。
上図はキョンとシンジの性格を表す概念図である。
プラスに向かうほど明るくポジティブ、マイナスに向かうほど暗くネガティブである。A点はルフィ、B点はシンジ、原点Oはキョンを示している。
今までの漫画アニメはプラスの主人公がほとんどだった。
そこに庵野はマイナスの主人公であるシンジを発明した。
さらに涼宮ハルヒではプラスでもマイナスでもないニュートラルな主人公キョンを発明した。
涼宮ハルヒの憂鬱が放送当時、社会現象を起こすほど流行ったのは新しい主人公の発明が要因の一つに挙げられる。
シンジはいきなり父親に呼び出されて「エヴァに乗って使徒と戦え」と言われる。理不尽である。
キョンは平凡を求めてたのに無理矢理SOS団に入れられる。理不尽である。
しかし二人とも拒絶してはいるが、結局エヴァに乗っているしSOS団の活動をしている。
主体性がなく周りに流されやすいという点で二人は共通である。
そしてシンジはエヴァのパイロットに選ばれ、キョンはハルヒに選ばれた。選ばれた子供という点で共通である。
次にキョンとシンジの異なる点を述べる。
二人の最大の違いは「父親の存在」である。
シンジは父親を恐れているのと同時に自分を愛してほしいという屈折した感情を持つ。
これがエヴァンゲリオンの暗く重苦しい世界観につながっている。
これに対し、キョンには父親はいるが作中には一切出てこず、父に対して複雑な感情を持つことはない。父親が出てこないのだから当然である。
これがコメディ風の愉快な世界観につながっている。
ここで先ほどの長門のメガネである。
シンジの父ゲンドウはメガネをしていたが、レイを救出する際に割れてしまう。その割れたメガネはレイが保管している。
長門もキョンを救出する際にメガネを失う。しかしキョンに「メガネは無い方がいいぞ」と言われてかけなくなる。
ここで長門のメガネはゲンドウのことである。キョンの父親はでてこないが、その名残りが長門のメガネである。
つまり「メガネは無いほうがいいぞ」というセリフは「この作品に父親は出てこない。だからエヴァよりも明るい作品だ」と暗に示している。
個人的な感想としてやはりエヴァを見るよりも憂鬱を見てる時の方が気軽に楽しく見ることができる。もっともエヴァの鬱々とした感じも嫌いではないが。
以上のことからも涼宮ハルヒがエヴァを下敷きにしていることが分かる。
次回はハルヒとアスカの関係から説明していく。
(参考)
こちらの方のまとめは大変面白いので、是非読まれたし。
つまり、下敷きになっている作品が分かれば放送中のアニメも理論上、予想できるというわけです。
出典
http://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/gallery/
https://www.cinematoday.jp/news/N0074288
未来のミライ~初見考察~
一回しか見ていないので詳細な部分はあやふやである。
一言で表すと「時間と家族の物語」
「家族は大切にしよう。支えあおう」そんな当たり前のことを再認識させてくれる映画だった。
未来のミライでは主人公くんちゃんによる計5回のタイムリープおよび幻想世界での冒険が行われる。下の表は主人公と幻想世界での家族の特徴を表にしたものである。
「現在」の項目では現在の主人公の様子、「幻想世界」では対象の人物としたこと、「結果」はその結果、主人公がどう変わったか、「乗り物」は幻想世界に出てくる乗り物である。(犬が乗り物なのか分類が微妙、ミライのときは出てこない)
*表のくーちゃんはくんちゃんの誤りです
基本的に主人公が親に構ってもらえず、妹を新幹線のおもちゃで殴ろうとして親に叱られてから幻想世界(中庭)へ行く。現実と現実との間には必ず幻想世界での話があるので、サンドウィッチ構造になっている。
なので家の間取りもリビング、中庭、子供部屋とサンドウィッチのような一風変わったものになっている。
幻想世界と現実
- 新幹線のおもちゃでミライを叩く➡駅でひとりぼっちの国行きの新幹線に乗せられそうになる
- ミライに魚の形をしたお菓子を顔につけるイタズラをした➡魚の大群によって母親の過去へ連れてかれる
- 過去の世界で母親は泣いている➡枕元で母親は泣いている
- ミライの名前候補に「つばめ」➡家族の歴史を巡るときにつばめが映る
- ひいおじいさんは船が転覆して股関節に傷を負う➡ミライの手にはアザがある
他にもあると思うが記憶できなかった。最後のミライのアザについては幻想世界ではないが、アザのついた理由が明確に語られなかったことと重大なポイントではないかと考えて付け加えた。
他の細田作品もそうだったが、ストーリーの中で関連する事象が非常に多い。こういう作品を見ると人は無意識に美しいと感じるので、記憶に残る作品になりやすい。
分からなかった点
- 冒頭、雪が降ったのはなぜか
- ミライの手のアザ
冒頭のシーンは恐らく何らかの出来事との関連なのだろうが分からなかった。もう一度見直して確認したい点である。
