週休二日〜アニメと文学の分析〜

ネタバレあり。一緒に読み解いてくれる方募集中です。詳しくは→https://yomitoki2.blogspot.com/p/2-510-3010031003010013.html Twitter→@bunbunbun_245

読書論 その1〜量であるか質であるか〜

「作家志望は1000冊読んでスタートライン」

「マイナーかつ難解な作品を読んでこそ教養人」

 

今も昔も読書家は読んだ本の冊数で競争し、読破したタイトルのマニアックさで自己を顕示します。普段は理性的なこと言っている人でも、読書になると急に根性論です。かくいう私も中学時代、読んだ冊数を同級生に自慢し、漱石ドストエフスキーのラベルを見せびらかして大威張りしてました。好きな作家はと聞かれて「ゴーゴリ」と答えたこともあります。恥ずかしい。死にたい。何が死にたいってゴーゴリは全然マイナーではないからです。

 

話戻しまして、「読書は量なのか質なのか」という永遠のテーマがあります。「量も質も大事だろ!」という意見はあまりにも自明なので話になりません。そこから議論が生まれないので一旦無視します。中庸と日和見紙一重です。

 

多くのインテリ、特に創作している人々は口を揃えて量であると答えます。とにかく読めと。息つく暇なく読め。余計なことを考えずに読め。1000冊読め。こう主張します。

 

これには賛成です。ただし、条件付きです。

条件とは「成人前までなら」です。

 

若い頃にどれだけ読み込んでも、古典の奥深さを感じ取るのは難しいです。あらすじ把握で精一杯というのが本音です。読み終わって数十年後、ようやくその価値を知ることになる。大半がそんなものです。

 

だから若いうちはたくさん読むのです。時間は膨大にあるはずです。部活動や宿題に追われているかもしれませんが、社会人のそれと比べたら大したことありません。できれば、ジャンルを問わず満遍なく読むのです。現代文学ライトノベル近代文学、古典、SF、ホラー、科学書、歴史書などなど。そのうちハマるジャンルが出てきます。好奇心の赴くまま、存分に読み漁ってください。

 

しばらくしたら、お腹いっぱいになって飽きてくると思います。そうしたらまた幅広くジャンルを漁って、好きなものを見つける。これを繰り返します。今回は読書論なのであまり触れませんが、実写映画やアニメも鑑賞するべきです。

 

いわゆる「濫読」です。後世に名を残した作家も若い頃はとにかく濫読してます。古典から流行りの大衆小説まで、やたらめったら読んでます。身体の成長期と一緒で、とにかく食らいまくることが大切なのでしょう。

1、「つねに第一流作品のみを読め」  

「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。」

 

2、「一流作品は例外なく難解なものと知れ」

「一流作品は(中略)少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。」

 

3、「一流作品の影響を恐れるな」

「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない」

 

4、「もしある名作家を択んだら彼の全集を読め」

「そして私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」

 

5、「小説を小説だと思って読むな」

「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」         (引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

 

小林秀雄曰く、「全集を読め」だそうです。確かに、全集を読むとその作家がどういうプロセスを経て傑作を生むに至ったかが分かるし、どんな偉大な作家でも駄作を書くことが分かるのでオススメです。あと作家の書簡なんかも読めるので、ゴシップ感覚で面白いです。(個人的に芥川のラブレターがツボでした)しかし、いかんせんハードルが高い。

 

 漱石全集で全10巻あります。かなり長いです。これでもマシな方で海外の作家は大長編を書く人が多いので、もっと悲惨です。自分はトーマス・マンの記事を書いているときに彼の全集を覗いたことがありますが、悲惨すぎて手に取る気さえ起きませんでした。そのくらい長いです。まあ作家志望者が読めばいいだけで、そうでないなら読む必要ないでしょう。駄作読むのは結構つらいですよ。

 

