週休二日〜アニメと文学の分析〜

ネタバレあり。一緒に読み解いてくれる方募集中です。詳しくは→https://yomitoki2.blogspot.com/p/2-510-3010031003010013.html Twitter→@bunbunbun_245

オランウータンの尻子玉

先日、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」を読んだ。密室殺人を題材にした世界初の推理小説とのこと。

黒猫/モルグ街の殺人事件 (岩波文庫 赤 306-1)

黒猫/モルグ街の殺人事件 (岩波文庫 赤 306-1)

 

 

読んでみると普通に楽しい。

 

ただ、冒頭の「分析能力が〜」という謎の能書きが気になった。ちょっと長ったらしい。チェスの話まで脱線するし。書く必要あったのか。

 

さらに文中に「上手というのは、通常構成的ないし統合的能力の現れで、〜」とある。

 

展開としては、その後に事件が発生し、殺人現場の様子やら近くにいた人の証言が述べられる。

 

恐らく、これらの断片情報を分析・抽出し、統合することで犯人を導き出すという流れが冒頭で暗示されているのだろう。

 

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コンラッドの「闇の奥」である。

 

「モルグ街」は1841年、「闇の奥」は1899年。(ちなみにシャーロック・ホームズが初登場した「緋色の研究」は1887年)

 

fufufufujitaniさんが指摘するように「闇の奥」の登場人物統合戦略は「モルグ街」から来ていると思われる。

 

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引用:https://matome.naver.jp/odai/2146672550733801101

モルグ街では登場人物の証言や状況証拠といった断片情報を統合して、犯人のオランウータンにたどり着く。

 

闇の奥では行く先々で出会う登場人物の特徴が統合して、人類の厄災であるクルツにたどり着く。

 

クルツの身長は2メートルくらいある。オランウータンはそこまで大きくないが、似てなくもない。クルツ=オランウータン

 

インド諸島の奥地にいたオランウータンを連れてきたのは船乗りで、闇の奥の語り手マーロウも船乗りである。コンラッドが下敷きにした、とまでいかなくともアイデアのヒントにはしたと考えられる。

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そして「グレート・ギャツビー」である。

 

グレート・ギャツビーは闇の奥の後継作品で、主人公の人格がクルツ同様、他の登場人物たちの人格を統合したものになっている。

 

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引用:https://matome.naver.jp/odai/2151906038411081501/2151906912812579003

さらには、作品自体が過去の文芸作品をいくつも下敷きにして統合されたものである、という二重の意味で統合戦略がなされている。

 

先ほどのNAVERまとめによると名作5本分の統合になっている。どうもこれに「モルグ街の殺人」も下敷きの一つに加えて、6本になりそうだ。

 

グレート・ギャツビーでも殺人が起きる。デイジーがマートルを轢いてギャツビーと一緒に逃げる。そのギャツビーも最後に死体となっている。誰が殺したのかは断定できない。

 

そもそもこの小説自体、語り手ニックの視点から曖昧な断片情報しか出てこないので犯人が特定できない。ホームズもいないのでどうしようもない。

 

フィッツジェラルドのことだからもっと分析すれば元ネタがまだまだ出てくるかもしれない。

 

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モルグ街、闇の奥、グレートギャツビー比較表

 

なんでこんな話をしているかというと、放送中の「さらざんまい」も元ネタがたくさんあるアニメだからである。

 

輪るピングドラム」の解説やった時、幾原監督は宮沢賢治に似てると思ったのだが、下敷きをいくつも重ねたがる感じフィッツジェラルドに似てなくもない。

 

(ウテナもオマージュいっぱいあると思うのですが確信がありません。幾原マニアの方どうでしょうか)

 

そして賢治とフィッツジェラルドは同い年なのが面白い。単なる偶然か、それとも村上春樹さん経由で間接的に似てる、という可能性も考えられる。

 

「さらざんまい」も芥川の「河童」をはじめ下敷きが何枚も出てくる。まあ下敷き何枚も重ねてるから凄い!というとそういう訳じゃないのだが、その辺は最後まで見て判断する。

 

 <参考>

matome.naver.jp

熱心なサラザンマーは絶対に読むべし

 

 

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 こちらは「ピングドラム」です。

 

