週休二日〜アニメと文学の分析〜

ネタバレあり。一緒に読み解いてくれる方募集中です。詳しくは→https://yomitoki2.blogspot.com/p/2-510-3010031003010013.html

涼宮ハルヒの新刊

 

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引用:https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1600416931

2020年11月、涼宮ハルヒシリーズの新刊が出版された。

9年半ぶりの新刊らしい。

どちらかというと、9年経ったというのに大して成長していない自分の方に驚いているわけだが、ともかく新刊が出たとのことである。

 

涼宮ハルヒに関しては、以前こんな未来予測をした。

dangodango.hatenadiary.jp

 こちらはアニメ版ついてなのだが要約すると、「エヴァが完結しない限りハルヒも完結しない」である。ハルヒエヴァを下敷きにしているので、下敷きとなる作品が完結しないと後続作品も着地できないという理屈である。

 

涼宮ハルヒの直観」発売 2020年11月25日

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」公開 2021年1月23日

 

エヴァより先にハルヒが動き出して焦ったのだが、元々エヴァの公開が6月27日だったし(新型コロナの影響で延期)、なにより両作とも完結が決まったわけではないので大目に見てほしい。

www.evangelion.co.jp

 

ちなみに谷川流本人は押井守うる星やつらビューティフルドリーマーが好きであるらしい。

ja.wikipedia.org

 

もっとも作家がインタビューで本音を喋るとは限らないので(むしろミスリードする方が多い)、引き続き自説を推していく所存である。予測を外すことよりも信念を曲げることの方が恥なのである。

 

結局のところ、完結してからじっくり読み解かないと断言できないので、早いとこ完結して欲しいのだが、如何せん終わらないから困ったものである。

 

予測ついでに、ハルヒの2期について話す。

仮にエヴァが今回の劇場版で完結あるいはほぼそれに近い停滞を見せた場合、上の予想に従えば、ハルヒシリーズは再び長期休刊することなく物語が進み始める。

 

そうなるとストックが溜まるのでアニメ2期の噂も流れるであろう。果たして京アニは2期を作るのか。

 

恐らく製作しない。

なぜか。

 

それは痛ましい事件によって貴重な人材が失われたからというのもあるが、現在の京アニの志向性も関係している。

 

けいおん!ユーフォニアムを比べれば分かる通り、近年の京アニは自らが孵化させたユートピア、ファンタジーから脱却して、徹底的に「現実の人間」を描くようになっている。(もっとも徹底的すぎて逆に現実的ではなくなっているのだが)

 

そういう流れの中で、突然涼宮ハルヒを出されても非常に不自然であるし、彼らの態度と矛盾する。日常系アニメが限界を迎え、少しずつ物語性が復権しつつある現在において、さらに前時代の産物である涼宮ハルヒのアニメを作ることの意義というのはほとんど無い。佐々木をアニメで見たいというくらい。とはいえ資本主義パワーによって、2期が製作される未来もありうるのでなんとも言えない。

(その場合は、高まりまくった期待を超えることなく、かつてオタクだった亡霊たちが満足して帰るだけという悲しい結末が待っているであろう)

 

まあ色々語るのは新刊読んでからにしろ、と叱られそうなのでこの辺にしておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の京アニ史 その4

「私の京アニ史、第四回目である」

 

「随分とお久しぶりやな」

 

「数えてみたところ、前回から9ヶ月ぶり、我々の登場自体はおよそ半年ぶりとなる」

dangodango.hatenadiary.jp

 

dangodango.hatenadiary.jp

 

「えらい間が空いたな」

 

「今年は梅雨がやけに長かったので、それが原因だと考えられる」

 

「梅雨関係ないやろ」

 

「気圧が低いと筆が乗らんのや」

 

「高気圧でもサボっとるやろがい」

 

「前口上はええから、そろそろ始めるで」

 

「逃げたな」

 

7.Kanon

 

「今回はKanon

 

「アニメ放送2006年、ゲーム発売1999年」

 

「リアルタイムで見てた訳ではないので郷愁なんてものはないけれど、やはり時の流れを感じるな」

 

「顔に対してお目々が大きすぎる」

 

「それを言ってしまったらおしまいだし、今の技術がそれだけ進歩したっちゅう証拠である」

 

「こればかりはしゃーない」

 

「本題に入る。あらすじを述べると、七年ぶりに訪れた『雪の街』で主人公・相沢祐一が五人の少女と交流する」

 

「五人ともどこか頭のネジが外れておるな」

 

「やっぱり頭のネジが外れた女の子と青春がしたいんや。ベタなストーリーじゃ満足できない身体になってしまった」

 

「誰のエピソードが一番好きなのか」

 

「最近はその手の質問をされたとき、ベタな回答が恥ずかしくてついつい変化球を投げてしまう癖ができてしまった」

 

「そうなんや。で、誰なんかい」

 

沢渡真琴かな」

 

「ベタベタやないか」

 

「ちょっと暴走気味で天真爛漫な少女が次第に退行し、衰弱していく。その過程が切ない。丘の上の結婚式のシーンなんかは何度見ても泣いてしまう」

 

「助けた動物が数年後に娘になって現れるという点では、『鶴の恩返し』ぽい気もするが」

 

「一番は『ごんぎつね』であろう」

 

www.yanabe-e.ed.jp

 

「祐一への善意が裏目に出て空回りしてしまう辺りは、ごんぎつねに似ている」

 

「祐一と真琴はある意味すれ違いの悲劇なのでそうかもしらん」

 

「しかし、最後は想いが通じた」

 

「ところで、一応メインヒロインは月宮あゆなのだが」

 

「キスシーンの演出は良かったと思います」

 

「興味なさそうやなあ」

 

「真面目に話すと、祐一との思い出の大木が切り倒されていたシーンなんかは印象に残った。止まっていた時間を必死に探そうとするあたりが」

 

「いつまでもいつまでも、あるはずのない青春の断片を深夜アニメから拾い集めようとする我々の姿に重なるものがある」

 

「やめんか」

 

「へいへい」

 

「ともかく、五人のヒロインはそれぞれ異なるキャラクターであるが、祐一との過去を持っているという点で共通している。その過去が7年の時を経て再帰するとき、挿入歌が流れ、我々のもとにカタルシスがやってくる」

 

「まさしくKanon(追走曲)なんやな」

 

「カノンということはひょっとすると全体構成が対位法、つまり対称構造になっているかもと思ったが」

 

「構成読み解きは趣旨と外れるので今回は省略で」

 

「左様か」

 

8.AIR

 

「続いてはAIR

 

「これまた古い」

 

「OPの鳥の詩は一部ファンから国歌と呼ばれている」

 

「なぜあんなにも青臭く、そして深く感じさせることができるのか不思議である」

 

「原作はkey制作の恋愛アドベンチャーゲーム

 

Kanonに引き続きやな」

www.tbs.co.jp

「こちらも主人公が複数の少女と交流を深めることになるが」

 

「大部分を占めるのはメインヒロインの神尾観鈴の物語である」

 

「千年前の因縁が引き継がれ、彼女の肉体を蝕む」

 

「いきなり千年前に舞台が移った時はたまげたけどな」

 

「さらに第10話からは視点がカラスのそらになる」

 

「無力な存在であるカラスが視点になったことにより、我々は悲劇をただ傍観するしかない。プレイヤーは物語の不介入という事実に立たされ、我々の自意識に内在する無自覚でアンビバレンツな態度に対して物語自体が批評性を持つことになり…」

 

「いきなり何を言うてるんや君」

 

「急に懐かしくなってな。昔こういう批評モドキをよくやってたな」

 

「リアルタイムでゲームプレイ及びアニメ視聴したわけではないが、よくインターネットに潜ってそういう文章を探した記憶があるし、見よう見まねで怪文書を作成したこともある」

 

「思い出すだに恥ずかしい」

 

黒歴史である」

 

「そもそも上の文章は東浩紀のパクリやろ」

 

「少し言葉を変えただけでその通りや」

「せめて怪文書くらい自分の脳味噌で考えないとな」

 

「倫理と流儀に反する行為である」

 

剽窃はあかんけど、そういう黒歴史通過儀礼というか必要だったのだなと思う」

 

「優しくて頼りになるカッコイイ男はだいたい若いころヤンキーだからな」

 

「ヤンキーだった過去は黒歴史ではなく武勇伝やから」

 

「というか我々は現在進行形で黒歴史を生産しているのでは」

 

「それは言うな」

 

9.CLANNAD-クラナド-、CLANNAD~AFTER STORY~

「お次はCLANNADであるが」

 

「またもkey」

 

CLANNADといえば最近Switch版が出たことで話題になった」

 

「最近いうても一年前やで」

CLANNAD - Switch

CLANNAD - Switch

  • 発売日: 2019/07/04
  • メディア: Video Game
 

「せっかくだから買ってみよかなと思ったが、そもそもSwitchが無かった」

 

「遅れておるな」

 

「本題に入ると、CLANNADもゲーム原作なので最初複数のヒロインのエピソードののち、メインヒロインの古河渚と結ばれる」

 

「どちらかというと結ばれた後が真骨頂である」

 

「たいてい高校卒業と同時に物語も終了してしまうが、そこから社会人になっても続くアニメってのは物凄く新鮮に感じたな」

 

「さらにあんなことやこんなことが」

 

「卑猥な感じにすな」

 

「という感じでCLANNADは学園の枠を超えて、物語は続く。辛いこと悲しいこと、全部一つの街で経験する」

 

「まさに『CLANNADは人生』ということに」

 

「しかし人生という観点からすると、主人公・岡崎朋也は我々とかなり異なった人生を歩んでいる」

 

「まずスポーツ推薦で入学できるくらいのアスリートだったが不仲な父との喧嘩で選手生命を絶たれる」

 

「卒業後地元で働きながら高校で付き合った彼女とそのまま結婚する」

 

「しかし、その彼女は出産時に亡くなってしまう」

 

「波乱万丈の半生である」

 

「そして、この半生は我々と対極に位置するヤンキーの人生ではなかろうか」

 

「ヤンキーは地元離れないからな」

 

「せや」

 

「『もう一つの世界 智代編』では、外の世界へ出ていく智代と地元に残り続ける朋也が対比されていたが」

 

「経済的に厳しい以前に、朋也は『自分は地元に残るんだ』という意識が強いように見受けられた」

 

「踏切のくだりとかな」

 

「うむ」

 

「結局、智代が街に残ることでハッピーエンド」

 

「地元愛が強い男である」

 

「というようなことを東浩紀が語っている動画を見つけたので、合わせて紹介したい」

youtu.be

「なんちゅうサムネイルや」

 

「ここで東が指摘するように岡崎朋也のようなマイルドヤンキー的価値観が、個人主義的な傾向のオタクに称賛されたことは考える必要があるかもしれない」

 

「ということはつまり君はヤンキーとかアニメを解さない連中を馬鹿にしながら、その実彼らの価値観を称揚するアニメを愛でていたというわけか」

 

「急に皮肉言うのやめてくれるか」

 

「すまんな」

 

「ええんやで」

 

「しかし、朋也以上に地元愛が強い人物が渚ではないか」

 

「AFTER の12話で、父親が逮捕されて朋也が精神的に参るシーン。渚に『街を出て二人で暮らそう』と持ち掛けるが否定される」

 

「『ここで逃げたら帰ってくる場所じゃなくなってしまう。去るなら前向きに去らないとダメだ』と」

 

「別にそんなことないし、身内に犯罪者が出たら離れるのが吉であると思うが」

 

「結局そのまま残留して二人は結婚する」

 

「幸せ一杯である反面、朋也は身を固めて余計に移動できなくなる」

 

「しかし、渚は地元愛云々ではなく誕生秘話や出産時の苦しみから分かる通り、街と一体化しているからである」

 

「そのことは同時並行で語られる幻想世界にも通じてくる」

 

「朋也たち現実世界のストーリーの合間に、謎の少女とガラクタの人形だけがいる不思議な世界のストーリーが挿入され、二つの物語が一点で交わったとき物語はクライマックスを迎える」

 

村上春樹が長編で用いる手法でもある」

 

「『世界の終りとハードボイルドワンダーワールド』とか『1Q84』とか」

 

「だから渚に関しては地元愛が強い云々は的外れなんではないか」

 

「ファンタジー要素でヤンキー的保守的価値観を中和してるだけやろ」

 

「ファンタジー要素がCLANNADを傑作たらしめているんやで」

 

「その極致とも言うべきが最終回の幻想世界→坂道のシーンになる」

 

「現実世界と幻想世界が一点で結ばれるクライマックスとピアノの旋律が掛け合わさることで得も言われぬカタルシスが訪れる」

 

カタルシスアリストテレスが『詩学』で述べたように悲劇が観客の心にもたらす精神の浄化であるが」

 

CLANNADはここから超ド級ご都合主義的ハッピーエンドに向かっていく」

 

「このシーンがたまらなく好きで10回見たのだが、10回目の鑑賞でこれは論理の飛躍を音楽で誤魔化しているだけではないかと気づいた」

 

「気づくのに10回もかかったのか」

 

「妻も子も喪って絶望にあるはずの主人公の魂が唐突にファンタジーなアレコレに回収されてハッピーエンドに向かうのは無理がある」

 

「原作がギャルゲーやからルート分岐があるやろ。ハッピーエンドの世界線があったというだけや」

 

「だが無理矢理辻褄合わせたのを音楽の力で隠しているという部分は大いに批判しなければならない。傑作ならすべて許されのなら、それはただの神格化ではないか」

 

「そうなのか」

 

「音楽の快感は人を思考停止させる。『よく分からないけど音楽が良いから素晴らしいんだ』という姿勢は褒められたものではない。CLANNAD京アニ作品の中でも傑作の部類だけどやっぱりおかしい部分もある。それを音楽にたぶらかされて『泣ける』『感動する』で見て見ぬフリをするのは君の悪い癖なんだ」

 

「言いたいことは分かるが、なんでそこまでせにゃならんのだ」

 

「私の京アニ史と銘打ってる以上、君は京アニ作品を親しんできた自分と徹底的に向き合うべきだと思ってな」

 

「今回の三作品については原作がkeyなのだから京アニ関係ないのでは」

 

「アニメを作っているわけだから関係ないことないやろ」

 