自分は中学時代に月100冊読んだことがあります。と言っても長編はほとんど避けて、短編集や漫画を中心に攻めたり、最後の方は時間が無いので通販カタログや映画のフリーペーパーもカウントしていたりなので、かなり曰く付きなのですが、なんとかやり遂げました。おかげで読む体力が付きましたし、達成感が得られたので読書が好きになりました。長編読んでて挫折しそうになっても「自分は月に100冊読んだのだぞ」と思えば、読む気力が湧いてきます。こういう経験があるだけで全然違ってきます。自信がついて挫折率がぐっと下がるのです。

 

若い頃に量をこなすのはかなり苦行ですが大人になって振り返ってみると、なんと幸せな時代だったのだろうと悟ります。十代の妄想力というのは半端ないですから。ただ読んでいるだけで、物語世界に入り込める、どこまでも行ける。かけがえのない時間です。

 

やがて成長して大人になると、妄想力も衰え、労働が始まります。読書に割ける時間も減ります。読む体力も衰えます。新興ジャンルに手を伸ばすのが億劫になります。漫画やライトノベルは継続しているシリーズの新作に手を出すのが精一杯になります。要するに、脳みそが保守化してしまいます。

 

自分も若い時は信じられませんでしたが、実際そうなっていて驚いています。若者の良いところはは後先考えないことですが、我々は後先考えてしまうので読書にフルコミットできません。休日はあるのに雑事に追われて気がついたら、日が暮れています。

 

そして、ここからが本題なのですが、そういう状況で読書量をこなすことができますか?毎日働いて疲労している状態で、一体何ページ読めますか?月に100冊はおろか10冊も厳しいのではありませんか?仮に数こなせたとしても、テキストの内容をどれだけ咀嚼できますか?どうして読書に対する方法論が子供のときのままなのですか?

 

量をこなすことが難しい状況で「読書は量をこなさいといけない」という価値観に囚われるのはキツいです。歳をとって肉体も精神も成熟するのですから、当然読書に対する姿勢、価値観もそれに合わせて変化させなければなりません。量から質へと変化させるのです。

 

ここまで時間的、現実的な問題から「読書は量」論を否定的に述べましたが、「読書は量」という価値観には大きなデメリットがあります。

 

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。(中略)文学に何んら患わされない眼で世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。

(引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

これは文学志望者へ向けられた言葉であるが創作を志していない人々にも通じる話です。

 

そして、「読書は量」という価値観こそが「知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされ」る元凶である、と私は主張します。

 

具体的にはどのようなことなのか。

 

次回はそれについて説明します。

 

 

 

 

 

読み解き物語 その4

2020年1月

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ダンテ「神曲」の解説記事を作成し始める。「神曲」は「魔の山」の下敷きにある作品で、読解には欠かせない。なので先に「神曲」の解説記事を作る必要があった。

 

「なんで先に読み解く必要があるのか?」というとその方が美しいからである。例えばfufufufujitani氏はゲーテファウスト」を読み解くに当たって先に「ヨブ記」とシェイクスピア「夏の夜の夢」の解説記事を書いている。さらに、その後ドストエフスキー「悪霊」を読み解く。

note.com

氏のニーベルングの指環作品群研究も、体系的に読み解く手法の賜物である。

note.com

「下敷き作品から順序立てて読み解く」というのは単なる美学であって義務ではない。作業量は増えるので挫折率も上がる。現に「神曲」の元となった一部で言われているイスラームの「階段の書」には手をつけなかった。日本語訳がなく、海外から取り寄せないといけなかったというのもあるが。

 

 それにしても「神曲」という邦題は本当にこれで良かったのかとかなり考えた。恐らく多くのダンテ研究者も疑問に思っているはずである。思っていながら鴎外に遠慮しているのはいかがなのか。

 

2020年2月

活動実績特になし。

生活に追われながら読み解き進める。思ったより「神曲」が重くて後悔した。「魔の山」に直接関係あるのは煉獄篇だけなので、それ単体の記事でもよいかと魔がさした。

 

新型コロナウイルスの話題が上り始めたのはこのころであった。

 

新たな同志としてnagi氏が参加してくださった。

naginagi8874.hatenablog.com

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nagi氏は主に宮沢賢治を読み解いている。自分は「注文」をやって以来、ほとんど放棄していたのでありがたいことであった。

 

2020年3月

 