飽和するアニメ

「暇なのでアニメについて話していこうかなと」

 

「唐突やな」

 

「別にええやろ」

 

「ええけど」

 

「今期で一番面白いと思ったのは『かぐや様は告らせたい』」

 

「その心は」

 

「頭空っぽで楽しめるから」

 

「それは貶してるんとちゃうんか」

 

「いや褒めてる。シンプルなのがええねん。最近の作品はどうも難しいことをやろうとしたり、テーマを詰め込みすぎてパンクしている作品が多いような気がしてならん」

 

「だけど難しいことやらんと人々を感動させることなんてできないやろ」

 

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引用:http://chemistry1.juniorhighschool-science.net/solution/solubility.php

「これはなんぞ」

 

「溶解度のグラフや。理科の実験で水に食塩やミョウバン入れたり、中学校で習わんかったか」

 

「それは分かっとる。これがどうアニメと関係あるんや」

 

「アニメがパンクしているのを例えるなら飽和している状態のことで、つまり一定量の水に対して色々なものをどかどか入れすぎてるのでは、ということや」

 

「水を増やせばええやん」

 

「水を増やす=話数を増やすということなんやが、深夜アニメは基本1クール12話で2クールやらしてくれることはそうそうない」

 

「じゃあグラフにあるように加熱して水の温度を上げればええやん」

 

「水を沸騰させる=物語のボルテージを上げるということなんやが、作画や脚本にどれだけ力を注いでも、いまいち盛り上がらなかったアニメが数多存在することを考えると並大抵の作業ではないと思われる」

 

「ちょっと前にやってた『色づく世界の明日から』が典型的やな」

 

「映像も音楽もキャラクターも良いのに、内容詰め込みすぎて飽和しとった」

 

「12話で魔法やら過去のトラウマやら人間関係やらを描くのは無理がある」

 

「本当は2クールでやる予定だったのに1クールになってしまった、というウワサもあるそうな」

 

「世知辛いな」

 

「絵がきれいなだけにもったいない気持ちになる」

 

「こういう例は過去にもあったようで」

 

「はるか昔にワーグナーの『ニーベルングの指環』という15時間くらいあるオペラがそれに当たる」

 

「ゲルマン伝説、宗教、貨幣など内容を盛り込みすぎたのが原因やな」

 

「こちらの解説に詳しく書かれている」

 

matome.naver.jp

 

「あとはこんな例もある」

 

 

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引用:https://exam.fukuumedia.com/rika1-12/

 

「これはなんぞ」

 

「再結晶や。グラフの通り、加熱した水溶液を冷やすとその分だけ溶けてた物質が析出するんや」

 

「だから、それのどこがアニメと関係あるんや」

 

「さんざん大風呂敷を広げておいて、最後間に合わんくて畳みきれなかったみたいなアニメあるやろ」

 

「おう」

 

「極限まで高まった物語のボルテージが最後の最後でイマイチな終わり方をさせられると急激に冷めるんや。そして飽和する。この現象を再結晶に例えた」

 

「具体的にはAngel Beats!とかか」

 

「あれも面白いんだけどな」

 

「あの作品はノスタルジックかつエキサイティングな演出で、緻密な脚本と少年少女がイデオロギーに対して絶妙にドラマツルギーで…」

 

「何を言うとるんや」

 

「こう書くとなんか偉いこと言ってる風に見えるやん」

 

「カタカナ言葉並べてるだけで大したこと言うてないやろ」

 

「せやで」

 

「冗談はさておき、やはり安パイでいくなら溶かす物質の量を減らす=内容を詰め込みすぎないに限る」

 

「なんか寂しい結論になったな」

 

「そうか。現に『かぐや様』は内容こそ薄いが、キャラクターの喜怒哀楽やらちょっとした掛け合いやらが面白くて人気が出てる」

 

「物語の余白を楽しむというか、ある程度余裕があるアニメを見たいという気持ちは分かるな」

 

「あと出てくる女の子が可愛い」

 

「...」

 

「なんや」

 

「いや...そういうところはオタクなんやなと」

 

「ほっとけ」

 

「オタクはほっといて、テレビアニメは構成よりキャラ重視なのは『青ブタ』を見て分かったしな」

 