ミライの手のアザはひいおじいさんの傷と説明したが、実際のところよく分かっていない。なぜアザが付いていたのか?アザがある設定が必要だったのか?ここも重要な点であるので確認したい。
気になったシーン
終盤、幻想世界で主人公が電車に乗るシーンがあるが、電車のシーンが出てくるアニメはもう一つある。2年前に大ブームになった「君の名は。」である。ジブリ作品でも「千と千尋の神隠し」に千尋とカオナシが電車に乗って銭婆婆の家に向かうシーンが描かれている。特に「君の名は。」では重要な場面で使われた。
何が言いたいのかというとアニメを作る人たちは「電車」が好きであること、もっと言うと「銀河鉄道の夜」が好きである。
「銀河鉄道の夜」はジョバンニとカムパネルラの絆の物語である。「千と千尋」は千尋とハク、「君の名は。」は三葉と瀧、「未来のミライ」はくんちゃんとミライの絆の物語である。
また、銀河鉄道の夜も現実→幻想→現実の構造となっており、先程述べたサンドウィッチ構造と同じである。構造的にも銀河鉄道と非常に似ている。
人と自然、過去と未来、兄と妹、全部ジョバンニとカムパネルラである。
思ったこと
「未来のミライ」を見て似たような感触を覚えたのが「CLANNAD」と「君の名は。」だった。前者は家族の物語、後者は時間の物語である。個人的には「バケモノの子」より好きなのだが一般的にはどのような評価になるのだろうか。
上の表と幻想と現実の対応を思いついたのは終盤のミライのセリフだった。
ミライ「ほんのささいなことが今の私たちを形作っているの」
このセリフが「バラバラの事象なんてない。ほんのささいなことでも幻想と現実を対比させているの」と暗示しているように聞こえたからだ。
細田守は「家族」をテーマにした作品をたくさん描いてきたが、どうしてそれをする必要があったのか。それは当たり前のことだけど、ついつい忘れてしまうからだ。くんちゃんとミライの両親がそうであるように現代人はみんな忙しくて、疲れている。特に子育ては大変この上ない。
このままでは家族の大切さ、当たり前の日常の尊さを忘れてしまうので、定期的に思い出す必要がある。そうしないと悲惨な殺人事件に繋がってしまうからだ。アメリカでは学生が銃で同級生を惨殺する例が絶えない。(あれはスクールカーストと銃社会も悪いのだが)
日本人は幸福なことに細田作品を見てそれを思い出すことができる。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン7話
7話のテーマは「亡き娘への罪と救済」
簡単なあらすじを説明する
舞台→戯曲家の別荘へ赴く→身の回りのお世話→食事→代筆→傘と娘の話→代筆→湖を跳ぶ→傘を貰って船に乗る→船中で苦悶する→ギルベルトの死を知る
7話のクライマックスは湖を跳ぶシーン(18分07秒〜)。
ヴァイオレットの跳ぶ姿を見てオスカーはこう語りかける。
オスカー「奇跡を起こしてくれた彼女におれは言った。『神さまなんていないだろうけど、いるなら君のことだ』」
奇跡とは何か?なぜヴァイオレットが神さまなのか?
謎を解くには発言者のオスカーウェブスターについて知らなくてはならない。
オスカーは人気の戯曲家である。しかし、娘オリビアを亡くしている。不幸である。不幸どころか罪を背負ってしまっている。
冒頭(1分13秒〜)「ああ、私はこの罪を背負っていくしかない。このさき一生」
確かに罪を背負ってそうな顔をしている。
そんな時にヴァイオレットがやってくる。彼女は娘と同じ髪の色をした少女であった。しかし似ていたのは外見だけで、義手をしている上にカルボナーラもろくに作れない。娘との甘い思い出とは程遠い。
ヴァイオレットの登場が返って娘の不在を際立たせてしまう。
次に戯曲の原稿を代筆するシーン(8分33秒〜)に注目する。戯曲の感想を聞かれヴァイオレットはこう答える。
ヴァイオレット「本当の話ではないのに自分が体験してるようです」
戯曲の内容は主人公オリーブは船が無いので父が待つ家に帰れなくなる。そこで傘と風の使いの力で海を渡って帰るというものである。
もちろん主人公のモデルはオリビア。そしてこのセリフから
オリビア=オリーブ=ヴァイオレット
という関係が成り立つ。(ここで納得できない人はヴァイオレット・エヴァーガーデンをつまらないと思う人である。伏線とかにこだわる人は抽象的なイメージを繋げることを嫌う)
つまり死んだ娘に代わってヴァイオレットが主人公となり物語を完成させるということを暗示している。
(18分07〜)
そして湖のシーン。オーケストラの音楽と共にヴァイオレットが駆け出す。高くジャンプして落ち葉の上を歩き出す。娘の「いつか、きっと」の言葉通りに。
奇跡が起きてオリビアは父の元に帰ってきたのである。オスカーは救われた。だから涙を流している。
以上をまとめると
・オスカーは罪を背負っている
・ヴァイオレットが娘オリビアに成りかわる