新型コロナウイルスによるパンデミックで周辺が慌ただしくなる。自然、自分も忙しく本を読む余裕がなかった。

 

新たな同志として黒井マダラさんが参加してくださった。

jaguchi975.seesaa.net

優れている。そして文章も明瞭で鋭い。本質を貫いてシンプルに捌いている。

 

ところで、yuki氏と黒井氏は創作もやられているとのこと。

 

kakuyomu.jp

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彼らもいつか向こう側に行ってしまうのかと思うと一抹の寂しさを感じる。しかし、頑張ってもらいたい。

 

 2020年4月

「四月は残酷な月」というが今年の四月は本当に残酷であった。

新型 コロナ・ウイルスは依然として人々を混乱の渦に巻き込んだ。人々が望んで巻き込まれにいった、という意見も存在するが、当事者である我々には判断のしようがない。歴史が決定することである。

 

時間の隙間を見つけては「神曲」を読んだ。何が書かれているのか、どのように書かれているのか、何を伝えようとしているのか。とにかく読んで考えた。ダンテに関する周辺情報も収集したが、あくまで二次的なもの、おまけのネタとして扱った。これまでもこれからも、私が作者の周辺情報を作品から読み取った情報より、優先させることはない。

 

しかし、現代日本人が中世ヨーロッパの詩人の気持ちなど分かるはずもなく、大変苦労した。

 

2020年5月

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ダンテ「神曲」の記事を書いた。正直なところ焦っていた。

 

いい加減この辺で書いてしまわないと、この先ずっと「書かなきゃな」という思いに駆られたまま終わってしまいそうであった。そのくらい面倒な作業だったし、この記事に関してももっと深掘りできたなと思っている。ストーリーについての言及、ギリシャ神話との対応など。もっと追求できたはずだが、そんなことを考えていたらいつまで経っても終わらない。ついでに、文字数が2万を超えているので読者の負担も大きい。書いた本人が言うのもアレだが、ここまで長いと読むのかったるい。

 

dangodango.hatenadiary.jp

 

ついでに勢いで書いた記事。アニメを見る本数は昔に比べて減った。若いころのように夜中まで視聴できる体力はない。無様なもんである。こういう話題でよく「時間が確保できない」というのがあるが、私の場合は嘘である。時間は作ろうと思えば作れる。

 

リゼロの原作はライトノベルである。ラノベは文学関係者から蔑視されている。「ラノベなんて...」と陰口をたたかれている。「そもそも『ライトノベル』という単語自体、意味不明だ」と言う人もいる。確かに、非常に定義が曖昧な用語である。表紙と挿絵、会話文の多用などから漠然と分類しているだけなのだろう。当初、出版社もライトノベルと呼ばれることに抵抗があったらしい。

 

そして、ライトノベルと同じくらい定義曖昧なのが「純文学」である。

純文学とは何であるか。

sakura-paris.org

kotobank.jp

純文学もかなり適当に使われている用語である。「美的情操に訴える」とあるが、その美的情操とは誰が、なんの基準で決めるのか。それは芥川賞審査委員が決めるのだと言うのなら、これほど馬鹿げたものはない。

 

2020年6月

魔の山」読み解きに精を出す。よって実績なし。

 

2020年7月

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7月の終わりにようやく完成した。

 

 ところどころもっと深堀りできたなと後悔する箇所あるが、概ね満足しているし不満な部分は追記で補っていく。

 

2018年7月から始まったので、まるまる2年掛かったことになる。私の読み解き経歴は「魔の山」との格闘の歴史であった。それが達成されたとなると、どうしようかという気分になる。軽い喪失感である。

 

今後の予定

 

もっともやることはまだ残っている。トーマス・マンで言うと「ベニスに死す」の修正版、「ブッデンブロークス」「ワイマルのロッテ」「ファウストゥス博士」。「ヨセフとその兄弟だち」は規模の大きい図書館の書庫ぐらいにしかないので断念する。決して読むのが面倒なわけではない。決して...