 

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「アニメはキャラ戦略が命やな」

 

「せやな」

 

「ごちゃごちゃ言ってきたが、今回伝えたかったのは、作品作るうえで大切なんは盛り込めるテーマの溶解度(限界値)をわきまえることで、『無理なもんは無理』と開き直る精神が大切っちゅうことや」

 

「分かっててもそれができない実情もあるわけなんだが」

 

「それに関しては、どうにもならん」

 

「冷たいな」

 

「しゃーない」

 

「言いたいことは大体終わったけど、なんかあるか?」

 

「他に気になったアニメは?」

 

「『夜は短し歩けよ乙女』というのを見た。湯浅監督はデビルマンのリメイクで知ってたけど、思ったよりもファンタジーだった。ちょっと演出のやりすぎでヤク中の幻覚かなと思った箇所もあったけど、ドタバタ感が大学生っぽくて面白かった」

 

Twitterでは『どろろ』と『モブサイコ』が人気みたいやけど」

 

「見てない。漫画読んだしええかなと」

 

「適当やな」

 

「他は?」

 

「展開予想はせんのか?」

 

「やろうと思ったけどめんどくさくなったからやめた。次やります」

 

「なまけもんが」

 

「やる気が出なかったからしゃーない」

 

「という感じで」

 

「今回はこの辺で」

 

「さようなら」

 

 

 

 

 

 

 

SAOについて

分析は面倒なのでやらない。感想だけ置いておく。

 

SAOというアニメがある。ゲームの世界で主人公が剣で戦うのだが、中二病全開で正直痛い。十代向け作品。大人になってから見るもんじゃない。

 

でも、凄い人気で4クールでアニメやってる。この作品が人気だと聞いて、「やはり日本人の特攻精神は不滅なんだな」と思った。

 

SAOのキリトくんは日本文化特有の「死ぬために戦う」キャラ。真田幸村とか特攻隊の末裔である。剣の腕は最強。でも戦術は凄くても戦略がない。チームプレーができないから敵の集団に一人で戦う。個人戦術が凄いので勝てるが、最後は自分を庇ったアスナを死なせてしまう。この辺はるろうに剣心に似てる。美しいけど、もう少しスマートに戦えた気もする。

 

もっと言うと日本軍に似てる。一人一人の兵隊の質は高かったのに戦略が無くて戦争負けた。キリトくんが一人で無双するのはカッコいいがスマートではない。もっとも劇場版辺りからチームプレーするようになったが。

 

アインクラッドの最初のボス戦でリーダー的存在が無茶な突撃して死ぬ。彼はこのゲームのβ版をやっていた。つまりゲームについての知識が他の人よりもあった。それなのに何もしなかった。当然、知識のない人は死んでいく。そのことに責任を感じていた。死んでいった人たちに申し訳なく思っていた。

 

その償いとして死ぬ。死んで楽になろうとする。まさに「死ぬために戦う」である。もっとも死んだところで事態は解決しない。キリトくんが「うおおおおお!!」となるだけである。

 

そして彼と同じ十字架をキリトくんも背負ってる。

 

彼はあるギルドに加入する。ゲーム内のレベルが低い人たちだったので、気を遣って自分のレベルは隠していた。しかしこれが原因でギルドは全滅してしまう。戦犯である。忖度した結果が部隊の全滅。まさに大日本帝国陸軍

 

適切な進言ができる職場環境じゃなかったばかりに何万人の兵士が命を落としたか。気づいていても言い出せないあたりが日本の組織のダメな感じする。

 

対照的なのが黒幕の茅場晶彦。彼には戦略がある。自分の死んだ後の世界のことを考えて行動している。もちろん多くの人々を死なせた悪い奴だが、現に彼のフルダイブ技術で救われた命もある。SAOの美点は茅場を完全な悪者にしなかったことである。剣振り回して「カッケー!!!」ではない。

 

そういえば彼はゲーム内でも血盟騎士団というギルドを組織しており信頼も厚かった。騎士団の中には悪い奴もいたが集団を組織して敵と戦う点ではキリトくんより戦略がある。

 

