週休二日〜アニメと文学の分析〜

ネタバレあり。一緒に読み解いてくれる方募集中です。詳しくは→https://yomitoki2.blogspot.com/p/2-510-3010031003010013.html Twitter→@bunbunbun_245

「神曲」の原題について

ダンテの「神曲」一通り読み終わった。

しかし、どうも「神曲」というタイトルがおかしい。違和感を覚える。

 

原題はLa Divina Commedia。直訳すると神聖喜劇である。ダンテ自身はCommedia、とだけ呼んだらしいが、あとから神聖が前に付いた。

(ダンテの時代にはCommediaに喜劇という意味は無かったとのことだがひとまず置いておく)

 

問題は日本に入ってきたときに「神聖喜劇」が「神曲」と訳されたことである。初出は森鴎外訳のアンデルセン「即興詩人」の中に出てくる。この翻訳がいかにも鴎外らしく、古語たっぷり格調高いもので、はっきり言ってアンデルセンの原型ほぼ無い。しかし、名訳だということでかなり評価高い。もはや日本文学コーナーに分類されてしまっている。

 

それで大文豪の鴎外が「神曲」と訳したのだから「神曲」なのだろう、という流れで今日に至る。今では素晴らしいタイトルだ、などと言われている。

 

しかし、内容読むと「神曲」という感じがしない。俗っぽい言葉遣い(トスカーナ方言)、冒頭が暗く結末が明るい(=喜劇)、社会風刺から「神聖喜劇」の方が適切だと思われる。

 

地獄巡りを通して、社会批判、教会批判がなされる「神聖なる喜劇」なのである。神なる曲というのはニュアンスがズレている。鴎外がどういうつもりで訳したのか非常に気になっている。とはいえ、文句言っても仕方ないので「神曲」というタイトルで統一していく。

 

以上ここまで読んだ感想なのだが、なにぶん14世紀の作品なので読み解き難航している。

 

それにしてもダンテは一神教特有の極端な考え方で、例えばムハンマドは地獄に堕とされている。その他異教徒やダンテの政敵たちも地獄に堕とされている。

 

こういうところ日本人の私には理解し難いのだが、神曲は西洋文学でも最上級の古典なので避けては通れない。とにかく進めていくつもりである。

 

 

「トニオ・クレーガー」追記 その2

「トニオ・クレーガー」ラストに出てくる二人組の男女はハンス・ハンゼンとインゲではない、という意見が翻訳者の間であるらしい。

 

はっきり言って不毛である。

仮にあの舞踏会にいたのが彼らではなく、赤の他人だったとしてもトニオの結論は変わらない。「僕は彼らのような純粋な市民にはなれないが、それでも彼らへの憧憬は忘れずにいよう」

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というか、その辺はわざと濁してある。マンは比較的、一義的な文章を書く作家であるがこの場面では含みを持たせている。読者の自由であるから過度に考えすぎる必要が無い。

 

トニオの中間的、ニュートラルな結論は一見、二元論を超克している。しかし、結局のところその態度は中途半端である。よく言えばディレッタントであるが。

 

「芸術」と「市民」の二項対立が「芸術であり市民である」と「芸術でも市民でもない」にすり替わっているだけである。ここのあたり弁証法の限界だと思われる。

 

カントにしろ、ニーチェにしろ、マンにしろ、ドイツ人は相反する二つの世界で常にハイブリッドであろうとし続ける。それが西欧と東欧の間に位置するドイツの運命なのかもしれない。

 

私の京アニ史 その2

 「新年明けましておめでとうございます」

 

「本年もどうぞよろしくお願いいたします」

 

「というわけで早速、私の京アニ史第二弾をやっていく」

 

「うむ」

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 「前回の続きはこちら」

 

「まだの方は読んでいただければ」

 

「新年一発目なので、こちらもお屠蘇を傾けながら話していこうかなと」

 

「元旦はとっくに過ぎてるのだが」

 

3.氷菓

www.kotenbu.com

「3番目は『氷菓』」

 

「またしても最近のを」

 

「8年前を最近と言うのか」

 

「もうそんなに経ったのか」

 

「『日常』見たあと『京都アニメーションという会社がおもろいアニメ作っとる』という流れでこれ」

 

 「原作はガチガチのミステリ作家のデビュー作、ということでかなり見応えのあるものだった」

 

「映像も角度を変えたり、遠くから近くから映してみたりと細かな工夫があり、視聴者を飽きさせなかった」

 

「特に、顔を映さずに足元だけ撮る技法は作中繰り返し使われていた」

 

「 好きなんやろうか」

 

「さあな」

 

「印象に残ったのが『愚者のエンドロール』」

 

「試写会のやつか」

 

「映画『カメラを止めるな!』でも似たようなトリックが出てきた」

 

「まあ氷菓の方が一枚上手だったけどな」

 

「日常のふとした出来事→主人公たちによる推理→壮大な陰謀なのではないか?→真実はありふれた暖かいものだった、というパターンやな」

 

「最後は日常的な、小さなものに収束していくのがいかにも京アニを感じる」

 

「あとは『遠回りする雛』の桜のシーンなんかも叙情的で素晴らしい出来かと」

 

「徹底したリアリズムによって、あったかもしれない青春が再生され、成仏していく」

 

「元々そんなもんはあるはずが無いのにな」

 