 

最終的には、ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」に挑んでマン研究はひとまず片をつける計画である。何年かかるか分からないが。

 

短編では、宮沢賢治風の又三郎」、有島武郎「生まれ出づる悩み」、チェホフ「桜の園」、ツルゲーネフ「初恋」、O・ヘンリーの諸作品などを考えている。短編はそれほど時間かからないので頑張ってみたい。

 

井原西鶴「日本永代蔵」もやってみたいがどうなるか分からない。まずは読破からである。

 

アニメは映画「カラフル」に挑戦したい。以前、CLANNADAIRをやりたいと言っていたがどうなるか分からない。

 

なんにせよ読み解き物語が今後も続いていければ幸いである。始まった時より同志は増えた。じっくり長く続けていけばそのうち良いこともあるでしょう。

 

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神曲 追記その3

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結構昔から「銀河鉄道」と「神曲」には強い繋がりがあるんではないかと考えている。しかし、有力な証拠は得られない。登場人物がイタリア名(ジョヴァンニ、カムパネルラ)と三位一体教義くらいである。

 

ストーリーとしては、

「3」という数字を軸に構成している→地獄篇

旅してきた道連れ(ウェルギリウス、カムパネルラ)との突然の別れ→煉獄篇

宇宙を旅する→天国篇

 

という感じで三部作の要素をかいつまんで取り入れていると邪推しているが、いまのところ邪推に終わっている。

 

しかし、ダンテも宮沢賢治も教養が広い。文学、科学、宗教など、本当に興味の幅が広い。現代人とは異なり、彼らは本当に詩人であり、科学者であり、宗教家であった。一つの世界に閉じこもってひたすら掘り進めるのではなく、色々な世界に飛び出して自分の世界を拡大していった。総合的なのである。

 

私も教養を広げていかないといけないのだが、これがなかなか難しい。

魔の山 追記その3

今更気づいたが、ヒトラーの別荘の名前が「ベルクホーフ」であった。

 

これは舞台となったサナトリウム「ベルクホーフ」と名前が一致している。皮肉なもんである。

 

もちろん「魔の山」発表が1925年、ヒトラーが山荘を改築して名称変更したのが1933〜1935年ごろなので真似したとすればヒトラーの方である。ヒトラーニーチェすらまともに読んだか怪しいくらいなので(ムッソリーニも怪しんでいる)、あの長ったらしい小説なんて途中で放棄したに決まっている、と勝手に思っている。

 

ところで、こんな本がある。

著者は昨年亡くなられたドイツ文学者池内紀である。「独裁者にペンで立ち向かった男」と帯文であるように日記を引用しながらナチスに抗ったマンを追っていく内容である。大変読みやすい。短いので手軽に読める。タイトルはいかついが、池内さんの文章もあいまってとてもぬるぬると頭に入ってきた。尊敬したノルウェーの作家クヌート・ハムスンの顛末や意外にカフカを読んでいたことなど面白いエピソードもたくさんあった。

 

しかし、マンがナチスと闘ったというのは本当だろうか?

 

そもそも彼は保守的な立場の作家だった。「非政治的人間の考察」を読めばそのことはすぐわかる。もっとも当時の作家たちはみな愛国精神を爆発させていたとロマン・ロランが嘆いていたので、マンに限った話ではない。

この長いエッセイで主張したいことはざっくり二つである。

 

1、デモクラティズム(民主主義)はドイツ人に向かない。なぜならドイツ人は非政治的であるから。

 

2、政治的とは非審美的である。審美的とはディレッタントである。

 

1に関しては民主主義批判である。現代人にとっては理解しにくいが、当時の帝政ドイツにとって民主主義者は左翼である。そして民主主義はソクラテスプラトンが疑ってたように決して優れた政治体制ではない。

 

問題は2である。さらに読んでいくとこんな例え話が出てくる。

 

平和を支持する政治家も、戦争を支持する政治家も存在するが、戦争と平和どちらも賛美する政治家はいない。その立場は審美的でありディレッタントであるから。

 

ここでは、二項対立が肝になっている。白と黒のどちらかに属して立場を決めるのが政治家であり、白と黒の真ん中、グレーの位置に立つのが審美的であり芸術家である。中庸の思想、まんまトニオ・クレーガーである。