彼の事業は菊岡さんや後輩たちに受け継がれる。キリトくんも意識している。自分には無いものがあるから。茅場は自殺こそするが、その後もバーチャル空間漂ってるし、戦略的撤退と言った方が良さそう。

 

個人的には菊岡さんたちの出番をもっと増やして欲しい。まあそんな見込みは無さそうではある。

 

アリシゼーションは訳わかんなくなってるが、バカに出来ない作品である。今、キリトくんに夢中になってる十代の若者が大人になって茅場たちの良さに気づけたら、それだけでもこの作品の意義があると思う。

 

「死を覚悟して戦うキリトさんカッコいい!!」だと元も子もないが。

 

昔は「死なないゲームなんてぬるすぎるぜ」とか抜かしてた奴が「戦うんじゃない。勝つんだ」と言うようになってるので、人間成長するもんだなーと思ってる。

 

 

 

 

小林秀雄と中二病

文芸評論家の小林秀雄がこんなことを言っていた。

 

若い人々から、何を読んだらいいかと訊かれると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。(中略)すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他に何も読む必要はない、だまされたと思って「戦争と平和」を読み給えと僕は答える。だが嘗て僕の忠告を実行してくれた人がない。実に悲しむべきことである。(中略)途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものにまず触れて十分に驚くことだけが大事である。

              (引用:「トルストイを読みたまえ」)

 

なぜトルストイなのかに関しては答えていない。あいまいな文章である。自分で考えろということか。トルストイとはどんな作家だったのか、戦争と平和で何を伝えたかったのか。この部分について考えなければ、なんの意味も持たないアドバイスである。

 

また、彼はこんなことも言っていた。

 

             

1、「つねに第一流作品のみを読め」  

「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。」

 

2、「一流作品は例外なく難解なものと知れ」

「一流作品は(中略)少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。」

 

3、「一流作品の影響を恐れるな」

「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない」

 

4、「もしある名作家を択んだら彼の全集を読め」

「そして私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」

 

5、「小説を小説だと思って読むな」

「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」         (引用:「作家志願者への助言」)

 

 

1~3については特になし。

 

気になるのは4と5である。

 

「彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」

 

その作家が何を書き、何を書かなかったのかを知れということである。読書をする上で、「何が書いてあるか」に焦点が集まりやすいが、「何を書いていないか」に注目することでより理解が深まる。

 

逆に言えば、このポイントさえ掴んでいれば別に全集を読む必要はない。あんな重いもの持ち運べるか。

 

5についてさらに詳しく引用する。

 

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。(中略)文学に何んら患わされない眼で世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。

(引用:「作家志願者への助言」)

 

 

読書家に陥りがちな現象で、好きな作家に酔いしれるあまり言動を真似したり、わざと古風な文体を使ってしまう人々がいる。中二病の一種である。

 

彼らは往々にして、難解な作家を好む。しかしながら中身は読んでいない。作家の権威を利用して自分を装飾してばかりいる。「トーマス・マンを読んでいる自分が凄い」「三島由紀夫を読んでる自分が凄い」「黒澤明を見てる自分が凄い」

 

作家の何が凄いのかという理由については、ちょっと難しい言葉を使いながら抽象的にあやふやに語ってごまかす。答えられるはずがない。中身を読んでいないのだから。

 

では、小林秀雄は?

 

昔、彼の文章を一回読んだことがある。とにかく難解な言い回しで、曖昧模糊な言葉をこねくり回していた印象だった。はっきり言って嫌いである。小説ならともかく評論の文章ではなかった。しかし、偉い学者は「小林は素晴らしい」と絶賛する。数年前のセンター試験に出て話題にもなった。いまだに彼の権威が存続している証拠である。

 

小林が言っていた通り、一流の文学は難解なものである。それが批評されることで、さらに難解になる。一般読者からすればたまったもんじゃない。

 

ただ当時の文学青年はそのような文章に熱狂したそうで、いつしか小林は「知の巨人」と呼ばれるようになった。彼らのうち何人かは文芸評論家になり批評を書く。

 

かつて小林に熱狂していた青年はどんな批評を書くだろうか。当然、憧れの人物の文体を真似るであろう。小難しく、装飾過剰な文章を。

 

「作家志願者への助言」を読んで思ったのが「お前が言うんじゃねーよ」だった。「文学を志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議が起こる」