「それでも『あったかもしれない』と思えるだけで感動できるんやで」

 

「ところで、氷菓を見てからは深夜アニメに対する偏見は完全に消えた」

 

「偏見があったのか」

 

「変に小説とか戯曲とかメインカルチャーに触れていたせいか、ちょっと見下してたんやろうな」

 

「常に公平な態度で、曇りなき眼で鑑賞に臨まなあかんな」

 

4.涼宮ハルヒの憂鬱(2006年版、2009年版)、涼宮ハルヒの消失

www.kyotoanimation.co.jp

「続いては『涼宮ハルヒの憂鬱』」

 

「ついに来たな」

 

京アニといえば、いや深夜アニメといえばこれと言っても過言ではないな」

 

「せやな」

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「内容についてしゃべりたいことは概ね上のシリーズで書いたので話すことがない」

 

「これも修正版を出さなあかんな」

 

「いつかやるつもりである」

 

「いつか、いつかで時は過ぎていく」

 

「さて、ハルヒは2006年版と2009年版がある訳だが」

 

「2006は時系列ぐちゃぐちゃで、2009は時系列通りに進行していくプラス幾つか新作エピソードが挿入された」

 

「2006は第一話が文化祭の出し物で作った映画(朝比奈みくるの冒険)なので、なにがなにやら分からんのがな」

 

「肝心の主人公が出てこんしな」

 

「意味わからんくて見るのやめた人もいたのではないか」

 

「やはり、今から見るなら2009年版やな」

 

ハルヒと聞くとエンドレスエイトの話題が必ず出る」

 

「必ずなのか」

 

「必ずや」

 

「左様か」

 

「実は毎回微妙にカットが違う、というのは有名な話」

 

「ほんまにそうか実証しようとして、途中で放棄した」

 

「全部で8話あるからな」

 

 「ネットは広大なので、その辺は誰かが調査済みだと思われる」

 

「とはいえいくらなんでも8話はやり過ぎや」

 

「しかし、斬新であったことは認めざるをえんやろ」

 

「斬新だから、奇抜だからという理由だけで賞賛するのは過度な焼き畑農業と一緒や」

 

「アレもきちんと休閑期間を設けた、ちゃんとした農法なんやけどな」

 

「要するに、伝家の宝刀を抜き過ぎるなっちゅうわけや」

 

「喩えがよう分からん」

 

「そういえば原作者の谷川流は『絶望系』というライトノベルを書いているのだが」

「ほう」

 

「これがまた妖しく、グロテスクでハルヒとは雰囲気全然違うらしい」

 

「それがどうした」

 

「内容は主人公が体験する不条理な7日間を描いてる」

 

「7日間というと、憂鬱+サムデイインザレインの合計7話=天地創造の7日間が想起されるな」

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 「どうも関連がありそうでならない」

 

「とはいえ読んでないからなんとも言えんな」

 

トーマス・マンの読み解きが終わり次第読んでみるつもりである」

 

「はよ終わらせてな」

 

「今回はここまで」

 

「ちょっとスローペース過ぎではないか」

 

「別段急いでいるわけでもなし。問題は無かろう」

 

「完結するのに半年くらいかかりそうやな」

 

「息の長いシリーズ、ということでご勘弁願えれば」

 

「途中で筆を折るのだけはやめてな」

 

「今回はこの辺で」

 

「さようなら」

 

 

「トニオ・クレーガー」追記 その1


dangodango.hatenadiary.jp

 

年内ギリギリであったがアップできた。

 

 トニオ・クレーガーの構成はソナタ形式である。

このことを先に発見したのは私ではなくfufufufujitani氏であった。これをもとに少し自分で解析を加えたのが以前の記事である。

 

dangodango.hatenadiary.jp

 

今回の修正版では、「なぜソナタ形式を用いたのか」がテーマの一つだった。「その方が技巧的だから」では理由にならない。手段を目的化するほど彼は愚かではない。なんだかモヤモヤする。

ここが分からないとトニオ・クレーガー攻略にならないので着手した。

 

解説に書いてある通り、トニオ・クレーガーはニーチェの「悲劇の誕生」の影響が強い。アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、芸術と市民。

 

「非政治的人間の考察」にも「トニオ・クレーガーはニーチェの影響が強い」という旨の文章が出てくる。作家が自作についてコメントするときは、往々にして嘘が混じっているので疑ってかからないといけないが、今回は本当にその通りだと思われる。

 

そして、ニーチェは音楽大好きである。ワーグナーを崇拝していたことからもそれは分かる。ディオニュソス的芸術には音楽が含まれる。

ソナタ形式」と「芸術と市民」が繋がってくる。ここでモヤモヤが解消される。

 

というかショーペンハウアーも好きだったようなのでドイツ人はみんな音楽好きなのだろう。

 

それはなぜか、というのを辿っていくとどうもマルティン・ルターが始まりのようである。彼は賛美歌も作っているくらい大好きである。と、ルターの話は長くなるのでまた別の機会。

 

「音楽的な文学」というとまっさきに「詩」が思い浮かぶ。

詩は韻を踏む、つまり響きだから当然音楽とも近しい関係になる。有名なベートーベンの交響曲第九番には、同じドイツの詩人シラーの歓喜の歌が出てくる。

 