「しかし、ああいう事件があってやっぱり京アニについて悪く言うのはなんとなく憚られるのだ」

「気持ちは分かるが、そうやって変に気を遣うのは亡くなった方にも今作っている方にも失礼になってしまう」

 

「『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も観に行ったけど、公平に評価できんかったわ。作品外から流れ出てくるものが大きすぎる」

 

「TVアニメ版での違和感の答え合わせをしたかったのだが難しくなってしまった」

 

「どうも変なバイアスがかかってしまうのよな」

 

「一年前に祈りを捧げたし、四ヵ月前には黙祷もした。我々は関係者ではないからこれ以上何かできることはない。だから今こそ思いの丈を書きまくってきちんと向き合わなあかん。事件以前のフラットな状態には戻れないけど、そこに向かって努力しなければならない」

 

「かなり重たい話題になってしまったが、そろそろお開きということで」

 

「左様か」

 

「今回はこの辺で」

 

「さようなら」

 

 

 

〈おまけ〉

 

「なあ」

 

「なんや」

 

「今回key三部作を紹介したわけなんだが」

 

「うむ」

 

「この三作品に関しては京アニ版とは別に東映アニメーションが制作したものがある」

 

劇場版 AIR (通常版) [DVD]

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  • 発売日: 2005/08/05
  • メディア: DVD
 
劇場版『CLANNAD』 DVD(通常版)

劇場版『CLANNAD』 DVD(通常版)

  • 発売日: 2008/03/07
  • メディア: DVD
 

「形式はKanonがTVアニメで全13話+1、AIRCLANNADが劇場版で90分構成となっている」

 

「出来はどうなのかというと」

 

京アニ版と比べると作画の面で厳しいものがある」

 

「尺の都合で大幅にカットしている部分が多く不満点も多い」

 

「そうは言うけど、3、4時間まで伸ばしたところで大赤字やろうし無理な注文や」

 

「さらにギャグというかノリが古い」

 

「よく分からないギャグが飛び出すのは原作と京アニ版も同じなので、そこは東映版の欠点ではなかろう」

 

「そんなこんなで東映版は京アニ版と比べるとやっぱり知名度は低く難点もある」

 

「世知辛いけど認めざるをえんな」

 

「ところで、こんなインタビューがある」

www.cyzo.com

「ほう」

 

「答えているのは劇場版AIRCLANNADの監督を務めた出崎統

 

「『あしたのジョー』や『ガンバの冒険』と聞けば覚えのある人も多いかと思われる」

 

「世代的には高畑勲の8コ下、宮崎駿富野由悠季の2コ下」

 

「要するにアニメ界の重鎮である」

 

「演出も凝っていて、AIRの海辺、CLANNADの屋上のシーンでも光と水の表現が独特で面白い」

 

「外に出て自然をよく観察した人の描き方である」

 

「他にも画面分割とか美しい止め絵などの手法を用いることで有名やね」

 

「惜しい人を亡くしたものである」

 

「上のインタビューで注目すべき部分を引用すると」

 

【出崎】『CLANNAD』をやっているときに、この子(ヒロイン)なんで死ぬの? って訊いたんです。そうしたら「ゲーム上死なないとね、泣けないんですよ」って答えられた。一見シリアスなんだけどさ、オレから見るとちゃんとした根っこがないんだよね。現象としてそういうのをやれば客は泣く、それがわかっているだけで。だから映画にするときは、どうして死ぬのか、少なくとも心の流れだけはきちんと作っていこう、と。で、その死に対して、ちゃんとそれを感じる人間を登場させようとした。それは当たり前。当たり前のドラマを作っただけなんです。「ここで死なないとゲームとしてマズイんですよね」。それは、視聴率だけよければいいや、というのと似ている。「とりあえず殺せば泣くんだよね」というのは、人間を甘く見ている。甘く見ているし、でもそれで通用する部分があるっていう世の中はなんかヘンだよね。とってもヘンだよね。 

 「苦言を呈している」

 

「どこか懐疑的な視線を向けているのが伝わってくる」

 

「『当たり前のドラマを作った』と言っているようにAIRCLANNADも原作から改変している」

 

「改変自体はよくやる人なんだけどね」

 

「せやな」

 

「個人的には、朋也父の比重が大きくなり、渚の出産シーンはあえて削っていると感じた」

 

「この辺が『当たり前のドラマ』というものに繋がっているやもしれん」

 

「そのせいで色々大変だったようであるが」

 

「ちなみに東映版の公開が2007年9月、京アニ版1期放送が同年10月」

 

「出崎監督が京アニ版をどう思っていたのか気になるところではあるが」

 

「自分の調べた範囲では分からなかったので知っている方がいたら教えていただきたいです」

 

「結局のところ、どちらが良いのかは好みなので」

 

「ぜひ見比べてみてはいかがでしょうか」

 

「という訳で今度こそ本当に」

 

「さようなら」

読書論 その1〜量であるか質であるか〜

「作家志望は1000冊読んでスタートライン」

「マイナーかつ難解な作品を読んでこそ教養人」

 

今も昔も読書家は読んだ本の冊数で競争し、読破したタイトルのマニアックさで自己を顕示します。普段は理性的なこと言っている人でも、読書になると急に根性論です。かくいう私も中学時代、読んだ冊数を同級生に自慢し、漱石ドストエフスキーのラベルを見せびらかして大威張りしてました。好きな作家はと聞かれて「ゴーゴリ」と答えたこともあります。恥ずかしい。死にたい。何が死にたいってゴーゴリは全然マイナーではないからです。

 

話戻しまして、「読書は量なのか質なのか」という永遠のテーマがあります。「量も質も大事だろ!」という意見はあまりにも自明なので話になりません。そこから議論が生まれないので一旦無視します。中庸と日和見紙一重です。

 

多くのインテリ、特に創作している人々は口を揃えて量であると答えます。とにかく読めと。息つく暇なく読め。余計なことを考えずに読め。1000冊読め。こう主張します。

 

これには賛成です。ただし、条件付きです。

条件とは「成人前までなら」です。

 

若い頃にどれだけ読み込んでも、古典の奥深さを感じ取るのは難しいです。あらすじ把握で精一杯というのが本音です。読み終わって数十年後、ようやくその価値を知ることになる。大半がそんなものです。

 

だから若いうちはたくさん読むのです。時間は膨大にあるはずです。部活動や宿題に追われているかもしれませんが、社会人のそれと比べたら大したことありません。できれば、ジャンルを問わず満遍なく読むのです。現代文学ライトノベル近代文学、古典、SF、ホラー、科学書、歴史書などなど。そのうちハマるジャンルが出てきます。好奇心の赴くまま、存分に読み漁ってください。

 

しばらくしたら、お腹いっぱいになって飽きてくると思います。そうしたらまた幅広くジャンルを漁って、好きなものを見つける。これを繰り返します。今回は読書論なのであまり触れませんが、実写映画やアニメも鑑賞するべきです。

 

いわゆる「濫読」です。後世に名を残した作家も若い頃はとにかく濫読してます。古典から流行りの大衆小説まで、やたらめったら読んでます。身体の成長期と一緒で、とにかく食らいまくることが大切なのでしょう。

1、「つねに第一流作品のみを読め」  

「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。」

 

2、「一流作品は例外なく難解なものと知れ」

「一流作品は(中略)少なくとも成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。」

 

3、「一流作品の影響を恐れるな」

「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない」

 

4、「もしある名作家を択んだら彼の全集を読め」

「そして私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。」

 

5、「小説を小説だと思って読むな」

「文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。」         (引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

 

小林秀雄曰く、「全集を読め」だそうです。確かに、全集を読むとその作家がどういうプロセスを経て傑作を生むに至ったかが分かるし、どんな偉大な作家でも駄作を書くことが分かるのでオススメです。あと作家の書簡なんかも読めるので、ゴシップ感覚で面白いです。(個人的に芥川のラブレターがツボでした)しかし、いかんせんハードルが高い。

 

 漱石全集で全10巻あります。かなり長いです。これでもマシな方で海外の作家は大長編を書く人が多いので、もっと悲惨です。自分はトーマス・マンの記事を書いているときに彼の全集を覗いたことがありますが、悲惨すぎて手に取る気さえ起きませんでした。そのくらい長いです。まあ作家志望者が読めばいいだけで、そうでないなら読む必要ないでしょう。駄作読むのは結構つらいですよ。

 

自分は中学時代に月100冊読んだことがあります。と言っても長編はほとんど避けて、短編集や漫画を中心に攻めたり、最後の方は時間が無いので通販カタログや映画のフリーペーパーもカウントしていたりなので、かなり曰く付きなのですが、なんとかやり遂げました。おかげで読む体力が付きましたし、達成感が得られたので読書が好きになりました。長編読んでて挫折しそうになっても「自分は月に100冊読んだのだぞ」と思えば、読む気力が湧いてきます。こういう経験があるだけで全然違ってきます。自信がついて挫折率がぐっと下がるのです。

 

若い頃に量をこなすのはかなり苦行ですが大人になって振り返ってみると、なんと幸せな時代だったのだろうと悟ります。十代の妄想力というのは半端ないですから。ただ読んでいるだけで、物語世界に入り込める、どこまでも行ける。かけがえのない時間です。

 

やがて成長して大人になると、妄想力も衰え、労働が始まります。読書に割ける時間も減ります。読む体力も衰えます。新興ジャンルに手を伸ばすのが億劫になります。漫画やライトノベルは継続しているシリーズの新作に手を出すのが精一杯になります。要するに、脳みそが保守化してしまいます。

 

自分も若い時は信じられませんでしたが、実際そうなっていて驚いています。若者の良いところはは後先考えないことですが、我々は後先考えてしまうので読書にフルコミットできません。休日はあるのに雑事に追われて気がついたら、日が暮れています。

 

そして、ここからが本題なのですが、そういう状況で読書量をこなすことができますか?毎日働いて疲労している状態で、一体何ページ読めますか?月に100冊はおろか10冊も厳しいのではありませんか?仮に数こなせたとしても、テキストの内容をどれだけ咀嚼できますか?どうして読書に対する方法論が子供のときのままなのですか?

 

量をこなすことが難しい状況で「読書は量をこなさいといけない」という価値観に囚われるのはキツいです。歳をとって肉体も精神も成熟するのですから、当然読書に対する姿勢、価値観もそれに合わせて変化させなければなりません。量から質へと変化させるのです。

 

ここまで時間的、現実的な問題から「読書は量」論を否定的に述べましたが、「読書は量」という価値観には大きなデメリットがあります。

 

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。(中略)文学に何んら患わされない眼で世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。

(引用:小林秀雄「作家志願者への助言」)

これは文学志望者へ向けられた言葉であるが創作を志していない人々にも通じる話です。

 

そして、「読書は量」という価値観こそが「知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされ」る元凶である、と私は主張します。

 

具体的にはどのようなことなのか。

 

次回はそれについて説明します。

 

 

 

 

 

読み解き物語 その4

2020年1月

dangodango.hatenadiary.jp

 

ダンテ「神曲」の解説記事を作成し始める。「神曲」は「魔の山」の下敷きにある作品で、読解には欠かせない。なので先に「神曲」の解説記事を作る必要があった。

 

「なんで先に読み解く必要があるのか?」というとその方が美しいからである。例えばfufufufujitani氏はゲーテファウスト」を読み解くに当たって先に「ヨブ記」とシェイクスピア「夏の夜の夢」の解説記事を書いている。さらに、その後ドストエフスキー「悪霊」を読み解く。

note.com

氏のニーベルングの指環作品群研究も、体系的に読み解く手法の賜物である。

note.com

「下敷き作品から順序立てて読み解く」というのは単なる美学であって義務ではない。作業量は増えるので挫折率も上がる。現に「神曲」の元となった一部で言われているイスラームの「階段の書」には手をつけなかった。日本語訳がなく、海外から取り寄せないといけなかったというのもあるが。

 

 それにしても「神曲」という邦題は本当にこれで良かったのかとかなり考えた。恐らく多くのダンテ研究者も疑問に思っているはずである。思っていながら鴎外に遠慮しているのはいかがなのか。

 

2020年2月

活動実績特になし。

生活に追われながら読み解き進める。思ったより「神曲」が重くて後悔した。「魔の山」に直接関係あるのは煉獄篇だけなので、それ単体の記事でもよいかと魔がさした。

 

新型コロナウイルスの話題が上り始めたのはこのころであった。

 

新たな同志としてnagi氏が参加してくださった。

naginagi8874.hatenablog.com

naginagi8874.hatenablog.com

 

nagi氏は主に宮沢賢治を読み解いている。自分は「注文」をやって以来、ほとんど放棄していたのでありがたいことであった。

 

2020年3月

 

新型コロナウイルスによるパンデミックで周辺が慌ただしくなる。自然、自分も忙しく本を読む余裕がなかった。

 

新たな同志として黒井マダラさんが参加してくださった。

jaguchi975.seesaa.net

優れている。そして文章も明瞭で鋭い。本質を貫いてシンプルに捌いている。

 

ところで、yuki氏と黒井氏は創作もやられているとのこと。

 

kakuyomu.jp

kakuyomu.jp

 

彼らもいつか向こう側に行ってしまうのかと思うと一抹の寂しさを感じる。しかし、頑張ってもらいたい。

 

 2020年4月

「四月は残酷な月」というが今年の四月は本当に残酷であった。

新型 コロナ・ウイルスは依然として人々を混乱の渦に巻き込んだ。人々が望んで巻き込まれにいった、という意見も存在するが、当事者である我々には判断のしようがない。歴史が決定することである。

 

時間の隙間を見つけては「神曲」を読んだ。何が書かれているのか、どのように書かれているのか、何を伝えようとしているのか。とにかく読んで考えた。ダンテに関する周辺情報も収集したが、あくまで二次的なもの、おまけのネタとして扱った。これまでもこれからも、私が作者の周辺情報を作品から読み取った情報より、優先させることはない。

 

しかし、現代日本人が中世ヨーロッパの詩人の気持ちなど分かるはずもなく、大変苦労した。

 

2020年5月

dangodango.hatenadiary.jp

 

ダンテ「神曲」の記事を書いた。正直なところ焦っていた。

 