 

不思議も何も小林自身の文章が招いた結果である。(全部とは言わないが)

 

ともかく、小林秀雄を崇拝する中二病のせいで文芸評論は小難しくなってしまった。中身は空っぽだが外面はやたら豪華な文章が量産された。彼らは憧れの知の巨人の真似ができて大満足だろう。被害を受けたのは後世の我々である。

 

中二病も青年のうちなら可愛いものだが、大人になっても引きずると重症化する。

 

「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」

 

素晴らしいお言葉である。

文学と方程式

以下は仮説である。

 

通常、物語は一つの主題に沿って描かれる。

 

一つの主題は一つの文化に基づいているとする。

 

作者が日本人なら日本の文化に基づいた主題を、ロシア人ならロシアの文化に基づいた主題を選ぶことが多い。

 

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数学で例えるなら一次方程式である。シンプルで解きやすい。だけど、ちょっと物足りない。世界中に存在する多くの作品がここに該当する。

 

そこに天才が現れる。天才は二つの主題、つまり二つの異なる文化を合体させることに成功する。

 

ダンテの神曲ゲーテファウストがこれに当たる。日本文学も大変苦労しながら西洋文化と日本文化を融合させた。

 

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 二次方程式である。解が二つある。これが二つの文化を表している。

 

ただし、解がちょっと汚い。美しくないのである。あと計算も大変である。

 

そこに超天才が現れる。

 

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係数を上手くいじって綺麗な解を出せました。これなら簡単に計算できる。さっきの方程式よりも分かりやすく、一般的である。

 

この超天才の名前はドストエフスキー。作品はカラマーゾフの兄弟

 

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では、三次方程式はどうか。

 

 

 

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引用:http://www.wolframalpha.com/input/?i=ax^3%2Bbx^2%2Bcx%2Bd%3D0


ご覧の通り、解の公式も半端なく長い。

 

三つの異なる文化のドッキング。このかつてない難題に挑んだ作家はいるのだろうか。

 

あるとすれば相当な大長編で、難解だと思われる。係数を綺麗に揃えるどころか一生のうちに完成することすら危うい。

 

一つだけ心当たりがある。

 

プルースト失われた時を求めてがそうなのではないか。そう考えると、あれほど長い理由も納得がいく。三次方程式なのだから長くなって当然である。

 

果たしてプルーストは成功したのだろうか。読んでる途中なのでまだ何も言うことができない。

 

ただ成功していたら、次は四次方程式だ!となるのが人間である。失われた時を求めて以降、四つの異なる文化のドッキングなんて作品は生まれていないはず。

 

つまり、三次方程式は無理だったということになる。

 

文学の世界では二次方程式までが限界で、それを証明してくれたプルーストは偉大である。自分の一生をかけて「無理だということ」を発見したのだから。

 

あくまで仮説なので読んでみにゃ分からないのだが、本当にめんどくさい。

 

 

トーマス・マン実吉捷郎訳について

 

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以前、トニオ・クレーゲルの解説にて実吉訳の素晴らしさについて触れた。

 

原文通りなら「道に迷える俗人」と訳すところを「踏み迷える俗人」としたところがポイントで、この翻訳はソナタ形式を意識した上でとても重要なものであった。

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B(第2主題)では「踊り」が対応していて、「道に迷った俗人」だとイマイチ伝わりにくい。「踏み迷える俗人」だと踊りのニュアンスが伝わりやすい。

 

これが単なる訳者の思いつきか、構造を意識してのものだったかについては判断を保留していた。

 

今回はそのことについて述べる。

 

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dangodango.hatenadiary.jp

 ちなみに「ヴェネツィアに死す」の解説で用いたのは岸訳である。

 

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上の表は「ヴェネツィアに死す」の構造を読む上でポイントとなる箇所を比較した表である。比べるのは岸訳である。

 

なお、実吉訳も光文社岸訳も決して誤訳ではない、という前提で話を進める。

 

第1章では「葬送行進曲」がポイントである。実吉訳では「墓地」が繰り返し文章に出てくるのに対し、岸訳では意図的に「墓地」という単語を省いている箇所がある。葬送行進曲をイメージする上では「墓地」を強調したほうが良い。