要約すると「芸術家は審美的なのだから政治に口出しすべきでない」というのが彼の主張である。政治は政治家、芸術は芸術家。

 

ノンポリ姿勢が第一次大戦におけるトーマス・マンの立場であったが、戦後態度を改める。いわゆる転向である。「ワイマール共和国を支持しよう」「民主主義を信じよう」と戦前から反対のことを述べる。

 

保守派からリベラルへの転身を果たしたマンは、ナチスが台頭すると1930年に講演「理性に訴える」でナチズムの危険性を指摘する。ここから彼の亡命生活が始まる。この辺の事情を語ってくれているのが上の著作である。

 

第二次大戦では、第一次大戦と打って変わって「政治的発言」を強調し、ナチス批判など積極的に「政治的行動」をする。ここでいう「政治的」とは「民主主義的」である。芸術家であってもノンポリ仕草を捨てて積極的に政治的発言をする。

 

「中立は中立ではなく、現状維持に加担している」

「芸術家だからといって政治から逃げることは許されない」

 

これらの精神はギュンター・グラスを始め戦後のドイツ作家たちに受け継がれてゆく。恐らく現代のリベラリストも同様の考えであろう。ナチスが犯した罪は今後1000年は消えることはない。ドイツ人は未来永劫贖い続けなければならない。

 

ワーグナーの中には、たくさんヒトラーがいる」とはマンの言葉である。

 

話変わるが、ドイツの名指揮者フルトヴェングラー(カラヤンの前のベルリン・フィル主席指揮者)はナチス台頭後も国内に留まり、ヒトラーの命令でベートーベンやワーグナーを指揮した。

戦後、マンはフルトヴェングラーを批判した。「自分は芸術家だからと見て見ぬを振りをした責任は取るべき」と。その一方で、ラジオから流れるフルトヴェングラー指揮のワーグナーに感心している。「やっぱり凄い…」と。ナチスと闘った文豪がナチスの音楽に感動している。芸術と政治の相克に揺れ続け、揺れ続けたまま死んだ。彼が本当に闘っていたのはナチスというより自分自身である。

 

Twitterなんかでも、リベラル派知識人はよく日本人を批判する。海外と比べて日本のここがダメであることを語る。日本のアニメはここがダメであると。そして、日本のユーザーはそのことに辟易している。「リベラルは鬱陶しい」と。よく見る光景である。

 

恐らく戦後のマンもこんな感じでドイツ国民にうざがられていたのだと想像がつく。アメリカで贅沢な亡命生活を送って、敗戦後の悲惨な国内状況を知らないのだから仕方ない。

 

しかし、マンのドイツ批判というのはその経歴から分かる通り、愛国心から来るものである。ドイツとドイツ文化を心の底から愛しているから批判するのであり、その面倒臭さは太宰を嫌悪する三島、手塚を嫌悪する宮崎に匹敵する。

 

マンは芸術家の政治無関心を批判した。そういえばTwitterで政治的発言をする作家、監督は多い。そして作家の政治的発言というのは政権批判である。それを見たファンは「大好きな作品の作者がゴリゴリの政治的発言をして萎えた」と嘆く。芸術家が政治に首突っ込むのを嫌がる人も多いだろう(というか多数派であろう)。

 

もしもトーマス・マンTwitterを開いたら、日本のアニメファンを批判するかもしれない。「政治から目を背けるな」と。そうなったら私は何と答えようか。もしかしたら何も答えられないかもしれない。返す言葉がないかもしれない。しかし、黙って受け入れるつもりも毛頭ない。敗戦を経てもなお、ナショナリズムを保てる日本人を羨ましく思っているに違いないからである。思い切って皮肉の一つでも言ってやるのも良い。

 

ワーグナーの中には、たくさんヒトラーもいますが、あなたもたくさんいますよ」と。

 

 

 

読み解き物語 その3

前回はこちら

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2019年1月

依然として魔の山読み解きは難航していた。気を紛らわすためにブッデンブロークスのキャラ一覧表など作ってみたが、結局こちらも難航したのでやめた。

 