いい加減この辺で書いてしまわないと、この先ずっと「書かなきゃな」という思いに駆られたまま終わってしまいそうであった。そのくらい面倒な作業だったし、この記事に関してももっと深掘りできたなと思っている。ストーリーについての言及、ギリシャ神話との対応など。もっと追求できたはずだが、そんなことを考えていたらいつまで経っても終わらない。ついでに、文字数が2万を超えているので読者の負担も大きい。書いた本人が言うのもアレだが、ここまで長いと読むのかったるい。

 

dangodango.hatenadiary.jp

 

ついでに勢いで書いた記事。アニメを見る本数は昔に比べて減った。若いころのように夜中まで視聴できる体力はない。無様なもんである。こういう話題でよく「時間が確保できない」というのがあるが、私の場合は嘘である。時間は作ろうと思えば作れる。

 

リゼロの原作はライトノベルである。ラノベは文学関係者から蔑視されている。「ラノベなんて...」と陰口をたたかれている。「そもそも『ライトノベル』という単語自体、意味不明だ」と言う人もいる。確かに、非常に定義が曖昧な用語である。表紙と挿絵、会話文の多用などから漠然と分類しているだけなのだろう。当初、出版社もライトノベルと呼ばれることに抵抗があったらしい。

 

そして、ライトノベルと同じくらい定義曖昧なのが「純文学」である。

純文学とは何であるか。

sakura-paris.org

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純文学もかなり適当に使われている用語である。「美的情操に訴える」とあるが、その美的情操とは誰が、なんの基準で決めるのか。それは芥川賞審査委員が決めるのだと言うのなら、これほど馬鹿げたものはない。

 

2020年6月

魔の山」読み解きに精を出す。よって実績なし。

 

2020年7月

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7月の終わりにようやく完成した。

 

 ところどころもっと深堀りできたなと後悔する箇所あるが、概ね満足しているし不満な部分は追記で補っていく。

 

2018年7月から始まったので、まるまる2年掛かったことになる。私の読み解き経歴は「魔の山」との格闘の歴史であった。それが達成されたとなると、どうしようかという気分になる。軽い喪失感である。

 

今後の予定

 

もっともやることはまだ残っている。トーマス・マンで言うと「ベニスに死す」の修正版、「ブッデンブロークス」「ワイマルのロッテ」「ファウストゥス博士」。「ヨセフとその兄弟たち」は規模の大きい図書館の書庫ぐらいにしかないので断念する。決して読むのが面倒なわけではない。決して...

 

最終的には、ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」に挑んでマン研究はひとまず片をつける計画である。何年かかるか分からないが。

 

短編では、宮沢賢治風の又三郎」、有島武郎「生まれ出づる悩み」、チェホフ「桜の園」、ツルゲーネフ「初恋」、O・ヘンリーの諸作品などを考えている。短編はそれほど時間かからないので頑張ってみたい。

 

井原西鶴「日本永代蔵」もやってみたいがどうなるか分からない。まずは読破からである。

 

アニメは映画「カラフル」に挑戦したい。以前、CLANNADAIRをやりたいと言っていたがどうなるか分からない。

 

なんにせよ読み解き物語が今後も続いていければ幸いである。始まった時より同志は増えた。じっくり長く続けていけばそのうち良いこともあるでしょう。

 

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神曲 追記その3

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結構昔から「銀河鉄道」と「神曲」には強い繋がりがあるんではないかと考えている。しかし、有力な証拠は得られない。登場人物がイタリア名(ジョヴァンニ、カムパネルラ)と三位一体教義くらいである。

 

ストーリーとしては、

「3」という数字を軸に構成している→地獄篇

旅してきた道連れ(ウェルギリウス、カムパネルラ)との突然の別れ→煉獄篇

宇宙を旅する→天国篇

 

という感じで三部作の要素をかいつまんで取り入れていると邪推しているが、いまのところ邪推に終わっている。

 

しかし、ダンテも宮沢賢治も教養が広い。文学、科学、宗教など、本当に興味の幅が広い。現代人とは異なり、彼らは本当に詩人であり、科学者であり、宗教家であった。一つの世界に閉じこもってひたすら掘り進めるのではなく、色々な世界に飛び出して自分の世界を拡大していった。総合的なのである。

 

私も教養を広げていかないといけないのだが、これがなかなか難しい。

魔の山 追記その3

今更気づいたが、ヒトラーの別荘の名前が「ベルクホーフ」であった。

 

これは舞台となったサナトリウム「ベルクホーフ」と名前が一致している。皮肉なもんである。

 

もちろん「魔の山」発表が1925年、ヒトラーが山荘を改築して名称変更したのが1933〜1935年ごろなので真似したとすればヒトラーの方である。ヒトラーニーチェすらまともに読んだか怪しいくらいなので(ムッソリーニも怪しんでいる)、あの長ったらしい小説なんて途中で放棄したに決まっている、と勝手に思っている。

 

ところで、こんな本がある。

著者は昨年亡くなられたドイツ文学者池内紀である。「独裁者にペンで立ち向かった男」と帯文であるように日記を引用しながらナチスに抗ったマンを追っていく内容である。大変読みやすい。短いので手軽に読める。タイトルはいかついが、池内さんの文章もあいまってとてもぬるぬると頭に入ってきた。尊敬したノルウェーの作家クヌート・ハムスンの顛末や意外にカフカを読んでいたことなど面白いエピソードもたくさんあった。

 

しかし、マンがナチスと闘ったというのは本当だろうか?

 

そもそも彼は保守的な立場の作家だった。「非政治的人間の考察」を読めばそのことはすぐわかる。もっとも当時の作家たちはみな愛国精神を爆発させていたとロマン・ロランが嘆いていたので、マンに限った話ではない。

この長いエッセイで主張したいことはざっくり二つである。

 

1、デモクラティズム(民主主義)はドイツ人に向かない。なぜならドイツ人は非政治的であるから。

 

2、政治的とは非審美的である。審美的とはディレッタントである。

 

1に関しては民主主義批判である。現代人にとっては理解しにくいが、当時の帝政ドイツにとって民主主義者は左翼である。そして民主制はソクラテスプラトンが疑ってたように決して優れた政治体制ではない。

 

問題は2である。さらに読んでいくとこんな例え話が出てくる。

 

平和を支持する政治家も、戦争を支持する政治家も存在するが、戦争と平和どちらも賛美する政治家はいない。その立場は審美的でありディレッタントであるから。

 

ここでは、二項対立が肝になっている。白と黒のどちらかに属して立場を決めるのが政治家であり、白と黒の真ん中、グレーの位置に立つのが審美的であり芸術家である。中庸の思想、まんまトニオ・クレーガーである。

要約すると「芸術家は審美的なのだから政治に口出しすべきでない」というのが彼の主張である。政治は政治家、芸術は芸術家。

 

ノンポリ姿勢が第一次大戦におけるトーマス・マンの立場であったが、戦後態度を改める。いわゆる転向である。「ワイマール共和国を支持しよう」「民主主義を信じよう」と戦前から反対のことを述べる。

 

保守派からリベラルへの転身を果たしたマンは、ナチスが台頭すると1930年に講演「理性に訴える」でナチズムの危険性を指摘する。ここから彼の亡命生活が始まる。この辺の事情を語ってくれているのが上の著作である。

 

第二次大戦では、第一次大戦と打って変わって「政治的発言」を強調し、ナチス批判など積極的に「政治的行動」をする。ここでいう「政治的」とは「民主主義的」である。芸術家であってもノンポリ仕草を捨てて積極的に政治的発言をする。

 

「中立は中立ではなく、現状維持に加担している」

「芸術家だからといって政治から逃げることは許されない」

 

これらの精神はギュンター・グラスを始め戦後のドイツ作家たちに受け継がれてゆく。恐らく現代のリベラリストも同様の考えであろう。ナチスが犯した罪は今後1000年は消えることはない。ドイツ人は未来永劫贖い続けなければならない。

 

ワーグナーの中には、たくさんヒトラーがいる」とはマンの言葉である。

 

話変わるが、ドイツの名指揮者フルトヴェングラー(カラヤンの前のベルリン・フィル主席指揮者)はナチス台頭後も国内に留まり、ヒトラーの命令でベートーベンやワーグナーを指揮した。

戦後、マンはフルトヴェングラーを批判した。「自分は芸術家だからと見て見ぬを振りをした責任は取るべき」と。その一方で、ラジオから流れるフルトヴェングラー指揮のワーグナーに感心している。「やっぱり凄い…」と。ナチスと闘った文豪がナチスの音楽に感動している。芸術と政治の相克に揺れ続け、揺れ続けたまま死んだ。彼が本当に闘っていたのはナチスというより自分自身である。

 

Twitterなんかでも、リベラル派知識人はよく日本人を批判する。海外と比べて日本のここがダメであることを語る。日本のアニメはここがダメであると。そして、日本のユーザーはそのことに辟易している。「リベラルは鬱陶しい」と。よく見る光景である。

 

恐らく戦後のマンもこんな感じでドイツ国民にうざがられていたのだと想像がつく。アメリカで贅沢な亡命生活を送って、敗戦後の悲惨な国内状況を知らないのだから仕方ない。

 

しかし、マンのドイツ批判というのはその経歴から分かる通り、愛国心から来るものである。ドイツとドイツ文化を心の底から愛しているから批判するのであり、その面倒臭さは太宰を嫌悪する三島、手塚を嫌悪する宮崎に匹敵する。

 

マンは芸術家の政治無関心を批判した。そういえばTwitterで政治的発言をする作家、監督は多い。そして作家の政治的発言というのは政権批判である。それを見たファンは「大好きな作品の作者がゴリゴリの政治的発言をして萎えた」と嘆く。芸術家が政治に首突っ込むのを嫌がる人も多いだろう(というか多数派であろう)。

 

もしもトーマス・マンTwitterを開いたら、日本のアニメファンを批判するかもしれない。「政治から目を背けるな」と。そうなったら私は何と答えようか。もしかしたら何も答えられないかもしれない。返す言葉がないかもしれない。しかし、黙って受け入れるつもりも毛頭ない。敗戦を経てもなお、ナショナリズムを保てる日本人を羨ましく思っているに違いないからである。思い切って皮肉の一つでも言ってやるのも良い。

 

ワーグナーの中には、たくさんヒトラーもいますが、あなたもたくさんいますよ」と。

 

 

 

読み解き物語 その3

前回はこちら

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2019年1月

依然として魔の山読み解きは難航していた。気を紛らわすためにブッデンブロークスのキャラ一覧表など作ってみたが、結局こちらも難航したのでやめた。

 

Twitterやってたら、面白いアニメがあるとフォロワーの方に薦められたのが「輪るピングドラム」である。

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結果は賛否両論であった。「面白い!」と言ってくれる人もいれば、「ふざけるな!」と怒る人もいた。しかし、未だに当ブログで一番読まれているのはこの記事である。良いのか悪いのか決めるのは読者であって私ではない。8年前のアニメにこれだけ反応があるのは予想外だった。間違いなくピングドラムは名作なのだろう。

 

余談だが、このときコメント欄に「fufufufujitani教の信者」を名乗る方が現れ、色々教えてもらった。いつのまに宗教化したんだと驚いた。この方がのちに同志となる焼売氏であった。彼は幾原フォロワーらしいのでちょっぴり恐縮する。

 

2019年2月〜3月

何をしていたのか記憶がない。SAOと小林秀雄の悪口を言っていた気がする。

 

2019年4月〜6月

記憶がない。エクセル開いてウンウン唸っていたと思われる。6月に「青春ブタ野郎(以下略)」の劇場版を観に行ったくらい。隣に座っていた高校生が心配になるくらい号泣していた。「やはり俺の青春ラブコメ(以下略)」三期を見てて思うのだが、思春期ってこんなに感受性豊かだったのか。

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また6月はfufufufujitaniさんがゲーテファウスト」の解説を上げられた。これは大変な功績であった。のちの私の読み解きにも大いに活用される。改めて感謝申し上げる。

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2019年7月

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芥川の「歯車」解説を書く。もちろんこれは、新たな同志、焼売氏の「河童」「さらざんまい」の読み解きに影響を受けてのことだった。

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芥川の母はヒステリーだったらしく息子も晩年はかなり狂っている。ただ狂っているだけでなく理性が暴走しているのだから始末が悪い。全体構成も緊密すぎて気味が悪い。ただ彼の努力は無駄ではなかった。太宰や幾原が意志を継いでくれている。お疲れさまでした、という言葉を掛けてあげたいくらいだ。

 

それにしても、同志が増えたのは本当に喜ばしい。焼売氏はピングドラムの記事にコメントを下さった「fufufufujitani教の信者」であった。同名の別人の可能性もあるけれど。

 

またyuki氏が新たな同志として参加してくださった。

同志が増えてとても嬉しいものである。

 

2019年8月~9月

実績なし。

新海誠「天気の子」を見た。新たな同志流レ水さんが参加してくださった。

どうも「君の名は。」より構成が緊密であるらしい。年下の陽菜が年上のようにふるまっているのは面白いというか監督の性癖なのではと疑っている。私の予想では、新海監督の次回作は田舎が舞台なのだが、私の予想はあんまり当たらない。

 

同志が増えてくださったのはありがたい。

 

2019年10月~11月

 なんとなくまどマギについて語ってみたくなった。口語体で申し訳ないが一応上げておく。このころから文学は説明文、アニメは会話文で書くという謎のルールを自分で作っていた。会話文は書いていて楽ちんなのだ。

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またyuki氏が三島由紀夫金閣寺」の読み解きをアップされた。

 

特に三島の二元論についての論考はかなり参考にさせてもらった。感謝申し上げる。

 

2019年12月

魔の山」の進捗は依然として進まない。締め切りなどないのだが焦燥感にかられる。

yuki氏のツイートに刺激を受けてショーペンハウアー「意志と表象としての世界」ニーチェ悲劇の誕生」を読んだ。トーマス・マンは「非政治的人間の考察」という糞長いエッセイで「トニオ・クレーガーはニーチェの色が強い」旨のことを語っていた。

作家の言葉なんて信じてはいけないのだが、完全には無視できないと自分も思っていたので以前の記事から大幅に修正を加えて書き直した。

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まさに年内ギリギリ、大晦日にアップした訳なのだが、あんまり細部にこだわって長くなってしまったと若干後悔しているがまあ仕方ない。書いてしまったもんはどうにもならないので放っておく。