しかし、小説は散文なのでずっと韻を踏んでいるわけにはいかない。(実際には詩的な小説を書く人もいるのだが)というかマンの文章は抑制された硬い文章、つまり一義的な文章が特徴的である。この辺はトルストイの影響であるかもしれない。

 

その一方で、音楽が流れると途端に陶酔的な、感情が溢れ出すような文章になる。こちらはニーチェっぽいし、踊り出すかのような会話文はドストエフスキーっぽい。

 

しかし、トルストイドストエフスキーのどちらの影響も受けていながら、それでいてどちらでもないという印象が強い。中間的というかハイブリッドというか。

 

要するにどっちつかずなのである。

つまりトニオ・クレーガーそのまんまである。

 

 

 

 

 

「トニオ・クレーガー」解説【トーマス・マン】

「トニオ・クレーガー」は1903年に発表されました。日本では日露戦争の前年に当たります。ほろ苦い青春の書として、ドイツのみならず堀辰雄、太宰、三島、北杜夫など日本の作家にも影響を与えた作品です。

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

 

 

あらすじ

全体は6章に分けることができます。便宜上、AパートBパートに分けます。

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引用:https://www.photo-ac.com/main/search?q=%E4%B8%8B%E6%A0%A1&srt=dlrank

A:トニオ少年は友人のハンスと下校しています。ハンスは優等生で顔もカッコイイです。対してトニオは陰気で詩作に夢中でみんなに馬鹿にされています。トニオにとってハンスは大切な友人ですが、ハンスにとって彼は単なる友人の一人です。そういう関係です。

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引用:https://youpouch.com/2017/11/17/473179/

B:トニオは恋をしています。初恋です。お相手の娘はインゲといいます。彼女の容姿や仕草に夢中になります。そんな中、舞踏会の練習が行われます。トニオは彼女の踊る姿を見て、惚れ惚れとします。自分が踊る番になりました。彼は失敗してしまいます。みんなに馬鹿にされ、インゲにも笑われてしまいました。苦い初恋の思い出です。

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引用:https://life-and-mind.com/life-altering-words-1691

A1:初恋は終わりましたが、人生は終わりません。トニオは人生を歩んでいきます。父が死に、母は再婚して出ていきました。彼は故郷を離れ、詩人として名を馳せます。

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引用:https://diamond.jp/articles/-/115448

B1:トニオは30歳になりました。画家の女友達の元を訪れます。彼は芸術について、まるで踊っているかのように、熱く語ります。熱弁のあまり、彼女には笑われてしましました。

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引用:www.flickr.com(@Ayolt de Roos)

A':トニオは故郷やデンマークを旅します。故郷の街を散策して帰ったら、警官に職務質問をされます。詐欺師と間違われたようです。

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B':デンマークのホテルに滞在していると、舞踏会が開催されます。出席してみると、なんとそこにはハンスとインゲがいます。彼らは恋人同士になっていたのです。二人を遠くで眺めながら、幸福な気持ちになります。

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引用:https://sozai-good.com/illust/animal/boar/84348

C:画家の女友達に手紙を書きます。内容は旅を通して得られた、彼の芸術論、人生論です。芸術家でありながら善良で凡庸な市民に憧れを抱く、二つの世界のどちらにも存在して、どちらにも存在しないトニオ・クレーガーの生き方です。

 

文章の特徴

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各章の特徴

各章の特徴をざっくりまとめました。注目したのは文体と描写です。

 

A淡々とした文章:起こった出来事を淡々と、ありのままにした文章

B陶酔的な文章:対象を目の前にして酔いしれるような、情熱的な様子を描いた文章

という感じで定義しています。

 

Cパートは女友達に向けた手紙、という形式で書かれていますが、要するに全体のまとめです。この小説の主題です。ここだけ少し浮いているので、下の解説では主にAパートとBパートについて説明していきます。

 

ざっくりしすぎて雑なくらいですが、まずは全体のイメージ掴んでおきます。

 

規則性

この作品の難点は「文章が回りくどい」ことです。

物語自体はさほど長くありません(およそ120ページくらい)が、一文が長ったらしいので読むの疲れます。

 

しかし、さきほどの表を眺めていますと規則性というか、AとBが交互に配置されていることが分かります。

 

音楽的構造

 作者のトーマス・マンはドイツの小説家です。

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ドイツといえばバッハやベートーベンを産んだように音楽が盛んな国です。そんな土地柄で育つと音楽的な小説を書きたくなるようです。

 

そこで彼が考案したのが音楽の形式を物語の構成に用いた方法です。

 

もっと具体的に言うとソナタ形式で書かれた小説です。

 

と言われてもピンときませんね。「そもそもソナタ形式とは何ぞや」と思っている方のために簡単な説明をします。

 

ソナタ形式について

yomitoki2.blogspot.com

簡単に言うと、AとBというメロディーを思いついたとして

 (A+B+A1+B1+A+B)

 という感じで並べて、曲を組み立てるやり方です(A1とB1はAとBを微妙に変えたメロディー)。最初のA+Bを提示部、A1+B1を展開部、最後のA+Bを再現部と呼びます。ちなみにAが優しいメロディーだったらBは激しいメロディーというように飽きないように作ります。

 

詳しい説明は脱線してしまうので専門書をお読みください。

 