Twitterやってたら、面白いアニメがあるとフォロワーの方に薦められたのが「輪るピングドラム」である。

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結果は賛否両論であった。「面白い!」と言ってくれる人もいれば、「ふざけるな!」と怒る人もいた。しかし、未だに当ブログで一番読まれているのはこの記事である。良いのか悪いのか決めるのは読者であって私ではない。8年前のアニメにこれだけ反応があるのは予想外だった。間違いなくピングドラムは名作なのだろう。

 

余談だが、このときコメント欄に「fufufufujitani教の信者」を名乗る方が現れ、色々教えてもらった。いつのまに宗教化したんだと驚いた。この方がのちに同志となる焼売氏であった。彼は幾原フォロワーらしいのでちょっぴり恐縮する。

 

2019年2月〜3月

何をしていたのか記憶がない。SAOと小林秀雄の悪口を言っていた気がする。

 

2019年4月〜6月

記憶がない。エクセル開いてウンウン唸っていたと思われる。6月に「青春ブタ野郎(以下略)」の劇場版を観に行ったくらい。隣に座っていた高校生が心配になるくらい号泣していた。「やはり俺の青春ラブコメ(以下略)」三期を見てて思うのだが、思春期ってこんなに感受性豊かだったのか。

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また6月はfufufufujitaniさんがゲーテファウスト」の解説を上げられた。これは大変な功績であった。のちの私の読み解きにも大いに活用される。改めて感謝申し上げる。

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2019年7月

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芥川の「歯車」解説を書く。もちろんこれは、新たな同志、焼売氏の「河童」「さらざんまい」の読み解きに影響を受けてのことだった。

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芥川の母はヒステリーだったらしく息子も晩年はかなり狂っている。ただ狂っているだけでなく理性が暴走しているのだから始末が悪い。全体構成も緊密すぎて気味が悪い。ただ彼の努力は無駄ではなかった。太宰や幾原が意志を継いでくれている。お疲れさまでした、という言葉を掛けてあげたいくらいだ。

 

それにしても、同志が増えたのは本当に喜ばしい。焼売氏はピングドラムの記事にコメントを下さった「fufufufujitani教の信者」であった。同名の別人の可能性もあるけれど。

 

またyuki氏が新たな同志として参加してくださった。

同志が増えてとても嬉しいものである。

 

2019年8月~9月

実績なし。

新海誠「天気の子」を見た。新たな同志流レ水さんが参加してくださった。

どうも「君の名は。」より構成が緊密であるらしい。年下の陽菜が年上のようにふるまっているのは面白いというか監督の性癖なのではと疑っている。私の予想では、新海監督の次回作は田舎が舞台なのだが、私の予想はあんまり当たらない。

 

同志が増えてくださったのはありがたい。

 

2019年10月~11月

 なんとなくまどマギについて語ってみたくなった。口語体で申し訳ないが一応上げておく。このころから文学は説明文、アニメは会話文で書くという謎のルールを自分で作っていた。会話文は書いていて楽ちんなのだ。

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またyuki氏が三島由紀夫金閣寺」の読み解きをアップされた。

 

特に三島の二元論についての論考はかなり参考にさせてもらった。感謝申し上げる。

 

2019年12月

魔の山」の進捗は依然として進まない。締め切りなどないのだが焦燥感にかられる。

yuki氏のツイートに刺激を受けてショーペンハウアー「意志と表象としての世界」ニーチェ悲劇の誕生」を読んだ。トーマス・マンは「非政治的人間の考察」という糞長いエッセイで「トニオ・クレーガーはニーチェの色が強い」旨のことを語っていた。

作家の言葉なんて信じてはいけないのだが、完全には無視できないと自分も思っていたので以前の記事から大幅に修正を加えて書き直した。

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まさに年内ギリギリ、大晦日にアップした訳なのだが、あんまり細部にこだわって長くなってしまったと若干後悔しているがまあ仕方ない。書いてしまったもんはどうにもならないので放っておく。

 

魔の山」の読み解きは全然進まないが、それなりに充足感を得たまま年越しを迎えた。

 

魔の山 追記その2

 