 

魔の山」の読み解きは全然進まないが、それなりに充足感を得たまま年越しを迎えた。

 

魔の山 追記その2

 

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「主人公ハンス・カストルプがホムンクルスである」というただこれだけのことに実質1年半掛かってしまった。

 

初読の段階でキャラ戦略がファウストなのではないかと疑っていたが、ファウスト最大の特徴である女好きがハンスにあんまりない。ショーシャ夫人に恋する辺りは非常にそれらしいのだが、女好きまでいかない。告白のシーンもショーシャが好きなのではなくショーシャの肉体が好きという印象を受ける。

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ドストエフスキーは「悪霊」でファウストに挑んでいる。この「悪霊」の読み解きが無ければ、今回の解説記事は作れなかった。最大のポイントは「基本的にキャラは二人一組だが、ホムンクルスのみ一人ワンセット」である。

 

それでもすぐに気づいたわけではなく、2019年10月NAVERにアップされてから半年くらい経ってようやく思いついた。

 

なぜこれほどまでに難航したのか考えてみたが、主人公という枠組みに囚われすぎていたのが原因であった。

 

神曲が下敷きなのだから主人公はダンテに対応するだろう」

ファウストが下敷きなのだから主人公はファウストに対応するだろう」

「悪霊が下敷きなのだから主人公はスタヴローギンに対応するだろう」

 

それはセオリーなのでだいたい間違っていないのだが、「魔の山」の解析では上手くいかなかった。キャラ戦略を読み解く上で主人公に囚われすぎてはいけない、ということは貴重な経験になったのでここでシェアしておきたい。まあ「ワルプルギスの夜」という分かりやすい章名でそのまんま下敷きにしている訳がない、と言われればそうであるが。

 

恐らくトニオ・クレーガーの原型もホムンクルスであろう。二人とも自分にないもの(市民・肉体)を欲している。ラストは海に近づくのも同様である。円環時間そのものは出てこないが、ソナタ形式はそもそも回帰的構造である。この辺を考察する気力は無いのでやめておく。

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そういえば「海辺のカフカ」で村上春樹はスメルジャコフを救おうとしている。春樹の描く主人公はどことなくスメルジャコフであり、もっと言うと「天人五衰」の安永透である。彼は別にドストエフスキーに批判的ではないが、これもスピンオフ戦略の一例であろう。

魔の山 追記その1

魔の山」では7という数字が鍵を握っている。これは下敷きとなっている神曲煉獄篇(七つの大罪)とファウスト第二部第二幕から来ている。なぜ7という数字が西洋人にとってここまで重要なのか、という淵源については依然として捜索中である。七つの大罪は枢要徳+対神徳が由来かなと思ったがイマイチ対応が悪い。fufufufujitani氏はメソポタミアの七賢人ではないかと、書かれていたが、メソポタミアの見識が足りていないので知っている方がいたら教えてくださると助かります。

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ゲーテは第二部第二幕において7=2+5に分類した。「狭いゴシック式の丸天井の部屋」と「実験室」の2章と古代のワルプルギスの夜の5章である。

魔の山は半分くらいファウスト批判である。ループ時間は人間を堕落させるので、契約結んで直線時間に帰ることも大切であると説く。

 

だからマンは7=5+2に分類した。

最初の第1章〜第5章が上巻、第6章〜第7章が下巻である。第5章のラストは「ワルプルギスの夜」である。最初の5章でワルプルギスやる。批判なのだから構成が裏返しになって当然なのである。

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物語全体の時間の流れはだんだん縮んでいると説明したが、細かく見ると伸びたり縮んだりしている。

例えば、セテムブリーニとナフタの議論はものすごく長いページ割かれていて、読むのに時間かかる。しかし、物語内の時間としてはさほど経過していない。会話が多いと時間経過が遅くなる。ちょうどドストエフスキーの作品があまり時間経過してないのと同じである。反対に、情景描写がつづくシーンはあっという間に数ヶ月経つ。トルストイは情景描写に長ける。「戦争と平和」をはじめ歴史絵巻はどんどん時間が進まなければ物語終わらない。

 

マンはこれらを上手く使いこなして時間の伸縮を表現した。凄いとは思うが、読者からするといい迷惑である。

 

 

 

読み解き物語 その2

前回

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2018年 7月

 

2週間後に返信が届いた。

 

・「雪」に出てくる二人の老婆はセテムブリーニとナフタに相当する

・「風立ちぬ」を見た流れで読んでみたが手強くて中断した

Twitterやっているのでそっちで連絡取ってほしい

 

という内容だった。

正直返信がくると思わなかったのでたいへん驚いた。もっと驚いたのはTwitterをやっていることだった。意外とヤングな人である。急いで検索したらfufufufujitaniなるアカウントが浮上した。主に経済方面のツイートが多く、「だから指環の解説ができたのだな」と合点がいった。

 

早速、フォローさせてもらい、読み解きライフが始まった。

 

「読み解きライフが始まった」といってもすぐに「魔の山」が読み解けるわけでもなく、脇に置きながら主にアニメの読み解きに取り組んでいた。

 

Twitter運用前から「週休二日~アニメと文学の分析~」(当時は別名だった記憶がある)のはてなブログを立ち上げていた。CLANNADやヴァイオレット・エヴァ―ガーデン(二つとも途中で挫折)を読み解いていた。この辺については「私の京アニ史」で語る。

 

2018年 7月~9月

7月~9月は涼宮ハルヒを見まくって、fufufufujitani氏の真似して表を作り、闘っていた。やってみて分かったのが、とてつもなく地道で、とてつもなく面倒で、とてつもなく疲れる作業であることだった。人間答えがあるのか見当がつかない努力はできない。はやくもへこたれそうであった。「どうやったら、うまく章立て表を作れますか?」と聞いてみたが、上手い方法はなく氏もかなり時間を掛けているようだった。やはり自分にはセンスが無いのだろうか、と落ち込んだが、氏曰く「感度は関係ない」とのことだった。少し希望が見える。

 

2018年 10月

ここいらで「魔の山」の主人公はファウストなんじゃないかと勘繰りだす。神曲煉獄篇を下敷きにしているのでダンテではあるのだろうが、どうもそれだけではないような気がしてならなかった。第5章には「ワルプルギスの夜」が出てくる。これで関係ないわけないだろう。そう決めつける反面、ハンス・カストルプはあまりファウストっぽくなかった。モヤモヤしたまま時間だけが過ぎた。

 

しかし、一つだけ前進があった。宮澤賢治注文の多い料理店」解説記事の完成である。

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なんで「注文」の読み解きをやったのかというと、セテムブリーニとナフタの議論を追うのに疲れていたときにfufufufujitani氏が鴎外「阿部一族」のNaverまとめをアップしたからである。解説読んですぐに本文も読んだ。かなり短い作品である。「自分もものすごい短い作品をやろう」ということで手元にあった「注文」の章立て表を作り始めた。

 

ラストシーンが紙幣批判を意味しているというのは、コンビニでお会計をしているときに思い浮かんだものである。手渡されたくしゃくしゃの野口英世を見て「何か」が脳内に降ってきたのを覚えている。だから私の手柄というより金髪の新人バイト君のおかげなのだが、ともかく一気呵成に一晩で書き上げてしまった。

 

これが文学作品としては初めての解説記事である。

 

fufufufujitani氏は「読み解き仲間は初めてできた」と喜んでくださった。これは衝撃的だった。

氏の一番古いブログ記事はカラマーゾフに関するもので、2010年だったと思う。8年間、読み解きを続けてきたという胆力とこれほど素晴らしい解説に大半の人間がろくすっぽ関心を示さなかったという事実に打ちのめされた。特に、後者は読み解きを広めていく上で無視することのできない、我々と所謂文学プロパーとの乖離である。

 

 このあと、アニメ記事を少し書いた。依然として「魔の山」の進捗が悪かったので、代わりに短編「トニオ・クレーガー」の章立て表を作る。

 

2018年 11月

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この辺で「いきなり長編に挑むのは危険なんでは?」と思い始める。そこで同じ作者の短編をやってみる。非常に堅苦しく胃もたれするほど濃い文章であるが、なかなか心に沁みる内容であった。

 

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その勢いのまま、もう一つの短編「ベニスに死す」にも挑む。こちらはヴィスコンティの映画で有名だったので内容はすんなり入ったが、素直に気持ち悪いという感想が出た。最後にアッシェンバッハが見たのは善悪の彼岸なのだろうが、とにかく古代ギリシャ世界に対する思い入れが強い。

 

2018年 12月

魔の山」のエクセルとにらめっこする毎日が続く。同時並行で読んでいた「ブッデンブローク家の人びと」の章立て表を作り始める。こちらもかなり長いが、ストーリーはかなり面白い。

 

特に進捗が無いまま大晦日を迎えた。

 

つづき

 

 

 

読み解き物語 その1

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トーマス・マン魔の山」の読み解きついにアップした。

 

ここまでくるのに2年かかった。2018年から読んでいるので、「注文の多い料理店」や「輪るピングドラム」よりもずっと前から読み解きしていたのである。脱線しすぎかもしれないが、全然突破口が出てこなかったのだから仕方ない。来るまで待つ。とにかく待つ。何が来るのか。ある時、ビビッと電流が走って、モヤモヤがパァッと晴れるのである。自分でもよく分かっていない。

 

神曲 煉獄篇」が下敷きになっていることはもうずっと前に、fufufufujitani氏が見抜いていた。

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この時点で半分は読み解けていたのである。他人の功績だが。あと半分を自分がやってしまおう、という魂胆であった。我ながらせこい人間である。

 

しかし、いざ自分でやってみると全然上手くいかない。まず読めない。エクセルで表を作ろうとしても細部が気になって進まない。

 

そもそも、なぜこの人は文学読むのにエクセル使っているのだろうか?

 

最初は凄く不思議だった。批評家でも文学研究者でもない彼の書いた解説記事は、しかし誰よりも説得力があった。説得力というよりも、彼だけがドストエフスキーとか太宰治といった文豪たちに立ち向かっていたことへの感動だった。他の優秀な人たちが優秀であるが故に避けるところを、彼だけががっぷり四つで戦っていた。その度胸がどこから湧いてくるのか理解できなかったが、どうもエクセルで作った章立て表及び登場人物一覧表にあるらしい。

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一度だけ、fufufufujitani氏が運営する「新よみとき草紙」にコメントを送ろうとしたが、なぜか反映されなかった。今思うとあれは私のアカウントに問題があったのだと思う。

 

依然として、苦しい時間が続いた。知恵熱が出るほど頭が煮えたぎり、エクセルでぽちぽちするのが死ぬほど面倒になった。「ワルプルギスの夜」とか「神の国の樹立」とか「セテムブリーニ」とか意味不明な単語が脳みそをぐるぐる旋回して、私の肉体を大いに疲弊させた。

 

我慢の限界であった。

 

私は立ち上がると「魔の山読み解けないんでアドバイスくれ」と、fufufufujitaniと名乗る正体不明の人物に電子メールを送信した。強く叩きすぎてエンターキーが悲鳴を上げた。その破壊音は状況を打破できたときに鳴るBGMみたいなものだと私は認識した。「ネットリテラシー」という言葉を知ったのは、もっとずっと後のことだった。

 

それは、2018年7月ーーサッカー日本代表がベルギーに惜敗し、西日本豪雨がワルプルギスばりに猛威を振るったとき。インターネットの片隅で何かが動き始めた。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

「読み解き物語 その2」から時系列で読み解き作業を振り返っていきます。

「魔の山」解説【トーマス・マン】

魔の山」は1924年に発表された長編小説です。第一次世界大戦を挟んで、ドイツ人作家トーマス・マンが10年かけて完成させた代表作です。

魔の山(上)(新潮文庫)

魔の山(上)(新潮文庫)

 

 

原題

魔の山」の原題はDer Zauberbergです。ドイツ語です。英語だとThe Magic Mountainになります。魔の山と聞くと、おどろおどろしく悪魔的ですが、Magicと聞くとポップな感じしますね。

 

 日本語訳のニュアンス→(悪)魔の山

英語訳のニュアンス→魔(法)の山

 (後述しますが、「魔(法)の山」は「錬金術の山」とするのがより適切です)

 

それで、どっちがDer Zauberbergに近いかというとThe Magic Mountainになります。 Zauberも「不思議な」という意味です。同じヨーロッパの言語ですから当たり前ですね。

 

しかし、個人的には「魔の山」という日本語訳もこの作品にふさわしいと考えています。魔法の山であり悪魔の山でもある、ということを踏まえていただくのが読解の第一歩になります。

 

長い、読みにくい、うんちく満載

Question Mark Shape Bokeh Backdrop : ストックフォト

難解として知られる作品ですので一回読んだだけでは理解するのは難しいです。が、そもそも一回読み切るのも難しいです。原因はたくさん考えられます。固有名詞の頻出、長ったらしい文章、いつまでも終わらない議論、緩慢なストーリー展開、、、挙げたらキリがありません。面白い箇所を見つける方が難しいです。あったとしても極々少量です。

 

試しに冒頭の一文を引用してみます。

 ここに物語ろうとするハンス・カストルプの話——これはハンス・カストルプのためにするのではなくて(やがて読者もおわかりになるであろうが、彼は人好きはするが単純な青年にすぎない)、ごく話し甲斐のありそうな話そのものためにするのである(もっとも、これが彼の話であること、そして誰にでもそれぞれの人なりのおもしろい話がもちあがるわけのものではないということ、これはハンス・カストルプのために言っておかねばならない)。

魔の山 上巻 トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫

 長い、長い。たった一文でこの長さ。しかもまどろっこしい。

 

そして、名作度と面白さは往々にして比例しません。だいたい芸術なんてそんなものです。だから「魔の山」を読んでつまらないと感じるのは自然なことです。というか作者は意図的につまらなく書いています。グダグダとダラダラと感じること自体は、作者の込めたニュアンスに沿っているから問題ないのです。

 