ソナタ形式を用いた構造

「トニオ・クレーガー」はこのソナタ形式を全体構成に利用しています。全体を把握するためにはざっくりと構成を示した表が必要です。これが章立て表です。エクセルで作れます。

 大まかな構成を下の章立て表に示します。

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ソナタ形式

 「トニオ・クレーガー」は全体を6つに分けることができます。

 各章を表にして眺めてみますと「歩く」と「踊り」が交互に展開する構造になっていることが分かります。こうすることで、何気ない物語に音楽のような調和が生まれます。

ここでは

第一主題A:「歩く」

第二主題B:「踊り」

 

とします。

 

第一主題A「歩く」

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提示部A

提示部で友達のハンス・ハンゼンと一緒に「歩いて」下校します。

 トニオにとってハンスは大切な友達ですが、ハンスにとってトニオは数ある友達の一人に過ぎません。というかトニオはちょっと依存気味です。

現代だと腐女子の方々が好みそうな関係性です。

 

展開部A1

展開部では主人公が人生を「歩む」過程が描かれています。詩人として名前も知れ渡ります。

さきほどの「歩く」から「歩む」に変化しています。これがソナタ形式でいうA→A1のメロディーの変化に該当します。

 

再現部A’

再現部で、トニオは故郷や自身のルーツであるデンマークを「旅します」。

途中で詐欺師に間違われたり、船で商人と出会ったりします(これについては後述します)。

「旅をする」も「歩く」の発展形と言えます。歩く→歩む→旅するの変化です。

 

 ここまできて「歩く 、歩む、旅するが似たようなニュアンスなのは日本語に翻訳したからで、ドイツ語ではそうならないのでは?」と思ったあなたは鋭いです。

 

念のため確認しておくと下の通りになります。翻訳によって生じた偶然ではなく作者の意図だと考えるべきです。

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ドイツ語と日本語

第二主題「踊り」

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提示部B

トニオは好きな女の子の「踊り」を見て心奪われます。初恋の相手にメロメロです。

 

展開部B1

 ここの場面はかなり不自然です。ということは重要な箇所ということです。

 

よく読みますと、トニオのセリフは芝居がかったような、くるくる回転しているかのように話題をかえながら熱弁しています。この「くるくる回転する」が「踊り」を連想させます。つまり、

 

くるくる回転的に熱弁する=トニオの踊り

インゲに笑われる=リザベタに笑われる

 

となり、提示部Aと対応していることが分かります。「踊り」が「熱弁」に言い換えられています。

 

作中、最も文学的な表現です。一読しただけでは分かりづらいです。展開部ということで冒険してみたかったのでしょうか。作者マンの遊び心です。

 

再現部B’

ここは明確に提示部Bと対応していますね。

インゲの踊りを見て心奪われます。トニオは笑われませんが踊りで転んだ少女が笑われています。

 

という感じで全体をソナタ形式で構成することで作品の完成度を高めています。

 

構成

先ほど見たのは大まかな構成でしたが、より詳細な章立て表を見ていきます。

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章立て表

上の表を見ますと、Aパートどうし、Bパートどうしで対応関係が構成されていることが分かります。それぞれの対応について見ていきます。

 

・歩く

・踊り

この二つはソナタ形式の項で説明済みなので省略します。

 

・恥をかく

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Bで 踊りを間違えたトニオはみんなに笑われて恥をかきます

B1でトニオは女の友人リザベタに、大勢の前で詩を読んで恥をかいた少尉の話をします

B'で踊りで倒れて、恥をかいた蒼白い少女をトニオが助ける

つまり、この蒼白い少女はかつてのトニオ自身です。トニオが助けたのは目の前の少女であり過去の自分です。

 

・笑われる

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Bでトニオはインゲに笑われてしまう

B1でトニオは熱弁するもリザベタににやにや笑われてしまう

B’で大人になったインゲを見つけたトニオは心の中で「あざ笑ったのか」と問いかけます

 

・名前

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Aでトニオ・クレーガーという名前をハンスにバカにされた

A1で詩人として名前が売れる

A’で警察に詐欺師疑われ、名前を聴取される

 

ここの対応は登場人物の特徴を整理しながら説明します。

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外見の特徴による登場人物の分類

注目すべきは「曲がった脚」という共通点を持つ、インメルタールとゼエハーゼです。

インメルタールが出てくるのは

Aで下校中にトニオは友人ハンスに「君の名前は変だ」と言われて傷つく場面。同級生のインメルタールは気の毒そうに見ています。

 ゼエハーゼが出てくるのは

A’で故郷のホテルでトニオは警官に名前を聴取され、詐欺師と疑われる場面。ホテルの支配人ゼエハーゼは気の毒そうにしています。

 

ハンス=警官

インメルタール=ゼエハーゼ

 

という対応関係になっていることが分かります。友人との下校と警官による事情聴取が対応しているのですね。

 A1ではトニオが詩人として名前が知れ渡る描写がありますが、言及する人物と曲がった脚に該当する人物は出てきません。

さすがにくどいと考えたのかもしれません。

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トニオの名前に関する対応関係

 

二項対立と二元論

多くの作家、研究者が指摘するように「トニオ・クレーガー」は「芸術と市民」の二項対立が根底にあります。

 

二項対立とは、二つの概念が互いに矛盾や対立をしていることです。

例えば、善と悪、精神と物体などが挙げられます。

 