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「主人公ハンス・カストルプがホムンクルスである」というただこれだけのことに実質1年半掛かってしまった。

 

初読の段階でキャラ戦略がファウストなのではないかと疑っていたが、ファウスト最大の特徴である女好きがハンスにあんまりない。ショーシャ夫人に恋する辺りは非常にそれらしいのだが、女好きまでいかない。告白のシーンもショーシャが好きなのではなくショーシャの肉体が好きという印象を受ける。

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ドストエフスキーは「悪霊」でファウストに挑んでいる。この「悪霊」の読み解きが無ければ、今回の解説記事は作れなかった。最大のポイントは「基本的にキャラは二人一組だが、ホムンクルスのみ一人ワンセット」である。

 

それでもすぐに気づいたわけではなく、2019年10月NAVERにアップされてから半年くらい経ってようやく思いついた。

 

なぜこれほどまでに難航したのか考えてみたが、主人公という枠組みに囚われすぎていたのが原因であった。

 

神曲が下敷きなのだから主人公はダンテに対応するだろう」

ファウストが下敷きなのだから主人公はファウストに対応するだろう」

「悪霊が下敷きなのだから主人公はスタヴローギンに対応するだろう」

 

それはセオリーなのでだいたい間違っていないのだが、「魔の山」の解析では上手くいかなかった。キャラ戦略を読み解く上で主人公に囚われすぎてはいけない、ということは貴重な経験になったのでここでシェアしておきたい。まあ「ワルプルギスの夜」という分かりやすい章名でそのまんま下敷きにしている訳がない、と言われればそうであるが。

 

恐らくトニオ・クレーガーの原型もホムンクルスであろう。二人とも自分にないもの(市民・肉体)を欲している。ラストは海に近づくのも同様である。円環時間そのものは出てこないが、ソナタ形式はそもそも回帰的構造である。この辺を考察する気力は無いのでやめておく。

dangodango.hatenadiary.jp

 

そういえば「海辺のカフカ」で村上春樹はスメルジャコフを救おうとしている。春樹の描く主人公はどことなくスメルジャコフであり、もっと言うと「天人五衰」の安永透である。彼は別にドストエフスキーに批判的ではないが、これもスピンオフ戦略の一例であろう。

魔の山 追記その1

魔の山」では7という数字が鍵を握っている。これは下敷きとなっている神曲煉獄篇(七つの大罪)とファウスト第二部第二幕から来ている。なぜ7という数字が西洋人にとってここまで重要なのか、という淵源については依然として捜索中である。七つの大罪は枢要徳+対神徳が由来かなと思ったがイマイチ対応が悪い。fufufufujitani氏はメソポタミアの七賢人ではないかと、書かれていたが、メソポタミアの見識が足りていないので知っている方がいたら教えてくださると助かります。

ja.wikipedia.org

ゲーテは第二部第二幕において7=2+5に分類した。「狭いゴシック式の丸天井の部屋」と「実験室」の2章と古代のワルプルギスの夜の5章である。

魔の山は半分くらいファウスト批判である。ループ時間は人間を堕落させるので、契約結んで直線時間に帰ることも大切であると説く。

 

だからマンは7=5+2に分類した。

最初の第1章〜第5章が上巻、第6章〜第7章が下巻である。第5章のラストは「ワルプルギスの夜」である。最初の5章でワルプルギスやる。批判なのだから構成が裏返しになって当然なのである。

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物語全体の時間の流れはだんだん縮んでいると説明したが、細かく見ると伸びたり縮んだりしている。

例えば、セテムブリーニとナフタの議論はものすごく長いページ割かれていて、読むのに時間かかる。しかし、物語内の時間としてはさほど経過していない。会話が多いと時間経過が遅くなる。ちょうどドストエフスキーの作品があまり時間経過してないのと同じである。反対に、情景描写がつづくシーンはあっという間に数ヶ月経ったりする。トルストイは情景描写に長ける。「戦争と平和」をはじめ歴史絵巻はどんどん時間が進まなければ物語終わらない。

 

マンはこれらを上手く使いこなして時間の伸縮を表現した。凄いとは思うが、読者からするといい迷惑である。