問題は「難解なのが良いんだよ」「つまらないのが逆に面白いんだよ」と認知を歪めてしまうことです。作者はわざと冗長に、緩慢に感じてほしくて書いています。それを快感であると思い込んで神聖化すると理解から遠のきます。「正直よく分からんけどトーマス・マンだから凄いのだろう」という結論に帰結します。

 

もう死んで久しい作家の作品です。素直な感想を包み隠さず読み進めていきましょう。

魔の山 [DVD]

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  • 発売日: 1999/03/25
  • メディア: DVD
 

 映画化されています。日本で売られているのは2時間半ダイジェスト版ですがドイツ版本編は5時間半もあるそうです。見る必要ありません。正直タルいです。有名な「雪」のシーンがあるのですが、セットがチープで萎えます。既に読破した者が確認で鑑賞する程度です。

 

それでは、あらすじの説明からはじめます。

 

あらすじVer1

Germany - Berlin - Berlin: Maxim-Gorki-Theatre ; play: The Magic Mountain (Der Zauberberg) by: Thomas Mann. director: Stefan Bachmann. premiere: 27. September 2008actors: Gunnar Teuber, Miguel Abrantes Ostrowski, Marek Harloff (Hans Castorp), Ruth Re : ニュース写真

主人公ハンス・カストルプが結核患者である従兄弟の住むサナトリウムへ赴きます。滞在するうちに自分も結核だと診断されて、そのまま山の上の人々と食べたり議論したりして過ごします。やがて7年が経過すると山を下りて、ハンスは第一次世界大戦へ従軍します。

 

おしまいです。我ながら綺麗にまとめられました。長編の割に大したことはしてません。表面的なストーリーはだいたいこんなもんです。

しかし、内容を深く吟味しようとすると難解かつ複雑で大変です。一つずつ構成要素を解きほぐしていきましょう。

 

ヒントは冒頭にあり

 冒頭、物語が始まる前に「まえがき」が書かれてあります。恐らくあとで足したものです。マンもさすがに難解しすぎたと思って、ヒントを残してくれました。

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この時点ですでに難しいのですが、内容ざっくり凝縮すると

1、7という数字が重要になってくること

2、この物語は過去であり、時間の二重性が主題であること

の2点になります。

それぞれ構成要素に関わってくるので覚えておいてください。

 

あらすじVer2

 Hiking in the mountains of Wakayama, Japan : ストックフォト

ハンス・カストルプはいとこのヨーアヒムのお見舞いのために、山地のサナトリウムに向かいます。汽車の窓から見える森の景色はひどく暗く鬱々としていました。

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サナトリウムでの生活は自由気ままで、ハンスは食事を楽しみ、本を読んで、眠って思う存分謳歌します。

食事は食堂にある七つのテーブルで食べることになっています。テーブルごとにグループが形成されています。高校生なんかが、仲の良い固定メンバーでお弁当食べるのと似てますね。

 

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ベルクホーフの人々はみな個性的ですが、特に、気になる人物が二人います。イタリアの文士セテムブリーニとロシアのショーシャ夫人です。セテムブリーニはハンスの教育係で、ショーシャはハンスが惚れた人妻です。

 

そうこうするうちに3週間の滞在のはずが、ハンスも結核と診断されます。ハンス内心嬉しそうです。モラトリアム万歳。

 Teenage girl walking out the front door of her house. Back view of her leaving the house. She is on her way to school, wearing a back pack and holding the door open. : ストックフォト

滞在から7ヶ月目のある日、謝肉祭の夜がやってきます。みんなコスプレをしてパーティーを楽しみます。テンション上がってはしゃいでいます。ハンスも釣られてテンション上がります。ついにショーシャ夫人に声を掛けます。さらに思い切って告白しますが、振られます。ショーシャはサナトリウムを去ります。

(第1章〜第5章 上巻 終了)

 

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下巻から新たな人物が登場します。セテムブリーニの論争相手ナフタです。セテムブリーニとナフタの議論を聴きながら、ハンスとヨーアヒムはサナトリウムで治療(という名の食っちゃ寝生活)を続けます。

 Father and daughter on sofa : ストックフォト

その後、医者の制止も聞かず山を下りたヨーアヒムが、すぐに戻ってきてそのまま死んだり、ショーシャが男を連れて戻ってくると、奇妙な三角関係ののちに、男が自殺したり、色々なことを経験しつつ堕落した生活を送ります。

 

三年目以降は、奇妙なオカルトでヨーアヒムを降霊させたり、蓄音器で音楽聴いたり、セテムブリーニとの決闘でナフタが自殺したりして7年の時を過ごします。

 第一次世界大戦 塹壕による長期化 | 趣味での独語

7年が経過すると、第一次世界大戦で世界は混乱に包まれていました。ハンスも召集されます。駅のホームで涙ぐむセテムブリーニと別れると、地獄と化した戦場の森で突撃していくハンス・カストルプの姿が見えます。生きて帰れる見込みは薄いです。さようなら、ハンス・カストルプ。

 

(第6章〜第7章 下巻 終了)

 

ハンスは最初24歳でしたが7年経つと31歳になります。冷静に考えると、長すぎるモラトリアムですね。

 

構成要素1:神曲 煉獄篇

 「魔の山」はダンテの「神曲 煉獄篇」を下敷きにしています。

dangodango.hatenadiary.jp

神曲」はイタリアの詩人ダンテが書いた作品で、地獄、煉獄、天国の三部作で構成されています。西洋文化の中でも最重要な古典の一つです。今回マンが取り上げたのは煉獄篇です。詳しくは上記記事を参考なのですが、以下の二つのことだけは最低でも知っておく必要があります。

 

①煉獄山

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引用:http://www.myllyteatteri.fi/Node/117

煉獄山は天国と地獄の中間施設です。大まかに七つの階層に分かれていて、そこで贖罪者が罪を清めています。ダンテは頂上にいるヒロイン・ベアトリーチェと会うために、伝説の詩人ウェルギリウスに導かれて山を登っていきます。

 

ここで覚えてもらいたいのは煉獄山の構造です。

画像の通り、各フロアは円形状で上に行くほど先細りになっています。また頂上には地上楽園という常春の草原のような景色が広がっています。

 

七つの大罪

 七つの各フロアでは、それぞれ七つの大罪を贖います。

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第一冠に始まり一定時間贖罪をすると上のフロアに登ることができます。最終的に七つの大罪すべてを贖うと山頂の地上楽園に入ります。犯罪者が懲役に入って年数経ったら出所できるのと同じです。

 

魔の山」で煉獄山に対応するのはアルプスにあるサナトリウム「ベルクホーフ」です。「(悪)魔の山」とは煉獄山のことだったんですね。

 

魔の山」で七つの大罪に対応するのは「七つの食卓」です。

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食堂のテーブルは全部で7つあります。テーブルに座るメンバーはある程度固定されていて、ハンスは一年周期でそれぞれのテーブルを回っていきます。

 

ちなみに、「最初は3週間の滞在だった」というのも3×7=21で煉獄篇の3×7構造を模しています。全体構成に取り入れるほどのガッツは無かったようですね。

 

yomitoki2.blogspot.com

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引用:http://yomitoki2.blogspot.com/2014/10/28.html

煉獄篇と魔の山の対応表を上記サイトから引用させていただきました。合わせてどうぞ。

 

 

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一応、主要キャラも対応しています。

 

ハンスが序盤のベルクホーフへ向かう車窓から見える鬱蒼とした森の風景は、地獄篇冒頭の「道半ばにして暗き森をさまよう」に対応しています。

またハンスの部屋が34号室なのですが、地獄篇は全部で34歌です。つまり物語は地獄篇終了後を描くということです。

 

セテムブリーニはイタリアの文士で、頼んでもないのにハンスの導き手になってくれます。彼はベルクホーフという煉獄山を案内するウェルギリウスです。

 

ショーシャはベアトリーチェです。これはセテムブリーニもからかい半分で指摘します。主人公と出会った直後、冷たい態度で接するのも似てますね。

 

他の登場人物も奇妙な行動を取る人が多く、煉獄の住人を彷彿とさせます。シュテール夫人といういつも発音がおかしい女性が出てきますが、ダンテがトスカーナ方言つまり俗語で執筆した、というのを踏まえれば無駄な描写ではないということが分かります。

 

構成要素2:ファウスト第二部第二幕

 「魔の山」の元ネタはもう一つあります。ゲーテファウスト」です。

note.com

 しかし、ファウスト全編を下敷きにしている訳ではありません。参照しているのは「古代のワルプルギスの夜」が出てくる、第二部第二幕です。

 

鍵となる数字「7」

 七つの大罪が出たように煉獄篇では7が重要な数字でしたが、ファウスト第二部第二幕は全7章で構成されています。

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引用:https://matome.naver.jp/odai/2156129037898203701?page=2

神曲 煉獄篇」と「ファウスト(第二部第二幕)」が7という数字を介して繋げているのです。部分的にではありますが。

 

キャラ戦略

このように「ファウスト」の影響が強い「魔の山」ですが、キャラクター配置も同様です。下記の表は登場人物一覧表です。

 

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ただし、主人公ハンスに対応するのはファウストではありません。第二部に登場する人造人間ホムンクルスです。セテムブリーニは作中で仄めかされているようにメフィストフェレスです。また、いとこのヨーアヒムはヴァレンティンです。

 

実はこのキャラ配置、ドストエフスキー「悪霊」が元ネタです。

note.com

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引用:https://note.com/fufufufujitani/n/n0eaf0945da0d?magazine_key=m455b32f0875f

上の表の通り、悪霊はファウストを下敷きにしています。その悪霊をドイツ人のマンが下敷きにします。ドイツとロシア、二つの国による一大キャラ戦略プロジェクト、それが「魔の山」なのです。

 

みんな2人1組なのに、ホムンクルスが一人だけというのも継承しています。マンが「悪霊」を読み込み、その奥底にファウストがあることを理解している証拠です。彼、ドスト好きみたいですね。

 

ハンス・カストル

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ハンス・カストルプは造船会社に内定しているエンジニアの卵です。おしゃべりで、うんちく好きで、その割に中立的です。作中で何度も繰り広げられる議論でも一貫してニュートラルな立場を取ります。

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ショーシャ夫人へ愛の告白するシーンでは、彼女の肉体が欲しいと言い、跪いて膝にキスさせて欲しいと懇願します。初めての会話でいきなり告白しちゃうのです。若いというか拗らせてますね。結局、振られてショーシャは山を下りてしまいます。

 

あと理屈っぽいせいなのか男らしくありません。ショーシャ夫人が男を連れて戻ってきた時も、嫉妬するどころかその男をリスペクトする始末です。そんな彼を見てショーシャは少しやきもきします。

 

主人公ハンスはホムンクルスと対応しているのですが、ホムンクルスについての説明を引用します。

蒸留器に人間の精液を入れて(それと数種類のハーブと糞を入れる説もある)40日密閉し腐敗させると、透明でヒトの形をした物質ではないものがあらわれる。それに毎日人間の血液を与え、馬の胎内と同等の温度で保温し、40週間保存すると人間の子供ができる。ただし体躯は人間のそれに比するとずっと小さいという

ホムンクルスは、生まれながらにしてあらゆる知識を身に付けているという。また一説によるとホムンクルスはフラスコ内でしか生存できないという。

 

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9

 

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引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Faust_image_19thcentury.jpg

ファウスト」でも科学者ワーグネルがホムンクルス生成に成功します。

 

 ここで「魔の山というタイトルは魔法の山という意味である」ことを思い出してください。

魔法とは錬金術のことです。ホムンクルスがフラスコに一定期間、密閉されることで誕生するように、ハンス・カストルプもサナトリウムに密閉されることで人間として成長します。

現に、ハンスはサナトリウムに到着してから従軍するまで一度も途中下山をしておりません。

 

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引用:https://livedoor.blogimg.jp/mement_mori_6/imgs/7/0/7028b387.jpg

そういえば、フラスコも先細りで断面が円形ですね。煉獄山の形状と似ています。魔の山とは煉獄山でありフラスコでもあるようです。錬金術は近代化学の基礎になりましたから、ある意味宗教と科学が合体していると言えます。

 

ホムンクルスはワーグネルの錬金術で誕生し、ファウストともにタイムリープして古代ギリシアの海に沈んで死にます。

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詳細なホムンクルスとハンス・カストルプの対応表(ついでに悪霊のキリーロフも)です。

かなり「文学的に」言い換えられています。

ホムンクルスは精神だけの光の玉の状態で肉体を手に入れて人間として出来上がりたいと願っています。つまり半人前です。セテムブリーニがハンスを指して言う「人生の厄介息子」とは半人前だということです。

また、ホムンクルスもハンスもおしゃべりです。よくしゃべるのをセテムブリー二(メフィスト)に咎められます。

 

ヨーアヒムとペーペルコルン

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ヴァレンティンはファウストの恋人グレートヘンの兄です。職業は軍人です。妹をたぶらかしたファウスト(とメフィスト)に挑んで死にます。直線的な熱血タイプです。実はヴァレンティンはファウストの全編の中で出番が少ないのです。

 

ヨーアヒム

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ヨーアヒムはハンスのいとこで、軍人見習いの好青年です。結核と診断され、サナトリウムで療養しています。軍務を全うできていないことにフラストレーションを感じています。ハンスが彼を見舞うことから物語は始まります。物語後半で、軍人の夢を捨てきれず、なかば強引に退院してしまいます。結局、症状を悪化させて舞い戻ってきて程なく死んでしまいます。普段は静かで議論に参加しませんが、直線的な熱血タイプです。

 

ちなみに、6-8のタイトル「勇敢な軍人として」はヴァレンティンの最期の言葉から来ています。

 

ペーペルコルン

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ヨーアヒムの死後つまり第七章から登場するのがペーペルコルンです。老人ですが恰幅が良くてカリスマ性があります。ショーシャの愛人です。

 

ハンスから軍人的だと評されます。また本来恋敵であるはずですが、なぜかハンスは好意的に接します。これもヴァレンティン族つまりヨーアヒムと同じ属性だからですね。

 

ちなみにモデルはノーベル文学賞取った劇作家のハウプトマンだそうです。マンの先輩ですね。

 

セテムブリーニとナフタ

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悪魔メフィストフェレスファウストと契約を結んで彼の魂を奪おうとします。その代わりファウストの願いはドラえもんばりに何でも叶えてくれます。