 

第2章と第3章に関しては特になし。

 

第4章はアダージェット、愛の楽章である。つまり「愛」がポイントである。実吉訳では「愛情」という単語を使うのに対し、岸訳は「恋い焦がれ」となっている。恋ではなく愛情のほうがアダージェットであることに気が付きやすい。

 

実吉訳では「愛の童神」、岸訳では「キューピッド」も同様に実吉訳のほうが伝わりやすい。

 

第5章では実吉訳は「美女」に対し、岸訳は「美」だけになっている。ヴァネツィアは水の象徴であり、女性の象徴であることも踏まえると実吉訳のほうが理解しやすい。

 

途中で主人公が見る夢はワルプルギスの夜に対応している。

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実吉訳では「供物の祭典」、岸訳では「乱痴気騒ぎ」と表現される。これに関しては岸訳のほうがワルプルギスをイメージしやすい。

 

ラストの場面、海岸にいるタッジオと主人公。実吉訳では「見守る」、岸訳では「眺める」

 

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第5章はソナタ形式になっている。提示部と展開部の主題が「後を追う」、「ストーキングする」であることを踏まえると「見守る」のほうがやや適切である。

 

以上の点から光文社岸訳より実吉訳のほうが、構造を読むという点で優れていることが分かる。

 

もちろん、実吉訳はただ直訳しただけで岸訳は現代風に言い換えたばかりにマンの意図から外れた、という可能性も捨てきれなくはない。

 

しかし、トニオ・クレーゲルでの「踏み迷える俗人」という訳から考えても、実吉捷郎は構造を読める人間だったと考えるのが自然である。

 

また、岸訳は無駄を省いて現代人でも読みやすい訳文になっているが、実吉訳は直訳風で硬く、言い回しが古い。

 

どちらの翻訳も長所、短所があるが、構造を読むという点から実吉訳で読むことを強くオススメする。

 

海外文学において、読者が内容を理解できるかは訳者の理解に強く依存する。訳者が内容を理解できていなければ、読者が理解するのは困難を極める。

 

そういった点で、実吉捷郎の翻訳は特筆に値する。

 

ちなみにブッデンブローク家の人びとと魔の山については実吉訳を見つけられなかったので比較を断念した。

 

 

 

輪るピングドラムの余談

 

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頑張ってシンプルに説明したつもりである。

 

銀河鉄道の夜」は賢治なりに頑張って全編対句しようとした作品である。その作業が大変すぎて完成できなかったが。

 

幾原監督も恐らくそのことに気づいている。気づいているがアニメでそれをやるのは無謀と判断したと勝手に妄想している。

 

 村上春樹の影響があるかどうかは判断しかねる。もっと分析すれば分かるかもしれないが、もう疲れたのでやらない。気になる人は各自でお願いする。「生存戦略」の意味はそのうち考える。

 

キリスト教といえば近代日本文学は西洋文化の消化、すなわちキリスト教を吸収する闘いだったともいえる。

 

漱石は神経衰弱になって胃に穴が開いたが西洋文化の正体分からなかった。芥川はキリスト教なんじゃないかと推測までしたが自殺、賢治はキリスト教の中心にある三位一体教義を理解したが過労で倒れる。「銀河鉄道の夜」は未完成。戦後になって太宰と三島が挑んだ。そして二人とも自殺。

 

彼ら以外にも挑んだ作家はたくさんいるだろう。そして闘いでボロボロになって死んでいった。文化と文化を消化する作業は想像を絶するほど大変なのだ。

 

輪るピングドラム」は彼らの屍の上に成り立っている。

 

つまり「ピングドラム」をこうやって鑑賞できるのは彼らの自己犠牲のおかげである。彼らはこのアニメを見てなんと思うだろうか。

 

私が知らないだけで他にもキリスト教を取り扱ったアニメはある。テクノロジーの進歩によって現代の主役は文芸からアニメへ移り変わったわけだが、これは別に悲しむことではない。

 

現代文学にも優れた才能はいる。ただ、アニメの理解度の高さが半端ないのだ。

 

「漫画アニメなんぞより文学のほうが優れている」なんて言ったら恥をかく時代になった。