・オリビアの言葉通りにヴァイオレットは湖の落ち葉の上を歩く奇跡をやってみせる
・オスカーは救済された
つまりヴァイオレットはイエス・キリストである。
イエスは水の上を歩く奇跡を起こせる。そして娘の言葉は預言である。
ちなみにオリーブは聖書に頻繁に登場する植物で花言葉は「平和」である。
イエスは人間の罪を肩代わりできる。イエスを信じる者は救われる。ただし、一瞬で湖に落ちてずぶ濡れになってしまうが。
もう一度オスカーの言葉を思い出してもらいたい。
オスカー「奇跡を起こしてくれた彼女におれは言った。『神さまなんていないだろうけど、いるなら君のことだ』」
オスカーにとってヴァイオレットは神さまだったのである。
<思ったこと>
6話より出来はいい。
(18分07秒〜)はBGMと絵が素晴らしいので感動できる。このシーンだけでもアニメが絵だけでは成り立たないことが分かる。もっと音楽を大切にすべきだ。
ヴァイオレットがイエスの比喩だというのは奇想天外でアホな発想と思われるかもしれない。というより自分自身でもそう思っている。でも面白いのでこのままいく。
今回のオモテ-ウラ図は以下の通りである。
相変わらず愚直なヴァイオレットはオモテ族で、父の心を汲み取れるオリビアはウラ族である。湖を跳ぶ行為がウラ族へのジャンプとなっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン6話〜オモテ族とオモテ族〜
6話のテーマは「寂しさとの決別」
簡単なあらすじを説明する
仕事で天文台へ→リオンと古文書の解読と代筆→図書館での会話→アリー彗星観測→リオンとの別れ
6話は1〜5話と大きく異なっている。
異なっている点は二つ。
・ヴァイオレットとリオンがどちらもオモテ族
・手紙が出てこない
オモテ族は率直な言い方を好み、嘘が下手である人間、ウラ族は遠回しの言い方を好み、嘘や隠し事をする人間のことである。
詳しくは下の稿を読んでほしい。
まず前者について
今までの話はヴァイオレットとエリカ、ダミアンとシャルロッテのようにオモテ族とウラ族がペアになって展開されていた。
しかし、6話に登場するリオンはヴァイオレットと同じく、率直な言い方で嘘が下手であるという点からオモテ族に分類される。
気になったシーン
(14分09秒〜)
ヴァイオレット「少し似ていますね」
似た者同士なのだからオモテ族とオモテ族である。
オモテ族とオモテ族のペアは性格が似ているので会話が弾み、自然と仲を深めることができる。
つまり手紙を書かずともお互いを理解し合えるのである。仲良くなるのに手紙を必要としない。これが後者である。
またこのことからヴァイオレット=リオンの関係が成り立つ。今回は対(⇔)ではなくイコール(=)である。
しかし、ヴァイオレットとリオンが仕事で出会って仲を深めるというのでは、ありきたりでつまらない。
圧倒的な作画とオーケストラの音色を使って描かれるのが平凡なラブコメでは話にならない。
よってもっと深みのあるストーリーにしなければならない。
そのためにはウラ族が必要である。オモテ族とウラ族が手紙を介して気持ちを伝え合うのがヴァイオレット・エヴァーガーデンの一つのテーマでもある。
ではウラ族は誰だろうか。それは「アリー彗星」である。彗星は人間ではないが、ここではイメージとして例えられている。アニメは芸術作品なので人間にこだわる必要はない。
(17分08秒〜)
二人の会話から
ヴァイオレット→彗星=ギルベルト
リオン→彗星=リオン母親
であることが分かる。
彗星は我々から遥か遠い宇宙を流れ、出会えるのも200年に1回である。これがヴァイオレットにとってのギルベルト、リオンにとっての母親の比喩になっている。
先ほど6話に手紙は出てこないと述べたが、実は手紙は出てくる。正確に言うと「手紙の役割を持ったもの」が出てくる。
それはリオンが解読した古文書の一節にある。
(9分16秒〜)
「その別離は悲劇にあらず。永遠の時流れる妖精の国にて、新たな器を授かりて、その魂は未来永劫守られるが故に」
絵には母親と子供が描かれている。リオンとその母親である。
(21分21秒〜)
彗星を見たときヴァイオレットはギルベルトを想い、リオンは母親を想っている。そして彗星から「手紙」が届く。(ヴァイオレットの口から)
「その別離は悲劇にあらず。永遠の時流れる妖精の国にて、新たな器を授かりて、その魂は未来永劫守られるが故に」
分かりやすく言い換えると
「その別れは悲しいことではない。その想いは心の中で永遠に守られ続ける。だから閉じ篭ってないで新たな一歩を踏み出してほしい」
リオンは母親のことを待ち続けていた。しかし、天文台で待っていても母親に会うことは永遠にない。そんなことよりも自分の夢を追いかけてほしい、というメッセージを受け取ったのだ。
ヴァイオレットはギルベルトの不在を寂しく感じるが、命令を待つのではなく、ドールとして一歩ずつ歩み出している。