 

 セテムブリーニ(あんまり似てないです。。。)

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セテムブリーニはイタリアの文士で、フリーメイソンに所属しています。ハンスに負けず劣らずの議論好きです。ハンスを「人生の厄介息子」と呼んで導き手になると宣言。お節介ですね。進歩的な知識人で、自由や理性を愛し、民主主義を擁護します。つまりリベラル派です。キャラ濃いですね。。。

 

セテムブリーニはメフィストのようにからかってきますが、基本的にウェルギリウス役としてハンスを導いてくれます。

 

ナフタ

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 ナフタはオーストリア生まれのユダヤ人で、イエズス会に所属している神父見習いです。醜い小男ですがもっと印象的なのはその思想です。非合理主義を唱え、「拷問は理性的」と主張し、テロによる神の国の樹立望みます。危険です。かなりの危険人物ですが、セテムブリーニと論戦できるくらいの知性の持ち主です。二人の議論が良くも悪くもこの作品の特徴です。

 

意外にも登場するのは第6章からです。下巻からの登場のわりに存在感が凄いです。セテムブリーニよりナフタの方がメフィストっぽいかもしれません。

なんやかんやあって、セテムブリーニと決闘して自殺します。

 

 ショーシャとヒッペ

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ガラテアはファウスト第二部「古代のワルプルギスの夜」に出てくる女神です。海神ネーレウスの娘で年に一度だけ父親と邂逅しますが、すぐに去ってしまいます。それを見たホムンクルスは彼女の足元の海に溶け込んで、人間へ進化しようとします。

 

ショーシャ

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本作のヒロインです。

ロシア人の既婚者で、ハンスは彼女に激しく惹かれます。ロシア人といってもヨーロッパ系ではなくアジア系の顔立ちです。作中で何度も「タタール人に似た」「キルギス人のような眼」と形容されます(キルギス人は日本人とよく似てますね、関係ないですけど)。つまり、「悪霊」のリザヴェータと同じくアジア的世界観の女性、つまり円環時間の象徴です。

 

また、ショーシャは人妻である点からヘレネー要素も含まれています。ヘレネーは古代ギリシャの美女で、人妻でしたがファウストが略奪。その後ファウストとの子供が事故死すると冥界へ行きます(=死)。

 

ヒッペ

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ヒッペはハンスが幼い時に一度だけ鉛筆を借りた男の子です。鉛筆の貸借以外にこれといった思い出はないのですが、目がショーシャによく似ていることが判明します。ヒッペは鉛筆を貸したあと、すぐに転校してしまいます。

 

ショーシャとヒッペは目が似ているのもありますが、「主人公と出会ってすぐ別れる」という特徴を持ちます。そして、これはガラテアの属性を引き継いでいると言えます。

 

ベーレンスとクロコフスキー

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ワーグネルは科学者でファウストの弟子です。彼はホムンクルスの生成に成功します。つまりホムンクルスにとっては父親に当たる人物です。

ベーレンス

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 ベーレンスはベルクホーフの顧問官、つまりサナトリウムの院長である医師です。ハンスは彼を「父親的権威」と呼びます。ホムンクルスの父親ですから、彼はファウストの弟子の科学者ワーグネルです。父親ですから、ハンスに対して時に厳しく、時に情けをかけて接します。

 

クロコフスキー

クロコフスキーも医師で、精神分析や愛についての講演をしています。第7章でエレン・ブランドという少女に接する態度が父親のようだと描写されます。

 

疲れてしまったので、以降は割愛します。

 

スピンオフ

ホムンクルスもヴァレンティンもメインキャラではありますが主役ではありません。あくまでも脇役です。このことについて、冒頭と結末に暗示している部分があります。

冒頭から引用

ここに物語ろうとするハンス・カストルプの話——これはハンス・カストルプのためにするのではなくて(やがて読者もおわかりになるであろうが、彼は人好きはするが単純な青年にすぎない)、ごく話し甲斐のありそうな話そのものためにするのである(もっとも、これが彼の話であること、そして誰にでもそれぞれの人なりのおもしろい話がもちあがるわけのものではないということ、これはハンス・カストルプのために言っておかねばならない)。

魔の山 上巻 P.9 トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫

これはさきほども引用しました。

 

7-10から引用

 さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子。君の物語は終った。私たちは君の物語を語り終えた。短くも長くもない、錬金術的な物語だった。私たちは物語のために話したのであって、君のために話したのではなかった。なぜなら、君は単純な人間なのだから。だが、考えてみればこれは結局君の物語であった。

魔の山 下巻 P.789~790 トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫

冒頭と結末で同じような内容の文章が出てきます。ということは作者が伝えたいメッセージであるということです。 

 

言い換えます。

 

「さようなら、ホムンクルス、半人前の息子。君の物語は終わった。短くも長くもない、フラスコの中の君が生成されるまでの錬金術的な物語であった。私たちは『神曲』や『ファウスト』を下敷きにするために君を主役にしたのであって、君はあくまでも脇役に過ぎなかった。なぜなら、君はホムンクルスなのだから。だが、考えてみれば『魔の山』は結局ホムンクルスが主役の物語であった。」

 

ファウスト」は主人公ファウストのための物語であってホムンクルスのためではありません。

古今東西、スピンオフは盛んに行われているようです。踊る大捜査線シリーズもあとから「交渉人真下正義」とか「容疑者室井慎次」とか作っていました。

 

そしてスピンオフをやる上で注意しなければならないのは、原作の主要キャラをあまり出しすぎないことです。 「交渉人真下正義」「容疑者室井慎次」に織田裕二が出てきたら観客はそっちに目が移ってスピンオフの意味なしです。ほんのわずかな程度の範囲でしか登場させないのが鉄則です。

 

魔の山」でも、主役ファウストに当たるキャラは登場しませんし、グレートヘンはかなりの脇役です。

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「悪霊」と同様に死んでいくキャラが多いです。

 

章立て表

 ここで章立て表を確認します。

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導入と7-1海辺の散歩は、物語から脱線しているので青で示しました。導入は物語を解くヒント、7-1は時間と空間に関する論考になっています。


長編は往々にして、構成が緩くなるコントロールが効かないものですが、マンも例外ではなかったようです。

しかし、部分的に構成にこだわっている箇所ありますので、次の項目で説明します。

 

ワルプルギス・ループ

ワルプルギス・ループは、ファウスト第二部第二幕のループ構成のことを便宜上、そう呼んでおきます。

 

ワルプルギス・ループは全部で7回あります。1年に1回のペースで発生します。それぞれ見ていきましょう。

 

1年目

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第二部第二幕は話の流れでループ時間を表現しています。

第二幕全体で理論の流れを見てみましょう。

1、若いものは年寄りより進歩していると思っている。
2、研究者が人造人間を作る
3、生まれたての人造人間はファウストメフィストと一緒に古代世界にタイムトリップする
4、人造人間は「人間として出来上がりたい」と希望して、古代の海に溶け込んで消える。その後時間をかけて人間になると思われる。

引用:https://note.com/fufufufujitani/n/n105415e6658f?magazine_key=m455b32f0875f

となっています。マンはこれを応用してワルプルギス・ループを作りました。

 

5-7でハンスは生理学などの科学の専門書を読みます。本文でも科学的記述がつらつらと続いて読みづらいですが、読んでいくと何だか賢くなってきている気がします。ハンスも科学の最先端を知ったと思って増長します。

 

5-9で増長しまくったハンスは謝肉祭の夜、セテムブリーニに皮肉を言って反発します。ここがメフィストフェレスと増長した学生に対応しています。

 

謝肉祭の夜はみんなコスプレして妖艶な雰囲気出ていて、ファウスト第一部の「ワルプルギスの夜」を彷彿とさせますが、これはフェイクです。

 

ハンスはセテムブリーニの制止を聞かず、ショーシャの方へ向かいます。ガラテアとホムンクルスの邂逅、すなわちループ時間が強まります。

 

ショーシャにゾッコンのハンスは、意を決して彼女に話しかけます。割と素っ気ない対応をするショーシャですが、ハンスの心は舞い上がります。会話が進むにつれ、感情は極限まで高まっていきます。

 

が、ショーシャは次の日にサナトリウムを去ることを告げます。出会ったばかりなのにもうお別れです。やけっぱちになったハンスは愛の告白をします。彼女に跪いて「君の肉体が欲しい」「死なせてくれたまえ」などと口走ります。恋愛慣れてないのでしょう。当然彼は振られますが、去り際に「鉛筆忘れずに返してね」とショーシャが呟きます。

 

これらはショーシャのガラテア要素が前面に出たシーンです。

 

また前段階としてハンスが夢で見たヒッペとの過去があります。

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すぐ去るのと約束を結ぶあたり、ショーシャと対応しているのが分かります。

 

2年目

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2年目に入っても植物学的記述やセテムブリーニとナフタの議論でハンスはどんどん知識を身に着けて増長していきます。

 

ヨーアヒムとの別れのあと、6-7雪でハンスはスキーに出かけます。死への親近感から奥に進んでいって遭難します。吹雪が吹き荒れる中、彼は夢を見ます。古代ギリシャの海辺のようです。健康的な若者たちが笑い合っている幸せな風景です。

 

後ろを振り返ると、神殿が立っています。中にはいっていくと母娘の像があり、さらに進むと、炎の中で醜い老婆が胎児を貪り食っています。ハンスは気分が悪くなり、目を覚まします。そして、死の危機を脱してサナトリウムに戻っていきます。

 

ここで、二人の老婆とはセテムブリーニとナフタを指します。となると胎児はハンス自身です。章全体の流れを考えると、二人の議論は結局どうどう巡りで答えなんてない、ということを言いたいのだと思われます。

 

3年目

ヨーアヒムの死後、ペーペルコルンがショーシャを連れて登場します。コーヒー園を営むオランダ生まれの老人です。

 

ペーペルコルンはそのカリスマ性でサナトリウムの支配者に君臨します。セテムブリーニとナフタは得意の議論で対抗しますが、彼の演説の前に面目を潰され存在感を失います。

 

ハンスは恋敵である彼とバチバチすると思いきや仲良く接します。

 

 

 

4年目

7-6巨大なる鈍感

ハンスはベーレンスにと診断されます。そこから医学的記述がしばらく続きます。

 

サナトリウムで周期的に流行するゲームについてです。

 

5年目

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7-7ではベーレンスが蓄音機を持ってきました。この当時最新の蓄音機です。ベーレンスはワーグネル役なので、この蓄音機はホムンクルスということになります。蓄音機なので登場人物一覧表には載せませんでした。

 

蓄音機はもちろんレコードをセットして回すことで音楽を流します。音楽にはもちろん肉体どころか物質はありません。となると正確には、音楽=ホムンクルスの精神、レコード=ホムンクルスの光、蓄音機=フラスコということになりますね。そこまで考える必要ないかもですけど。

 

6年目

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7-8では降霊体験についての話です。かなりオカルト染みてて読むに耐えないですが、錬金術もオカルトの部類なので仕方ありません。

7年目

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7年目は7-9立腹病です。

サナトリウムで喧嘩が流行ってます。些細なことで殴り合いが起きたり、悪口合戦が勃発します。いつも議論しているセテムブリーニとナフタも例外ではありませんでした。

 

科学に意義に関する議論で、ナフタはセテムブリーニを小馬鹿にします。そのくらいなら日常茶飯事なのですが、そこからテンション上がりすぎて二人は決闘の約束をします。やりすぎです。いつもハンスと傍観しているフェルゲとヴェーザルもセテムブリーニとナフタの陣営に分かれて、決闘の準備をします。ハンスだけが中立です。

 

決闘前にセテムブリーニは「決闘は原始的」と言います。科学の進歩を扱った高尚な議論の決着は原始的な決闘に委ねられます。ここでは二人の対決方法がループしています。

 

いよいよ二人はピストルを構えて対峙します。しかし、セテムブリーニは空に向けて弾を放ちます。さすがは理性の象徴、最後は正気に戻ります。

 

ナフタは彼に「卑怯者!」と「きわめて人間的な叫び」をします。そして自分の頭にピストルを打って死にます。

 

この「きわめて人間的な叫び」と形容するのには理由があります。「悪霊」においてピストル自殺するのはキリーロフです。キリーロフは自殺する着前、動物化します。ここでナフタはキリーロフ=ホムンクルスとなっています。

 

しかし、ナフタは動物化しませんでした。過激な思想の持ち主ではありましたが、イエズス会士として神への信仰を最後まで失いませんでした。これがキリーロフとの違いです。

 

もっとも自殺したことには変わらないのです。だからセテムブリーニは嘆きます「これが神への愛からなされたことか」と。

 

ループの失敗=煉獄山を登る

合計7回のループを見てきましたが、いずれも最後は失敗に終わります。そして次の年のループが始まり、また失敗して、、、とループは完成しません。

 

「悪霊」が円環時間と直線時間のどちらとも結論出せなかったように、「魔の山」もどちらが良いのか結論出せませんでした。そうしてマンが苦肉の策として考えたのが二つの時間観の折衷でした。具体的には「螺旋状に上がっていく」時間です。

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引用:http://w3e.kanazawa-it.ac.jp/math/physics/category/mechanics/motion/rotational_motion/henkan-tex.cgi?target=/math/physics/category/mechanics/motion/rotational_motion/helical_motion.html

ダンテは煉獄山を右回りに螺旋状に上がっていきます。螺旋状なので、回りながらもループは完結せず上に登っていくことになります。真上から見ればループしてますが、上に向かって直線的に歩みを進めている、とも捉えることができます。なかなか賢いアイデアですね。

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引用:有元利夫 / 『花降る日』(1977) 三番町小川美術館蔵

構成要素3:時間の伸び縮み

 

作中で「時間の伸び縮み」という現象が頻繁に出てきます。数分の会話を何十ページにも渡って続けると思えば、たった数行で何ヶ月も経っていたりします。

 

もっと具体的に言うと、一年経つごとに時間の縮みが増す、つまり時間の流れが速くなります。

 

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一年目は1-1から6-3まで(上巻丸々プラス下巻166ページまで)

二年目は6-4から6-8まで

三年目は7-2から7-5まで

四年目は...