二元論とは「二項対立を用いて世界の一切を説明する」という考え方です。

例えば、プラトンイデア論デカルトの実体二元論などが挙げられます。

 

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もっともポピュラーなのはキリスト教善悪二元論です。神と悪魔が対立し、最後は神が勝利する。

 

そして 、西洋人の大多数はキリスト教徒でしたのでみんな二元論が大好きになります。

現に西洋の文学には二項対立が頻出します。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と考えがちな日本人がそのまんま読むとわけワカメです。

この辺が一神教多神教の文化の違いなのでしょう。

 

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当然ながらトーマス・マンも例外ではありません。

それどころか、二元論を文学で極めたスペシャリスト(偏執狂)と呼べるくらいです。

 

芸術と市民

「トニオ」で描かれる二項対立は「芸術と市民」です。

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 なぜ芸術と市民が対立するのでしょうか。

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芸術家というと創作に打ち込み美しいものを求める反面、生活能力がなく自堕落です。太宰治なんかが代表的です。

ツールとワーク ショップに立って幸せなプロ職人 : ストックフォト

市民というと健康で労働に励みながら明るく生活する反面、芸術に関心がなく無学であり無垢です。商人や職人のような実践で食っていくような人々です。

 

いまいちイメージしづらいという人は「仕事一筋の真面目な父親と小説家を目指す息子の対立」というドラマのワンシーンをご想像いただけたらなと思います。

 

もしかしたらマン自身も似たような経験があったのかもしれません。マンの実家は裕福な商人の家でしたから。

 

そしてトニオ・クレーガー」の登場人物たちは芸術グループと市民グループに分かれています。

 

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芸術グループと市民グループ

 

ここで、重要なのは二つのグループが互いに対立する、距離を取っていることです。

 

トニオは、ハンスのようになろうとしませんし、インゲのことは遠くから眺めているだけでした。また二人もトニオと深く関わろうとしません。

 

トニオの父はお堅い名誉領事でしたが、母は情熱的でピアノとマンドリンが上手な人でした。父の死後、母はあっさり他の音楽家と再婚します。

 

しかし、この分類だけでは不十分です。芸術と市民の二項対立にはさらに細かな仕分けが必要です。

 

アポロン的とディオニュソス的 

マンの「芸術と市民」はニーチェの「アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの」を下敷きにしています。

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アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)

 


アポロンディオニュソスギリシャ神話に出てくる神様です。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。

 ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと

 

アポロン的=理性、明るい、善良

ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌

くらいのイメージです。

 

さらに、芸術に置き換えてみると

アポロン的芸術=彫刻、建築、絵画、叙事詩

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ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩

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となるそうです。

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説明長くなるので気になる人は下の記事をお読みください。

dangodango.hatenadiary.jp

さらに、ここからディオニュソス的芸術の中でアポロン的とディオニュソス的に分かれます。

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アポロン的芸術とディオニュソス的芸術

トーマス・マンの「芸術と市民」はこのニーチェの哲学を踏まえています。

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アポロン的芸術とディオニュソス的芸術、芸術と市民

「細かな仕分け」とは芸術の内部で芸術と市民が対立している、いわば入れ子構造のことを指しています。

 

登場人物の分類 

さきほどの登場人物表をもう一度出します。

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芸術グループと市民グループ

これを細かく仕分けすると

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芸術グループと市民グループ(詳細)

となります。

芸術グループの中に、芸術ー芸術グループと 芸術ー市民グループがあるわけです。トニオはどちらにも所属します。

 

芸術ー芸術グループ

ザ・芸術家タイプです。芸術の世界で生きています。情熱的で堕落しています。奔放的なトニオ母がそうです。市民への愛を語るトニオを「踏み迷える俗人」と笑った画家のリザベタも該当します。

 芸術ー市民グループ

芸術を嗜んでいますが、根っこは市民気質なタイプです。船上で会った詩を嗜む若い商人が該当します。直接出てきませんが、トニオの話に出てくる詩を披露した少尉もそうです。

 

 さらに、「芸術と市民、「アポロン的とディオニュソス的」の二項対立は全体構成にも及びます。

 

すべては「トニオ・クレーガー」になる

各章の特徴をざっくりまとめた表を思い起こしてください。Cパートは結論部なので省略します。

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各章の特徴

 「淡々とした文章、風景描写」で描かれるのは破風屋根の多い故郷やデンマークの街並みであったり、ハンス・ハンゼンの美しい容姿です。

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引用:https://www.hankyu-travel.com/heritage/germany/luebeck.php

アポロン的芸術の具体例は彫刻、絵画、叙事詩、建築です。

破風屋根の多い街並み、ということは建築です。アポロン的芸術です。ハンスの容姿は健康的で美しく、市民的です。

 

「陶酔的な文章、踊り、会話」で描かれるのはインゲの踊りを見て酔いしれるトニオの感情です。リザベタとの会話ではトニオはかなり饒舌です。

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ディオニュソス的芸術の具体例は音楽、舞踏、抒情詩です。

陶酔、饒舌はトニオの感情を表現したものです。抒情的です。踊りは言わずもがな舞踏です。

 

このことから二つの表を合体させます。

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「各章の特徴」と「芸術と市民」の合体

冗長で退屈な風景描写もちょっとくどい会話文も、芸術と市民を表現するために必要だったのですね。だから面白いという訳ではないのですが美しいです。

 