以上からアリー彗星からの手紙によって二人に心情の変化が起こった。
・リオンは母親を待つのをやめた
・ヴァイオレットはこれからもドールとして生きていこうとした
ウラ族からの手紙でオモテ族に変化が起こる。これは1〜5話の構造と同じである。
(6分57秒〜)
リオンはヴァイオレットに一目惚れする。最も自身は自覚しておらず、無意識に恋をした。
(20分13秒〜)
彗星を見る直前の会話で「ギルベルトに何かあったら駆けつけるのか」という問いにヴァイオレットは「あなたにどう謝罪しようか考えている」と答えられ、失恋する。
そして彗星が流れる。ヴァイオレットとの心のの距離も彗星と同じくらい離れていたのである。彗星(手紙)を介してヴァイオレットに振られたのである。
つまり、彗星を見て起きた心情の変化は
・リオンは母親をまつのを待つのをやめた
・ヴァイオレットはこれからもドールとして生きていこうとした
・リオンはヴァイオレットを諦めた
の3つになる。たった一つのシーンで3つの感情を表現しているので、彗星が流れるシーンはより一層神秘的になる。
(23分58秒〜)
ヴァイオレットとリオンの別れのシーン。
リオンとヴァイオレットが会うことはない。リオンもそのような趣旨のセリフを言っている。
それでも自分と似たオモテ族の人間と出会ったことでいくらか彼に自信がついた。
<思ったこと>
1〜5話に比べて少し物足りないといった感想を持った。
6話は今までの話と違って、ストーリーの構造が異なっている。当然、作り方も違う訳だから労力が余分にかかる。そのせいで完成度が若干落ちてしまったのだと考えられる。
具体的には(7分27秒〜)の古文書を解読するシーンは長く引っ張りすぎで、(21分21秒〜)は短すぎた。アリー彗星のシーンは6話のクライマックスなのだからもう少し引っ張っても良かった。
(23分58秒〜)でリオンとヴァイオレットが会うことはないと述べたが、仮にギルベルトが死亡していたのならば会える可能性は上がる。似た者同士なのだから案外うまくいくのではないか。
名前と戦争その1〜ヴァイオレット・エヴァーガーデン〜
ヴァイオレット・エヴァーガーデンでは名前が花に由来する登場人物が多い。
それを以下にまとめる。
5話までの主要人物の名前と花についての表である。
ヴァイオレットとアイリスは作中で述べられているが、その他のキャラクター(主に女性)も花にちなんでいる。
そして、花言葉に関してもキャラクターの性格と一致するように設定してある。
アヤメは「良い便り」、エリカは「寂しさ」、カトレアは「優美」といった具合である。
ただし、男性キャラクターについては花にちなんでいる訳ではなく、唯一ギルベルトのみがブーゲンビリアの花から取っている。ベネディクト・ブルーについては推測の域を出ないのでブルースターの花が由来になっているかは不明である。
ホッジンズについては花に関するものが名姓ともに無く、名前であるクラウディアに至っては女性名である。
男性なら通常、クラウディオなのだが公式HPを見てもクラウディアになっている。何か重要な設定があるのかどうか原作を読んでいないので知っている方がいたら教えて頂きたい。
次に国籍について
国籍はみんなバラバラで、統一性がない。そもそもCH郵便社があるライデンシャフトリヒからしておかしい。
「ライデン」はオランダ南西部に実在する港町で、舞台のモデルにもなっているが、「シャフトリヒ」の部分はドイツ語である。なおライデンは第二次世界大戦で爆撃を受けている。
第1話でホッジンズが「線路が爆撃に遭った」と言うシーンがある。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ライデン
このことからライデンシャフトリヒは多言語、多民族国家なのではないかという予想ができる。
このことについて次回説明する。
実在するライデンとアニメとの比較
CH郵便社、ライデン市庁舎、旧日銀京都支店
CH郵便社
ライデン市庁舎
旧日銀京都支店
ヴァイオレット・エヴァーガーデン5話〜オモテ族とウラ族〜
5話のテーマは「年齢を超えた愛」
シャルロッテとダミアン、シャルロッテとアルベルタの二つの年の離れた愛が描かれる。前者は恋愛だが、後者は親子の愛に近い。アルベルタは女官だが。
簡単なあらすじを説明する
仕事でドロッセル王国へ→シャルロッテに謁見→手紙(恋文)を代筆→シャルロッテのマリッジブルー→シャルロッテの回想→本人どうしの手紙のやり取り→プロポーズ→アルベルタとの別れ
嫁ぐ前に育ててくれた女官との別れのシーンは江戸時代でもよくあったそうな。
気になったシーン
(8分10秒〜)
シャルロッテが泣きながら部屋を出るシーン。
アルベルタのセリフに注目する。
「思い通りにいかないときに見せる泣き方です」
「思い通りにいかない」とはどういうことなのか。理由は二つ。
・ダミアンの手紙が代筆されたものだったから(12分00秒〜)