 

というように一年に対してかける章数がどんどん少なくなります。細部では時間が伸び縮みしてますが、物語全体で見ますと時間はどんどん縮んでいくことが分かります。

普通、七年間描くとしたら、一年に割く量はそれぞれ均等になるようにします。その方がバランスが良いからです。

 

このことについて、説明しているのが7-1「海辺の散歩」です。物語の途中で、唐突に時間論が展開されます。読者が混乱しないようにわざわざページを割いてくれています。しかし、書き方が難解なので読んでもよく分かりません。ありがた迷惑とはこのことです。

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 要約すると

1)物語には内容時間と鑑賞時間の二種類があり、二つは必ずしも一致しないこと

2)ここから先、ますます時間感覚が狂って、物語内の時間、何年目の何月であるか明記しないから注意すること

3)海辺のような単調な空間では、時間と空間の区別が消滅して、運動が運動でなくなれば時間もなくなってしまうこと

 

が述べられています。

 

1)~3)について説明していきます。

 

1)物語には内容時間と鑑賞時間の二種類があり、二つは必ずしも一致しないこと

こちらが冒頭の「時間の二重性」を指します。内容時間と鑑賞時間の違いについて、例を挙げてみます。

 

例:主人公の高校生活3年間を描く2時間の映画

内容時間=3年間

鑑賞時間=2時間

 

鑑賞時間は見てる側の時間なので、メタっぽいですね。こういう感じで両者は必ずしも一致しません。というか一致しないのがほとんどです。

他にも、

「一夜のうちに夢の中で何百年の歴史を体験する」なんかだと

内容時間=何百年

鑑賞時間=一夜

となります。

 

youtu.be

 

ちなみに、音楽、特に器楽曲には鑑賞時間しかありません。音楽に明快な意味など存在しないので内容時間がないのです。確実に言えることは「鑑賞者が一定時間拘束されたこと」です。3分のワルツなら3分の時間、ブルックナー交響曲第九番なら約1時間の時間、ジョン・ケージ4分33秒なら4分33秒の時間、鑑賞者は拘束されます。

 

小説なら読者によって読むスピードは異なりますし、栞を挟んで次の日に回すこともできます。つまり、鑑賞時間が生じるのです。

note.com

(というようなことを書かれているのがfufufufujitani氏のコミュニケーション・サークル論です。興味のある方は是非)

 

2)ここから先、ますます時間感覚が狂って、物語内の時間、何年目の何月であるか明記しないから注意すること

物語開始当初は「今は8月で~」とか「1年目の冬が~」とか書いてくれていたのですが、第6章からだんだん少なくなり、滞在してからどのくらい経ったのか分からなくなり、7-1以降は明記しなくなります。「三週間が経過して~」「何か月か過ぎて~」のような曖昧な記述しか書かなくなりますので、読者は時間経過が把握できずに混乱します。そして、7-10でいきなり「七年間、ハンス・カストルプはここの上にいた。」という文章にぶつかるのです。

 

作中でハンスは時間感覚が狂っていくのを感じますが、実は読者の時間感覚も狂わされていくのです。

 

 

3)海辺のような単調な空間では、時間と空間の区別が消滅して、運動が運動でなくなれば時間もなくなってしまうこと

これはアインシュタインの「相対性理論」を指しています。

なんで「相対性理論」を出してくるのか、というと煉獄山が上に行くほど先細りになる構造をしているからです。各フロアが円形になっているのを、「魔の山」では一年周期という円環で喩えています。同じ一年間を描くにしてもページ数を減らせば、サイクルが短くなる=円が小さくなります。物語の内容時間は一緒でも鑑賞時間が減っているのです。

 

「時間の伸縮は分かったけど、煉獄山の構造(=空間)と滞在期間7年(=時間)は別物だから比喩として間違っているんじゃない?」

 

という鋭い質問が飛んできそうです。

ここで、アインシュタインの「相対性理論」を思い出します。

 相対性理論の話を始めると長くなってしまいますので、ざっくり捉えると

特殊相対性理論

→止まっている人から見ると、光速で動いている人の時計が示す時間は遅れている

 →時間は観測者ごとに存在する

→時空(=時間と空間の一体化)は観測者の運動状態によって、伸び縮みする

 

一般相対性理論

→重力も時間を遅らせる原因

→重力は地球の中心から離れるほど弱くなる

→例えば、地上の時計はエベレストの山頂の時計と比べて遅れている

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引用:http://www.myllyteatteri.fi/Node/117

相対性理論に則ると、煉獄山の山頂に近づくほど時間の進みが速くなる、つまり時間は縮んでいることになります。物理学を援用することで、煉獄山の構造を巧みに表現しています。まさに、時間小説(Zeitroman)と呼ぶにふさわしいです。

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もちろん、舞台となっているスイスのダヴォスは標高1500mくらいなので、相対時間はほぼ生じませんが、「文学的表現」ということで勘弁していただければと思います。

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 アインシュタインユダヤ人です。そういえばナフタもユダヤ人でした。前者は科学者、後者は宗教家。ナフタは科学を「無神論的似非宗教」と徹底的に批判します。特に、宇宙の神秘を解明する行為はニヒリズムに陥ると警鐘を鳴らしています。まあアインシュタインも「宇宙的宗教感覚」を持っていたようですし、そもそも神学が無ければ科学の進歩もなかったでしょう。

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二元論

魔の山」には二項対立が大量に出てきます。その中でも重要なのは「精神と肉体」の二項対立、二元論です。

 

二元論というと「トニオ・クレーガー」を思い出しますね。

dangodango.hatenadiary.jp

 火の中から生まれたホムンクルスには肉体がなく精神だけの光の玉の状態です。タイムリープして肉体を欲してガラテアの足元に沈んでいきます。火と水の二項対立です。

 

これ以外にも様々な二項対立が大量に出てきます。あまりに多くて紹介しきれませんが、ハンス・カストルプがトニオ・クレーガーの変化形であることは確かです。

 

みんな実はホムンクルス

ワルプルギス・ループの考え方でいくと、途中下山して死んだヨーアヒム、自殺したペーペルコルン、人間的な叫びを放って頭に弾丸を撃ったナフタ、みなホムンクルスということになります。

 

そもそもサナトリウムの人間は結核を患っています。この当時結核は不治の病ですので、みな死に瀕している状態です。ホムンクルスには肉体がありませんでしたが、患者の肉体も存在はしますが危機的状況にあります。

 

さらにメインキャラほぼ全員がホムンクルスと共通点を持っています。

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散々「人生の厄介息子」と説教していたセテムブリーニも百科事典を作成中の半人前です。ヨーアヒムは途中下山した、つまりまだ不完全なのにフラスコから出てしまったために死にます。ホムンクルス生成失敗です。

 

それぞれ目標は違えど、一人前になろうともがいていた点ではホムンクルスなのです。夢半ばで病に倒れた魂たちなのです。スピンオフの項目で述べた通り、「『魔の山』は結局ホムンクルスが主役の物語だった」となるわけです。

 

例外は、ショーシャとベーレンスですが、彼らはガラテアとワーグネルなので該当しないのでしょう。

 

もっとも、これだとキャラ戦略が複雑なりすぎて効果が薄くなってしまいます。現にドストエフスキーほどの引き込まれる感じありません。秀才が天才の真似をして失敗した、というのが実態でしょう。

 

 第一次世界大戦

ベルクホーフは国際色豊かな施設で登場人物の出身も様々です。

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 イタリアのセテムブリーニとオーストリアのナフタが議論の末、決闘をします。大戦前、イタリアとオーストリアは領土問題を起こしていました。

 

その他、対応を考えれば当時のヨーロッパ情勢が見えてくると思われますが、限界が来たのでこの辺にしておきます。

 

ファウスト批判=ドイツ批判

 キャラ配置で見たように「魔の山」は「ファウスト」を典拠にしながら、ファウストに該当する人物がいません。肝心の主人公が不在なのです。それは批判を行いたいからです。

 

ファウスト」ではキリスト教道徳からの解放を描いています。具体的には、ループ時間の採用と、土地干拓=生活空間の拡大です。「魔の山」はこれに異議を唱えているのでその反対を描きました。

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またマンの批判はファウストにとどまらずドイツ文化にまでゆきます。「魔の山」が執筆されたとき第一次世界大戦はドイツの敗北で終結しており、ワイマール共和国が誕生しています。世界でもっとも民主的な国を非政治的なドイツ国民がいかにして守っていくのか。マンの答えは「フランスを見習え」でした。

 

5-9「ワルプルギスの夜」でもハンスとショーシャの会話はフランス語でした。ロシア人のショーシャがフランス語しか分からないというのもありますが。

 

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 7-7「妙音の饗宴」にて、蓄音機の主となったハンスは5つの曲を聴きます。ラインナップ見ると、フランス人作曲家が多いですね。

 

ここで注目すべきは、4番目のグノーのオペラ「ファウスト」の「ヴァレンティンの祈り」です。

Nellie Melba In The Role Of Marguerite In Faust In 1920 : ニュース写真

このグノー版ファウストは内容は第一部のみで原作と結末違っています。当然ドイツ人から評判悪いみたいです。もっとも原作版が要素詰め込みだったのに対し、恋愛劇に絞って作られたので「面白さ」ではグノーの方が上です。

 

「フランス人がドイツが誇るゲーテに曲をつけている」これだけでドイツ人は気に食わないようですが、戦争で負けてフランスに占領され、民主化されたドイツの姿と被るものがあります。「悔しいけど民主化されましょう。グノーのファウストが評価されているように、ワイマール共和国だって素晴らしいものですよ」とでもマンは言いたいのでしょう。かつて兄貴ハインリヒ・マンを「フランス贔屓」「文明の文士」と蔑んでいた保守派のトーマス・マンは消えて、兄貴そっくりの左翼になった姿がそこにはありました。

 

時勢を読めるあたりしたたかですが、こういう八方美人な態度が後年、ドイツで居場所を無くす原因でもあります。

 

 愛国心

 では、トーマス・マンはドイツへの愛を失ってしまったのでしょうか。

 

7-10霹靂では、ハンスは戦場である森を行軍しています。本来、煉獄山の頂上には地上楽園があるはずなのですが、ハンスの眼前には、第一次世界大戦という名の地獄が広がっていました。煉獄山を登った先は再び地獄だったのです。

 

「彼は魔法を解かれ、救い出され、自由になったのだと知った」という文章があることから大戦勃発によって錬金術による生成が終了したことが分かります。ついに、フラスコの中から、魔の山から出るのです。

 

そして戦場にはハンスと同じような「人生の厄介息子」たちが数多く従軍しています。彼らは祖国ドイツのために戦います。魔の山執筆時はすでにドイツは敗戦していたので彼らの奮戦は虚しいものです。ここで「ファウスト」のラストを思い出していただきます。

 

ファウスト」のラストはホムンクルスやその他幼くして死んだ子供たちの魂がファウストを救い出します。

 

となると「魔の山」結末の意味は、

 

「ハンス・カストルプや死んだヨーアヒム、戦場で戦っている若きドイツ兵たち。これらはみなホムンクルスであり、彼らの魂が悪魔の手に落ちかけているファウスト=ドイツの魂を救い出してくれるだろう」

 

となります。

 

国際色豊かで愛と善意のヒューマニズムを描いたと評される作品の裏側には、強烈な愛国心が隠れていました。死んだ将兵の魂は無駄ではなかった。敗北したドイツの魂を救ってくれるのはきっと彼らに違いない。マンの秘めたる想いが伝わってきます。

 

ここで、もう一度蓄音機で流したプレイリストを確認します。

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最後の選曲はシューベルト菩提樹」です。

彼は歌曲の王と呼ばれるほどの作曲家ですが、ゲーテの作品に数多く曲を付けたことでも有名です。とはいえ生前、ゲーテから認められることは無かったようですが。

 

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さらにハンスは戦場で「菩提樹」を口ずさみます。

 

youtu.be

シューベルトが亡くなったのは31歳。

ハンスが出征したのは24+7=31歳。

 

もしかするとマンはハンス・カストルプを通して、自分をシューベルトと重ねていたのかもしれません。偉大なゲーテへの愛憎を込めて。

 

問題点

 と、ここまでまとめてみると、「魔の山」の凄さと同時に問題点も見えてきます。

・キャラ配置が複雑で効果が薄くなっている

「悪霊」を参考にしたキャラ配置をしたのは良かったのですが、主要キャラをホムンクルスに包括するのはやりすぎです。

 

・中庸の思想が八方美人になる危険性

トニオ・クレーガーもそうでしたが、二元論の中間、中庸を取るというのは確かに解決策になります。しかし同時に日和見で、どっちつかずの八方美人になる危険性も十分あります。

 

現に作者は大戦中はゴリゴリの保守派だったのに、戦後は民主主義を擁護する発言をします。インテリはともかく大衆は相当癪に触ったのではないかと予想できます。

 

(保守派時代のマンを知りたい方は「非政治的人間の考察」というアホみたいに長いエッセイを読んでください。大部分は「お兄ちゃんの馬鹿!」レベルの口喧嘩ですが、ドイツ人に対する考察はおもしろいです。タイトルはニーチェ「反時代的考察」にあやかってますね)

 

・ペーパーマネー問題への関心の薄さ

魔の山」はファウストの中でも「古代のワルプルギスの夜」に焦点絞っています。ワルプルギスは確かに有名で盛り上がりますが、「ファウスト」のテーマはそれだけではありません。

 

特に、紙幣発行をスルーしているのは頂けません。紙幣発行を肯定的に描いた文芸作品は極めて稀少で、だからゲーテは偉大なのですが、トーマス・マンはここをスルーしてます。一丁前に批判していますが、やはりゲーテの知性にはあと一歩及びません。

 

文学は無力

Benito Mussolini and Adolf Hitler on Review Stand : ニュース写真

 マンのアンビバレンツな愛国心も虚しく、ドイツは再び地獄を見る羽目になります。一人の男の存在に非政治的なドイツ人は熱狂しました。その男はオーストリアの生まれで、第一次大戦にも従軍し、演説の上手さで民主主義体制下で台頭しました。

 

ハンス・カストルプと同様、戦場を駆け抜けたホムンクルスの魂のなかに、その男は混ざっていたのです。皮肉なもんですね。

 