さらに、

ニーチェの哲学の項目で「ディオニュソス的芸術にはアポロン的とディオニュソス的が含まれる」と説明しました。

ディオニュソス的芸術の代表例は音楽です。

 

 音楽的構造の項目で「トニオ・クレーガー」は全体構成がソナタ形式となっていると説明しました。

当然、ソナタ形式=音楽です。

 

ここで、ソナタ形式の構成表も合体させると下の表になります。

 

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ソナタ形式、各章の特徴、アポロンディオニュソス的、芸術市民の合体表

「芸術と市民」という二元論と音楽的構造(ソナタ形式)はニーチェの哲学を通してつながっていました。

 

「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。それは「芸術の内部でも二項対立が発生している」入れ子構造の対立です。

 

「芸術と市民」は単なる二項対立ではありません。

トニオくんの外部と内部、両方の対立及び葛藤がそこにはあります。マンがソナタ形式を用いたのもこの複雑な関係を描くためでした。

 

つまり、「トニオ・クレーガー」の全体構成が主人公トニオ・クレーガーの精神そのものとなっていたのです。

 

だからこの小説のタイトルは「トニオ・クレーガー」以外ありえません。

 

主題

もちろん、この作品の主題は「芸術と市民」です。

しかし、そこには一筋縄ではいかない、矛盾した考え方が入り混じったものがあります。

 

結論部であるCパートの説明をします。

ここまで、「芸術と市民」という相反する二つの概念について述べてきました。二つのグループに属する人々は互いに交わることなく人生を歩んでいます。

 

では、トニオくんはどちらに属するのでしょうか。またどのように属しているのでしょうか。Cパートより抜粋します。

 

「僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。」

 

二つの世界とは「芸術と市民」のことです。

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芸術を愛し、市民を愛する。中間的、ニュートラルなポジションを取るのがトニオの生き方です。

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しかし、しょせんトニオくんは芸術家です。

何をどう言おうと詩を愛する芸術家です。だから芸術に属します。ハンスやインゲの市民とトニオの市民は決定的に違うものです。純粋に芸術と対立するものとしての「市民」と芸術の内部で生まれた「市民」。

 

つまり、トニオは純粋な市民ではありません。と同時に純粋な芸術家でもありません。彼の半分は芸術ー市民ですから。

 

これこそが「そのいずれにも安住しません」なのです。どんなにトニオが市民への愛を語っても、ハンスやインゲのようにはなれませんし理解もされません。

ちょっと切ないというか悲劇的ですね。

 

それでもトニオは「真の芸術家」であろうとします。二つの狭間でもがき、苦悩する道を選びます。「どっちつかずのハッキリしない奴だ」と陰口を叩かれるでしょう。辛い人生です。

 

しかし、彼の姿はどこか前向きです。

最後の文章を紹介しましょう。

 

「この愛を咎めないで下さい、リザベタさん。それはよき、実りゆたかな愛です。その中には憧憬があり憂鬱な羨望があり、そしてごくわずかの軽侮と、それから溢れるばかりの貞潔な浄福とがあるのです。」

 

日本への影響 

 戦前から戦後にかけてトーマス・マンは日本の作家たちに影響を与えてました。特に「トニオ・クレーガー」は文学青年の間で読まれていたそうです。背景にあるのは旧制高等学校のドイツ語教育です。構造的な作品の多いドイツ文学に触れたことが、戦後日本文学の隆盛に一役買いました。

ここでは「トニオ・クレーガー」を下敷きにした、影響を受けた作品をいくつか紹介します。

 

紹介するといっても私ではなく、fufufufujitani氏とyuki氏の読み解きです。

yomitoki2.blogspot.com

yomitoki2.blogspot.com

 

堀辰雄の「風立ちぬ」及び「美しい村」です。

それぞれ全体構成が

風立ちぬベルリオーズ幻想交響曲

美しい村:教会ソナタ

 

となっています。堀は多義的な言葉遣いをする作家です。多義的な言葉はとてもふわふわとしているというか、掴みどころがないので形式できっちり収めておかないと意味不明になります。(音楽と似てますね)

 

音楽の形式で小説を書く、という観点で堀は「トニオ・クレーガー」を参考にしました。

 

matome.naver.jp

太宰治の「富嶽百景」です。

全体構成がロンド形式になっています。

トニオ・クレーガーを読んで「なら自分はロンドで書こう」と思ったのでしょうか。

 

富士山を通して自己を見つめ直し魂の再生が描かれます。傑作です。

 

西欧人のマンは二元論大好きですが、東洋人の太宰が書く「富嶽百景」は自然と人間が一体となる一元論です。

 

この辺は考え方の違いですね。芸術と市民をうまく使いこなしてのらりくらりと生き延びたマンと「家庭の幸福は文学の敵だ」と言い自己破滅した太宰の違いです。

 

blog.livedoor.jp

最後に三島由紀夫です。

三島の多くの作品に共通するテーマとして「認識と行動」というものがあります。これはマンの「芸術と市民」を発展させたものです。

 

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芸術→市民(トニオ・クレーガー)

「トニオ・クレーガー」では芸術家トニオが市民側の人々を憧れの眼差しでもって、羨望の 眼差しでもって見つめている描写が多々あります。「眼差し」ですから目、つまり視覚です。