・結婚するとアルベルタと離れ離れになってしまうから(8分42秒〜)
(8分42秒〜)
シャルロッテがアルベルタにきつく当たるシーン。泣いている理由は上の二つなのだが、ここでのアルベルタの立ち振る舞いが印象的である。アルベルタは顔色一つ変えず、ただ側に立っている。
このシーンも含め、ヴァイオレット・エヴァーガーデンではしばしば十代の視聴者では理解しにくいシーンがある。
若者に対して大人のドラマを見せているのか、単に大人が楽しむアニメなのか、どっちなのだろう。
(12分00秒〜)
ヴァイオレットとシャルロッテが会話をするシーン。シャルロッテのセリフに注目する。
「ダミアン様は"あんな言葉"を使う方ではないの」
「あんな言葉」とは代筆された手紙の文章のことである。
しかし、シャルロッテが恋に落ちたのはダミアンのぶっきらぼうで、率直な物言いに心を打たれたからである。
ここで第2話を思い出して欲しい。
エリカはヴァイオレットの率直な言動(言葉の表)に心を打たれて自信を取り戻した。
第2話のテーマは「言葉の表と裏」であり、ヴァイオレットは言葉の表の象徴、エリカは言葉の裏の象徴であった。
以下、言葉の表の象徴を「オモテ族」、言葉の裏の象徴を「ウラ族」と呼ぶ。
それを基にこのシーンを図示すると下の通りになる。
そして、これを第5話に当てはめると下の通りになる。
回想でのぶっきらぼうな言葉からダミアンはオモテ族、結婚に不安を持ったり、(8分42秒〜)で本心とは裏腹にアルベルタに当たってしまう行動からシャルロッテはウラ族とした。
(16分56秒〜)
ヴァイオレットのアイデアで互いに手紙を書いてやり取りをするシーン。
このシーンの面白いところはダミアンの手紙をもらったシャルロッテが率直な物言い、つまり言葉の表に影響を受け、シャルロッテの手紙をもらったダミアンが自信のない感じ、言葉の裏に影響を受けているところである。
図示すると下の通りである。
(20分39秒〜)
月下の庭園でシャルロッテがプロポーズされるシーン。4話のクライマックスとも言えるシーン。オモテ族っぽいストレートなプロポーズだった。
なお5話では手紙→直接気持ちを伝えるという流れになっているが、3話と4話では直接気持ちを伝える→手紙となっている。予想だが、6話は手紙→直接気持ちを伝えるなのではないかと思っている。
(22分42秒〜)
シャルロッテとアルベルタの別れのシーン。アルベルタはドロッセル王国の宮廷女官なので、もう仕えることはない。しかし、アルベルタは「悲しいです」「もっとお側にいたかった」等の言葉は一切言わない。
シャルロッテを気遣い、「幸せにおなりなさい」と言って送り出す。シャルロッテを想い、本心とは裏腹の言葉を使うアルベルタもウラ族に分類される。
第5話はウラ族であるアルベルタの愛を受け育ったシャルロッテがオモテ族に嫁いでいくという話だったとも言える。
<思ったこと>
庭園の花や手紙に添えられたバラなど花が印象的だった。花で有名なオランダがドロッセル王国のモデルかと思ったが、シャルロッテはドイツ語圏の名前だった。また、ダミアンは英語圏の名前で、フリューゲルはドイツ語で翼という意味である。
ヨーロッパの国々をごちゃ混ぜにしている印象を受ける。
あとヴァイオレットの笑った顔を初めて見た。今後は表情が明るくなってくるのだろうか。
このアニメは退屈なのだが、不思議と何回でも見れる。アニメではなかなか珍しいことだと思う。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン4話〜美しい棚田〜
4話のテーマは「親子の愛」
主人公が様々な人々の愛に触れていく中で「愛してる」を理解する、というのがこのアニメの流れになっている。 今回は同僚アイリスとその親の話なので「親子の愛」がテーマとして妥当である。
簡単なあらすじを説明する
列車でアイリスの故郷へ→アイリスの両親と会う→両親に結婚を勧められる→アイリスの誕生パーティー→アイリスは母親と喧嘩→幼馴染との過去→両親へ手紙を書く→帰りの列車
筋書きとしては田舎出のキャリアウーマンが帰省してお見合いをさせられる典型的な話。口では喧嘩になってしまうので手紙で本当の気持ちを伝えて無事、解決という感じである。実に単純で分かりやすい内容となっている。
気になったシーン
(6分37秒〜)
アイリスの両親と親戚が牛車に乗って迎えに来るシーン。牛車が使われていることから4話の舞台はフィリピンがモデルの土地であると予想される。民族衣装がフィリピンのものであるかまでは分かりかねる。
フィリピンの牛車
(10分50秒〜)
ヴァイオレットとアイリス父が会話をするシーン。満月のシーンに注目する。ここはアニメの利点が大きく出ている。
これが小説であった場合、「暗闇に満月が光る」「月が綺麗だった」等の描写が必要になるが、アニメでは絵を見せるだけで小説よりも速く、多くの情報を伝えることができる。
小説では何行にも渡るシーンもアニメではたった数秒で表現できる。