こうして「魔の山」以降のトーマス・マンは本格的な自己批判へと向かいます。

自らが愛したドイツ文化を、批判そして否定します。「ワイマルのロッテ」はゲーテ批判、「ドクトル・ファウストゥス」では本格的にゲーテファウスト」とベートーベン第九の「歓喜の歌」を否定します(主人公のモデルはニーチェです)。

 

しかし、そういった批判の裏側で、愛してやまないドイツ文化、ドイツという国、何より自分自身を肯定したい思いに苛まれています。否定半分、肯定半分の相反する感情が彼の内にあります。

 

参考

yomitoki2.blogspot.com

宮崎駿堀辰雄風立ちぬ」が「魔の山」を下敷きにしていることも、「魔の山」が「神曲 煉獄篇」を下敷きにしていることも知っています。その上で自分の世界観に合わせて組み立て直しています。我々は途方もない天才と同じ時代を生きているのです。

 

jaguchi975.seesaa.net

上記の「コミュニケーション・サークル」を応用したのが黒井マダラさんの「シビラゼーションサークル」です。文明の四つの環という発想は面白いですね。戦闘、性交、飲食、休息の4つとも「魔の山」で再現されていた光景です(性交は直接描写されませんが、サナトリウムの風俗はかなり乱れています)。

 

怠惰

7月が終わってしまう。

 

2018年6月から「魔の山」読み解き開始して2年が経過した。ここまで来ると、「よし、読み解けた!」というよりも「もうこの辺でよしとするか」という諦観に至る。あと少しで手が届きそうな感触があるのだが、どつぼにハマる気もする。

 

正直、一人で溜め込んで頑張るよりさっさとアップしてしまって、同志に意見を伺った方が早いんではないかと思い始めたのが、今年の1月くらい。

 

しかし、不十分なまま出すのもどうかな、と考えあぐねている内にコロナ禍が世界に吹き荒れ、周囲が慌ただしくなった。腰を据えて読んでいる余裕がない。梅雨はまだ明けない。思考の雲行きもまだ晴れない。まさか、主人公ハンス・カストルプと同じく7年もそんなことをする訳にはいかないのでぼちぼち記事の作成を開始する。

 

そもそも初読に半年も掛かった作品である。ただ長い、だけでなく内容も退屈で難しい。読破してからエクセルでいじり始めて2回目読み始めて、という感じで行った。

 

その間、他のことには目も暮れず一心不乱に取り組んだ、というわけではなく別の本読んだり、アニメ見たり、普通にダラダラしていたのである。要するに怠慢が諸悪の根源なのだ。しかし、真面目に根詰めてやったところで挫折するのは目に見えている。

 

読み解きノートみたいなのを作ってみた。考えたことや会話の流れなどをとにかく書きまくった。しかし、あまり役に立たなかった。結局、エクセルで表作って印刷して、定期的にちらちら眺める方が効率も精度も良さそうだ。頑張った割に効果が薄い。

 

そういえば「私の京アニ史」というシリーズが途中で放ったらかしになっている。こちらは最初からダラダラ書いていくつもりで始めたのだが、ダラダラ書いている内に世界が激変してしまい、書き始めた当初から心情がかなり変化してしまった。これは本当に困った。放棄するのはあんまりなので続けるつもりだが、これも長く書くことの弊害なのだろう。

 

トーマス・マンも「魔の山」書いているときに、ちょうど第一次大戦が発生した。本人戦争に行ったわけではないが相当苦労したであろう。

 

とりあえず、書き始めてはいるのでいましばらくお待ち下さいませ。全然更新できていなかったので、一応報告がてら。

「ブリキの太鼓」感想

映画「ブリキの太鼓」を見た。監督はフォルカー・シュレンドルフ、原作はギュンター・グラスの同名小説。

 

昔、深夜にテレビを付けたらたまたま放送していた記憶がある。怖いというかグロいというか、とにかく気持ちが悪くて二度と見ないだろうと思っていたが見た。

 

具体的にどう気持ち悪いのか。例えば、

主人公オスカルとオスカル母アグネス、アルフレート、ヤン・ブロウンスキの4人で海岸を散歩するシーンがある。

 ブリキの太鼓2

ルフレートとアグネスは夫婦であるが、彼女は従兄のヤンと不倫している。もしかするとオスカルの父親はヤンかもしれない。さらに現在ヤンの子を妊娠中、そういう関係である。

 

バルト海の砂浜を歩いていると漁師がいる。話を聞くとウナギを獲っている。引き揚げてみると腐った馬の頭からウナギがニョロニョロと飛び出している。目や口からニョロニョロと。アグネスは嘔吐する。しばらくウナギ食べられなくなるトラウマシーンである。

 

気持ち悪いシーンであるがメッセージが込められている。

 漁師の老人のセリフ「一番大漁だったのは第一次大戦中で、海戦で沈んだイギリス海兵を食べて鰻がよく育った時だった」

このシーンの後、アグネスは発狂して魚を生で食らいまくり、自殺する。お腹の子と一緒に。

 

ここでは、鰻=オスカル、馬=アグネスある。鰻は北海、バルト海の主要産業であり、ダンツィヒ=オスカルである。イギリス海兵を食べて太った鰻が取れた=第一次世界大戦において連合国側の勝利で形式上、独立国になれたことである。馬の頭から鰻が飛び出ているのは、オスカルの暴走が母親の精神を食い破っていることを暗示している。

ja.wikipedia.org

さらに、別のシーンでアグネスはオスカルを連れて教会に不貞を懺悔しに行く。このときオスカルはマリアに抱かれたキリスト像に太鼓を持たせ「できないのか!それともやる気がないのか!」と叫ぶ。これは教会がナチスに抵抗せず従っていたことを揶揄している。

 また、キリストに太鼓を持たせていることから、キリスト=オスカル、聖母マリア=アグネスである。アグネスの死後、後妻にくる少女の名前はマリアである。

 

アグネスはお腹の子が次なるオスカルになって、鰻のように自身を食らいつくされる恐怖を克服しようと、強迫感情で魚を食べまくるが、結局自殺する。マリアはアグネス二号なので復讐心からオスカルをビンタする。

 

こんな気持ち悪い映画であるが、優れた点は二つある。一つはオスカル役ダーフィト・ベンネント少年の怪演、いま一つは音楽である。

 

オスカルは産まれたときから全能の力を持っていたが、3歳の誕生日にブリキの太鼓を貰い、周囲の大人たちの姿(三角関係の両親たち)に幻滅して成長を止める。代わりに叫び声を上げるとガラスを割る能力を得る。

 David Bennent in The Tin Drum : ニュース写真

この捻くれた冷笑的な少年の表情は一級品である。ドイツ、ポーランド、カシュバイ、ユダヤなどの様々な人種が住むダンツィヒの歴史は複雑である。この内の誰かを主人公にしても一面的になってしまう。歴史の見方に偏りが生じてしまう。この複雑怪奇な歴史を描くには怪奇的な少年を語り手にするしかなかった、という算段である。

 

オスカルは悪魔的行動で周囲の人間を不幸にする。いい年なのに太鼓を叩いて道化になっている、16歳のマリアとのセックス、父アルフレートの膣外射精を邪魔してマリアを妊娠させる、アルフレートとヤンを間接的に死に追いやる等キリがない。

 

音楽について。この映画はやたら音楽が鳴っている。オスカルの太鼓、ラッパ吹き、母のピアノ。ドイツ人は本当に音楽が大好きなのであろう。

 

劇中でピアノの上に飾ってあるベートーベンの肖像画ヒトラーに取り替える。第二次大戦でドイツ降伏後、アルフレートは「やはりベートーベンは天才だ」と言ってヒトラー肖像画を焼く。散々、ナチスに心酔していたアルフレートの手のひら返しもひどいが、ベートーベン→ヒトラー→ベートーベンとなっている。これにはドイツのロマン主義に対する批判も込められていると考える。

 

グラスの大先輩にトーマス・マンがいる。彼はマンのこと尊敬してたらしく、亡くなったときリューベックにいた。

 

マンの最後の長編である「ファウスト博士」では、天才作曲家レーヴェルキューンが自作を演奏する瞬間に発狂して、そのまま正気に戻ることなく死ぬ。曲のタイトルは「ファウスト博士の嘆き」。ゲーテファウスト」の聖女の救済を否定し、ベートーベン交響曲第九番歓喜の歌」も否定してしまう。つまりロマン主義の否定である。

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

ファウスト博士 上 (岩波文庫 赤 434-4)

 

 

マンの文体というのは実はドイツらしくない。執拗に写実的で、執拗に科学の専門用語を乱発する。文体に関してはゾラとかフローベルとかのフランス自然主義である。もちろん本人はワグネリアンなので本質的にはロマン主義の人なのだが、ロマンをロマンとして描かない、ロマンそのものを描かずに間接的に表現する。

 

要するに、マンは自分の最も愛するものを自らの手で否定したのである。とはいえ、二度の大戦とも従軍せず悠々自適の亡命生活を送ってた人間にナチス・ドイツの悲惨さなど描けるはずもなく、所詮は観念の遊戯であるに過ぎない。天才も老いる。

 

戦争体験の話で言うと、ギュンター・グラスナチスの親衛隊に入って戦車の砲手をしていた(この事実は世界中でバッシングを受けた)。つまり、マンには出来なかった戦争のリアルを描くことができる。もっとも現実を知っているあまり、ロマンに逃げられないのが辛いところである。作風もグロテスクにならざるを得ない。もはやドイツ文学はロマン主義に回帰し得ないのか。

 

それでもロマン主義の片鱗が出てくる。ナチスの集会シーンである。

 

www.youtube.com

 

 最初、市民たちは軍歌を演奏しているが、オスカルの太鼓にテンポを乱され「美しく青きドナウ」の有名なワルツにつられてしまう。ナチスの厳粛なパレードが一転して舞踏会に様変わりする。小さな抵抗でもこれだけ人を動かせる、とも解釈できるが、ドイツのロマン主義が発露するとともに、大衆の日和見的な態度、軽々しく鞍替えする姿勢を皮肉った名シーンである。

 

こういう非政治的で日和見的な市民の態度がナチスの台頭を許したとして批判している。しかし、この映画を傑作たらしめているのはこのシーンであり、ナチスの軍歌であり、ヨハン・シュトラウス2世である(オーストリアとドイツは民族的には同一である。日本でいう京都と東京の関係)。ナチスの犯罪によって、仕方なく封印しているが、本当はロマンが大好きでたまらない、というのがドイツ民族の本音ではないか。

 

帰ってきたヒトラー」はこの姿勢を継承しつつも連合国側にかけられたナチスの呪いを脱却しようとしている。「ジョジョ・ラビット」に関しては監督がニュージーランド生まれのユダヤ人である。ドイツ人には決して描けない。

 

帰ってきたヒトラー(字幕版)

帰ってきたヒトラー(字幕版)

  • 発売日: 2016/12/23
  • メディア: Prime Video
 

 

 

ジョジョ・ラビット (字幕版)

ジョジョ・ラビット (字幕版)

  • 発売日: 2020/05/20
  • メディア: Prime Video
 

 

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オスカルの本当の父親がアルフレートなのかヤンなのか分からない=ドイツ人なのかポーランド人なのかアイデンティティが分からないダンツィヒ市民であり、父の分からないキリストである。父が不明(信仰が不安定)、聖母は不貞に走り、キリストは醜い小人と化している。ナチスに対して抵抗しなかった教会を批判している、というところまで考えた。正直、1回見ただけではなんとも言えない。


ブリキの太鼓を読み解けば、現代のドイツ文学が色々分かってくるだろうが、順序的にトーマス・マンをやってからの方が良さそうである。原作もアホみたいに長いので正直やりたくないし、もっと言うとあまりにも政治的すぎて面白くない。こういう読者の姿勢も非政治的で批判の対象なのだろうが。

神曲 追記その2

 

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

 

 

解説ではあまり触れなかったが「神曲」では鋭い政治批判が展開されている。この時代の政治批判とはすなわち教皇批判である。現代では優れた翻訳と注釈があるので凄さを実感できないが、かなり遠まわしに揶揄している。金銭欲に溺れた教皇や大商人たちはみな地獄の罪人に言い換えられてむごい仕打ちを受けている。理由はストレートに表現したら教会に異端審問にかけられるからである。それでもかなり危険だったらしく天国篇はダンテの死後に発表された。

 

フィレンツェでは白派と黒派が絶えず争いを繰り広げていた。ダンテは白派に属し、黒派のクーデターで政治争いに敗れると亡命者になった。そして亡命しながら書いたのが神曲である。

 

とはいえ作品中で批判されているのは敵である黒派だけではなく、白派の人間も多く断罪されている。さらにはなかなかイタリアにくる気配のない皇帝も批判している。全方位で批判を展開している。 凄まじい度胸である。

 

 

ダンテはこの作品を単にCommediaとだけ題した。「Commediaは喜劇と訳されるのは正確ではない。正しくは文体が卑俗で、悪い状態に始まりハッピーエンドで終わる形式の劇」とのこと。

 

ダンテは強烈な政治批判、社会批判をあくまで下品で通俗的に書いている。俗っぽさの

裏側に強烈な皮肉を込めたのである。シェイクスピアの戯曲がそうであるように道化師はしばしば真実を語る。ダンテはいわば命がけの道化をやったともいえる。もしかするとチャップリンの大先輩かもしれない。もっともダンテは民主主義ではなく皇帝権による地上支配を願ったのだが。

https://youtu.be/xl2e69fEFf4

 

ダンテの後進であるボッカチョは単にCommediaと名付けられたこの詩にLa Divina Commedia(神聖喜劇)と呼んだ。なぜ「神聖」なのか?Commediaは文体が下品であるから神聖ではない。文体だけを考えるなら、神聖なのは悲劇であって喜劇ではない。矛盾している。

dangodango.hatenadiary.jp

私が思うに、ボッカチョはダンテの勇気ある命がけの道化に尊敬の念を込めてDivinaと名付けた。とてつもない巨大権力の恐怖に誰もが口を閉ざしているとき、真実を口にできるのは、自由にものを言えるのは誰であったか。

 

 

La Divina Commedia(神聖なる道化)である。さすがに道化と訳すのは飛躍しすぎであるが。