芸術家=見る者

市民=見られる者

という関係です。

 

三島はこの関係を応用しました。

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認識→行動(三島由紀夫

「芸術と市民」を「認識と行動」にすることで見る者は必ずしも芸術家である必要もなく、見られる者は必ずしも市民である必要はなくなりました。

その反面、認識→行動という関係性は一方通行になりました。なぜって行動→認識ではおかしいからです。行動が認識を見るって訳分かりませんがな。

 

しかし、マンの「芸術と市民」は芸術→市民の一方通行な関係ではありませんでした。

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芸術と市民(トーマス・マン

例えば、彼の処女長編「ブッデンブローク家の人びと」ではトーマス・ブッデンブロークが芸術家肌の妻ゼルダと息子ハンノを嫌悪しつつもどこか羨望の眼差しで見ています。

例えば、「ファウスト博士」では市民側のツァイトブロームの目線で作曲家レーヴァーキュンの生涯を振り返るという形式で物語が進みます。

 

これらは市民→芸術です。

マンの二元論が相互的なのに対し、三島の二元論は一方通行です。

 

この違いは二人の育った環境が関係しているのでしょう。

かつて商人が自治していたハンザ同盟の盟主リューベックに生まれ、保守的で昔ながらの良い市民を見て育ったマンと終戦後かつての文化を忘れ、消費社会へと迎合していく市民に幻滅した三島の決定的な違いです。

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もっともどちらが良い悪いではなく考え方が微妙にズレているだけです。二人とも偉大な作家であることに変わりありません。

 

他には北杜夫の「楡家の人びと」(これは名前からして「ブッデンブローク家の人びと」ですね)などたくさんあるので、興味のある方は読んでみてください。

 

翻訳について

余談ですが「踏み迷える俗人」の原文はverirrter Bürger。直訳すると、「道に迷った俗人」です。

「トニオ・クレーガー」は光文社も含めて翻訳いろいろあるのですが、一番良いのが実吉捷郎訳です。

 

訳者は明らかにソナタ形式に気づいています。「踏み」を加えることでB1の「踊り」との対応をより際立たせることを知っています(踊りはステップを”踏み”ますから)。マンの意図を読めています。

 

実吉捷郎は日本でのトーマス・マン受容の一番の功労者といっても過言ではないようです。

 

 出典

https://www.gettyimages.co.jp/

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia

太宰治 - Wikipedia

File:Wilhelm Gause Hofball in Wien.jpg - Wikimedia Commons

 

 

アポロン的なるものとディオニュソス的なるものについて

 

dangodango.hatenadiary.jp

 

 こちらの続きから

 

アポロン的とディオニュソス的」は1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。

 

どちらもギリシャ神話が元ネタで、アポロンは理性を象徴する神、ディオニュソスは陶酔を象徴する神です。

 

ここで、ニーチェの哲学をざっくりまとめてしまいますと

 アポロン的=理性、明るい、善良

ディオニュソス的=陶酔、情動、混沌

くらいのイメージです。

 

さらにここから

アポロン的芸術=彫刻、絵画、叙事詩

ディオニュソス的芸術=音楽、舞踏、抒情詩

 

ややこしいのがディオニュソス的芸術の中に「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」の対立があることです。

 

そもそも、ニーチェショーペンハウアーの影響を受けています。さらにショーペンハウアーはカントの影響を受けています。

 

カントといえば「物自体」という概念が有名です。物自体とは物の本質、人間が認識できない物そのものです(プラトン風に言うとイデア)。

 

哲学者たちはこの「物自体」を観察したくてたまらなかったのですが、観察できません。

 

それが物自体だからです。

(ここで「なぜ?」と聞いてはいけません。物自体は根拠を持たないからです。とにかくそういうものだと納得してください)

 

その物自体を「意志」だと言ったのがショーペンハウアーです。物自体とは意志である。そして物自体が現実世界に映し出す現象は表象である。この世界は目に見えない意志によってもたらされた表象によって形成される。「世界はわたしの表象である」

 

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例えば重力です。地球上にいる限り上から下にかかり続ける力です。

例えば植物です。植物はどこまでも太陽をめざして成長し続けます。

例えば人間です。脳や内臓は生きるために活動し続けます。今すぐ死にたいと願っても心臓が勝手に停止することはありません。脈を打ち続けます。

 

以上の例の共通点は「継続すること」です。それも「死ぬまで永遠に」です。意志とは無限に努力し続けます。意志が「これくらいやったからもうええやろ」と満足することはないのです。ショーペンハウアーはこれを苦痛だと考え、生きんとする意志の否定を説きました。

 

さらに意志をギリシャ神話になぞらえて「ディオニュソス的」と言ったのがニーチェです。ディオニュソス的=意志=物自体。物自体を表象として現実世界に表す原理、個別化の原理を「アポロン的」と呼びます。

(注:ディオニュソス的=意志なのでアポロン的=表象と考えてしまいますが、アポロン的=個別化の原理(物自体を具体的な表象にする原理)です)

 

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この世界は意志でできています。意志は物自体であり、無限に努力し続けるので混沌としています。つまり世界は混沌に包まれています。カオスです。

 

これを打開するために悟性でもって世界を理解しようとしたのがソクラテスです。ニーチェソクラテスを嫌悪します。悟性とは直観です。しかし、何度も述べている通りディオニュソス的なるものは目に見えません。