さらにヴァイオレットのセリフに注目する。「この景色が『大したもてなし』という言葉に相応しい気がします」とだけになっている。
「綺麗ですね」と言ってしまうと「綺麗な月」という固定観念が視聴者に植えつけられてしまう。このワンシーンを見て「美しい満月だ」と言う人もいれば、「いや月ではなく、月に照らされた雲が美しい」と言う人もいるだろう。
あえてぼやかした言い回しをすることで色々な解釈ができるのである。
ちなみにフィリピンにはコルディリーラという世界遺産の棚田がある。牛車のシーン(6分37秒〜)もあることからカザリのモデルはフィリピンの棚田で間違いないだろう。
(8分27秒〜)、(9分54秒〜)、(14分44秒〜)、(15分51秒〜)、
いずれもアイリスが激怒するシーン。非常に迫力のあるシーンばかりであった。最近のアニメではキャラクターが怒るシーンが減っているように思える。
(23分12秒〜)
アイリスの花畑のシーン。一面に広がるアイリスの花は言葉にならないほど美しい。
アイリスの名前の由来となった花だが、花言葉は「良い便り」「希望」である。ドールに相応しい名前である。
ちなみにヴァイオレット・エヴァーガーデンの女性キャラクターは全員花にちなんだ名前になっている。
<思ったこと>
随所に出てくる棚田が印象的だった。一番好きなのはアイリスがエイモンに振られるときの棚田のシーン。日本でも有名な場所はいくつかあるので行ってみたいものである。
棚田のシーンまとめ
(8分34秒)
(10分46秒)
(11分22秒)
(15分38秒)
(18分07秒)
ヴァイオレット・エヴァーガーデン3話
3話のテーマは「良きドールとは」である。
これは教官の言葉で何度も繰り返されているので感覚で分かった人も多いだろう。
次に3話のあらすじを簡単に説明する
ドールの学校に行く→成績は優秀だが代筆の授業を落とす→不合格になる→友人の手紙を代筆して追加合格する
これだけである。
特別驚くような展開があるわけではない。ただ学校を卒業しただけである。新しい魔法が使えるようになったとか、戦争が始まったとか、恋に落ちたとか、そういう劇的なドラマはない。
淡々と傷を負った少女の成長を描いていく。
ここでいう 傷とは、両腕を失くした肉体的なダメージと感情に乏しい心理的なものの二つである。
そして平凡なストーリーを退屈させないような工夫として作画と音楽が挙げられる。
作画については(10分31秒〜)、(11分08秒〜)、(20分00秒〜)のシーンが素晴らしかった。いずれも夕暮れの美しいシーンである。
(10分31秒〜)
(11分08秒〜)
(20分00秒〜)
(10分31秒〜)と(20分00秒〜)については不安そうなヴァイオレットと幼き日のルクリアが重なっている。
(10分31秒〜)
(20分00秒〜)
(11分08秒)については1話と2話でも出てきたギルベルト少佐を想うシーンであり、夕暮れの景色が1話の街灯、2話のランプの灯りの役割を担っている。
(11分08秒〜)
次に音楽であるが、(4分59秒〜)のピアノとバイオリンの流れるようなBGMがルクリアの心の変化を表現しているようだった。
(4分59秒〜)
(7分12秒〜)からも無印良品の店内BGMのような心地よい音楽が流れてくるが、(8分41秒〜)からは音楽を止まる。これは教官の「手紙とは人の心を伝えるもの。良きドールとは人が話している言葉の中から伝えたい本当の心をすくい上げる者」という重要なセリフを集中して聞いて欲しいという配慮からである。
(7分12秒〜)
(17分00秒〜)も切ないメロディーでルクリアの話を引き立てるが、(18分58秒〜)からは音楽を止めている。無論、二人の会話に注意してもらうためである。
(18分58秒〜)
<思ったこと>
機械の腕→無感情、冷徹の象徴
手紙→豊かな感情、温かさの象徴
機械の腕では手紙を書けない。1話の冒頭でもそうだった。書けない理由は感情のない機械の腕にある。
だから教官の「すくい上げる」という表現がたまらなく好きだ。義手であるヴァイオレットには「すくい上げる」行為がとてもおぼつかない。機械の腕では少し難しいのだ。
それでもなんとかルクリアの心をすくい上げたみたいで良かった。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン2話
ひっそりと放送されてるヴァイオレット。やっぱり世界観が感情移入しにくいのが原因だろう。あと笑いの要素がゼロなのも。
2話のテーマは「言葉の裏と表」
2話では主人公のヴァイオレットと先輩ドールのエリカが対比構造 になっている。理由は後で述べる。
気になったシーンについて
(5分00秒〜)
ヴァイオレットが初めてタイプライターを使うシーン。速く、正確に、機械のようにこなすヴァイオレットにカトレアは「もう少し、静かにね」と注意する。
今回のテーマである「言葉の裏と表」を匂わせるシーン。これによって視聴者は無意識に今回のテーマを理解する。テーマを理解しているからそのあとの展開もなんとなく予測できる。
つまり些細なシーンであるが、こういうのがあると、入り込みやすくなるということ。
(10分10秒〜)
自室でタイプライターを打つ無言のシーン。ランプの灯りが印象的だが、似たようなシーンが1話目にもあった。
↑気になったシーンの(19分52秒〜)参考
短いシーンではあるが、ヴァイオレットがギルベルトを想ってるのが分かる。これは1話目のシーンによって"無意識"に「ランプの灯り」=「ギルベルトへの想い」という図式が視聴者の頭の中で成立するからである。
このように繰り返し連想させる手法は名作と呼ばれる映画ではよく用いられている。
(14分15秒〜)
女の利用客が来る。依頼内容は交際を申し込まれた相手へ気品のあるロマンチックな返信であった。エリカは先ほどのミスを引きずっている。彼女の「愛してる」の言葉に反応してヴァイオレットが書くことになる。しかし、ヴァイオレットは依頼者の意図を理解していない。
このシーンでは理解していないことを軍隊式の敬礼で表現している。
(15分50秒〜)
先ほどの利用客が怒っている。理由はもちろん、ヴァイオレットの手紙。言葉を表面的でしか捉えららないことが原因である。彼女の泣いている理由が分からないヴァイオレット。
(17分17秒〜)
2話目の重要なシーンの1つ。喫茶店でカトレアと会話をしているヴァイオレット。カトレアのセリフに注目。
「言葉には裏と表があるの。口に出したことがすべてじゃないのよ。人の弱いところね。相手を試すことで自分の存在を確認するの…裏腹よね」
「言葉の裏と表」「裏腹」が第2話の隠れたテーマになっている。ヴァイオレットは「裏腹」の意味について考えている。
(19分28秒〜)
雨の中でヴァイオレットがエリカに自分がドールに向いているか尋ねるシーン。
ここでエリカは最初に何を言おうとしたのだろうか。恐らく自分もドールに向いていないと伝えようとしたのだろう。
しかし、ヴァイオレットの態度を見て彼女はこう告げる。「向いていない」と。
なぜエリカは「向いてない」と言ったのだろうか?カトレアのセリフを思い出すと「相手を試して自分の存在を確認する」となっている。
つまりエリカはヴァイオレットを試して本当の自分の気持ちを確認したかったのだ。そしてなぜこの仕事をやりたいのかと問う。
ヴァイオレットは「『愛してる』を知りたいのです」と答える。そして素直にこう続けます。
「知りたいのです。たとえ向いていなくても。私はこの仕事を続けたいのです」
エリカは本当の自分を確認できた。
(20分57秒〜)
ヴァイオレットをクビにしようという話が出る。ここでエリカはヴァイオレットをかばう。そしてヴァイオレットが一言、「裏腹です」
ヴァイオレットが裏腹、言葉の裏と表に気づいた瞬間である。と同時にエリカが自分の裏腹に気づいた瞬間でもある。彼女が本当にかばったのは自分自身だった。
ヴァイオレットは言葉の裏と表を知らない、ストレートな少女である。
そのせいで周りの人間は迷惑をしている。それは女の依頼者であり、カトレアであり、ホッジンズである。
しかし、救われた人もいる。エリカである。エリカは言葉の裏に囚われて自分を見失っていた。だからヴァイオレットの素直な行動を心の中で羨ましく思っていた。本当の自分と彼女を重ねていた。だからヴァイオレットがクビにされそうになったとき思わずかばってしまった。
「言葉には裏と表がある」というのは裏だけでなく、表も大切にしなければならないという意味も含まれていた。これが第2話の隠されたテーマである。
ヴァイオレット↔︎エリカであり、表↔︎裏である。二人が対比になっているのが第2話の特徴である。
ただ対比構造がわかりづらいのはヴァイオレットとエリカの対比を暗示する要素が少ないからである。例えば、ランプの灯りがヴァイオレットの象徴ならば、水がエリカの象徴になっているとかそういうシーンを多く入れることで視聴者の無意識に対比構造が作られていく。対比が弱いから視聴者は何か物足りないとか、なんか難しいなという感想を抱く。
今後、このあたりが改善されるなら評価が上がっていくと思われる。
ちなみに雨が上がるシーン(19分28秒〜)でヴァイオレットに日の光が当たっているが、これは先ほどランプのシーン(10分10秒〜)で象徴されていた「ヴァイオレットの燃えている心」が「雨の水」で弱まったことを暗示している。ヴァイオレットは少しずつ自分の意思で行動し始めていることを伝えたかったのだろう。
<思ったこと>
今後もヴァイオレットのストレートな言動は続いていくだろう。しかし、作品の演出からすると彼女のそんな部分を否定していない。むしろ肯定している。彼女の変わっていく部分と変わらない部分をうまく照らしながら物語は続いていくだろう。