 

そして、アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、相反する二つの統合したとき悲劇が誕生する。ディオニュソス的なるものの中に、アポロン的とディオニュソス的が存在するわけです。

 

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筑摩書房の「悲劇の誕生」解説によれば

上の段のアポロン的=ディオニュソス的なるものの象徴的表現の原理

下の段のアポロン的=美的仮象の原理

となる。

 

上の段のアポロン的はディオニュソス的から生み出されたものです。やがてはディオニュソスなるものに統合されていくものです。

 

対して下の段のアポロン的はディオニュソス的と完全に対立するものです。

 

ディオニュソス的芸術の代表は音楽であるから、音楽はディオニュソス的なるものとアポロン的なるものの二つから成り立ちます。

 

「これだけでは分からない」という方は実際に読んでみるほかありません。ツァラストラと違って詩的な表現はないので頑張れば理解できるはずです。根性です。

 

読む順番としてはカント「純粋理性批判」→ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」→ニーチェ悲劇の誕生」です。

 

基本的に全員二元論で語っています。ドイツの哲学者は特にその傾向が強いようです。

私の京アニ史 その1

「というわけで京都アニメーションについて語っていく」

 

「唐突やな」

 

「いつものことだし慣れたやろ」

 

「語るはいいが、なぜ京アニなのか」

 

「まあなんだ、思うところがあんねん」

 

「左様か」

 

「今回は『私の京アニ史』と銘打って、今まで見てきた京アニ作品を感想や個人的な思い出を交えながら振り返っていく」

 

「ええんやないの」

 

「そしてここがミソなのだが、紹介する順番は『作品の発表年順』ではなく『視聴順、見てきた順』で行う。こうすることでアニメ語りと自分語りを同時並行でやれるっちゅう寸法や」

 

「はあ」

 

「記憶とともに京アニを振り返る。あの頃に想いを馳せる。よみがえったほろ苦さに胸が痛む。なんともセンチメンタルではありゃせんか」

 

「お前の過去なんて大して興味ないけどな」

 

「冷めてるな」

 

「そうか」

 

「せやで」

 

「趣旨は分かったが、数はどのくらいなんや?さすがに全作品は付き合いきれんで」

 

「2期や映画版も1期と同一作品にして勘定すると、ざっと16やな」

 

「そこそこ見てるかな、くらいか」

 

「せやな」

 

「では、そろそろ始めてくれ」

 

www.kyotoanimation.co.jp

 

 

1.らき☆すた

 

「栄えある京アニデビューは『らき☆すた』でした」

 

「妥当やな」

 

Kanonとかハルヒとかは深夜アニメに開眼してからで最初はこれやね。もっとも京アニという名前すら知らなかった頃だが」

 

「冒険の旅に出るわけでも王子様と恋愛をするわけでもなく、ひたすら女子高生がだらだらおしゃべりをして30分が終わる。まさにカルチャーショックやったな」

 

「日常だからどうしても絵がだれる。普通にやると飽きる。そこを軽妙な会話としっくりくるBGMでカバーしておる」

 

「試しに画面を見ずに耳だけで鑑賞しても楽しめるかもしれん」

 

「教室の窓から見えるグラウンドや下校中の街並みといった風景も味があってよろしかった」

 

「OPは今振り返ると、ちょっと恥ずかしいな」

 

「そうなんか」

 

「背筋がゾクゾクするというか思わず画面から目を反らしてしまう」

 

共感性羞恥か」

 

「そうとも言う」

 

「しかしだな、あの当時あれが流行ったという事実を避けて、過去から目を背けて、果たして君の京アニ史というもんはできるのかね」

 

「それはそうやな」

 

「せやろ」

 

「まあ特に個人的なエピソードは無いんやけどね」

 

「なんやねん」

 

「家族でテレビ見てるときに、OP映像が流れて時間が止まったくらい」

 

「誰しもが通る道である」

 

2.日常

 

「続いてはこれ」

 

「意外というか、いきなり飛びすぎやろ」

 

「あの頃は忙しかったり、他に興味があったりしたんや。オタクと言えるほどアニメ好きでもなかったし」

 

「背中にネジついた少女が曲がり角で大爆発した第一話見て目を丸くしたのを覚えとる。あんな美麗な作画を、あんなくだらないことに使ってるのが可笑しくて仕方なかった。原作コミックも買ってしまったわ」

 

「一番心惹かれたのはエピソードの間にある定点映像で、生活音しか聞こえん謎の数十秒間は、えも言われぬ快感やったわ」

 

「案の定、ネットでは尺稼ぎだと叩かれていたな」

 

「無念」

 

「そういや「日常」ウィキペディアでこんなのを見つけたのだが」

 

ja.wikipedia.org

 

「ジャンルがポストモダンギャグになっているな」

 

「シュールなら分かるが、ポストモダンギャグってなんやねん」

 

「意味不明である」

 

「今回はここまで」

 

「なんや、これだけかいな」

 

「期待しとるやつは、追々出てくるから待っとって」

 

「左様か」

 

「こんな感じのシリーズを年末年始にかけて、更新していくつもりですので」

 

「何卒よしなに」

 

「していただければと」

 

「それでは」

 

「ご機嫌よう」

 

dangodango.hatenadiary.jp