こんな感じで展開がゆっくりな割に密度が濃い作品になっている。ギャグシーンが入る余地は無く、物語の起伏も少ない。見ていて退屈になる。作画は素晴らしいんだけどね。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン1話〜映画のようなアニメ〜
絵は綺麗だがストーリーがつまらない
このアニメの1話を見た多くの人がこう思ったのではないか。戦争がストーリーの背景にあるが別に戦闘アニメではない。かといって美少女が織り成す日常系という訳でもない。退屈な映画が一番しっくり来る気がする。
最初に言っておくとストーリーの展開よりも背景の美しさや登場人物の表情に注目した方が楽しめる作品になっている。
一応、主人公については説明させてもらうと
年齢は多分17歳くらい。元軍人で「ギルベルト少佐」という人物の下で戦争に参加していた。
そして戦争で両腕を失くしている。
彼女の一番の特徴なのだが、
主人公のヴァイオレットはとにかく人間の感情が分からない
金髪碧眼で綺麗なのだが、なにぶん空気が読めないので周囲からドン引きされてる。同性から嫌われるタイプ。
これからお世話になる親切なご婦人に「私は亡くなった子供の代わりにはなり得ません」と言っちゃうくらい。(結局、受取拒否される)
そんな少女が郵便局の代筆業を通して、自分自身と見つめ合い成長するみたいな流れであると思う。
この郵便局の代筆業を「自動手記人形」という。物語のキーワードでもある。 ちなみにもう一つのキーワードは「愛してる」
なんとなく分かったような分からないような気がする。
気になったシーンについて
(冒頭)
ギルベルト少佐の後ろを歩いていたヴァイオレットがエメラルドのブローチを見つける場面
「ほら、絵綺麗でしょー?すごいでしょー?このアニメ作画すごいからみんな見てねー!!」ていう感じです。1話の冒頭はどのアニメにとっても一番重要なので当然力が入ってます。このブローチの吸い込まれる感じ嫌いじゃない。
(1分51秒〜)
手紙が美しい景色と共に風に舞うシーン。壮大なオーケストラの音楽のおかげでより視聴者の心を掴んでいる。すごいね、豪華客船とか。
(6分08秒〜)
ホッチンズが少佐について問われたシーン。あえてホッチンズの顔を写さず、ポケットに手を入れることによって隠していることがあるのを暗示している。こういう微妙な仕草とか好きだ。
(12分40秒〜)
ここでもヴァイオレットの表情をあえて写さない描写になっている。もしかすると感情的になったヴァイオレットをあまり写したくないのかもしれない。1話の段階ではあくまで彼女は感情を持たない少女だから。
(19分52秒〜)ここはかなり重要なシーンなのだが、抽象的であったと思う。
ホッジンズとの帰り道のシーンでホッジンズの
「君は自分がしてきたことで、どんどん身体に火がついて、燃え上がってることをまだ知らない」
というセリフに注目してほしい。ここで彼が言いたいことを直訳すると
「君はギルベルトを想うあまり、他人の気持ちに、自分自身の気持ちに気づいていないんだ」
となる。「ギルベルトへの想い」が比喩として「火」に例えられているのが非常に面白い。そしてそれに続く「燃え上がり」「火傷している」という比喩でヴァイオレットの心が傷ついてるのを的確に表現できている。
そしてそのセリフと対応するかのようにランプの灯りがヴァイオレットのギルベルトへの想いを描写している。とても素晴らしい場面である。
なおここでも足元を写すシーンがある。京アニは足が好きなのだろうか。
(23分40秒〜)
ヴァイオレットが自動式人形の仕事がしたいと願い出るシーン。日の光でぼやけてるホッチンズの部屋の中で「『愛してる』を知りたい」と言ったヴァイオレットの困った表情が素敵だった。
〈思ったこと〉
一言で言うと「美しく、そして退屈なアニメ」あまり難しく考えずに絵の鑑賞だと思って観ることをオススメする。あと主人公の名前が長過ぎる。
麻枝准と村上春樹
まず前回、麻枝准は村上春樹の影響を受けているらしいと言ったが本当だった。
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-17107.html
上記のページに麻枝がインタビューに答えているのだが、
どうやらCLANNADは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が下敷きになっている。
幻想世界はやはり村上春樹の影響だった。
こうなってくると「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んで、CLANNADとの共通点を探りたくなってくる。CLANNADが最高峰の文学を取り入れてると思うだけでワクワクする。
という訳で村上春樹を読んでいるのだがそうするとCLANNADの更新が遅れてくる。
なのでCLANNADの考察は気になった点をざっくり取り上げて更新しつつ、村上春樹の考察をした上でCLANNADの全体部分を分析することにした。
気の遠くなる作業だ…